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    matsuge_ma

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    matsuge_ma

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    ほのぼの凌IV

    ほのぼの凌IVテーブルデュエルは近くていけない。以前もそう思ったはずだったのにすっかり失念してしまい、やっと思い出したのは冷たい指先が手の甲を撫でた瞬間だった。何もかもが遅すぎる。
    「……やめろって言ったろ、こういうの」
    急に乾燥しだしたひりつく喉から、辛うじて声を絞り出す。しかし目の前の男は、そんな俺の苦しみなど気にも留めない様子で問いかけてくる。まるで俺の方が変なことを言っているみたいに。
    「こういうのって何だよ」
    「何って……こういうふうに、変なことすんのを」
    「だから、変なことって何」
    何じゃねえよ。どう考えても“これ”だよ。お前は今誰の手を無遠慮に握っているのか分かってねえのかよ。
    言いたい文句は山ほど頭に湧いてくるのに、どうしてか声にならない。変になってしまった凌牙に当てられて俺の頭まで狂ってしまったんだろうかと思うと、得体の知れない気味の悪さに背筋が粟立つ心地だった。

    凌牙の学校が休みの日にちょうど俺のオフが被った。遊びに誘った理由はただそれだけで、俺たちにとってそれは特段珍しいことではなかった。都合が合い、互いに気が向けば待ち合わせをして、大抵はどちらかの家で過ごす。外に出かけることも多々あるが、最近はいちいち俺のファンが声を掛けてくるのを面倒くさがった凌牙が外出を渋るのだ。
    今日の待ち合わせは凌牙の家で、それも特に理由があったわけじゃない。ただ前回は俺の家だったから、今回はお前んちな、そういう自然なやりとりだったはずだ。珍しいことに翌日も互いに休みの予定だったから、遅くなったら泊まっても構わないと言われて、俺は少し浮かれながら宿泊の準備をした。友だちの家に泊まる、ただそれだけのはずだが、その些細な提案がどれだけ俺の機嫌を良くさせたか、きっとあいつは知らないんだろう。
    昼すぎに集まった俺たち二人が何をするかと言えば、当然デュエルである。今更後悔しても遅いが、今日は一体なんの気まぐれかプレイマットを敷いてテーブルで対戦した。近いうちに公式グッズとして俺の写真入りのプレイマットが発売される、とか、そういう話がきっかけだったように記憶しているが、今となっては曖昧だ。結果は4戦2勝2敗、せっかくだからもう1戦してはっきり決着をつけてから夕飯にしようと、デッキに手を伸ばしたときだった。先に立ち上がっていた凌牙が、何も言わずに俺の右手に自身の手を伸ばし、柔らかく握りしめてきたのは。

    ここ最近、凌牙はときどき変になる。
    何がきっかけになるのかは分からないが、スイッチが入ったように急におかしくなるから、俺はその度に背中がぞわぞわして、胃の中のものが迫り上がってくるのを感じる。そんなとき、大抵凌牙は何も言わないが、言われなくたって俺には分かるのだ。奴は何かを勘違いしている。自分の気持ちとか、俺の心の内とか、多分全部思い違いをしていて、だからきっとこういうことをするのだ。
    だって、こんなのおかしい。こいつの目の奥にそれがあるのはおかしい。その熱があるのはおかしい。
    凌牙にとって、一番それを向けるわけがない、向けてはいけないはずの相手が俺なのだから、やっぱり頭がおかしくなっているに違いないのだ。どうしたというのだろう、何が悪かったのだろう、俺は何度もぐるぐると思考を巡らせて考えた。しかし如何せん治してやる方法がちっとも分からないので、奴が変になるたびに俺はこうして少しだけ反論し、結局は怯えながら黙ってやり過ごすしかないのである。
    ばしりと頭でも叩いてやれば治るだろうか。俺は、できたら普通の凌牙に戻ってほしい。そんな目で俺を見ないでほしい。変なことを言うのもやめてほしい。存在を確かめるように触れるのもやめてほしい。

