シロップ「轟、交代。休憩入っていいって」
「あぁ、わかった」
いつの間にか隣に来ていた切島と場所を交代し、かき氷機の前を離れる。雲一つない青空と広い海、大勢の人の波を眺めながら、俺は羽織っている半袖パーカーの肩口で汗を拭った。
人材不足に陥った海水浴場の運営補佐と警備実習の場合、俺は大抵の場合かき氷のある屋台運営に駆り出される。個性柄、提供するぎりぎりまで氷が溶けないよう冷やしていられるのはもちろん、自分がカウンターにいると売り上げが大幅に伸びるらしい。理由はよくわからないが、それで大勢の人が喜んでくれるなら、断る理由も特にない。
「轟の分、シロップ何がいい?」
「え」
「休憩入るときに全員一つ食べていいって説明で言われたろ」
そうだったか。そうなんだろう。
大まかな業務内容を一通り聞いた後、他所を向いていたせいで最後の伝達を聞き漏らしたことを思い出す。その上、まさにそのとき視線の先にいた、飯田本人に嗜められたことも。
飯田は今日、警備担当だ。
「いちごがいい。飯田、どこら辺にいるか知ってるか」
「いちごね。委員長ならさっき裏でスーツ脱いでんの見たぜ」
「ありがとう。呼んでくるから、飯田の分も頼む」
「まじか。轟の分もう作っちまったけど。飯田のは後でつくるから、溶ける前に早く行ってこいよ」
「わかった」
半分赤く染まったかき氷が机の上に置かれるのを一瞥して、屋台の裏口から砂浜に駆け出す。前を開けているジップパーカーの裾が跳ねて、まるで今の自分の気持ちが表れているようだと思った。持ち場は離れちまったけど、一緒に休憩して、2人でかき氷を食べたい。冷たくて美味しいな、と笑う顔が見たい。飯田のことだし対策はきちんとしているだろうが、あのスーツだ。炎天下で暑い思いをしているだろうから、俺の右で少しでも冷やしてあげられたら。
飯田はすぐに見つかった。スーツはもう脱いでいて、支給されたTシャツと海パン、ビーチサンダルの姿で浜辺に立っていた。けれど、1人ではなかった。
隣には女子がいた。この海水浴場を管理している代表の娘さんで、今朝の実習内容の説明と確認の場にもいた。クラス代表である飯田は事前に何度かここに来て打ち合わせに参加していたからか、二人はすでに顔見知りだったようだ。A組全員の前で挨拶をした後、一瞬、飯田に笑いかけたのを覚えている。
そう。だから、つい飯田の顔を見てしまった。そして俺は怒られたのだ。どうしたんだ、説明をきちんと聞いていたかい?と。
呼ばれたのか、飯田は俺に気付かず女子のあとに着いて歩いていく。飯田、と名前を呼んで、かき氷があるから向こうで一緒に休憩しようと告げたいのに、言葉が出ない。そうしている間にも、二人の影はぐんぐん離れていってしまう。
焦った俺は、咄嗟に二人の後ろを追いかけた。フードを被り、海水浴客の人混みの中を掻き分けていく。友達を休憩に誘うつもりが、遠くに行ってしまったから追いかけているだけ。それだけだ。やましいことなんてなにもないはずなのに、何故だか、跡をつけているとバレたくなかった。サンダルで踏みしめる砂が、今まで以上に重く感じた。
二人は間も無くして、元いた場所から少し離れた比較的人の少ないところに座り込んだ。隠れる場所なんてどこにもないから、慌てて飯田の斜め後ろに座る。相手が俺の顔を覚えているかはわからないが、髪と火傷を見られればきっとバレてしまうだろうから、フードを深く被って顔を伏せ膝を抱えて。耳だけは二人の声に全力で集中させて。
そしてものの5分も経たないうちに、俺は走って逃げた。
「轟?」
「っ、はあ、はぁ」
汗だくで走ってきた俺を見て、切島がぽかんと口を開ける。暑さには耐性があるのに、暑くて熱くてたまらなかった。今さっき聞いた飯田の声が、言葉が、頭の中で繰り返し鳴り響いている。心臓がうるさくて、張り裂けそうだ。走ってきたからじゃない。飯田の、飯田が。
汗を拭いながらどうにか息を整えていると、机の上に置き去りにされていたいちご味のかき氷が目に入った。もうほとんど溶けていて、どろどろで、今の自分みたいだ。
「飯田は?呼びに行ったんじゃねえの?」
「行った、けど、逃げてきた」
「は?」
だって、逃げるしかなかった。あと少しでもあのままそばにいたら、大声をあげて飯田を呼んでしまいそうだったから。
立ち上がって走りはじめてから、後ろは一度も振り返らなかった。フードはいつの間にか外れていたし、足音を隠す余裕もなかったから、飯田にはバレてしまったかもしれない。バレていたら、きっと、今頃。
「轟くん!!」
大きな声で名前を呼ばれ、振り返る。視界に飛び込んできた飯田も、真っ赤で、汗まみれだった。
「君っ、君、さっき、聞いて」
「……悪い、ごめん」
ぶわり。眼鏡の奥できらめく飯田の赤い瞳から、ものすごい勢いで涙が溢れ出す。そして、溶けてシロップと混ざったかき氷みたいに、甘くとろりと俺を誘惑する。
「なんで、どうしてっ」
「好きだ、飯田。俺の初恋もお前だ、飯田」
へ?
飯田と切島の声が重なる。ドリンクを作っているパートのおばさんの「あらまあ」なんて声や、かき氷機の音、遠くではしゃいでいる人の声、波の音、鳥の鳴き声。いろんな音がするけれど、頭をぶんぶんと振ってそれらを追い出す。さっき聞いた言葉を、上書きされたくない。
『好きな人がいます。誰かを好きになるのは初めてで、気づいたのは最近なんですが……だから、すみません』
『……A組の人、ですか』
『はい。親友です。とても優しい人なんです……轟くんは』
「俺の名前が、聞こえて、嬉しくて、脳みそが沸騰するかと思った」
個性で凍らせたわけでもないのに、この猛暑の中、真っ赤な顔でガチガチに固まってしまった飯田に近づく。冷やしてやったら、溶けるのか。それとも、もっと固まっちまうのか。
気になって、知りたくて、手を伸ばす。
飯田を溶かすのも、固めるのも、俺がいい。俺だけがいい。
「……こっ、このバカ!轟は一旦あっち行っとけ!」
──伸ばした右手が掴んだのは、飯田じゃなくかき氷だった。
ハッとして、切島に押し付けられたそれを受け取る。わざわざ新しく作り直してくれたらしい、まだ溶けていないそれ。浮かれてどろどろになっていた自分が、少しだけ輪郭を取り戻す。
仕方なく、ほんの少しだけ離れたところに立って2人を眺める。
「飯田はどーすんの?」
「えっ」
「シロップ!」
「あっ、ああ、ええと、いちごで頼む!」
「あー……お揃いってやつ?色も轟に似てるしなぁ」
「なっ!?違うぞ切島くん!?」
切島からかき氷を受け取った飯田がゆっくりとこちらに歩いてくるのを眺めながら、待ちきれなくて一口食べる。何の変哲もないごくごく普通のかき氷は、予想通りの味しかしない。でも。
スプーンを咥えた口が思わず緩む。
今からこれを、飯田と2人並んで食べるのだ。
そのときにはきっと、初めて食べた時の何倍も甘くて、この世のものとは思えないくらい、おいしく感じるに違いない。