かなしん「なんで慎くんの手、そんなに綺麗なの?」
珍しく、二人きりの帰り道だった。今日はユニットメンバーそれぞれに個別の仕事が入っている日だったが、慎は予定より早く上がることができた。明日以降のスケジュールの確認の為に事務所に寄ってみたら、ちょうどマネージャーの車から降りてきた奏と出くわして、せっかくだから駅まで歩こうという話になったのである。
駅までの道すがら、新しいコーヒースタンドを見つけた。店主にしてみれば残念だろうが慎たちにとっては幸いなことに、店先の客は多くない。奏が「寒いからあったかいもの飲みたくない?」と首を傾げ、慎の返事を聞く前に小さな店の入り口を潜って行ったので、流されるように後を追った。正直なところ、香ばしい匂いに慎も喜んで釣られてしまったのだった。
店は立ち飲みやテイクアウトがメインのようだったが、店の奥に小さなベンチがひとつ置いてある。他に客はいなかったので、店主の許可を得て二人でベンチに腰掛け、香りを楽しんでからゆっくりと紙のカップに口を付ける。奏が突拍子もないことを言い出したのはそのときだった。「前から思ってたけど、慎くんすごい手が綺麗だよね」
「手?」
「うん。色が白いのもあるけど、指がさあ、すらーっとしてて、爪も縦長で綺麗。こないださ、慎くんが出てたドラマ、ほら、サスペンスドラマの犯人役で出てたやつ、あれ観ながら母さんがすごい褒めてた。『手タレみたいに手が綺麗ねー』って」
「ああ、あの……絞殺と刺殺の」
「ロープで首絞めるところと、包丁持って刺すシーンで手がアップになってて」
「なるほど。二人も殺すのはなかなか大変だったから、楽しんでいただけたなら嬉しいな。お母さんにお礼を伝えてくれ」
「わかった!」
あはは、と笑う奏に頷きを返し、そのまま手元に視線を落とす。ここまでの道のりでは手袋をしていなかったから、冷たい空気に晒されていた指先はかじかんで、ほんのり赤く染まっている。心なしか乾燥してかさついている気もするし、言われてみれば確かに人より少し指が細いかもしれない……そのくらいの認識である。そもそも、自分の手にあまり着目したことはない。アイドルという職業柄、身なりにも気を遣ってはいるものの、全身隈無く把握し、しっかり手入れ出来ているか?と聞かれると、首を縦に振るのが躊躇われる程度なのだ。
「なんかケアとかしてるの?」
そう問いかけながら奏がカップを左に持ち替え、右手を慎の方へ伸ばしてきた。慎のものと同じく少しかさついた指先が、指に触れる。
「いや……俺はハンドクリームくらいだな。それもときどき忘れてしまうし」
「わかる!手洗う度に塗るのめんどくさいよね。オレも純哉くんに使えって渡されたの持ち歩いてるけど、あとで塗ろうと思っていつも忘れちゃうんだよな~」
だから、最近かさかさしちゃってるんだけど、慎くんはやっぱオレよりしっとりしてる気がする。奏はそう呟きながら、指の長さを測るみたいに付け根から爪をたどる。そのまま離れて行くかと思われたが、慎の予想に反して奏の手は慎の手を少々強引に持ち上げた。手の甲を無遠慮に撫でまわされたが、慎は左手を預けたまま、奏の行動を甘受した。仕事以外で人に身体を触られるのは得意な方ではないが、奏相手ならば特段嫌な気もしないから、飽きるまで好きなようにさせてやろうと思ったのだ。
「指輪とかも似合いそう」
何が楽しいのか、人差し指から一本ずつ順番に第一関節を撫でさすりながら奏が言った。慎の指で遊びながらも、合間を縫ってしっかりコーヒーも飲んでいる。器用なことだと慎は感心した。
「指輪?」
「うん、なんか……名前分かんないや。あんまゴツくないやつ、細いやつが似合うと思う!」
奏が指で宙を掴むようなジェスチャーをした。細さを表現しているのだろうが、いまいち分かりにくくてつい笑ってしまった。なんとなく分かるじゃん!細いやつ!と不服そうに言って、奏は掴んだままの慎の手を揺らす。口から溢れてくる笑いをどうにか抑え込もうと努力しつつ、「笑って悪かった」と謝れば、すぐに「良いよ」と返ってきた。分かっていたことだが、別に本気で怒っていたわけではないのだ。奏はときどきこういうふうにわざと不機嫌を装って、慎が自分の機嫌を取ろうとするのを喜んでいる節がある。それがどうにも子どもっぽくて可愛らしく思え、慎はいつもそれに付き合ってやるのだった。
未だ止まらない笑みをごまかすように、慎はこほんと咳払いをした。
「指輪か……あまり身につけたことはないな。イメージと違うのか、撮影でもあまり用意されていたことがない気がする」
思い返してみれば、人生で指輪をはめたことなど片手で数えられるくらいの回数しかないような気がした。抵抗があるわけではないから、撮影用のアクセサリーとして用意されていれば着用するが、たとえばアクセサリーショップを覗いた際にも、自分から手を伸ばしたことはない。
