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    oishi_shioyaki

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    oishi_shioyaki

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    ワンライ「深淵」に参加させていただいた時の小説の続きです。
    妄想、捏造しかありません。
    深淵、天空の島、命の星座など、作者の勝手な解釈盛り盛りでお送りします。
    考えながら読んでも???となる箇所が多々見受けられると思いますので、本当に雰囲気で読んでやってください🙇‍♀️

    深淵より愛を込めて/天空より手を伸べる 呼吸する度、取り込んだ火の粉の混じる煙が烈しく喉を焼く。それが粘膜を毒しながら通り過ぎ、じわりじわりと体内を冒しゆくことを阻止できない。すると咳が出た。初めは咳払いで誤魔化そうとしたが、無理だった。軽く喉を震わせるだけのつもりがそれに呼応して気管がじくじくと疼き、噎せた。これが何度息を詰まらせても止まらないのだ。口に手を当て、ついには腰まで折って前屈みになる。同時にごぽと臓腑が鳴った。迫り上がる嘔吐感にも抗えない。口を覆っていた手では受け止めきれず、指同士の隙間から己の吐いた赤黒い血が溢れ、それはびちゃという音を伴って地に落ちた。そして煤色の土を汚した。じわり。目に生理の涙が滲む。それは紅く色づけた目尻に溜まり、瞬きの拍子に零れ、頬を滑った。
     苦しいと思った。これが苦しいということなのだと考えた。息を吸って吐く、たったそれだけのことさえ満足にできなくなっていた。目を細める。……これはけして、人の子が手にしていい力ではない。

     体を折って咳込み、血を吐き、涙を流す男の有様は無様だった。だがそんな無様を晒して尚、彼の濡れた黄金色は力強い輝きを失わない。そこには絶対的であることへの覚悟と信念が息づいていた。彼の傲慢さや矜持に見合うだけの覚悟と信念だ。その身に纏う皮がなんであれ、その皮が手負いの状態であれ、彼の貫禄は損われない。彼が護り導くべきと信ずる人という生き物の前では、決して、その盤石が如く堅い在り方は揺るがない。
     男は口端を汚す血を雑に拭い、折っていた体を起こした。ピンと背筋を伸ばして堂々と立ち、護り導くべき人を見据えるその姿は、手負いであることをまるで感じさせない。
     そうして力強く注がれる黄金色の視線の先。燃え盛る炎と吐き出され続ける真っ黒な煙の中を、それらを物ともせず、一人の人間が悠然とした足取りで歩いてくる。爆ぜる雷をその身に纏わせ、意のままに操る小さな水の鯨を、彼の周囲で自由に遊ばせてやりながら。

     かの人は深淵を魅了した者。幼き日に深淵に落ち、生き抜き、やがてその力を授けられた者。そうして力の極地に到達した者。それでも尚まだ足りぬとより強く在ることを求め続けた者。光ない真っ青な両目に理性と狂気を同居させ、彼は最期に愛するひとと殺し合うべくここ璃月の地を踏んだのだ。

    ―――

     轟々と音を立ててうねる炎はまるで波。荒れ狂いながら依然として燃やす範囲を広げ続けるそれは、耳を劈くような破壊音をさせて落ちた、巨大な一筋の黒き稲光によって齎された。その唐突な落雷は大地を抉り、草木を燃やし、そうして生まれた炎は璃月の大地を縦横無尽に焼いていった。これは只事ではないとすぐさま察した鍾離は、仙人らと七星、それから旅人の尽力を得て、すべての璃月の民を他国へと避難させた。
     鍾離は一人、璃月の地に残った。仙人らと旅人は共に闘うと言って聞かなかったが、それでも民のことをどうか頼むと鍾離が切に願えば、彼らは苦渋に満ちた表情をしながらも諾と頷いた。
     彼らを見送ったあと、鍾離は落雷のあった場所を目指した。たとえそこから一際強く燃え上がる炎の存在がなくとも、放たれる黒き力の気配がなくとも、その場所が一体どこであるのか、鍾離は既に分かっていた。
     辿り着く。そこに在るは黄金屋、立ちはだかるは愛しき子。スネージナヤに帰らねばならないという彼を璃月港で見送ってから数年。では達者で。うん、先生も。そんな短い別れの挨拶を最後に久しく顔を合わせることもなかったが。あの頃と寸分違わぬ愛らしい微笑で、あの頃とは比にならぬほどに強大かつ禍々しき力を我が物として、彼、タルタリヤは黄金屋の前で鍾離のことを待っていた。
     やあ、鍾離先生。久しぶりだね、待ってたよ。早速だけど、し合おうか。
     時間が惜しいとばかりに、目が合った瞬間に鋭く研がれた殺意を向けられた。言葉など刃を交えながらでもかわせるからと、彼はその身に黒々とした力を纏わせながらそう言った。ピリリと肌が痛んだ。途轍もなく嫌な感じがした。神々の住まう天空とは正反対に位置する深淵。その力は七神の一柱たる風神バルバトスをも毒し、苦しめたほど。どうやらそれを恣に操れるらしい今のタルタリヤは、鍾離にとって最大の天敵だと言えた。
     タルタリヤが落とした黒き力を纏った巨大な稲光。それを端緒として起こった炎と煙はすべて漏れなく深淵の力を帯びていた。燃え盛る炎に晒され、呼吸する度取り込む空気に混じる煙に身を冒され、タルタリヤと刃を交えるまでもなく、凡人として造った鍾離の体は既に満身創痍だった。堪らずに咳込んで血を吐き、生理の涙をもその目に滲ませてしまうほど。