    「嫌なら振り解けば良いだろ」
    俺にはそれができないと分かっていて凌牙は言う。ムカついて仕方がないが、図星なのでうぐぐと唸ったら可笑しそうに笑っているのがまたこの上なく腹立たしい。
    「お前は、なんか、勘違いしてる!」
    手を振りほどかないままにそう吐き捨てても、凌牙はつまらなそうに俺の言葉をぽいと払い落とした。
    「俺のことなのに、なんでお前が勘違いだって分かるんだよ」
    「分かるだろ、だってこんなの、へ……変だろ」
    「俺が決めることだろ、それは」
    にべもない。今日の凌牙は一段と様子が変だった。
    どうすべきか。ぎゅっと握った手に力を込められて、手汗が滲んでくるのを感じる。下手をすればデュエル中よりも真剣に悩んでいた俺だったが、凌牙は空いた方の手で眉間を揉み、呆れたように息を吐いてから言った。
    「俺にしてみれば、勘違いしてるのはお前の方だと思うけど」
    は?何?意味分かんねえ。
    その台詞の真意について問い詰めようと口を開いたが、俺の喉が音を生み出す前に、凌牙がパッと俺の手を解放した。囚われていた右手が空気に触れて、ひやりとした心地に鳥肌が立つ。
    「腹減ったからそろそろなんか食おうぜ」
    凌牙はそう言ってデッキに手を伸ばすと、散らばったカードをまとめてさっさとドアの方へ向かってしまった。まるで今までもたわいない世間話をしていたかのように、もうその瞳の奥に妙な熱はない。いつもこんなふうに勝手にスイッチを入れて勝手にスイッチを切るから、俺だけが振り回されているようで苛々するのだ。

    夕食はインスタントラーメンだった。「冷蔵庫に何もねえけどラーメンはある。食うか?」と凌牙が言った。俺はそのチープな袋に入ったラーメンを食べたことがなかったので、強い興味が警戒心に打ち勝って、躊躇いなく頷いた。袋麺は味もチープで、凌牙が目分量で入れたお湯が多すぎたせいかスープの味付けも薄かったが、悪くはないと思った。
    そう、これだよ、俺はこういうのが良いんだよ。
    なんの気兼ねなく友だちの家に泊まったり、雑な男の手料理を笑いながら一緒に食べたり、夜更かししてベッドの上でデュエルしたり、一緒に新弾のパック開けたり、そういう普通の、いや、もしかしたら俺たちの関係の経緯を考えたらむしろこっちの方が全然普通じゃないかもしれないけど、でも、だって、そういうのが出来るんだから、許されるんだったら、お前が良いって言うんだったら、だからこそ俺はそういうので良い、そういうのが良いって思ってんのに、なんでお前はそうやってーー。
    「お前が何を怖がってるのか知らねえけど」
    ぐるぐると渦巻くみたいな思考の海に沈みかけていた俺は、急に投げ掛けられたその声に、弾かれたように顔を上げた。見れば、ラーメンの薄いスープをほとんど飲み干した凌牙が、じっとこちらを見つめていた。鋭い視線を逸らさず、掠れた声で言う。
    「俺、あんまり気は長くねえんだよな」
    俺は、何故か強張った自身の身体から力が抜けていくのを感じた。なんだそれ、なんか変だ。ここ最近で一番変だ。なんか、なんか、まるで宣戦布告みたいな。
    「分かってんじゃねえか。宣戦布告だ」
    凌牙はどうしてか楽しそうに笑って、「今日はもうさっさと帰れよ」と言う。
    しかし俺は、その突き放すような物言いがなんだか妙に気に障ったのだった。なんだよそれ。さんざん俺を振り回しといて、気が済んだらさっさと追い出そうなんて酷い話だ。そもそも、勝手に変になって勝手にこっちに戦いを挑んでくるなんて、自分勝手すぎやしないか。そりゃあ売られた喧嘩は買いたいが、そもそも俺だって好きにする権利はあるんじゃないかと思う。
    俺は凌牙を真似るように薄まったスープを飲み干した。いざ開き直ってみたら、溜飲が下がったような気がした。
    「は?泊まってくけど。最初っからそういう話だっただろーがよ」
    凌牙はぽかんと口を開けたまましばらく呆けていると思ったら、「お前、やっぱりなんも分かってねえ」そう呟いて、苦虫を噛み潰したような顔をした。
    いや、お前に言われたくねえよ。

    -------------------------------

    テーブルデュエルは距離が近くて都合が良い。前回のときはそれに気づいたような顔をしていたくせに、もうすっかり奴の頭からは抜けていたらしかった。こいつは頭は悪くないくせに馬鹿なのだ。それは油断で怠慢だ。その慢心の自覚がなさそうなところも腹立たしい。
    「……やめろって言ったろ、こういうの」
    掠れた声でIVが言う。まるで苦渋の決断を迫られたような、悔しさに満ち溢れた声だった。
    「こういうのって何だよ」
    首を傾げて問い返してやれば、むっと眉間に皺を寄せて、重ねた手に視線を落とす。
    「何って……こういうふうに、変なことすんのを」
    「だから、変なことって何」
    もう一度問うと、IVはキッとこちらを睨みつけて口を噤んだ。その顔が青くて、今にも死にそうな表情だったからつい笑いそうになる。だって可笑しいだろ、笑いそうにもなるだろう。俺は何度も何度も警告したつもりだから、今更同情なんてしない。さっさと諦めて食われてくれればこいつだって楽になって良いんじゃないかと思うのに、どうにも無駄に強情で困ってしまう。

