夜の空を飛んでいる。本日のクルザス西部地方は雲一つ無い快晴であった。見上げた夜空では無数の星が瞬き続けている。――この天気なら問題無さそうだ。
吐き出した白い息を見送って、ウォルは手綱を握り直す。イシュガルドで暮らした半年間である程度乗ったとはいえ、フライング種であるチョコボにはまだ乗り慣れない。彼は後ろを飛ぶやちよを振り返った。もしかすると、初めて乗ったかもしれないが大丈夫だろうか、と様子を伺ったが彼女は平然とチョコボに体重を預けている。……これが運動能力の差なのだろうか。普段から竜騎士として文字通り跳び回っている彼女と後方支援が主な彼とでは身につくものが違うとはいえ、なんとも複雑な気持ちである。
イシュガルドから飛び立って十数分が経った頃、既に鼻の頭が冷たくなり感覚が鈍ってきた頃合いで二頭のチョコボは雪原に降り立った。ウォルは嘴で肩を小突きながら催促するチョコボにギザールの野菜を与える。黄色い声を上げたチョコボは、待ってましたとばかりの勢いで野菜を突き始める。
さて、とウォルは夜空を見上げた。ツインプールの中程、呪術によって眠らせたドラゴンの身体を島にしたという言い伝えのある臥竜島は彼ら以外に人の気配は無い。この場所は野営地からそれなりに近い場所であり、魔物達も人間を警戒しているのか姿を見せども襲ってくる様子は見られない。テリトリーを侵さない限り大丈夫だろう。
「……で、こんなところになんの用なの?」
「すぐに分かりますよ」
迫り出した岩に積もった雪を手で払った。手袋をしているとはいえ、冷たさが指先に染みる。岩肌が適当に顔を覗かせる程度に雪を払ったウォルはそこに腰を下ろしてやちよに手招きする。
怪訝そうな表情で隣に座ったやちよはマフラーでもこもこになっていた。イシュガルドで調達したものであったのだが、高身長なエレゼンが人口の殆どを占めるここでは小柄なアウラの女にあうようなサイズはまあ見当たらない。子供用ならそれなりに店頭に並んでいたが、どれもこれもデザインが彼女の琴線に触れなかったので見なかったことになっていた。結局、大は小を兼ねるという言葉も泣きそうな有様である。
ウォルは荷物の中からバスケットを取り出した。ファイアシャードを敷き詰めた保温バックの底はほんのり温かく、冷え切った指先の悴みを解してくれる。温められていた水袋の開けると、ふわりと珈琲の匂いが漂った。木製のコップに珈琲を注ぎ、やちよにむかって差し出した。
「……」
が、やちよはウォルの方など見向きもせずに夜空を見上げている。彼はコップを押し付けようかと迷うようにそれと彼女とを交互に見やったが、結局行き場を失った手を引っ込めた。自分用のコップを転かさないように膝に載せて、バスケットを開いた。中からホットサンドを一つ掴むと口に咥える。閉じたバスケットの蓋の上にやちよ用のコップを置くと、彼は咥えていたホットサンドを齧って咀嚼し始めた。
耳を切り落とした食パンの端を押し潰しているそれは片手で持とうが何をしようが中身が零れない。故に、ウォルは調合中と言った中々手が離せない時に重宝していたのだ。たまごサンドに鶏肉の照り焼きを挟んだボリュームのあるそれは彼にとって食べ慣れたものであった。
こんなところに来た理由、それを見つめたまま動かないやちよの横顔をウォルは盗み見る。彼女の白い肌や髪に落ちた強い黄緑色の光が、自分と彼女との間に壁を作っているように感じられて、思わず目を逸らす。
「なに、あれ」
「オーロラですよ」
「……それくらい知ってるけど」
ゆらりゆらゆら、蠢くようにうねる蛍光色の光が黒い夜空一面に映し出されている。強い光になるほど白く、淡い光になるほど暗闇に。絶え間無く変化を続けるそれは同じ瞬間など決して存在しない。
「わざわざこれを見せにきたの?」
「好きじゃなかったですか?」
「なんでそうなるのよ馬鹿」
呆れたように息を吐いたやちよはバスケットの上に置かれていたコップを手に取る。ウォルが手にしていたホットサンドを見て、自分もとバスケットを開いて中身の見えないそれを吟味し始める。
そんな彼女を横目にウォルは手の中に残っていたたまごサンドを口の中に放り込んだ。鶏肉はおろか、たまごでさえほとんど残っていなかったそのパンの端がもそもそと口内に引っ付き、彼は残っていた珈琲も飲み干した。
「……あんた、白いからオーロラの光そのまま反射しちゃってるわね」
「それはあんたもでしょ」
前髪を一束摘まみ、空に透かした。激しい緑色の光が、白い髪を通すことによって柔らかくほぐれていく。ふと隣を見ると、自分と同じように髪を透かしていたやちよと目が合った。なんとなく気まずくなって目を逸らしたが、しばらく視線が刺さり続けているのを感じる。
