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    寝子(ねこ)

    @pow_nt_saioshi

    元相棒の沼にドボンしたおたくです。

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    寝子(ねこ)

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    ・涙が止まらなくなる呪いにかかったネロと、そんなネロを目の前にして落ち着かないブラッドリーの話
    ・じめじめしてる。オチはない
    ・前半は賢者視点

    遣らずの雨は降らなかった その日、任務から帰ってきた晶が自室に戻らず談話室にいたのは、誰かと過ごすことで落ち着かない気持ちを紛らわせるためだった。偶然居合わせたルチルとラスティカ、そしてカナリアとともに紅茶を味わいながら、魔法舎にいない魔法使い達の無事を心の中で祈る。心ここにあらずといった様子なのは弟の帰りを待つルチルも同じようで、同じ気持ちの人がそばにいるだけでいくらか気分が和らいだ。
     晶が待っているのは、自分が行ってきた任務先とは別の場所に出かけている魔法使いたちである。
     今朝方、東の国の辺境にあるとある村から依頼があった。村が呪いに侵されている、という急を要する依頼だったため予定が空いていた魔法使いたちが急遽その村に向かうことになった。ネロにリケ、クロエ、シャイロック、スノウ、ミチル、そしてフィガロという国の壁を超えたメンバー構成である。
     夕食刻をすこし過ぎた頃、その魔法使いたちが帰ってきた。
    「おや。帰ってきたようですね」
    ラスティカのそんな言葉を聞いて、晶はティーカップを置いてソファから立ち上がった。ルチルやカナリアとともに談話室から出て魔法使いたちを出迎える。談話室の端ではカードゲームに興じているブラッドリーとムルもいたが、彼らはゲームに夢中らしく立ち上がる様子はなかった。
     帰ってきた一行と対面した晶は「お疲れ様でした!」と笑顔で言おうとして、絶句した。その隣で、ルチルたちも同様に固まっている。
     なぜなら帰還したネロの両目から、ぽろぽろと涙が流れていたからである。赤く腫れた目元は痛々しく、すん、と鼻をすする姿は、どう見ても只事ではない様子だった。
    「ネロ!?どうしたんですか!?」
    「や、俺は別に大丈夫なんだけどさ……」
     ネロは平然とした調子でそう答えると、困ったような顔をして自分の後ろにいる魔法使いたちを見やった。見れば、ネロの後ろから顔を覗かせるリケとミチル、そしてクロエも同じように涙を流している。
    「一体何があったんですか」
     焦りを滲ませた晶が周りの魔法使いたちに目線を向けると、スノウが口を開いた。
    「呪いを受けたのじゃ。今は一時的に涙が止まらぬ状態になっておる」
     スノウによると、村に突如降りかかった異変の元凶は、やはり大いなる厄災だったとの事だった。元凶を作ったのは、大昔にその土地を治めていた領主の妻だ。美しく優しい彼女は領民から大いに慕われていたが、魔女であることが明らかになったことで一転して迫害の対象になった。「騙された」という怒りを抱いた領民は一瞬で暴徒と化した。魔法使いとは言え魔力の弱かった彼女は斧や鋤を手にした領民たちに捕えられ、森の中で嬲り殺されて死んだ。彼女が石になった後、誰もいないはずの森から女性が啜り泣く声が聞こえ、それは三日三晩に渡り続いたらしい──。というのは昔から村に伝わる言い伝えで、皆半信半疑だった。だが厄災を機に、少なくとも「領主の妻が人間に殺された」事実があることを思い知ることになった。その土地に根付いた魔女の執念と私怨が此度の厄災の影響で捻じ曲げられ、呪いに形を変えたからだ。
     村に到着し異変の原因を突き止めた魔法使いたちは、すぐに呪いを解くための浄化の儀式に取り掛かった。彼女が石になった森の中で無事に儀式を終え、その場を後にしようとした時。リケが、道端に落ちている小さなジュエリーボックスを見つけた。雨風で錆びつき泥に塗れていたそれを何となしに拾い上げた、刹那──。森中に啜り泣くような声が響いた。すると勝手に蓋が開き、中から黒いもやのようなものが飛び出した。そしてその時咄嗟に駆け寄り手を伸ばしたネロとクロエ、箱を持っていたリケと隣にいたミチルが呪いを受ける羽目になった。朽ちたジュエリーボックスは、彼女の遺品だった。