    IVのオフと俺の休日が重なった。多分IVにしてみれば、俺を遊びに誘った理由はただそれだけだ。実際、最近の俺たちにとってそれは特段珍しいことではなかった。都合が合い、互いに気が向けば待ち合わせをして、大抵はどちらかの家で過ごす。以前は出かけることも多かったが、最近は外で会うと奴のファンサービスに中てられたファンがうじゃうじゃ群がってくるのが邪魔くさいので、室内で過ごすことが多くなった。
    こないだお前んちだったから、今日は俺の家で良いだろ。そう言うと、IVは何の疑問も持たないような顔で頷いた。翌日も休みだというから、じゃあ泊まっていけば良いと提案してみたら、これまたちっとも深く考えずに首を縦に振るのである。最近は会う度”痛い目”を見せてやっているつもりだったのに、もしかしたらまったく効果が無かったのかもしれないと思うと些か虚しくなる。
    お前それ、どういう意味か分かってんのか。「客用の布団ないけど」、とダメ押しで補足しても、「別に、一晩くらい同じベッドで寝ればいいだろ」とのたまう。脛を蹴り上げてやりそうになったが、なんとか耐えた。俺がどんな気持ちで家に呼んだのか、その誘い文句をどんな気持ちで捻り出したのか、きっとこいつは死ぬまで知らないままなんだろう。

    昼すぎに家にやって来たIVは、茶を出す間もなく早速デッキを取りだした。二人で会うとなると一にデュエル二にデュエルで、毎度同じような流れに辟易とすることもあるが、如何せん自分も同類の自覚はあるので文句は言わなかった。IVは近いうちに自分の公式グッズとしてプレイマットが発売されるとか、サイン入りのものをいくつか用意して当選したファンにプレゼントする企画があるとか、そういうことを嬉々として語った。その流れで、今回は初心にかえってプレイマットを使い、卓上デュエルと洒落込もうぜとやつが持ち掛けてきたのである。
    俺は、さすがに馬鹿じゃないのかと思った。間抜けすぎる、とも。数か月前、似たような雑談からの流れでテーブルデュエルに臨んだときのことをすっかり忘れているのだ。すっかり気の抜けた指先を遠慮なく掴んだら、あんなに青い顔をして冷や汗をだらだら流していたくせに。俺はさすがに呆れてしまったが、それを指摘してやるほど親切ではなかった。

    片付けを始めようとデッキに伸ばされたIVの手。テーブルをそのままに一人立ち上がった俺は、自分の手をそこに重ねる。前回とほとんど同じことをやっている自分を客観的に見ると、何をしているんだろうと馬鹿馬鹿しくもなってくる。しかし悪いのはこいつである。俺が何度も同じことを繰り返さなければいけないのも、同じことを言わないといけないのも、全部が全部こいつの自業自得に違いないのだ。
    重ねた手を少し滑らせた瞬間、目の前の男の身体があからさまに強張ったのが分かった。その無駄に整ったかんばせから、徐々に血の気が引いていく。IVは頑なに目を合わせず前を向いて固まっていたが、横顔からでも何を考えているのかは手に取るように察せられた。今こいつの頭に浮かんでいるのは、間違いなく「失敗した」という後悔に違いない。今になってやっと、前回の反省が思い出されたのだ。やはりどうにもまぬけすぎる。

    何をそんなに恐れているのか、俺にはさっぱり分からない。ただIVがひたすらに誤魔化して逃げる気でいるようなので、ならば観念するまで追いかけるという選択肢しかなかっただけだ。だから悪いのはこいつなのだ。欲しいものに逃げられたら追いかけるだろう、鮫だけじゃない、生きているものの本能がそういうふうにできている。
    俺が真正面から紅玉みたいな瞳を見つめる度、許可を得ずその指に触れる度、IVはいつも「おかしい」と言った。お前はおかしくなっている、何か思い違いをしている。青い顔でそう言って、まるで祈るみたいに目を閉じるのだ。目を瞑っている間に俺が正気を取り戻すことに(すでに正気なのだが)一縷の望みを抱いているようで、俺は伏せられたまつ毛を見ていると胃の中がむかむかしてくる。
    おかしいのはお前だ。そう言ってやりたいが、言ったところで聞き入れはしないだろう。
    IVは気付いている。俺がどうしてこうも自分を追いかけるのか。それなのに、おかしいおかしいと理解しようともせずに否定するから、俺はいつもその首筋に噛み付いてやりたいのを耐え抜いている。