    「苦しいの?深淵の力は鍾離先生には猛毒だものね」
     鍾離の傍まで、炎と煙の中をゆっくりとした足取りで歩み寄ってきたタルタリヤは、鍾離の唇へ彼のそれをそっと重ねた。そして鍾離の口端に残る血をちろりと覗かせた舌で舐め取り、頬を滑った涙の痕を優しく指先でするする撫でる。そしてとろと青を潤ませ、満身創痍な体とは不似合いに尚も力強く在り続ける黄金色を、ひどくいとおしげに見つめていた。彼は微笑む。
    「でも良かったよ。あんたの目はまだ、全然死んでないみたいだから」
    「可愛げがないだろう。済まないな」
    「あはは。いいよ。先生に可愛げなんて求めてないから。……あんたはそれがいいんだ。それでこそ鍾離先生だからね」
     もう一度唇を重ねて。すぐに離し、タルタリヤは鍾離の黄金色をもう数秒ばかり、じっと見つめていた。己の青に映る金を永遠に、その胸に刻みつけようとするかのようだった。
     目が伏せられる。ほんの少しだけ、鍾離の目には彼の青が名残惜しそうに見えていた。
    「さて、どうする?早く神の力を振るってくれなきゃ、先生のこと殺してしまうよ?簡単に殺せてしまうよ?」
     パシャンッ。タルタリヤの周囲を楽しげに泳いでいた小さき水の鯨が、中空に潜りその姿を消した。彼の腰には既に神の目はなかった。それでも尚付き従う彼の生命そのものであるあの鯨は、今は深淵の力を元とする水元素によって構成されているらしかった。……黒き力はタルタリヤの奥深いところにまで入り込み、根付いているのだと窺い知れる。
    「……珍しく急いているな、公子殿」
    「ファトゥス第十一位、公子タルタリヤは既に俺の名前じゃない……と言いたいところなんだけど、先生にそう呼ばれるのは好きだから、まあそのままでもいいかな」
    「話を逸らすな。今まで何の便りを寄越すこともせず、顔を見せに来ることもなかったというのに、何故今になって突然璃月の地を訪れた?お前の目的は何だ。らしくもなく急いている理由も屹度そこにあるのだろう」
    「先生って本当に神様ばけものなんだね。今もその体を毒が回り続けているだろうに、そんな平気な顔して喋ることができているんだから」
    「……ふむ。そう言われればそうだな。どうやら少し慣れてきたようだ」
    「慣れてきたって……ふふっ、あははっ。先生は面白いね。そういうところ、大好きだよ」
    「む。それは……いや、待て公子殿。だから話を逸らすなと、」
    「目的ならもう言った。あんたと殺し合いをしに来た、ただそれだけだ。……俺の望みはもう、本当にそれきりなんだよ」
     鍾離と目を合わせず、タルタリヤは静かな声色でそう言った。彼は一体、誰に向かってそう主張していたのか。
    「……」
    「さて。それだけお喋りができるんだ。動けるんだろ?なら武器を取れ」
    「……」
    「一方的に嬲り殺すような闘いはもう飽きた。そもそも趣味じゃないんだ。俺がしたいのは殺しじゃなくて、殺し合いだからね。……鍾離先生相手なら、屹度それができるはずなんだ」
    「俺は、たとえ何があろうと人の子を殺めぬことを固く心に決めている」
    「殺してくれなくて結構だよ。勝つのは俺で、死ぬのは先生だからね。俺はただ、殺すつもりで対峙してくれと言っているんだ」
    「……いいだろう。そもそも今のお前が相手では、そのつもりで掛からねばこちらが飲まれ兼ねないからな」
    「ふふ。先生にそこまで言ってもらえるなんて、嬉しいよ。……俺も少しは強くなれたということかな」
     ああ。お前は強くなった。深淵の力を手にしていながらそれに侵されることなく、我を忘れることもなく、確かにお前という人間のままでここに立つことができているのだから。深淵の闇をも支配下に置くその精神力、驚嘆に値する。
     言ってやりたかったが、鍾離は口を噤まざるを得なかった。漂う空気が一層重苦しさを増したのだ。原因は紛れもなくタルタリヤだった。その周りをバチバチと爆ぜる雷がその烈しさを増している。彼は既に邪眼も手放しているようだったが、それでも今の彼の有様はあの魔王武装を彷彿とさせた。仮面は被っておらず姿形も平常時の彼のままだったが、それでもその迫力と禍々しさは魔王武装のそれに勝るとも劣らない。
     彼が高く手を翳す。呼応して黒き雷槍が生み出された。それを確と掴み握り締め、振るって彼は中空を切る。その風圧で、動きひとつで、璃月の大地を焼いていた炎すべてが一瞬にして消火された。あちらこちらで高く煙が立っているが、それも直に消えるだろう。
     驚きに目を見開いた鍾離を見、タルタリヤは柔らかく微笑を浮かべた。徐に口を開く。
    「璃月を焼いたのは、あんたを俺の元へ誘き出すためだったから。酷いことしてごめんね。でも安心して、先生。これ以上璃月を燃やすつもりはないよ。逃げた民たちに危害を加えることもしない。……だからね」
    「だからもう、今は脇目なんて振らずにただ俺だけを見て。俺のことだけを考えていて。どうかお願い」
     微笑んだまま切なる願いを口にして、けれどタルタリヤは鍾離の返事を待つことをせず、振るった雷槍を肩に担いだ。
     同時に笑みの種類が変わった。そこにはもはや柔らかさなど影もない。光ない青目を彼の愛して止まぬ戦闘のために狂気に染め上げ、口端を愉快げに吊り上げて。彼は久方振りにまみえた強敵を前に嬉々としているようだった。開かれた笑みを象る唇が、唄うようにして言葉を紡ぐ。
    「せっかくのチャンスだ。本気を出して俺を楽しませてくれ。投降の選択はさせないよ、俺は鍾離先生に優しくするつもりなんてないからね。……俺たちの殺し合いは、どちらかが死ぬまで続くんだ」
     だが何のことはない。この笑い顔こそ、幾度となく見てきた愛らしく、そして彼らしい表情なのだから。
    「……お前を死なせなどするものか」
     誰に言うでもなく呟いて。鍾離は己が覚悟と信念とを改めて確かめるべく目を閉じ、そして開いた。