    「よっぽど強い未練があったんだろう。命に関わるようなものではなかったとは言え、俺たちの手落ちだ」
     浄化は不完全だったんだ、とフィガロが続けた。呪いの残穢の影響を受けた四人は、死に際に悲しみと怒りの涙を流した彼女の精神に引きずられるように、涙が止まらなくなってしまったのだという。
     フィガロやスノウをはじめとする長寿の魔法使いたちは責任を感じているらしく、空気はどんよりと重い。晶は何と返すべきか迷いながら、皆さんのせいじゃないですよ、と口にした。
    「……呪いを解くことはできないんですか?」
     晶は魔法使いたちの痛ましい姿に胸を痛めながら尋ねた。真っ赤な目ではらはらと涙を流す姿は痛々しく、見ているだけで辛い気持ちになってしまう。悲しかったり辛かったりするわけではないと頭では解っていても、どうしても心配になる。
     晶の問いに、フィガロは困ったように眉を下げ、「解けないこともないんだけどね」と言った。
    「呪いを解くための儀式には、北の海に住むマーピープルの鱗が必要なんじゃ。残念じゃが此度の任務で使いきってしもうた」
     スノウの言葉に、晶はマーピープル?と首を傾げる。
    「水中人のことだ」
     晶の問いに答えたのは、いつのまにかその場に姿を現していたファウストだった。そしてファウストの後ろには、シノとヒースの姿もある。
    「知能が高く凶暴なマーピープルの鱗は希少価値が高く、滅多に出回らない」
     そうだったよな?と言うように視線を向けたファウストに、フィガロは頷き、「そうだね。手に入らないものじゃないけど、時間はかかるだろうね」と言った。
    「そこまで強い呪いじゃない。可哀想だけど、放っておけば明日の朝には治るよ」
     何もできなくてごめんね、と申し訳なさそうにするフィガロに、クロエは「痛くも何ともないし、大丈夫だよ!」と気丈に笑ってみせ、ミチルは「フィガロ先生は悪くありません。僕が気付けなかったから……」と悔しげな表情を浮かべた。
    「あの、魔法でどうにかできないんでしょうか」
     どうにか出来るならとっくに誰かがそうしているだろうとわかっていたが、晶はそう尋ねずにはいられなかった。けれど、スノウが渋い顔をして首を捻る。
    「難しいじゃろうな。下手に手を出すと悪化しかねん」
     僕も放っておくのが最善だと思う、とファウストが言った。
    「そうですか……」
     晶が痛ましげに眉を下げた、その時。真後ろでコツ、という革靴が床を踏む音が聞こえた。
    「なんか面倒なことになってやがるな」
     後ろを振り返り見上げると、そこにはいつのまにか輪の中に加わっていたらしいブラッドリーの姿があった。
     ブラッドリーの視線はほんの一瞬だけネロに向けられたが、すぐに何事も無かったかのように背けられる。そうして彼はリケやミチルを見下ろして、ニヤリと口端を引き上げた。
    「なんだ?またベソかいてんのか」
     片目を細め揶揄うような調子でそんなことを言ったブラッドリーに、リケとミチルはムッとした。
    「ベソなんてかいてません!」
    「そうですよ!これは呪いのせいで、」
    「前も二人してベソかいてただろうが」
     揶揄いの笑みを浮かべるブラッドリーを、リケとミチルが睨みつける。
     そんな様子を眺める賢者の頭に、そう言えば勝負の途中だったはずなのに、という疑問が浮かんだ。談話室の方に視線を向けると、ロッキングチェアの上で紫色の髪が揺れている。勝負の相手を失ったらしいムルが、興味深そうにこちらをじっと見ていた。
    「もう!面白がらないでください!」
    「あなたには人の心がないのですか」 
     そんな声が聞こえて、晶はリケたちの方に視線を戻した。ブラッドリーを睨みつける二人は、さながら毛を逆立てて怒りを表す猫のようである。だが不服を申し立てる二人に対し、ブラッドリーは悪びれもせず「呪いなんかにかかる間抜けが悪いんだろ」と返しただけだった。