    「嫌なら振り解けば良いだろ」
    それができないと分かっていて俺は言った。図星を突かれたIVはうぐぅ、と変な声で唸る。それが可笑しくて声を漏らして笑うと、IVは悔しげに声を張り上げた。
    「お前は、なんか、勘違いしてる!」
    またこれだ。俺はすっかり聞き慣れた文句に脱力した。
    「俺のことなのに、なんでお前が勘違いだって分かるんだよ」
    「分かるだろ、だってこんなの、へ……変だろ」
    「俺が決めることだろ、それは」
    呆れを隠さずに言い捨てると、IVはぐっと口を閉じた。そりゃ、そうだけど……とかなんとか小さく不満げに文句を言って、そわそわ視線を彷徨わせ始める。それを見ていたら、また胃がむかむかしてきた。
    なあ、お前だろ、おかしいのは。なんで見ないふりをして、自分に都合の良いように全部を決めつけている。どうしてそうやって誤魔化して逃げ続ける。その先に何があるのか、考えたことがあるか?逃げ切れたときにお前自身がどう思うか、何を感じるか、考えたことは?そして例えば俺がお前を捕らえたとき、お前のその指先を捕まえられたとき、お前が今まで向き合ってこなかった自分自身の胸の内がどうなるのか、思い描いたことは?
    「俺にしてみれば、勘違いしてるのはお前の方だと思うけど」
    俺が吐き捨てるように言うと、IVはきょとんと目を丸くしてこちらを見た。それから何か言いたげに震える薄い唇を開いたが、それを遮るように重ねた手をパッと離す。
    青い顔をしたIVの目玉がぐるぐると回り始めてさすがに哀れに思えたので、考える時間を与えてやろうという温情である。もしかすると、自分で思っていたよりも俺はずいぶんお優しいのではないだろうか。
    「……腹減ったからそろそろなんか食おうぜ」
    未だ身を強ばらせているIVを尻目に散らばったカードを軽くまとめ、扉へ向かった。何か食えるものはあったろうか。食事に関してはほとんど璃緒に任せているから、自宅の冷蔵庫に何が入っているのかも分からない。
    ヒントはやった。できれば自分で気づいてほしいと思っている。いや、もしかしたらとっくに理解しているからこそ逃げ回っているのかもしれないが、それならそれで腹立たしいことこの上ないので、より痛い目に遭わせてやりたくなるわけだけれども。

    案の定、すぐ腹を満たせるものは何もなかった。たいていそのときに用意した料理は次に持ち越さずその場で平らげてしまうので、昨日の残り物もないのは当然と言えば当然だ。未調理の食材はあるものの、特段料理上手というわけでもないので、これから料理に取り掛かるという選択肢はない。
    出前でも取るか、少し外に出て何か買ってくるか……思案しながら何となしに戸棚を開けたら、いつ買ったのか分からないインスタントラーメンの袋が落ちてきた。裏返して成分表示の欄を見てみれば、賞味期限までは充分余裕がある。

    食うかと尋ねてみたら、IVは興味深げにラーメンのパッケージを見て頷いた。先ほどまでの真っ青な顔はもうどこにもない。こうやって、こいつは今日のこともすっかり忘れてしまうのだ。そしてまた次に会ったときには、何も考えていないような顔で、俺の手が容易く届くような場所に簡単に座ってみせるんだろう。想像するだけで胃がむかむかするし、頭が痛くなる。
    軽量カップがどこにあるか分からなかったので、水は目分量で沸かした。IVはインスタントラーメンを食べたことがないと言って、少々興奮気味に一口目を拙く啜り、笑いながら「味が薄い」と言った。んなわけあるかと自分もスープを飲んでみたら、なるほどたしかにやや、いや、かなり、薄味であった。煮込めば水分が飛んである程度味も濃くなるんだろうと思い、適当に水をぶち込んだせいだろう。不味かったら食わなくても良いと言ったのに、IVは文句を言いながらも機嫌良さげに食べ進めていく。
    味は薄いし、麺はコシがなくてふにゃふにゃしているし、具材だってないチープなラーメンだ。でも、機嫌良さげなIVを見ていたら、まあこういうのも悪くはないなと思った。
    こうやって向かい合って適当な食事を取って、暇になったらまたデュエルをして、シングルベッドで縮こまりながら並んで寝るのも別に、悪くはない。悪いわけじゃない。ただ、そう、俺がこいつに言いたいのはそういうことじゃないのだ。これが嫌だと言っているわけじゃない、でも、気づかないふりをして、なかったことにして、本当はぐちゃぐちゃになっているこいつの心臓の内側が俺に対しても隠されているのは気に食わないという、単にそれだけの話だ。