     そうして狂気に染まった青と対峙する黄金色は、一際力強い輝きを帯びていた。

    ―――

     一歩、二歩、三歩。軽やかな足取りで踊るように前進を。一振り、二振り、三振り。しかし振るう双剣には重々しく剛力を。張られた淡く金色を帯びるシールドにわざと斬撃を弾かせ、跳ねた武器を空中で一回転させその勢いを活かして先の一振りよりも一層強い一撃へ。攻撃を防がれる度、繰り出すそれの力強さを増幅させて。過去に幾度となく歯痒さを思わされた玉璋シールドの性能さえ我が物顔で利用して見せ、握った双つの雷刃で、タルタリヤは確実に鍾離を追い詰めていく。けれど見据えた先の彼の顔に焦りは少しも見られない。固く引き結ばれた唇は息継ぎに開かれることもなく、整った眉とて微動だにせず、黒々とした睫毛に飾られた黄金がただ凛然としてそこに在る。……そう。あんたのその顔が好きなんだ。たとえいかな窮地に追いやられようとも決して高潔さを失わぬその美しきかんばせが。そして好きだからこそ、俺はそれをこの手で屈辱一色に染め上げ歪ませたい。……思えども本心を口にすることはせず。どういうわけかシールドを張るだけで未だに武器をその手に取ることもしない鍾離に、わざとらしく「反撃に移る余裕もないの」と煽り文句を口にして。嗚呼、似たような台詞を前にもあんたに言ったことがあったかな、なんて過ぎた日を懐古する余裕すら今の俺にはあるんだよ。いつかの日とどこか似たような状況だけど、あの頃とはもう、何もかもが違うんだ。
    「相変わらずの巌が如き堅牢さ!そして耐久力!その綺麗な金色に時には包まれ時には刃を浴びせてきたからこそ分かる、鍾離先生のそのシールドは紛れもなく最強だ。あんたの隣に立てば勝利への確信を、そして正面から対峙すれば無二の高揚を与えてくれた。……懐かしいねぇ、この感覚!ぞくぞくするよ」
    「……本当によく回る舌だな」
    「待望の鍾離先生だからね。昂奮しているんだ」
     だが昂奮すれども冷静さを忘れることはなく。もう一振り、二振り。淡い金色目掛けて斬撃を仕掛け、なるほどこれならいけるかなと両目を細めて握った武器を双剣から一条の雷槍へ。
    「……けれど、ねえ先生。殺す気で相手をしてくれるんじゃなかったの?悪いけど、守勢に立ってばかりじゃあ今までの無象無象との退屈極まりない戦闘と大差ないよ。……鍾離先生の力はこんなもんじゃないよね?あんたは俺に一方的に殺られるような可哀想な子羊って柄じゃない」
     言いながら、タルタリヤは握った雷槍を高く振り上げる。
    「まだ調子が出ないだけなんだろ?なら俺が強引にでもその気にさせる。……その綺麗な金色、俺がこの手で壊してあげよう」
     小細工など何もしない。ただ掲げた槍の鋒を鍾離の澄ました顔面目掛けて渾身の力で振り下ろすだけ。
     さあ壊れろ。俺の手に壊されろ。細めた目を限界まで見開いて、端を吊り上げさせた唇はまるで満ちることを忘れた月のよう。
     鋒はもう弾かせない。防がせない。バチ、バチと鳴る音は矛の歓喜か盾の悲鳴か。振り下ろす雷槍で淡く金色に色づく堅牢なシールドを、思い切り良く突き通しそして貫く。すると金色はパキと音を立てて罅割れた。瞬く間に亀裂が拡がる。ピキ、ビキと続く悲鳴の連鎖が耳にイイ。ここでほんの少しばかりスローモーション。金色のシールドは壊れて砕け、淡い輝きを帯びた破片がパラパラ、キラキラ。嗚呼なんて綺麗なんだろう。思えば世界は急加速。力の任せるままに振り下ろした鋒は狙い定めた鍾離の眉間を突き、穿ち、彼の頭蓋を粉々に――

     砕くことなく、槍の先端は彼の眉間の薄皮一枚に触れてぴたり。止まった。ゼロ距離だ。もうあと一ミリでも握った武器を下へ沈めてやれば、屹度そこから造り物の血がこぼれ出す。鍾離先生のお綺麗な顔に傷がつくところ?うわ。見たい、見たい、見たい。でも進まない。これ以上進められない。
     鋒が鍾離の頭蓋を砕いてしまう寸前に、彼は己の顔面目掛けて振り下ろされた槍の柄をその手でガシと掴んだ。腕一本で、タルタリヤが籠めてやった渾身の力の勢いを完全に殺してしまう。それならば次の攻撃へ。移ろうにも、鍾離の手に捕まれた槍はもう、押そうが引こうがびくともしない。……本当、堪らないよね。
    「昂奮したお前の動きはあまりにも読み易い。たとえ護りを突破されたのだとしても、眼前に来るだろうと予測できた攻撃を防ぐのはひどく簡単なことだ。武器を双剣から槍に持ち替えたまでは正解だろうが、お前は俺の死角を狙うか隙を突くべきだった」
    「……あっは!」
     一体あんたのどこに死角や隙があるっていうんだ。それを見つけられない俺はまだ力不足だと、暗に教えてくれたということかな。
     漏れ出る笑みを禁じない。ははは、と笑い声を継ぎ、けれどすぐにそれを掻き消す。
    「頭蓋骨真っ二つにしてやるつもりだったんだけど、まさか片手で受け止められるとは思わなかった。さすがだね」
     うっとりと陶酔を浮かべて見せる。けれど攻撃の手を緩めるつもりは微塵もない。未だびくともしない雷槍につうと指を滑らせ、視線を柄を握ったままの鍾離の綺麗な手へ向けた。吐いた血を受け止め濡れた手袋は既に脱ぎ去られた後。晒された彼の素手は相も変わらず傷の一つもありはしない。……笑みを深めた。お誂え向き。
    「でも、先生にしては少し迂闊じゃない?……それ、ずっと触ってるとまずいかもしれないよ」
    「っ!」
    「ふっ、ふふはは……」
    「ぐ、」
    「あはっ、あははははは……!!」
     浮かべた陶酔を今度は狂気へと変換。笑みを象った唇で紡ぐ警告に、今更手を離したってもう遅い。俺の指先から槍の柄を伝って鍾離先生の手へ、そしてその体の奥深くまで。注いだ深淵の力が与える苦痛は炎や煙のそれの比ではないはず。
     呻き、黄金色の瞳を見開いて、がくんと片膝まで折った鍾離を眼下に見下ろす。その光景が齎す愉悦のなんと甘美なこと!引き結ばれていた唇だって薄く開かれ、その端にはまた血が伝い――
     目を細めた。少し違和感。先刻彼が吐いていた血はもっと赤黒い色をしてはいなかったか。それが今は目に鮮やかなほどに明度を上げた、いっそ朱にも似た色をしている。
     気のせいではないだろう。だが考えても分からぬことにあれこれ時間を割いている暇はない。頭の隅に僅かにしこりは残るが、それでも構わず言葉を紡ぐ。
    「シールドで遊んでもらいながら俺の体内ナカでこっそり作ってたんだ、それ。鍾離先生のためだけに。……俺からの置き土産、存分に味わって。時間が経てば経つほどヨくなれると思うから」
     凄艶に微笑みながら言う。こちらを睨み上げる鋭い視線が心地よかった。やはり強者の歪んだ顔とは昂るものだ。思うと同時にまだ足りないからもっと見たいと欲望が顔を覗かせる。ふと、気づいた。
     あ、そっか、とタルタリヤの口からそんな言葉が溢れ落ちた。そう音にした声色は、まるで子供のそれの如く無邪気さを帯びていた。
    「隙って見つけるんじゃなくて作るものだよね。……ふふ。折角隙を突けと教えてくれたんだ、試してみようか」
    「……」
     既にシールドを張る気力はないだろう。武器を掴んでいた手も毒を媒介するための器官に成り果て、崩れた鍾離とともにずるりと地に落ちた。いくら彼が神様ばけものとはいえ、しばらくは指先のひとつさえ満足に動かせないはず。ならばもう遮るものなど何もない。今この瞬間が彼に止めを刺す絶好のチャンスだ。
     武器を再び双剣へと切り替え、一方は消失させもう一方だけを硬く握りしめた。空いた方の手で己の首をとんと叩いて指し示し、剣の刃先で空中を一閃する。そうしてこれからあんたの首を落とすと暗に伝えてやり、タルタリヤは眉尻を下げた。昂奮が静かに凪いでいく。

