赤「ここはいつも綺麗でいいねぇ」
会議室で食事を終え、温かいお茶を弥也が皆に配っている時だった。湯気のように柔らかな声がふわりと部屋に広がった。
「急にどうした?」
「ここだけじゃないけど、うちはどこもぴかぴかだから。みんながしてくれてるんだろう?」
鹿園様はありがとうと言うと心底嬉しそうに微笑み、お茶を一口飲み込んだ。皆が言葉も忘れ、その姿を眺めてしまった。
「まぁ、朝は皆で清掃してるからな」
「そうですね。ここは先程東雲さんがしてくださっていましたし」
「そうなんだ。いつもありがとうね」
拝掌教の朝は早い。夜が明けると共に皆目覚める。そして食事当番の者たちは食堂に集合し、それ以外の者は敷地内を分担し清掃を始める。
信者数が増えるのに比例し、雑用すらも効率的にこなさないとそれだけで一日はあっという間に終わってしまう。鹿園様はそれならそれでと笑っていたが、さすがに宗教団体として活動している立場上そういうわけにもいかない。
そして礼拝を済ますと各自仕事へと向かう。私服やスーツに着替え、麓へと行く者もいれば、敷地内で畑仕事や洗濯などの雑務に取り掛かる。
相談会や大拝祭でもなければ、日常はいたって穏やかなものだ。鹿園様も特に用もなくとも庭や展望台を散策し、信者たちとの交流を楽しんでいられるようだった。
人が増えればいくつかのグループに分けられ、それを取り仕切る者が置かれる。教祖、幹部となればどうしても普段関われる範囲は狭くなってしまう。
教団が成長するほど鹿園様は何気ない時間を楽しみにされていた。初期のメンバーで決めた形ばかりの儀式よりも、天気や作物の成長具合などをそれは嬉しげに皆に聞いて回っていた。
本当であればそんな日々を過ごしていただくことが最良なのかもしれない。けれど引き返すにはすでに遅かった。教団はいつの間にか自分たちの広げた腕が届かない程に巨大になっていた。
そして私達は未来を見ることはできない。
「キレイだねぇ」
テーブルの上の小さな花瓶を見て鹿園様は目尻を下げた。窓から差し込む日差しが花びらを薄く透けさせている。淡く色付く細く伸びる花脈が、まるで人のようであった。
「寿々が生けてくれまして。花冠にするのに数が合わなかったものらしいです」
「そうか。ありがとうね」
「そのままにしちゃうのはかわいそうだったから」
テーブルの向かいに座っていた寿々は照れくさそうにはにかんでいた。頬杖をついた小さな両手の下で、赤みの差した頬がぷくりと膨らんだ。
二人の前に皿を並べた。サラダと言い張るには少しシンプルな千切っただけの野菜と、ベーコンエッグを乗せたトースト。オレンジも添えたのでなんとか彩りや見栄えは取り繕えているはずだ。
今日は少し早いランチになったので、軽めに朝食のようなメニューにしてみた。もし物足りなければおやつをボリュームがあるものに変更してみようと考える。
「フォークは持てますか? 痛みは?」
「うん、大丈夫そうだ」
鹿園様はフォークを握り指先で動かして見せた。ならばと自分の分も並べ、三人揃って食前の祈りを捧げる。
本来であればこれももういらないものなのかもしれない。ただそれを指摘する者は誰もいないので、そのままにしている。きっと急激に生活が変わりすぎるのは良くはないはずだから、それでいいときっと三人とも無意識に思っているのだろう。
「いただこうか」
鹿園様が難なく食事を取られているのを確認し、目の前の野菜にフォークを刺すと、ミニトマトの薄い皮は大した抵抗もなくぷつんとフォークを飲み込んだ。
薄い皮を貫く感覚。動物も植物も変わらない。どんなものにも表とその内を分け隔てる壁がある。それだけだ。
私の内にも外には出せないものがある。幼い頃から決して綺麗なものではなかった。全てに絶望し、人を、この世を恨んだこともある。そしてこの手を赤く染めたことも。