    器の中のラーメンを食べ終えてふと見れば、ついさっきまでご機嫌だったはずのIVは物憂げに目を伏せていた。どうせまた、くだらないことをぐるぐる考えているのだ。
    俺にはその意味や必要性がちっとも分からない。もっと単純な話だ。ただ一度その長い手足から力を抜いて、ぐるぐるお前を悩ませるものを全部すっからかんにしてみたらいい。そうすれば全部解決する話じゃないのか、と思う。
    「……お前が何を怖がってるのか知らねえけど」
    一人思考の海に沈んでいたIVは、俺の声に弾かれたように顔を上げた。ずっと向かい側にいたというのに、驚いたように目を見開いている。もう、無理やりにでも諦めさせてしまおうかな。少しだけそんな気持ちが湧いたが、結局釘を刺すに留めることにした。こいつが自分で降りてこないと、少しも意味がないのだ。
    「俺、あんまり気は長くねえんだよな」
    正面から見据えて言えば、IVは既に見開いていた目をさらに丸くした。首を右に少し傾けて、不思議そうに口を開く。シンプルな私服の肩に髪の毛がさらりと落ちてくるのをじっと見ていた。
    「なん、だよそれ……なんか、そんなん、宣戦布告みたいな」
    ファンが見たら偽物を疑うのではないかと思うくらい、らしくなくおどおどと言うので、
    「分かってんじゃねえか。宣戦布告だ」と答えたら、引き結ばれていた唇が弛緩してぽかんと開いた。まぬけな顔が可笑しくてまた少し笑う。駆け引きは得意ではないが、あまり責め立てすぎても良い結果に繋がらないことはなんとなく分かっている。
    「今日はもうさっさと帰れよ」
    さすがに、伝わったんじゃないかと思った。いつもよりも随分優しく、分かりやすく表現したつもりでいる。もしこの期に及んで「お前はおかしい」と言い出したら、それこそこちらもお手上げだ。
    IVはなんと答えるだろう。泊まりの予定だったが、素直に今日は帰ると言うだろうか。ほとぼりが冷めるまでお前とは会わないと言い出すかもしれない。誤魔化すのをやめて現状を受け入れるようになるのならば上々だ、逃がす気はないのでそのときは別な手段を考えねばならないが――。
    出方をじっと窺っていると、きょとんと間抜け面を晒していたIVがじわじわと顔をしかめ始めた。そして突然どんぶりを両手で掴み、がっと一気に煽る。残っていたスープを全て飲み干したらしかった。
    ガン!大きな音を立ててどんぶりをテーブルに下ろしたIVは、何故だか妙にすっきりとした顔をしていた。なんだ、どういう感情の顔だそれは。想定とだいぶ異なる様子に混乱していると、IVはいつもの調子であっけらかんと言った。
    「は?泊まってくけど。最初っからそういう話だっただろーがよ」
    俺は、先ほどのIVよろしく、ぽかんと口を開けて呆けてしまった。お前、さっきの話ちゃんと聞いてたか?
    「お前、やっぱりなんも分かってねえ」
    自分でも分かるくらいに眉間に皺を寄せて言うと、IVは心外そうに胸を張った。
    「俺は、お前とデュエルをすることもやめない。遊ぶのもやめない。隣に座りたいと思ったらそうするし、同じベッドで雑魚寝したいと思えばそうするんだよ。だって結局、お前はそれを許すだろ」
    「……俺がお前になんかするとか考えないわけ?」
    「そ、それは……そうなったら、そんときに考える」
    「あ、そう……」
    今日何度目かも分からない呆れで頭がくらくらした。どうなっても文句は言えねえぞ、と更に脅しをかけようとしたが、なんとなく効果はないような気がした。
    のろのろぐるぐる思い悩んでいたくせに、スイッチが入ると妙にストレートにぶつかってくるこの性質は何なんだろうと改めて思う。未知の生き物のようだ。
    IVはすっかり開き直った様子だった。間抜けだ間抜けだと思っていたが、もしや今一番間抜けなのは自分なのではないだろうか。