     嗚呼。これで終わってしまうのかな。とても楽しかったけど、存外呆気ない。でも仕方ないよね。深淵の力は神を殺すことができる代物で、それを操る今の俺は鍾離先生にとって天敵だったんだから。本当はもっとし合っていたかったけど、でも、俺のタイムリミットだってもうすぐそこまで迫ってる。鍾離先生のシールドを破壊できて、致死量のをその身に注いでもやれたし、膝をつかせて、それに首まで落とすことができるんだから、これでいいんだ。――屹度これこそ、俺とあんたの最高の幕引き。相応しいバッドエンド。そうだろう?

    「鍾離先生、愛してるよ」

     最期にもう一度、会えて良かった。
     彼の耳に拾われてしまわぬよう、小さく小さくそう囁いた。そして一思いに刃を振るう。
     何の抵抗もなく刃先が空を切っていく。鍾離先生の首に辿り着き、それを刎ねる感触は一体どんなものだろう。かたいのだろうか。やわらかいのだろうか。嗚呼。そんなこと、考える必要もない。だってそれを味わう瞬間はもうすぐそこまで迫っているから――

     キンッ、と澄んだ音がする。
     かたい。固い感触が握った武器を伝って己の手まで。バチッ。遅れて散った火花が目に眩しい。それは凡そ人の首を刎ねた時に起こる現象ではない。ぱちぱち。目を瞬いた。
     刃を首に受け止めて尚、鍾離の頭は在るべき場所に確と在る。タルタリヤは恐る恐る、刀身と彼の首との接する箇所に視線を遣った。

     ひゅう。息を呑む。己が目を疑った。彼の首筋から、頬に掛けて。淡く金色に色づき蜘蛛の巣状に拡がるコレは罅?否、蜘蛛の巣や罅と表するにはあまりにもひとひらひとひらが規則正しく、細かいか。……では、これは一体。

    「あ」

     思い至り、そうして無意識に溢れてしまった音を合図に、脱力し俯けられていた彼の頭がゆるり、重々しく持ち上げられる。
     頭を過ったのは黄金屋内部に位置するあの玉座。そこにかつて鎮座していた岩王帝君の死体かわ
     その中身は今、確かに此処に。

    「鱗」
     龍の鱗。

     譫言のように呟いて。途端、応えるようにぎょろとこちらを向いた片方の黄金色の眼球に、覚えたものは血の気が引くような戦慄が唯一。

     ――幕を引くのはまだ早い。まだ終わらない。当たり前だ。どうして「これで終わってしまう」などと、「呆気ない」などと思えたのだろう。浅慮にも程がある。だって相手は鍾離先生だ。あの鍾離先生なんだから。……この程度で終わらせてくれるわけがないんだ。