    「おい、東の飯屋。そんなことより夕食はまだかよ」
     抗議の声を上げるミチルの頭を雑に押さえつけながら、ブラッドリーがネロに向かって言う。ネロは濡れた頬を雑に拭いながら、ああ、と頷いた。そしてブラッドリーを含むその場にいた全員に対し、戻りが遅くなっちまって悪かったよ、と口にした。
    「簡単なもんでいいなら今からでも作るけど」
     晶が咄嗟に口を挟むより、東の魔法使いたちが口を開くのが先だった。
    「今日くらい休めよ」と被せるように言ったのはシノ。
    「そんな状態で作らせるわけないだろう」と呆れを滲ませたのはファウスト。
    「無理しないほうがいいんじゃないかな」と控えめな口調で言ったのはヒースクリフだ。
     ほとんど同時に発せられた言葉は、言い方は違えどどれもネロを気遣うものだった。ネロは大げさだな、と苦笑を浮かべる。
    「涙がとまらないだけで、本当になんでもないんだって。衛生的に問題があるっつうなら、入らないように十分注意するし、素手で拭ったりもしない──」
    「そういうことを言ってるんじゃない」
     言葉を遮られファウストに睨まれたネロは、きゅっと口を噤んだ。
     その間にも、ネロの両目からはぽろぽろと涙が流れている。そんなネロの顔を直視したファウストは、言いすぎた、というように苦い顔をした。
    「……すまなかった」
    「え、何が?」
     心配を滲ませて謝罪したファウストに反して、当の本人はあっけらかんとした様子である。
     ファウストはサングラスの縁を軽く押し上げながら、はあ、と息を吐き出した。とにかく、と幾分柔らかい口調で言い直す。
    「ネロ。君は休んでなさい。夕食は僕たちでどうにかするよ」
     ファウストの言葉に、周りの魔法使いたちは揃って同意した。何ともねえのに、と少々腑に落ちない顔をしているネロを他所に、夕食作りの算段を立て始める。
    「なら出来た頃にまた来るか」
     皆が協力的な態度で話し合いに参加する中で、もうこの場に用はないと言わんばかりにそんなことを口にしたのはブラッドリーだ。彼はそれだけ言い残すとそのままスタスタとその場を去ってしまった。
    「何ですかあれ!」
     憤慨したリケが、膨れっ面でブラッドリーの背中を睨む。まあまあ、というように苦笑しながらリケを宥めていると、夕食作りのための話し合いを終えた魔法使いたちは、ひとまず解散という空気になった。そこそこ料理の経験がある魔法使いたちは、キッチンに向かっていく。
     皆が談話室からぞろぞろと出ていく最中、クロエに駆け寄ったラスティカが、「大丈夫?」と心配そうな表情でハンカチを渡した。そしてミチルとリケのもとには、カインとルチルが駆ける。
     晶は周りを見渡し、ネロの姿を探した。きっとネロのもとには東の魔法使いたちが駆け寄るのだろうと思ったからだ。だがネロはいつのまにか部屋に戻ってしまったようで、すでにこの場にはいなかった。きょろきょろと周囲に視線を巡らせた拍子に、視界の端にムルの姿を捉える。
     ムルは談話室の椅子の上でゆらゆらと揺れながら、手に持った何かを眺めている。目を凝らすと、それが大きな宝石がついた指輪だとわかった。
     不意に目があったので、晶はムルのもとに近づき、「素敵な指輪ですね」と声をかけた。ムルは「ブラッドからもらったんだ」と弾んだ声で答えた。そうして、鮮やかなエメラルドグリーンの瞳をテーブルの上に向ける。
    「このままいけば勝ちだったのにね」
     テーブルの上には折り重なったカードが置かれている。何のゲームをしていたか知らない晶にはわからなかったが、勝負はブラッドリーの優勢だったらしい。だが彼が途中でゲームから降りたことでムルの不戦勝となり、賭けの品を手に入れたということだ。
    「珍しいものが見れて楽しかったよ」
     晶が「珍しいもの?」と首を傾げると、ムルは「秘密」と言いながらにい、と悪戯に笑った。
     結局、夕食はカナリアを中心に皆で協力して作ることになり、晶もそれを手伝った。