    適当に渡してやったアイスクリームの蓋を嬉々として剥がしている目の前の男をどうしてやるかは、食器を洗う間に考えることにした。どうやらこいつは、諦めはしないが逃げる気もないようなので。

    ----------------------------------------

    「俺あんま気にしないから、先にシャワー浴びてきていいぜ」
     台所から凌牙の部屋に戻ってすぐ、俺はそう言った。来客を一番にバスルームに案内するのが普通だろうが、こいつと自分の間にそんな畏まったマナーは不要にのように思えたし、正直なところ俺は一番風呂になどこだわりはない。家主に対する気遣いである。凌牙は普段鋭い眼光を放つ瞳を丸くして、それからすぐにじっとりと細めた。
    「お前、ちょっとは発言を考えた方がいい……」
     凌牙の呆れたような言葉に、むっとして唇を引き締める。ここまで来ても俺が何も考えていないと思っているのならば、それこそ呆れてしまう。俺はしっかり考えているのだ。むしろ考えすぎなくらいに考えて、頭がぐちゃぐちゃになりそうな思考の海を乗り越え、その結果こうしてここで凌牙と向き合っているのである。だがそれは凌牙に流されてやろうというわけではない。俺は俺のやりたいようにやる。自分勝手なこいつにこちらもとことん抗ってやろうということだ。
    「あ? 馬鹿にしてんのか」
     文句と一緒に睨み返してやると、凌牙は一度目を伏せた。しおらしくも見える態度に少し驚く。すっかり開き直ったような心地で気分が高揚しているせいか、つい喧嘩腰になってしまったから、もしや凌牙も落ち込んでしまったのではないだろうか。俺はおかしくなった凌牙をどうにかしたいが、決して傷つけたい訳ではないのである。しかしそんな考えは、凌牙の口から吐き出された長い溜息でかき消された。顔を上げた凌牙は、まるで「げんなりした」とでも言いたげな気落ちした表情をしている。俺は思わず身を引いた。凌牙がこういう顔をしているとき、あまり良いことはないのだ。
     黙って様子を伺っていると、凌牙はまた短く息を吐き、部屋のクローゼットから着替えを取り出した。粗雑な仕草で寝巻きと下着を引っ掴み、再び扉へ向かっていく。
    「風呂、入ってくる……」
     何故かよたよたと足元が心許ない。部屋を出た後は廊下から何かにぶつかるような音も聞こえてくる始末だ。不思議な気持ちでそれを見送ったが、考えてもその様子の要因が分かる訳がなかった。最近の凌牙は、広大な宇宙よりもオーパーツよりも謎に塗れている。
     