    ―――

     首筋から頬に掛けて、人の肌から龍の鱗へと様相を変えた鍾離のそこが、ずずと黒く染められていく。それは少しずつ、じわりじわりと肌と鱗との境をも越えて、およそ鍾離の顔の半分近くを墨色に染め上げようやく止まった。唇が緩やかな曲線を描く。薄く開かれたそこから、ふっと漏らされる微笑を聞いた。なかなか悪くない味だ。言った彼の口端から、とろりと金色の液体が伝って落ちた。タルタリヤがひくと肩を揺らせば、彼はまたそれを微笑った。拍子に今度は結膜が黒に染まった片目から、どろどろと金色が溢れ出る。タルタリヤはぎょっとして咄嗟に武装を解き、手を引いた。するとすかさず伸びてきた彼のそれに腕をガシと掴まれる。また息を呑み掴まれた箇所を見てみれば、注いだ毒を媒介させた彼の手も、当然の如く指先までしっかり真黒に染まっているのだ。
    「逃げるな」
    「っ、」
    「お前に聞かねばならないことがある」
    「……な、に?」
    「何故深淵を受け入れた」
    「は?」
    「神に認められその目を授けられた身でありながら、何故深淵の呼び声になど応えたのかと、そう聞いた」
    「……嗚呼、最悪。やっぱりあんた、モラクスか」
     ひどく上から目線な物言いにむっとした。
     首筋から頬までを覆った龍の鱗に、瞳孔の縦に伸びた眼光鋭き片方の目。深淵の毒に冒され黒く変色し、金色の液体を目から口から、赤い血の代わりに流すおどろおどろしいその半身はとても人のそれとは思えぬ見た目をしている。だが彼の身体の未だ毒の回らぬらしいもう半分に目を向けてみれば、それはタルタリヤが璃月を拠点としていた頃に何度となく見てきた鍾離というひとの姿そのものなのだ。では、はて。今の彼は一体なのか。最期に言葉を交わすのはどうか己の愛した先生であってくれといっそ祈るような気持ちでいたというのに、しかし現実とは残酷なものであるらしい。
     『神に認められ、その目を授けられた身でありながら、何故深淵の呼び声になど応えたのか』。問われ、タルタリヤは確信した。神こそ至高であると無意識に言動し、体現してしまう支配者然としたこの有様は正しく神様モラクスの在り方であると。
     鍾離として振る舞う時の彼にそういうきらいが全くなかったのかと聞かれればけしてそんなことはなく、むしろ彼とて神の傲慢をそのまま体現したような男ではあったのだが。それでも彼は、鍾離というひとは少なくとも、下手くそながらも凡人で在ろうとしてはいたはずで。ほとんど全く凡人になれてなどいなかったが、それでもタルタリヤは彼のそんな不器用さが好きだった。滑稽さが好きだった。――けれどモラクスは違うのだ。彼は凡人で在ろうとはしていない。モラクスとして振る舞う時の彼は、もう、完璧であるから。凡人らしさとは果たして何であろうとほんの少しだって考えぬ、考えそのものすら持たぬ、正真正銘の魔神かみであるから。人の真似事をしようとも思わぬ故に、モラクスは鍾離よりも一層傲慢であり、そして堅い。つけ入る隙などどこにもなく、不器用さや滑稽さのひとつも見せぬその完璧な有様が、タルタリヤはどうにも気に入らないのだ。
    「どのような姿形であれ生命の本質が変わることはなく、それは俺とて例外ではない。だから俺は常にモラクスであると同時に鍾離でもあるわけだが、お前の中にそれらの明確な線引きがあると言うのならば好きに思え」
     彼はタルタリヤの胸中など知るはずもないのだろうが、それにしても本当に容赦ないことを言う。くっと眉間に皺を寄せた。
     そう、生命の本質は変わらない。鍾離とモラクスとの間に勝手に境界線を設け、区別したとして意味がないということくらい、分かっている。だって彼もひとつの生命と心しか持たぬ、一個の生き物に他ならないのだから。本当は己が嫌いだと思う在り方をも引っくるめた、『彼』という存在すべてを愛することができれば良いのだろうが。それでも『彼』のすべてを愛してしまうには、タルタリヤがモラクスかみさまに対して抱く不信感があまりにも大き過ぎるから。
    「……言われなくても好きに思うさ。今のあんたは俺の大嫌いな神様だ」
     大嫌いを強調して言えば、モラクスはすっと両の目を細めた。タルタリヤの目には、白目の残った方の黄金色は愉快げな笑みを、そして結膜の黒く染まった方の黄金色は嘲りと憐れみの混じった笑みを、それぞれ象っているように見えた。
    「さて。たとえお前が俺をどう思っていようと俺の成すべきことは変わらず、先に投げた問いが取り下げられることもない。答えろ」
    「どうして深淵を受け入れたか、だね?簡単に言ってしまえば、強くなりたかったからかな」
    「……神の目ではお前の欲を満たすには力不足だったと言うわけか」
    「へえ。一応神の力及ばずって考え方をすることはできるんだ。……でもまあ別に、神の目の力よりも深淵に与えられたそれの方が強かったとか、そういう問題じゃあないんだよ」
    「では何故」
     タルタリヤはふっと意地の悪い笑みを浮かべて見せた。モラクスがどうしてこんな問い掛けをするのか、その意図は解り兼ねる。だが、なんとなく彼は、タルタリヤが「何故深淵を受け入れたか」ということの理由よりも、「何故神を受け入れようとしないのか」ということの理由の方を知りたがっているように思えた。
     要は深淵に対する醜い嫉妬ということではなかろうか。達がお前に視線を浴びせて神の目を与え、いずれ神に成り得る資格者として選んでやったというのに、お前は何故その手を取ることをせず、よりにもよって深淵の呼び声になど応じてしまったのか、と。……だとするのならばこんなにも面白いことはない。神がそんな感情を抱くことがあるのかどうかは知らないが、あるのならばいかにも神達彼等らしい上から目線の嫉妬心だ。
    「神様が嫌いだから……と言うのも勿論その通りなんだけど、でも、そうだね。もっと決定的な理由を挙げるとするならば」
     たっぷり、焦ったいほどの間を置く。タルタリヤはすっと両目を細め、緩やかに曲線を描かせた唇をゆっくり、開いた。