     食事の時間、呪いを受けた四人も食堂に顔を出して食事を取ってはいたが、やはりあんな状態では食は進まないようで、晶は食事中ずっと彼らのことが気掛かりだった。リケやミチル、クロエとは席が近かったため様子を窺うことができたが、ネロは食事を早めに終えて早々に自室に引き上げてしまったので、声をかける暇もなかった。
     夕食を終え夜も更けた頃、晶は呪いを受けた四人の部屋を訪れた。その手には小さな小包がある。中には安眠効果があるというハーブやドライフラワーを入れたサシェが入っている。ずっと涙が流れている状態では、きっと眠るのにも苦労するだろう。そう思い、前にミスラのために作ったものと同じものを四人分作ったのだ。残念ながらミスラには全く効果が無かったわけであるが、気休め程度でも、少しでも心が安らぐ手助けにでもなればいいと思い持ってきた。
     ネロの部屋の扉の前まで来ると、中からぼそぼそとした低い声が聞こえた気がした。盗み聞きをする気はなかったが、誰かいるなら遠慮したほうがいいだろうかと思い少しだけ耳を澄ませる。
    「なあ、いい加減泣き止めよ。ネロ」
     わずかに聞き取れた声は、ブラッドリーのものだった。
    「つってもしょうがねえだろ。呪いなんだし」
     答えるネロの声は平然としているが、合間に鼻を啜る音が聞こえた。まだ呪いは解けていないらしい。
    「……なんか落ち着かねえんだよ」
     頼りなく響く声は、いつもの彼らしくない。晶は胸の奥に柔らかい熱が灯ったのを自覚した。それは北の国に行った時に魔法使いたちかかけてかれる魔法のように、少しくすぐったくなるような優しい温もりであり、同時に胸が締め付けられるような切なさを孕んでいる。
     みんなの前では面白がるようなそぶりすら見せていたくせに。ネロよりずっと年下の少年たちが涙を流していても、気遣う様子を見せなかったくせに。
     涙するネロを目の前にして、戸惑うような、途方に暮れたような声で。不可能であることを分かっていながら、「泣きやめよ」なんてことを口にする──。
     ブラッドリーがそんな行動を取る理由は、一つしかない。
     特別で、大切で、傷ついて欲しくないからだ。
     ムルとカードゲームに興じていた彼が、ネロに何かあったことを察して、優勢だった手持ちの札を放り捨ててすぐに立ち上がったことを晶は知っている。
     そしてふと、疑問に思う。どうして彼があんな時間に談話室にいたのだろう、と。
     思えば、日頃談話室で他の魔法使いと談笑していることが多いカインやルチルと違い、ブラッドリーは常から談話室で誰かとお茶をするタイプでもない。だけど危険と隣り合わせの任務に出向いたネロの帰りが遅いとき、彼はいつも談話室にいた。心配や不安を滲ませることがなかったから、今までその事に気付かなかった。否、気付かせなかったのだろう。
     ネロが窮地に陥った時、銃声を響かせながら姿を現すのはいつも彼だった。「無事か、ネロ」と問う声は平然としていたけれど、その両目は注意深くネロの無事を確かめていた。
     ネロが魔法舎にいない日、何気なく交わした会話の中で、「東の連中は?」と行き先を尋ねられたのは、一度や二度の話じゃない。あるいはその逆で、晶が行き先を告げていないにも関わらず把握していることも少なくなかった。そのことを、ネロは知っているだろうか。
     中庭で開かれる東の魔法使いたちのお茶会。リケに本を読み、文字を教えている光景。鼻歌を歌いながらキッチンに立つ背中──。そういうものを遠目に眺める瞳は、愛しいものを見つめるそれだった。その眼差しが普段の彼からは想像できないほど穏やかで、手に入らないものを慈しむような切なささえ滲ませていることを、きっとネロは知らない。
     晶はそれらをネロに伝えたくてたまらない気持ちになった。
     あなたのことを大切に思っていて、気にかけて、いつだって笑っていて欲しいと思っている人は、きっとあなたが考えているよりもたくさんいて。その中でも、ブラッドリーのそれはきっと特別だ。
     けれど自分がそれを告げたところで、あまり意味はないのだろうとも思った。だけどどうか気がついてほしい。そう願うことしかできなかった。
     晶は扉を叩くために持ち上げていた腕を、静かに下ろした。