どうしたことか、上手く言葉が出てこない。ウォルは毛束を捻って弄びながら、話を変えた。
「……現地の人、オーロラには興味無いみたいんなんですよね」
ウォルが初めてオーロラを見たとき、それはイシュガルドに来て間もなくも頃であった。先輩の占星術師達に代わる代わる星の詠み方を教えてもらっている最中に現れたのだ。思わず見とれていた彼を、現地の占星術師達はそんなに珍しいものかねと首を傾げて不思議そうにしていたのをよく覚えている。そもそも占星術は夜空を見るものであり、オーロラが出ていると良く見えないと不評ですらあるのだ。
だから、まだ新鮮な気持ちで見られるうちにあんたと見ておきたかったのだ。と、そんなことを言えるわけもなく、彼はその言葉を心中に仕舞い込んだ。
「……そろそろ帰りますか」
薄くなりつつある緑色のヴェールを見上げながらウォルは立ち上がった。大きく伸びをして、寒さで縮こまった身体を解す。もうやちよの身体に光は落ちていなかったが、白い髪は雪原に、羽織っている濃紺の外套は夜空にそれぞれ溶け込んでしまうのでないかと錯覚してしまう。
「ねえ、あんたはどっち側なの」
残ったサンドイッチを咥え、雑に片したバスケットをチョコボの背に乗せていたウォルにやちよが問い掛ける。その問い掛けの意味が分からず、ウォルは小首を傾げてやちよを見据えた。
「どっちとは」
「……オーロラ、まだ綺麗だと思う?」
ああ、なるほど。そういうことかとウォルは頷いた。
「だから、あんたに見せたかったんですよ」
そう言い切って、チョコボに飛び乗った。気恥ずかしく感じてそのままチョコボを飛び立たせる。後ろでやちよの声が聞こえたが、振り返ることが出来ずにウォルはチョコボの首筋に顔を埋めた。
イシュガルドに帰るまで、結局一度も振り返ることが出来なかった。
昨日とは打って変わって曇天の空だった。陽の光が差さない皇都は、季節を一気に進めてしまったかのように、いつにも増して寒い。
二人は宝杖通りをのんびりと歩いていた。買い物という名の冷やかしは昨日の昼間に済ませてあるので、本当にただの散歩のようなものである。
イシュガルドでミコッテとアウラの二人組は珍しいらしく、時折投げかけられる好奇の視線にやちよは眉を顰めていたがウォルはもう慣れたものらしい。彼曰く、彼自身もイシュガルドではかなり幼く見られることだ。故に自分達に向けられた視線は決して悪いものではなく、恐らく珍しい種族の子供が二人で何をしているのかという好奇心やら微笑ましさやらが混じったようなものではないかと宥められたのだが……そうだとしてもあまり気持ちが良いものではない。
宝杖通りを抜けてラストヴィジルに通り掛かった瞬間、南の空に飛び上がった飛行艇が見えた。クルザスの険しい山々を背景にしていた巨体が、二人の上を滑るように進んでいく。影が落ちると同時に吹き抜けた風に煽られ、コートの裾が、細い首に巻かれたマフラーが勢いよくはためいた。時間的に今飛び立った飛行艇はやちよが乗る予定の一本前の便だろう。
イシュガルドの空の窓口であるランディングは聖ガンリオル占星院のすぐ隣に存在している。ウォルはやちよを見送った後で、溜まっているであろう仕事を片付けるため早めに占星院へと向かおうとしていたのだ。
「言ってる間にあんたの乗るやつ来ますよ」
「わかってる」
飛行艇のチケットを確保した際に預けられる荷物は既に預けている。故にやちよはほとんど手ぶらで(そもそも持ってきていた荷物などあまり無かったのだが)何をするにも中途半端な時間を持て余していた。
「……用事があったなんて嘘でしょう?」
だからだったのかもしれない。胸の内にしまっておくつもりだった問い掛けが口から滑り出たのは。
ウォルはやちよが振り返った気配を感じ取ったが、彼女から顔を背けたまま突っ立っていた。
国が開かれたとはいえ、まだまだ皇都から出立する人は少ないらしい。ランディング付近には二人以外誰も居ない。
「う、嘘じゃないわよ」
飛行艇がランディングに降り立ったのが見えた。定期便であるそれは、到着してから出発するまでの時間は酷く短い。やちよは手荷物からチケットを引っ張り出している。普段より動作がバタついている気がする。
「私は嬉しかったですよ、あんたが探しにきてくれて」
「……何言ってんのよ」
ウォルはランディングの出入り口に視線をやった。イシュガルドの人種比は大半がエレゼンが占めており、当然彼らの体格に合った大きさの物が使用されている。船着場と通路とを仕切る柵だって、やちよの肩ほどまであるのだ。