    「俺の目には、深淵の世界こそ魅力的に映ったというだけのことだ」

     すう、と静かに息を呑む音を聞いた。相槌や返事はない。構わず続ける。
    「幼い頃の話。俺は平凡な毎日から抜け出したかった。そして強くなりたかったんだ。ただ純粋に、誰にも負けないくらい強くなりたかった」
     彼の表情は変わらない。
    「そしたらね、俺は気づいた時にはもう深淵に落ちていた。そして落ちた先の世界に無限の可能性を見た。ただただ素晴らしいと思った」
     黒に冒された片目だけが微かに揺れた。
    「神の目を手にしたのはその後だよ。分かるかい、神様モラクス。俺は天空から注がれる視線を身に浴びるより以前に、既に深淵からの手招きに応えていたんだ。俺の強くなりたいという願いに対し、先に闘争心という名の力を俺から呼び起こしたのは深淵で、そして俺は子供ながらにそれを受け入れていた」
     両方の黄金色が鋭さを増す。
    「その後上から無理やり押し付けられたのが神の目だよ。別に欲しいと思ったわけじゃなかった。まあ、それなりに使えるから利用してやってはいたけれどね」
     肩を竦めて言ってやる。こちらを見据える視線はいつだって変わらず力強い。
    「とにかく、先に俺を魅了したのは天空ではなく、深淵だった。……ただ素晴らしいと感じたから。俺が深淵を受け入れた理由なんて、それだけで充分だと思わないかい?」
     にこりと浮かべてみせた笑顔は、彼の目にはどう映っていたのだろう。閉じられていた唇が微かに開かれたように見えたのは、何か言葉を紡ごうとしたからか、あるいは笑みを漏らした故か。
    「だからね。あんたには悪いけど、俺は神の棲まう世界、天空の島に迎えられることに対して然したる興味はないんだよ。というより、糞食らえとさえ思うかな。敵として乗り込んで行ってそこにいる全員の鼻面を圧し折ってやりたいと思うくらいでさ」
     言いながら予備動作なく、握った拳をモラクスの顔面目掛けて思い切り突き出した。試しに一発、神様を殴ってやろうと思ったんだ。
    「あはっ」
     ガッ、と鈍い音がし、握った拳にじんとした痺れが走る。拳がモラクスの鼻尖に触れる寸前、張られたらしい薄く小さなシールドが砕けてパラパラと落ち、やがて金色の塵となって消えてゆく。目を細めた。
    「神になんてなりたくないよ。この手で君を導いてあげるだなんて、そんな傲慢を高座から、当たり前に人に吐いてしまえる生き物にはなりたくない」
    「……」
    「……ねえ。俺が憎い?折角神になる資格を授けてやったのに、それを蹴るとはなんて無礼で愚かな奴なんだ、って」
     吹き過ぎる風に乗り金色の塵がすべて消え去るのを見届けてから、タルタリヤはそのまま目を合わせずにモラクスに問い掛けた。
     ふっと微笑の音を聞く。

    「いいや。お前はいつであっても愛らしい」

     その言葉は、まるで壊れ物を包むかのように優しい声色で紡がれた。咄嗟に顔を上げる。は、と口したはずの声は音にならない。モラクスと、それから鍾離と。『彼』の双つの黄金色が柔らかな笑みを象っている。それはどちらの――考え掛けて、かぶりを振った。境界線を設けることに意味などないのだ。彼はモラクスであると同時に鍾離でもある。向けられる優しい言葉と柔らかな微笑は神の慈愛に他ならず、また同時に不器用で滑稽なただの愛であることにも違いはないのだろうから。
     胸に去来した複雑な感情をやり過ごすべく、タルタリヤは両手をきつく握り締めた。どうしようもなく嫌いなのに、どうしようもなく好きだった。

    「俺が憎いと思う相手がいるとするならばそれは、お前の中に巣食い、内側からその心を喰らう瞬間を今か今かと待つのことなのだろうな」
     笑みを消した彼は握り締められたタルタリヤの拳を一瞥した。そしてこちらへ向かって黒く染まった手を伸ばし、それでタルタリヤの腹部に触れる。
    「憎いというより、単に目障りだというだけではあるが」
     ゆるゆると腹部を撫でる手は払えなかった。体が硬直してしまって動かないのだ。固まった体は彼の手に怯えているみたいだった。
     腹部を撫でていた手が離れてゆく。強張りの解けた体がふうとひとつ息を吐く。
    「深淵の力は神のそれとは正反対の代物だ。故にの身体が拒絶を示し即座に侵食が目に見える形で表れたのは必然。が神を屠るに最も適した力であることは疑いようもない」
    「……」
    「だが、ではだからといって神以外の生き物を蝕むことがないのかと言えば、そうではない。……時には神をも凌駕する深淵の力。それを受け止め扱い続けるには、人の器はあまりにも脆過ぎる」
    「……」
    「そして如何に強靭な精神を持っていたとしても、お前の体は所詮人間のそれだ。……お前がらしくもなく急いていた理由はきっと、その身の限界を感じていたからなのだろう」
    「……なんだ」
    「己の死期を悟り、お前は最期に俺に会いに来てくれたのだな」
    「気づいてたんだ」
     まあ、置き土産とか、言ってしまっていたものね。眉尻を下げ笑って言えば、彼もまた応えるようにふっと微笑った。
     そしてしばらく。ざあと風の吹き過ぎる音を耳に感じていれば唐突に、そこへ苦しげな呻き声が混じった。ゔ、と低く漏らされたその声の主へ目を向ければ、口を手で覆い腰を折って苦しんでいるらしい彼の姿が目に入った。タルタリヤは微かに目を開き言葉を掛けようとして、しかしそれより先に彼が口を開く。
    「嗚呼……。丁度いい頃合いだ」
     黒に侵されていない方の顳顬につうと一筋汗を伝わせ、その顔色はもはや死人のそれのように真っ青で。
    「お前の注いでくれたがあまりにも重くて、深くて、もう、痛みが酷い。……苦しいな」
     しかし言葉とは裏腹、彼は強く輝きを失わぬ黄金色を三日月型に細め、陶然としているように見えた。はは、と戦慄く唇から小さく零れ落ちた笑い声も、きっと聞き間違いではなかったはずだ。

     彼はタルタリヤへと手を伸ばす。伸ばされたのはとても人のそれとは思えぬほどに血の気を失ってはいたが、それでもまだ、ちゃんと人の肌の色をしている方の手だった。感触で頬を包まれたのだと分かるが、そこに温度は感じなかった。
    「さあ。お前が手にしたものが一体どのような力であったのか。鍾離という凡人の体を鏡として見て思い知るといい」
    「そんな、こと、既に理解しているという意味でも、もう手遅れだという意味でも、何もかもが今更だ」
    「今更ではない。これから俺がお前の過ちを正し、そして在るべき姿へと戻すのだから。……それにこれは、への牽制の意味も兼ねている」
     瞳孔の縦に伸びた片方の黄金色が、黒く変色した結膜の中でこちらをじっと見詰めている。目を逸らせなかった。黄金色これに宿る独特の力強さと輝きは覚悟や信念故と言えば聞こえはいいのだろうが、いっそ執念の顕れのようでもあるなと、タルタリヤは漠然とそんなことを思った。
    「だから今はただ見ていろ。二度と深淵の力を受け入れるなどという間違いを犯さずに済むように」
    「……まだそういう言い方をするの?ねえ。俺の話を聞いてた?過ちだとか間違いだとか、言われるのは癪だよ。俺は俺の意志にのみ従って生きている。それが誤りだったかどうか、判断することを許しているのは自分自身だけだ」
    「たとえそうだとしても、心を喰われてしまっては元も子もないだろう。そうなればお前の意志は容易に捻じ曲げられる」
    「もうすぐ死んでしまう人間の心を喰うも喰わないもないだろ?」
    「そのまま死なせてもらえるのならな」
    「……それ、どういう」
     意味?