     ネロのために作ったサシェは明日渡そう。「何でいきなり?」と聞かれるかもしれないけれど。いつも美味しい食事を作ってくれるお礼だと言えば、きっと照れくさそうにはにかみながら受け取ってくれるだろう。そんなことを考えながら、晶はその場を後にした。

    ***

     ブラッドリーがネロの部屋を訪ねてきたのは、晶が来るより少し前──ネロが自室のキッチンでジャムを煮込み始めた頃のことだった。
     夕飯作りとその片付けという仕事がなくなり手持ち無沙汰になったネロは、悩んでいた。どうやって気を紛らわせるか、ということにである。「涙が流れ続けるだけ」という呪いのダメージは、思っていたよりもずっと大きかった。
     腹は減るので夕食はどうにか口にしたが、気遣わしげな視線を向けられるたび情けないような申し訳ないような気持ちになってしまい、早々に食事を終えてそそくさと部屋に引き上げた。だが、何せやることがない。
     こんな状態では、ファウストを晩酌に誘うこともできない。常に流れ続ける涙のせいで本を読んで時間を潰すことも出来ないし、凝った料理の試作をする気にもならない。夕食後、ファウストやシノとヒースが訪ねてきて、安眠のためのハーブティーやら目を冷やすための氷嚢やらを持ってきてくれたが、それでも時間を持て余している事に変わりはない。当然こんな状態では眠ることもできそうにない。
     そして意外にこたえたのが、落ち込んでなどいないはずのに、なぜだか涙につられて暗い気分になってくることだ。どんより曇った灰色の空のように、心が晴れない。
     そんな経緯で沈んでいく気持ちを誤魔化すためにネロが始めたのが、ジャム作りである。これくらいの簡単な作業なら今でもできそうだと思ったし、ちょうど中央の市場の行きつけの店から貰ったルージュベリーがあった。形が悪くて商品としては出せないものをお裾分けしてもらったのだ。
     大の大人が泣きながらジャムを煮込んでいる図って結構異常だよな、なんてことを考えながら木べらで鍋をかき混ぜていると、扉がコンコン、と叩かれた。
     思い当たる可能性はいくつかあった。自分の同じように涙が止まらないことで眠れないリケやミチル。あるいはジャムの甘い匂いに釣られてきたオーエンか。後者だったら正直勘弁して欲しいなと思いながら、ネロは鍋の火を止めた。
     扉を開けると、そこにはブラッドリーの姿があった。これは予想していなかった。この男がこうして突然部屋を訪ねてくる時は、大抵片手に酒瓶を持っていたりするのだが、今日は手ぶらだ。腹が減ったから夜食を作ってくれと言ってくることもあるが、夕食から一時間程しか経っていないため、その可能性も薄い。
    「なんか用?」と問うと、ブラッドリーは「別に何でもいいだろ」と答えた。
    「ほら、誰かに見られる前にいれろよ。困るのはてめえだぜ」
    「は?…あっ、おい」
     ブラッドリーは呼び止めるネロを無視して、押し入るように部屋の中に入ってきた。キッチンにある鍋を見てネロが何をしているところだったかすぐに察したらしく、「てめえは本当に好きだよな」といいながら、まるで自分のもののようにどかりとベッドに腰を下ろす。
     何しに来たんだよ、と聞いても、ブラッドリーは「いいから続けろよ」というだけだった。
     そうしてネロが涙を拭ったり鼻を啜ったりしながらジャムを煮込んでいる間、ブラッドリーは何をするでもなく手持ち無沙汰な様子でベッドに腰掛けていた。普段のブラッドリーなら、料理をしているネロを待っている間、酒を飲みながら上機嫌に話しかけてきたりするのだが、今日の彼はおしゃべりに興じる気分でもないようだ。背中越しに感じる視線には居心地の悪さを感じたが、なるべく気にしないようにした。
     するとブラッドリーは唐突に口を開いたかと思えば、
    「なあ、いい加減泣き止めよ。ネロ」
    なんてことを言い出した。
    「つってもしょうがねえだろ。呪いなんだし」
    「……なんか落ち着かねえんだよ」
     時折り長い指がトントン、と膝の上を叩く。落ち着きなく組み変えられる長い足と、吐き出される溜息。苛立っているようにも見えるし、不貞腐れているみたいにも見える。なんか落ち着かない、はこっちのセリフだっつの、と言ってやりたかった。
    「なんだよ。退屈なら帰ればいいだろ」
    「退屈なんて言ってねえだろうが」
