その日はいつもよりほんの少しだけ疲れていて、いつもよりほんの少しだけ家に帰る気がしなかった。疲れた気持ちを家まで持って帰ってしまったら、きっと夢の中でも引きずっていただろうから。
こんな日はどこかで軽く食べて軽く飲んで、帰ったらすぐに寝てしまおう。そう思い、目についた店の扉を開けた。
「いらっしゃいませ」
柔らかい声が聞こえ顔を上げると、白髪の老紳士がこちらを見て微笑んでいる。
「こちらへどうぞ」
カウンターだけの店内に通され、一番奥の椅子に座る。あたたかいおしぼりを渡されると、じわりと指先が溶けそうになる。
メニューを開くとフードメニューはそこまで多くもないらしい。ただ時間だから夕飯をと思っただけで、そこまでお腹が空いているわけでもない。
「チーズの盛り合わせと合鴨のスモーク。あと何か適当にお酒貰えますか?」
「何か苦手なものなどは?」
「特に何も」
「かしこまりました」
静かにそれだけ言うと彼は作業に戻った。まだ人のいない店内にはゆったりとしたBGMと彼が動くたびに起きる微かな音だけになる。不思議な時間だった。
スマホを開く気にもなれず、カウンターの上に置いて店内を見た。明かりを絞った店内はシックな雰囲気で、かといって古めかしいわけではなかった。
最近の流行りと紹介されるようなカジュアルな場所ではなかったことにホッと胸を撫で下ろした。さすがに今はそういった賑やかさは勘弁してほしかった。
「どうぞ」
目の前にグラスと皿が置かれた。澄んだ色の液体は、照明の明かりを浴びて小さな光を反射させて輝いている。
こんな小さなグラスの中はこんなにも幸せそうな光を放っているのに、なぜ私は……。そんなことを思ってしまうのも嫌でグラスに口をつけた。
「……美味しい」
ふわと爽やかな香りが広がった。けれど癖もなくそのままするんと喉の奥へと落ちていく。
「ジントニックです。お口に合いましたら何よりです」
ぽつりと呟いた言葉を拾って、目の前のマスターは穏やかに笑う。適度な距離で返してもらえる言葉が心地いい。
「素敵なお店ですね」
「ありがとうございます」
音楽も内装も、そしてカウンター越しのマスターとの距離感も居心地が良かった。そんな話をぽつりと呟くと、マスターははにかみながら意外なほど人懐っこい顔でお礼を口にする。
これだけ上品で紳士な人が、こんな顔で笑うのか。こんなにも年齢の違う相手に失礼だとは思ったが、その笑顔が可愛いと思ってしまった。
お酒も進み、他愛もない話にも付き合って一緒に笑ってくれた。深く突っ込んでくることもないからこそ、気が休まるのを感じた。
いつの間にか釣られて、彼のように笑っていたことに気づいていなかった。
自分以外の客が増え、そちらを対応しているのを盗み見ながらお酒を口にする。常連のような相手にも丁寧に接客そているのを見ると、それが彼の素なのだろう。
子犬のようにコロコロと笑うのに、バースプーンを握る指先も、シェイカーを振る手付きも同じ人かと思うほどに大人びていて、つい目で追ってしまう。
自分の周りにこの年代の男性がいないから普通が何かはわからないが、いやらしいとかではなく、ああ、艶っぽいなと思ってしまった。
女性の色気とはまた違うものが、この年代の男性には出るのだろうか。わからないからこんなにも目を引くのだろうか。
そんな姿を見ていたら、自分が何を気にしていたのかも忘れていて、その現金さに笑ってしまった。
「ごちそう様でした」
会計を済ませて帰ろうとすると、マスターが店の扉を開けてくれた。
「ぜひまたいらしてくださいね」
そう言って彼は穏やかに笑う。さっきまでの凛とした顔はどこへ行ってしまったのか。
「はい。またお邪魔します」
表情もすぐに見えなくなるような暗い夜道で、彼は姿が見えなくなるまで手を振って見送ってくれていた。
あれほど憂鬱だった気持ちはどこへ行ってしまったのか、何も考えずにベッドに横になる。そして何気なくスマホでバーのことを検索した。そこでカクテルについての記事に目が止まる。
『トニックとは元気づける、明るくするという意味がありーー』
ベッドに落ちたスマホがぼふんと鈍い音をあげた。ああ、ずるいな。本当にそういうのは勘弁してほしい。
次はいつ行こうかと、目を閉じる。
その日、笑顔であの店を訪れる夢を見た。彼はカウンターの中であの優しい顔で笑っていた。