     声は音にならなかった。
     びしゃり。突然彼が明るい朱色の血を吐いたのだ。それを皮切りに、まるで堰を切ったかのように彼の唇からごぽりごぽりと血が零されてゆく。ぜえぜえと大きく肩を揺らし荒く繰り返される呼吸に縋り付き、息を吸う度に水音の絡んだ咳を伴わせては新たな血を吐いている。
    「せ、せんせ……?」
     いつの間にか彼の半身が、龍を彷彿とさせる見目ではなくなっていた。首筋から頬までの鱗は消え、瞳孔の縦に伸びた瞳も元通り。ただその身を染めた黒だけが未だに彼に在り続けていて、それはじわりじわりと残った方の半分にも侵食を進め始めていた。
     ドッ、ドッ、とタルタリヤの心臓は煩いくらいに鳴っていた。
    「公子、どの」
    「っ、」
    「ひどい顔をしている」
    「ぁ、」
    「心配せずとも」
     ふわり、微笑んだ鍾離の目端から、どろり、赤黒い血が溢れ出す。ごぽと彼の体内で鳴った音の後、新たに吐き出された血も赤黒い色をしていた。
    「苦しみは一瞬だ」
     鍾離のその言葉と同時、タルタリヤは己の目端から頬までを、生温い感触が伝うのを感じた。何かと思って手を触れてみれば、そこで指がぬると滑った。
     ――そうか、こちらも始まったのか。思いながら頬に触れた手を見てみれば、やはり指先が己の血で赤く染まっていた。
    「……ッ、ゔ、」
    「もう直に微睡がくる。そのまま、眠ってしまっていい」
     鍾離の言葉を聞きながら、タルタリヤは感じたひどい嘔吐感に抗う術もなく吐血した。目端に滲む生理の涙も赤かった。何度も何度も咳き込みながら、目と口から血を溢し続けた。そのうちがくんと両膝が折れ、血の染み込んだ地面に崩れ落ちた。
     体の奥深くで深淵の力が猛威を振るっているのだ。今までも何度か発作的にこういう現象が起こっていたが、今回はこれまでの比ではないくらいに苦しかった。氷神の命令の下、一個の兵器として魔王武装をほとんど濫用するようにして使っていたあの頃よりも、もっとずっと苦しいと思った。
    「案ずるな、お前を死なせはしない。すぐに奪いにいくから、待っていろ」
     また手を伸ばされる。けれどそれはもう、人のそれの形を成してはいなかった。指先から爛れ、どろどろに溶けてしまっているらしいそれからは、金色の液体が滴っていた。
     朱色の血を吐いたり。赤黒い血を吐いたり。金色の液体を零したり。もう、彼の中もめちゃくちゃになってしまっているのだろうなと思った。
     俺の注いだで鍾離先生をそんなにできたことを嬉しく思わないでもないけれど、でも、二人してこんな有様ではあまりにも格好がつかないなと、体を満足に動かすことができるのだとすれば大笑いしてやっていたところだ。
     伸ばされた手だったものに導かれるように、タルタリヤはゆるりと頭を上げた。目に映った彼はもう、人なのか神なのか、はたまた本物の化け物とやらなのか、よく分からない見た目をしていた。けれど双つの黄金色だけはけして揺らぐことなく確とそこに在ったから、ああこれは鍾離先生に違いないのだろうなと、そう思うことができた。……本当に、それくらい訳の分からない見た目をしていたんだ。
    「夢から覚め次にその目を開く時、公子殿を待っているのは、お前が璃月にいた頃と同じあの日常だ。……目覚めたら、また一緒に食事にでも行こうか」

     とぽん。不意にこの場には不似合いな、そんな可愛らしい音が鳴った。すると徐々に瞼が落ちてきて、暗く翳っていく世界にはもう、鍾離先生だった何かの姿はなくなっていた。

     ……置いていきやがったな。
     ぼそり。ぼやいた言葉はきっと音にはなっていない。

     タルタリヤはそっと目を閉じた。崩れ落ちたその体の下を、とろとろと金色の液体が滑り込むようにして流れていった。

    ―――

     夢を見た。どこまで続いているのかもよく分からない真っ暗闇の空間で、その闇が小さな鯨に向かって語りかけている。……否、語りかけているというよりも、闇は鯨の反応などお構いなしに、矢継ぎ早にただ言葉の羅列を吐いている。そんな、訳の分からない気分の悪い夢だった。