私には他人を裁く権利も何もない。人間とは利己的で、とても残酷な生き物だ。自分の欲、願望、知らずにそれらを追い求め、汚い感情すらも正義と思い、それを他人へとぶつけてしまう。
私はただの凡人だから……。神でも聖人でもないし、なることもなかった。だからこそ人知れぬ欲も罪もいつの間にか増えてしまっていた。
そして綺麗なものですらなかった私の手は今では血塗れで、いくら洗っても鈍く光る赤は取れることはない。こんな手が鹿園様の目に触れるようなことがあってはならない。
カチャン。静かな食卓に甲高い音が響いた。視線を移せば、鹿園様の皿にフォークの先が突き刺さっていた。
「ああ、すまないね」
「いえ、それよりも鹿園様。手の傷が……」
「ん?」
手のひらに貼っていたガーゼはうっすらと赤く染まっている。まだ乾ききっていない潰れたばかりのまめは、力を入れたせいかまたじわじわと血を滲ませてしまったようだ。
「せっかく貼ってもらったのに」
「そんなことはかまいません。けれどそのままでは煩わしいと思いますので、貼り直しましょ
う」
「痛くないから、あとでもだいじょうぶだよ?」
「食べにくくはないですか?」
そう言われると、と鹿園様は手を見つめた。じわりと広がる赤い血をこのままにしていては、フォークなども汚してしまうかもしれない。きっとそんなことを考えられたのだろう。
「じゃあお願いしようかな」
「はい」
先ほど使ったままになっている救急箱を持ち、鹿園様のもとへ戻る。手のひらを上に向け、こちらへと差し出していた。
「失礼します」
手に貼り付けたサージカルテープを、皮膚を傷めないようにゆっくりと剥がしていくと、鹿園様の肌がひっぱられ、少し持ち上がっているのが見えた。
ガーゼを外すと薬に血が混じり、筋となった赤い血があちこちに這い回っていた。誰かのために流した血。
自らが傷付くことすら厭わず人々の安寧の願う姿は、どこか祈りにも似ていた。宗教団体として活動していた頃の、取り決められた祈りよりもずっと尊く思えた。
消毒液を含ませたガーゼで手のひらを丁寧に拭き取り血がなくなると、ようやく肌の色が見えてくる。褐色の肌に赤く伸びた筋は、大地に根を張る木のように見えた。
枝を伸ばし多くを受け入れ、茂る葉は人々の憩いの場となる。多くの人を引き付けるひだまりのようなこの方は、存在そのものが人々の救いになっていたのだ。
言い訳でも、利己的でもなく、ただ人々を愛し、そのためだけに生きることができる人間はそうはいない。行動の大本には何かしら自分の欲求からくる理由がある。けれど鹿園様の全ては他者への愛であった。
ガーゼにワセリンを薄く塗り、きつくならぬように慎重に貼り付ける。鹿園様の手のひらは再び白く縁取られる。
「はい、できました。動かしづらくはありませんか?」
「ありがとう。うん、大丈夫そうだ」
指先を何度か握りしめ感覚を確かめると、再びフォークを持ち食事を再開されたのを見て、救急箱を片付け席につく。また穏やかに食事は続いた。
ああ、鮮やかな赤が目に焼き付いている。鹿園様が生きている証であり、人々の心、命を救い続けているからこその色。尊ぶべき存在。
あの薄い皮膚の内側も何の差もなく綺麗なものだけが詰まっている。中で流れる血の一滴すらも。
決して私の手にこびりつき落とすことができないこの色とは違う。我欲のみで他人をも巻き込んだ。人々に癒やしと救いを与える天に昇る太陽のようなあの赤とは違う。
きっとこの方はこの世に生まれ落ちてから最期の日までこうなのだろう。身につけたものではなく、天性のもの。なろうとしてなれるものでは決してない。
せめてその隣に立つことを許されるものでありたい。これ以上不釣り合いな醜いものにならずにいられたら……。
今日も私は真っ白な手袋をして、あの方の隣にいる。