     凌牙の入浴はまさに烏の行水だった。出て行ったと思ったらすぐに戻って来たので、俺は面食らって、もしや忘れ物か何かかと思ったくらいだ。部屋を出ていくときは何故だかよれよれしていたのに、髪の毛をびちゃびちゃに濡らしたまま戻って来た凌牙はどうしてか妙にすっきりした顔をしていて妙だった。変だ。おかしい。だが凌牙はここしばらくずっとおかしいので、やはり俺にはその理由が解明できそうにない。
    「お前も入って来い」と促されて、鞄の中から着替えを取り出す。凌牙の家に泊まることになったと言ったら、Ⅲがお泊まりセットなる物をリストにして渡して来たから、それに倣って荷物を用意したのだ。Ⅲは頻繁に遊馬の家に泊まっていて、「お泊まりのことは何でも聞いてください」と得意げだった。たった一泊、友人の家に泊まるだけだ。それでも、弟と一緒にああでもないこうでもないと騒ぎながら荷造りをして、そのたった一泊を楽しみにしていた昨夜の自分のことを思うと、やややるせなくなった。水を差されたみたいだ、と恨めしく思う。全部凌牙が悪い。凌牙がまたおかしくなったから、またぐるぐると考えざるを得なくなった。本当なら、あんなふうに啖呵を切ることもなく、ただ友人として楽しい夜を過ごせていたかもしれないのに。
    「脱衣所にある入浴剤、適当に使っていい」
     着替えを手にして立ち上がると、濡れた頭を乱雑に拭いながら凌牙が言った。
    「……お前、入浴剤なんて使うのかよ。あんなに風呂短いのに。ああ、璃緒のか?」
    「いや……なんかお前、いろんなの試してるって言ってただろ……」
     どうにもその返事の歯切れが悪く、首を傾げて考える。最近、入浴剤が俺のマイブームなのは事実だった。疲れを取りたくて気まぐれで買ったバスソルトの使い心地が存外良く、それ以来色んなメーカーのものを買い集めては、日替わりで楽しんでいるのだ。しかし、凌牙と入浴剤なんかの話をした記憶はない。凌牙だけではなく、家族以外にそんな些細なことを伝えてはいないはずだった。ああ、でも、最近一度だけ雑誌か何かのインタビューで最近ハマっていることを聞かれて、素直に答えたことがあったかもしれない。それからはファンからも入浴剤のプレゼントが送られてくることが少し増えたのを思い出す。公の場で話をしたのは、間違いなくその一回きりだ。
    「ああ……うん……」
     喉から変に上擦った声が出て、俺は咳払いで誤魔化した。何故か話題を掘り下げられずに、一度視線を落としてから扉へ向かう。心臓を指でなぞられたように、そわそわと落ち着きがなくなったのが自分でも分かった。
     絡れそうな足で廊下を進む。床を蹴る感覚が上手く脳に伝わって来なくて、まるで地面から浮いているみたいな変な心地だった。よたよた歩きの凌牙をちっとも馬鹿にできない。ようやくたどり着いた脱衣所には、見るからに新品未開封の入浴剤が置いてあって、それが視界に入ったとき、俺はもう、心臓がくすぐったくて、声を出してしまいそうになった。
     だってそうだろう。直接は言わないくせに、雑誌のインタビューでたった一回だけ話したような他愛もない話を覚えている。翌日がオフだから泊まる、という話になったときには何だか釈然としないみたいな顔をしていたのに、多分、きっと、自分では使いもしないハーブの香りの入浴剤を用意しておく。だって、それってなんか……なんかさあ。
     これを凌牙がどんな顔をして買ったのか考えると、心臓はやはりぞわぞわと粟立って、顔がほてってきた気がした。せっかくだから湯船にじっくり浸かろうと思ったのに、爽やかなハーブの香りに包まれるとどうにも色々と考えてしまって、髪と身体を洗ってすぐに浴室を出た。きっと凌牙に負けず劣らずのスピードだったろう。それから髪を乾かして部屋に戻ったはずなのだが、浮わついた心地のせいかそのあたりの記憶が曖昧だ。
     