    「素晴らしいッ!!」
     高いのか低いのか、よく分からない声で闇が発した第一声はそれだった。そこから継がれるすべての言葉を耳障りだと思うのに、でも、どうしてか鯨はその声に耳を傾けずにはいられなかった。
    「素晴らしい力ですね。よく殺ってくださいました。よくぞ憎き天理の手先を一匹殺してくださいました。やはり貴方は深淵にこそ在るべきお方。我々の目に狂いはなかった。嗚呼堕として良かった。堕ちてきてくれて良かった。途中、神の奴等に邪魔されて、少し心配だったのですが。ええ。貴方が我々を選んでくれて良かった。本当にヨカッタ。これからも貴方の働きに期待していますよ。その身を支配する黒々渦巻く甘美な野望を是非とも実現して見せてください。つまり、神をすべて殺してください。そうです、殺しなさい。良い子ですね。そう、ただ殺せ。ころせ。神を、ぜんぶ、みんな、コロセ。……えっ。誰のために?それは勿論、ふふ、貴方自身のためですヨ。だって強くなりたいのでしょ?それならばね、殺さなきゃ。そのための力はほら、もうその手の中にある。貴方は貴方の自由意志に従って、その力を操ることができるのです。はい。では、我々は貴方を神の殺し手としてここに迎えます。貴方も今日から仲間入り。深淵へようこそ。さて、貴方のお名前は?」
    「……」
    「……オナマエハ?」
     しん、と場が静まり返る。
    「あれ」
     少し間抜けな響き。おかしくて、鯨はくすくす笑った。
    「アレレ。おかしいですね。何かがオカシイ……」
     くすくす。もう一度笑えば、闇は一拍おいてから地を這うように低い声で言った。
    「――ああ。さてはオマエ、殺し損ったな」
     パシャンッ。びっくりした鯨はその場で跳ねた。暗闇には不釣り合いな澄んだ水の音をさせ、鯨は空中にその身を隠した。闇ははっとしてその声色を変える。
    「いえ!いいえ、いいのですよ。何事にも失敗は付き物です。大丈夫。きっとまたチャンスは訪れますよ。たとえ今消されてしまったとしても、我々は何度でも貴方の中に蘇る。そう。何度でも、なんどデモ、」

    「「何度でもナンドデモ」、この子の中に蘇ったとてその度に俺がお前達を殺す」

     凛とした響き。突然現れ闇の声を遮ったそれに、鯨の胸はドキドキと踊るように高鳴った。居ても立ってもいられず、鯨は自慢の角の生えた小さな頭だけをひょこり。空中から覗かせた。
     あ。岩神様。見覚えのある後ろ姿にすっかり安心した鯨はパシャンッ。またひとつ澄んだ水の音をさせ、空中で大きく跳ね上がった。
    「……アァ。コレハコレハシニゾコナイノイワノカミ。オヒサシブリデスネ。コンナトコロマデワザワザゴソクロウイタダイテ、ホントウニモウメザワリメザワリメザワリメ――ぎゃっ」
     真っ暗闇に眩く黄金色が輝いた。それきり、もう闇の声はしなくなった。
     くすくす。くすくす。笑いながら鯨は、岩神の周りを悠々と泳いで遊んだ。
    「全く。己と己の主とが喰われかけていたというのに、暢気なものだ」
     溜息と呆れ声。岩神様の専売特許。パシャンッ。鯨はまた空中を跳ねた。
    「さて」
     おや。何やら真剣そうな面持ち。岩神様、何か大事なお話でも?鯨は遊ぶのをやめ、彼と向き合う形でその眼前に留まった。双つの黄金色はいつ見ても気高く、綺麗な輝きを帯びている。
    「空鯨よ。夜空を泳ぐ星の子よ。お前にひとつ頼みがある」
     岩神様が頼み事?
    「そうだ。気づいているだろうが、どうやらあの子の大分奥深くまで、深淵が根を張っているらしくてな。だからお前には、ただ生きたいと願っていて欲しいんだ。生きて、お前の主と共に在りたいと。お前の主は原神だ。神になる資格を持つ者だ。彼の生命は天に属するべきであり、けして深淵に奪わせてはならぬもの。……天に生き、夜空を泳ぐお前はあの子の生命そのものだ。故にただお前が願うだけでいい。そうすれば天より祝福を受けし一個の貴き生命は在るべき場所へ還るだろう」
     開かれた薄い唇が紡いだ音に、鯨は応えるようにしてまた跳ねる。
     勿論、神様がそうしろというのならそうするけれど。でも、あの子はわたしと同じで自由だから、そしてとっても野心家だから。きっとまた岩神様の思う通りにはならないよ。
     くすくす。くすくす。鯨は笑いながら言う。
     導こうとするのもいいけれど。導いた先の世界であの子のすべてをその手に収めてしまおうと考えるのもいいけれど。でも、あんまり雁字搦めに縛っちゃだめだよ。縛っちゃ嫌だよ。
    「……ああ。肝に銘じておこう」
     くすくす。契約はしてくれないんだ。まあ、いいけどね。
     伝えれば、悪戯を咎めるような、戒めるような、そんな視線を向けられる。そこにはちゃんと優しさも宿っているけれど、でも、あらら。ちょっと怒らせちゃったかな。

     さあ岩神様のお小言が始まる前に退散退散。あの子もきっと、そろそろその目を覚ます頃。自分が生きていることを知ったら、そして自分の中の黒い力が綺麗さっぱりなくなっていることに気づいたら、あの子は一体どんな顔をするのかな。――とりあえず岩神様はあの子のご機嫌を取る方法をたくさん考えておいた方がいいかもね。

     ねえ、アヤックス。目を覚ましたら、次は何処へ行って何をしようか。君はもう氷神様の御足元に跪くことをやめてしまったし、実はちょっと息苦しかった深淵の力も岩神様が追い払ってくれたでしょ。岩神様はちょっとしばらく、いや、きっともうずっと君のことを放すつもりなんてないだろうけど、それはそれ。気にせず好きなことをやればいいと思うんだ。君がどんな未来を選んでも、わたしは君に従うよ。わたしは君の周りを自由に泳いでいる時間が何よりも大好きだからね。
     よし。そろそろこの夢を終わらせよう。いつの間にか岩神様もいなくなってしまっているし。きっと眠る君の傍でその寝顔を嬉しそうに眺めでもしているんだろう。……これから、楽しみだねアヤックス。わたしは久しぶりにわくわくしているよ。君に残された時間はけして長いとは言えないけれど、でも、その刹那を一等強く輝きながら生きてやればいいと思うんだ。君の意志で、君が思うように、君の好きなように、生きてやればいいと思うんだ。そして生き抜いた後は……うん。岩神様の神らしからぬお願いにも、ほんの少しだけでいいから耳を傾けてあげてよ。どうするかは君の自由だけれど。

     あ。もう目を覚ますんだね。

     ――おはよう、アヤックス。君は自由だ。今日は一体、何をしようか。

    (終)
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