ミコッテとしては決して小柄ではないウォルでさえ、成長期を残した子供のエレゼン程の身長しか持たない。占星院の据え置きの巨大なアストロラーべを覗く際に毎回踏み台を引っ張り出す必要があったり、ふとメモ書きに使おうとしたスタンディングデスクなど顔を出すので精一杯。それは背伸びをしたところで文字を書くのは難しく、結局床か壁で書いた方が早い。更には己の頭上で飛び交う会話は音という感覚でしか捉えられず、急に話を振られると最初から話をしてもらう必要があった。郷に行っては郷に従えとは古くから言うものだが、こういった積み重ねが着実に彼の精神を削っているのも確かだった。
つまり、だ。ウォルは気兼ねなく会話出来る人と久々に会えて楽しかったと、そういうことなのだ。
やちよがタラップを踏んだ。彼女はどことなく呆れ顔であったが決して不機嫌な表情ではなかった。
「昼間から酔っ払ってんの? あんたが素直だと怖いんだけど」
「多分俺、あんたのこと好きだと思うんですよね」
それは思いがけず零れ落ちた言葉だった。ウォル自身も自覚していなかった、感情の底からひょっこりと顔を覗かせたものだった。
しかし彼はその言葉の意味をちゃんと理解していなかった。彼がその感情を口に出したことを認識したのは、出発の汽笛に釣られて顔を上げた時、タラップの上で狐につままれたような表情のまま固まっているやちよを見た瞬間だった。
そしてようやく、とんでもないことを口走ったと自覚したのだ。
「ごめんなさい、忘れてください」
まともに顔を上げられず、脱兎の如くその場から走り出した。汽笛の音に紛れたやちよの声が聞こえてきたが足を止める余裕など無い。
手に負えない魔物から逃げ出す初心者冒険者よろしく、ウォルは上層から下層まで一気に駆け抜けた。石畳を靴底で叩きながら走り、聖バルロアイアン広場まで辿り着く頃には完全に息が上がっていた。
道端に避けられていた瓦礫の隅にしゃがみ込み、コートのボタンを外す。閉じ込められていた熱気が開放され、冷たい空気が入ってきたことによりウォルは少し落ち着いた様子だった。
そして冷静になるにつれ、こんな季節にも関わらずに暑いと感じるのが全力疾走したからではないということをじわじわと自覚し頭を抱える。
口に出すつもりなど無かったのだ。しかしそうやっていくら言い訳しようが後の祭りであるし、その言い訳相手も目の前に居ないのならば祭りどころの話ではない。
「……カッコわる」
口を滑らしたことで思い知らされたこの感情は今の彼には手に余るものであり、当然始末の仕方など皆目検討が付かない。
きっと、彼女があのオーロラを思い出した時、ほんの少しだけでも自分の存在も思い出してくれる程度でよかったのだ。器量が良い彼女のことだから、きっと優良物件など引く手数多だろう。故に自分などはお呼びではないと勝手に、無意識に思い込んで蓋をしていた感情と今更向き合うのは骨が折れる。
そんなウォルの丸まっていた背中が伸びたのは、リンクシェルに着信があったからだ。元々友人の少ない彼にとって、今このタイミングで連絡を寄越してくる相手など……一人しかいない。少し躊躇ったものの、ここで出なければ後が怖いと覚悟を決める。
「……もしもし?」
返事はない。その代わり、小さく息を吸う音が聞こえた。
そして、もう一度問いかけたウォルの耳に、
「この馬鹿猫!!」
腹の底から絞り出したやちよの声が突き刺さる。いきなりの大音量に心臓を始めとしたありとあらゆる臓器が体内で跳ね上がった気がした。……もしかしたら心臓は少し喉元まで上がってきたかもしれない。
そしてウォルの右耳から入ったその声が、脳内を縦横無尽に引っ掻き回してやっとのことで左耳から出ていく頃には通話は既に切れていた。
驚いて逆立った全身の毛が落ち着きを見せ出しても跳ね上がった心臓は未だに激しく鼓動を続けている。ウォルは親指と人差し指で作った円に膨らんだ尻尾を通しながら、大きく息を吸い込んだ。冷たい空気が肺に充満して、それでようやく落ち着いてきた。
道の端で蹲っていたウォルを不審に思ったらしい、街中では大仰な鎧を纏った神聖騎士から向けられている訝しげな視線に気がついた彼はゆっくりと立ち上がる。何も弁明する必要など無い。このまま身元を保証してくれる占星院へと行けば良い。
石畳を靴底で叩きながら歩き出したウォルは飛び去った飛行艇の方向を見て……ふと気が付いた。やちよに貸した濃紺の外套を返してもらっていないことに。
また今度返してもらえばいいか、と思ったがその今度が果たしてちゃんと来るかどうかは分からない。ウォルはリンクシェルを指先でリズムを取るように叩く。
「……」
正直とんでもなく気まずいが、今このタイミングを逃すと今後一切リンクシェルは鳴らない気がするのだ。
わざとらしい咳払いを一回。続けて深呼吸を二回。話す内容を脳内でまとめた後、ウォルはリンクシェルを発信した。