    「布団敷いたからお前はこっちで寝ろ」
     部屋に入ってすぐ俺の視界に飛び込んできたのは、凌牙のベッドの隣に敷かれた客用布団だった。先日宿泊の話をしたときには、客用の布団はないと言っていたはずだ。俺は一度布団を見下ろして首を振った。話が違う。
    「は? いやだ。てか布団ねえんじゃなかったのかよ」
    「あ?」
    「布団で寝たことない。ベッドが良い」
     凌牙はグッと眉間に皺を寄せる。
    「とうとう目もやられたか。どう見てもベッドは一個だろうが」
     吐き捨てるように言われて、苛立ちからつい顔を顰めた。そんなん見りゃ分かる。その上で言っているわけである。
     すっかり冷めていた不快感が、またふつふつと腹の底から沸き出し始めるのを感じていた。また凌牙の例のやつだ。おかしくなると自分から無駄に距離を詰めてくるくせに、俺が近寄ると遠ざけようとする、自己中心的この上ない振る舞いがまた始まったのだ。気に食わなかった。宣言した通り、俺は俺のやりたいようにする。お前がそうなんだから、俺はそうしてはいけないというのは道理が通らない。
    「布団で寝ろ」
     凌牙はもう一度念を押すようにそう言った。
     本当はお前だって楽しみにしていたくせに。俺のために、自分では使いもしない入浴剤を用意して脱衣所に置いておくくらいには。そう言ってやろうと思ったが、すんでの所で思いとどまった。これを言ってしまったら、何となく取り返しのつかないことになるのでは? という、謎の防衛本能が働いたのだった。決闘者の危機回避能力を侮ってはならない。俺はこういうときの自分の感覚を信じている。
    「言っただろ! 別に同じベッドで雑魚寝でも良いって。セミダブルだろ? 俺らなら二人で寝られると思うけど」
     布団を跨いで許可を取らずにベッドへ上がると凌牙は口角をひくつかせたので、良い気味だと思った。
    「お……お前は……」
    「んだよ」
     凄み返すと、足を蹴られた。
    「いっ、て!」
    「本当に嫌だ……お前……マジで馬鹿……」
    「あ?」
     凌牙は何も言わずにまた長いため息を吐くと、そのまま口を閉ざして黙り込んでしまった。勝った。俺は確信した。負けを認めると凌牙は拗ねたように黙るのだ。何だが今日のは種類が異なる気がしたが、まあ結果的に黙ったから良いだろう。
     凌牙はのそのそと気怠げな動きで壁際に寄った。俺の寝るスペースを開けてくれたらしい。もう寝るのか、と気が抜けてしまって、不満の声が漏れそうになる。友だちの家でのお泊まりは、大抵夜更かしして喋り込んだりするもんではないのだろうか。自分と凌牙が一般的な友人関係のテンプレートに当てはまるのかは分からないが、少し残念に思った。しかし凌牙は随分と疲れた様子だったので、俺も仕方なく諦めて、掛け布団を捲って潜り込む。やっぱりやや狭いが、別に嫌ではない。
     凌牙は黙ったまま、枕元のリモコンを手に取り部屋の電気を消した。あっという間に夜が深く広がっていく。遮光カーテンに覆われた窓からは、住宅街の街灯の光すら入り込まない。静寂、微睡。ほんの僅かに、身体から嗅ぎ慣れないハーブの香りがする。うとうとと目を閉じ、眠りの淵に足を沈めかけたそのとき、手の甲を撫でる何かにぎょっとして身が跳ねた。
    「ぎゃ!」
     思わず悲鳴を上げる。何か、と言ったものの、犯人は一人しかいない。くそ、また油断した。場にそぐわぬ苛立ちと悔しさが溢れてきて、それはすぐに舌打ちに形を変えた。
    「やめろってんだよ! そういうのを!」
     手の甲を滑った指は、遠慮なく手首を掴んでくる。俺は裏返る声を気にせず叫んだ。背中から冷や汗が吹き出てくるのを感じる。心臓が音を立てて跳ねていて、手首を伝って凌牙に聞こえていないだろうかと不安になった。そんな心地なのに、やっぱり俺は掴んでくるその手を振り解けない。ただただ、ハーブの香りが鼻腔をくすぐる。
     グッと息を呑み、一瞬だけ押し黙ると、眠気を微塵も感じさせない飄々とした声が返ってきた。
    「この状況はさすがにお前が悪いだろ」
     俺は絶句した。責任転嫁にも程があると思ったからだ。
    「何が⁉ 普通の友達は、こういうことは、しねえ。俺でもさすがに分かる」
     聞き分けの悪い子どもに言い聞かせるように、一句ずつを区切って伝えたのに、「ふうん」とだけ凌牙は言った。返事というよりは、適当な相槌だった。例え凌牙がどう思っていようと、俺がこいつを友だちだと思っているかぎり、それは覆ることはないのだ。それは間違いない。だって、そうだろう。分かっているはずだ。それはおかしい。お前が、俺に、そうなるのはおかしいだろ。
     暗闇で表情は読めないが、凌牙が息を吸い込み、口を開く気配がする。
    「俺は、お前のこと――」
     凌牙の言葉に俺はハッとして、咄嗟に肘を打ち込んだ。ぐえっと呻き声が響く。丁度胸のあたりに入ったらしい。助かった。
    「いや、やめろ。余計なこと言うな。俺はもう寝る」
    「おいこら」
     苛立った声を漏らすと同時に、凌牙が半分身を起こしたのが分かった。手首の拘束が緩み、その隙を突いて手を引く。舌打ちが聞こえたが、無視をして布団に潜り込んだ。
    「……お前が考えてるほど変わんねえよ。俺が何を言っても」
     凌牙が言う。あんまりな物言いに、俺は呆れてしまった。
    「変わるだろ……」
     変わらないわけがない。お前が変わらなくたって、俺はどうしたって変わる。変えられる。
     何も考えたくなくて、ぎゅっと目を閉じた瞬間、一つ伝えたかったことを思い出した。
    「そういや、インスタントラーメンって初めて食べたけど、結構美味かったな。ちょっと味薄かったけど。父さんも好きそうな味だった。結構ジャンクなもんも好きなんだよ、あの人……」
     凌牙は本日何度目かの溜息を響かせてから、「卵入れると美味いぜ」と掠れた声で呟いた。明日試してみるか、と続けて言う。想像してみたら、確かに美味そうだった。
     
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