はめる指によってそれぞれ異なる意味を持つらしいとは聞いたことがあるが、種類も曖昧な慎が持つ知識は、”愛する人”と揃いの指輪は左手の薬指につける、ということくらいだ。
「うん、オレも」と奏は頷いた。
「純哉くんはときどきかっこいいのしてるよね。こないだも撮影で使ったアクセサリー気に入ったから買い取ったって言ってたし」
自他共に認めるファッション好きの純哉は、アクセサリーにもこだわりがあるらしい。先日、雑誌のグラビア撮影で用意されていたリングを気に入って、買い取らせてもらったという話は慎も聞いていた。
「ああ、それは俺も聞いたし、見せてもらった。純哉に似合っていたから、買い取って正解だったなと話したんだ。俺も興味がないわけじゃないんだが」
「あっ、じゃあ、オレも撮影とかで、慎くんに似合いそうなの見掛けたら教えるね」
「ああ、……」
ありがとうと言いかけて、慎は口を噤んだ。
それまで手持ち無沙汰を誤魔化すように奏によってゆらゆら揺らされていた慎の手が、ゆっくりと持ち上げられたのだった。まるでダンスに誘うときみたいに、奏の手が慎のそれを下から掬い上げる。
そのとき、慎は初めてこの状況に居心地の悪さを感じた。奏に触れられるのが嫌なわけではない。嫌悪ではなく、感覚が上手く噛み合わないような違和が、身体の内側でうごめき始めたようだった。さっきまでは何にも気にせず奏の好きにさせていたのに、妙に落ち着かない気分になってくる。いざ考え出すと、もしや男の友人同士で手を繋いだまま並んで飲み物を飲んでいるこの状態は、あまり普通ではないのかもしれないと思い始めた。いや、そもそも普通とはなんなんだ。奏も、自分も、これが嫌じゃなくて、だったら普通なんかじゃなくて良いんじゃないか。普通じゃないと、何か困るんだったろうか。頭が回らない。目の奥がチカチカと点滅する。
ぼんやりしたまま掬い取られた手に視線を落とす。奏は、緩慢な動作で慎の手を更に高く持ち上げた。慎の手が、奏の顔と同じくらいの高さになる。それから、ゆっくりと奏の顔が寄せられて――慎は、あ、と思った。あ。脳内で、自分の間抜けな声が響く。
「……でもここは、オレに予約させて」
柔らかい唇が、慎の薬指の付け根に一瞬触れて、すぐに離れた。
薬指。左手の。その指にはめるリングの意味、さっきまで考えていたのに、回っていない今の頭ではもう分からなくなってしまった。なんだったろう、その、たった一つの指の持つ意味は――。
「……なーんちゃって……。こ、こないだのドラマの、三神さんの真似……」
奏は、ぱっと顔を上げて言った。
握られたままの手が、ゆっくりと下ろされてベンチに触れる。冷たい。
「あ、ああ……純哉が騒いでいた……」
慎ははっとして、弾かれたように顔を上げ、声を絞り出す。最近の純哉のもっぱらのお気に入りは、先週から放送を開始した、三神が出演している恋愛ドラマなのである。慎はまだ視聴できていないが、近いうちに録画をみんなで観ようという話になっていた。
「ごめ……、ごめんね、指にちゅーしちゃった……」
「いや、あの、大丈夫だ……」
掴まれていた指先がぎゅっと握られて、腕全体がぴりぴりと痺れるようだった。心臓が指先に移動したんじゃないかと思うくらい、五本の指が脈打っているのを感じる。
「……あのね、慎くん……あの、オレね……オレ……」
奏は、もう慎の方を見ていなかった。ベンチに腰かけたまま、正面の床をじっと見つめ、何か言いたげに口を開いたり開けたり、「あう」とか「うう」とかうめき声のような微かな音を漏らしている。慎はじっと耳をすまして、奏の紡ごうとしている言葉を決して聞き逃すまいとした。なんだか分からないが、これはきっと大切な言葉なのだろうと思ったのだ。奏にとっても、慎にとっても。
しかし、奏は結局意味のある言葉を発さないまま、唇をきゅっと引き結んでしまった。
「やっぱなんでもない……また今度、心の準備が出来たら、言う……」
奏は途切れ途切れにそう言って、とうとう慎の手を離して立ち上がる。慎も慌ててそれに倣って腰を上げた。しかしコーヒーをほとんど飲み切っていなかったので、立ったまま一気に飲み干す。すっかり冷えてしまったカップの中身が、熱く火照る身体を通って胃に落ちていく。
どうしてか、味はまったく分からなかった。助けてくれ、純哉。苦し紛れに頼れるリーダーに助けを求める。純哉がいたら、奏の行動の意味も、どうして慎の身体がこんなに熱いのかも、奏の言葉の続きも、薬指の意味も、全部教えてくれたかもしれないのに。
慎の頭の中で、「知らねーよ」と純哉が眉を顰めた。