     夜食をたかるでも晩酌をするでもないなら何だ?とブラッドリーの目的を考え、ネロはある一つの選択肢を弾き出した。もしかしてこいつ、溜まってんのか?という可能性である。
     もしかして、ムラムラして軽いノリでこの部屋を訪れたは良いものの、流石に泣いてる時に押し倒す気にもなれなく変な遠慮でもしてるのだろうか。そんな考えに至る。
     そんな疑いを抱くと同時に、やっちまえばどうせ気にならねえのに、なんてことを思った。セックスの最中なんて、どうせ生理的な涙やらなんやらでぐずぐずになる。そんなことを思った直後、ネロの頭の中にある考えが閃いた。
     前後不覚になって訳がわからなくなるくらいに抱かれれば、涙なんて気にならなくなって、気が紛れるかもしれない。それにセックスで体力を消費すれば、疲れ果ててそのまま眠りに落ちることができるかもしれない、という閃きだ。
     少々強引な手段であるが、何時間も涙を流し続け泣き疲れていたネロにとってそれは妙案のように思えた。
     鍋の中のジャムをスプーンですくい、味を見る。こんなもんだろ、と小さく呟いて、ネロは火を止めた。鍋に軽く蓋をしてから、振り返ってベッドに近づく。ベッドに腰掛けるブラッドリーの足の間に膝をつくと、ワインレッドの双眸がぎょっとしたように見開かれた。
    「何してんだよ」
    「何って……そのつもりできたんじゃねえのかよ」
    「は?」
     目の前にあるベルトの金具に手をかけながら、頬を伝ってくる雫を手の甲で拭う。すると頭上から、深い溜息が降ってきた。見上げれば、ブラッドリーが片手で目元を押さえ、項垂れるように首を落としていた。あれ?違った?なんて思ったのと同時に、腕を掴まれベッドの上に引き上げられる。ブラッドリーはネロの横で、向かい合うように体を横たえた。
    「そんなとこでメソメソされたら、勃つもんも勃たねえよ」
     あけすけな物言いであるが、それもそうか、と納得する。こっちが泣こうが喚こうがやめねえ時もあるくせに、と内心で思いはしたが口には出さなかった。
     ブラッドリーの大きな手がネロの顔の横に伸ばされる。指先が顔にかかった髪を後ろに避けて、ひりついて熱を帯びた目尻に触れた。
    「アドノポテンスム」
     囁くような声量で呪文が唱えられると、ブラッドリーの魔力が肌を撫でた。くすぐったいような、ピリピリとしたやわい刺激が皮膚の上を伝い、少しだけ体が熱くなる。
     ブラッドリーが使ったのは治癒魔法だ。呪文を口にする姿からは、慎重に力加減を調節しているのが読み取れた。北の魔法使いは他者に施す治癒魔法が不得手だ。それでもブラッドリーは比較的慣れている方で、施されたことは今までに何度もあった。だが、未だに他の魔法を使うときとは異なる緊張感や気負いのようなものがわずかに覗く。
     泣き続けているせいで腫れぼったくなった瞼が、幾分すっきりした気がする。今治したってどうせ無駄なのに、と思ったが、珍しく自分を気遣うようなことをしてくれたブラッドリーに対しそれを口にするのは流石に躊躇われた。
     こんなの、あんたがわざわざ治癒魔法を使うようなもんじゃねえだろ、とネロは思った。
     自分は腹に穴が開くような大怪我をするのも厭わないくせに、よく分かんねえやつ。などと思いながらなんとなしに顔を眺めていたら、見てられない、と言わんばかりに不自然に視線を逸らされる。
     てめえ今日、なんか変じゃねえ?
     そんなことを口に出そうとして、ネロははっとした。ここまできて、ようやく一つの可能性に思い至ったのだ。
     この男が、自分の涙を見て動揺しているという可能性に、である。
    「……なんだよ」
     居心地悪そうなにそんなことを問うてくる男に、くく、と笑いを噛み締めながら「別に」と答えた。こんなことで揺れるようなてめえじゃねえだろ、と言ってやりたくなる。
     思えばブラッドリーの前で涙を見せたことなど、ほとんどなかった。四百年近く一緒にいたけれど、流石にこんなふうに目の前でぼろぼろと涙を流している姿を晒すのは初めてだ。
     そんなことに今更気がついて、同時に、ネロはある思考に辿り着いた。
    ──あの頃もし、泣いて縋っていたら?
     死にかけるような無茶を繰り返すブラッドリーの横で、この男が石になるのを阻止するのは、相棒である自分の役目だと思っていた。そのために石になるなら本望だ。十回目までは、そんなふうに息巻いていた。十一回目くらいからは気が気じゃなくなって。二十回目以降は、そんなに死にてえなら俺が殺してやると思った。
     怒りを露わに怒鳴りつければ、喧嘩になるか、あるいはその場限りの言葉で宥められて流されるかのどちらかだった。言い争いにならないように真剣に訴えたこともあったけれど、またいつもの小言が始まった、とまともに取り合ってはもらえなかった。
     そして三十回目がきて、一緒には生きられないのだと気がついた。
    ──もし三十回目がくるより前に、涙を流して懇願していたら?
     ブラッドリーは、どうしたのだろう。命をかけるような戦いに身を投じる前に、立ち止まってくれたのだろうか。少しは自分の言葉に耳を傾け、死なない努力をしてくれたのだろうか。
     そんな疑問が、一瞬だけ頭をよぎって、だけどすぐに打ち消した。
     くだらねえな、と内心で独りごちる。自分がそれをするとは思えないし、この男がそんなことで生き方を変えるとも思えなかった。
     他者に左右されることがない、揺るがない魂──。そういうところがどうしようもなく好きで、嫌いだった。
    「どうしようもねえなあ……」
     思わずそんな声が漏れる。ブラッドリーがそんなネロを見て、呆れを滲ませながら
    「っんとによお……ガキども庇うなら魔法を使えよな」
    と言った。どうしようもない、という言葉を、呪いにかかった不甲斐ない自分に落ち込んでいると捉えたらしい。訂正はしなかった。その方が都合がいい。泣きながら大昔の感傷に浸る自分なんて、この男に知られたくはない。あの別れから百年近く経つのに、いまだに未練を抱く自分も。捨てたのは自分なのに、いまだに意味のない「もしも」を考える自分も。
     喉の奥から込み上げる熱が、堰を切ったように溢れ出す。精神も多少不安定になっているのかもしれない。留め度なく降る雨のように、大粒の涙がポロポロと落ちた。
    「あーあー、せっかく俺様が治してやったのに」
     無駄にすんなよ、という声は責めているわけでも不満を訴えるわけでもなく、もうお手上げだと困惑しているようにも聞こえる。
     ブラッドリーは溢れてくる涙を指先で拭いながら、「なあ、これいつまで続くんだよ」と言った。
    「フィガロが、明日の朝くらいには治るってさ」
     ブラッドリーは眉間に皺を寄せ、「長えな」と不満を漏らした。
     たかが数時間だ。寝てしまえばすぐに過ぎる。だが、こんなふうに泣き続けたままでは眠れそうにない。そしておそらく、ブラッドリーは自分が寝るまで寝ないだろう。そんなことを考えたネロは、確かに長えな、と相槌を返した。
     あのさ、と声をかけると「ん?」というようにブラッドリーが僅かに首を傾げる。
    「先生が持ってきてくれたハーブティーの茶葉があるんだけど」
     言外に温かい紅茶が飲みたい、と告げると、紅い瞳がぱち、と瞬く。
     泣きすぎたせいでぐったりとした疲労に包まれているし、今夜のこいつは少しばかり甲斐甲斐しいし。普段は自分がリクエストを聞いてやっているのだから、これくらいの注文は許されるだろう。そんな甘えを視線で訴えると、ブラッドリーは面倒そうに顔を歪めた。
    「ったく……」
     呆れたように溜め息を吐き出しながら、それでも重そうに腰を上げる。寝巻きの上に羽織ったガウンの袖を雑にまくりながら、キッチンに向かっていく。温もりが消えてしまったベッドの上で、ネロは横になったまま毛布を手繰り寄せた。
    「俺は上手い紅茶の淹れ方なんて知らねえからな」
     ブラッドリーはそんなふうにぶつくさと文句を言いながら、指を鳴らして火を灯し、お湯を沸かし始める。
    「で?呪い屋が持ってきたっつうやつは何処にあんだよ」
    「そこの棚の中」
    「あ?棚ってどの棚だよ」
     ネロはキッチンに立ちガサゴソと棚の中を漁るブラッドリーの背中を見つめながら、似合わねえ、と笑った。薄く細められたその両目からは、もう涙は溢れていなかった。
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