🦈←🌸←🐬 とある休日の午後、ジェイドは手土産片手にオンボロ寮のノッカーを鳴らした。
魔法がかけられているので軽く叩けば寮内に音が広がることを知っている。敷地内どこにいても聞こえるのは便利だが、どうせなら来客の姿が見える方がいいのではと提案したこともあったけれど、ここの主が首を縦には振らなかったのだ。曰く、こういうの憧れてたので。だそうだ。有事の際には学園長が張り巡らせたセキュリティも作動するし、ゴーストたちもいるので大丈夫なんですと笑っていたあのひとは、少しばかり警戒心に欠けるようだ。
「空いてますよー」
パタパタと廊下を走る音に次いで、やはり警戒心ゼロのどこか呑気な声が聞こえてジェイドはドアノブに手を掛ける。なんの抵抗もなくその口を開けたドアの向こう、ユウがへらりと笑ってそこにいた。
「ジェイド先輩、こんにちは」
少し高いアルトが鼓膜を擽る心地よさに微笑を浮かべて頷いて、持ってきた手土産を軽く掲げて見せる。白く小さな箱の隅にはもうすっかり見慣れたモストロ・ラウンジのロゴと、
「わ、可愛い」
受け取るために近くに寄ってきたユウが、それを見て顔を綻ばせた。ロゴの橫、サインペンでの落書きひとつ。✕印の目をしたエビがくたりとロゴに寄り添っている。
「巨匠フロイド・リーチ最新作、『気絶する小エビ』です」
「気絶してるんですか」
「気絶してるんです」
同じ言葉を二人繰り返しながらくすくす笑う。オンボロ寮に持っていくからと準備していたそれに、いつの間にか描かれていた。描いた本人はジェイドが寮を出るより前に部活の仲間と遊びに行ってしまったようだ。
「今日は自分がお茶淹れますね」
受け取った箱を大事に抱えてユウが笑う。くるりと踵を返した楽しげな足取りにあわせて廊下が軋み、「グリム!先輩きたよぅ」の声にどたばたと談話室からグリムが駆けてくる。
もうすっかり見慣れた風景と聞き慣れた生活音に少し笑って、ジェイドも廊下を軋ませた。
ユウとジェイド、時々グリムやゴーストを交えてお茶をするようになったのは、二月ほど前のこと。
「ごめぇん、忘れてたぁ」
購買で取り寄せを頼んでいた茶葉が入荷していたとの連絡を受けて向かおうとしていた矢先、生徒も疎らな廊下でフロイドの声を聞いた。おやと思って覗いてみれば、こちらに背を向けたフロイドと、その向こうに監督生の姿が。
いつも以上にふにゃふにゃとした笑顔を浮かべながら「や、いいんです。それじゃあ次の機会にでも」なんて手を振っているところから推測するに、大方約束を反古にでもされたのだろう。フロイドが誰かとの約束を忘れるなんて正直日常茶飯事なのでよくある光景だ。
「じゃ、オレ部活行くねぇ」
「はい!」
いってらっしゃいと、脇を通り抜けるフロイドに元気に手を振って監督生がへらりと笑った──はずだった。
「…………」
ぐっと、監督生の顔が歪んだかと思うと、そのまま俯いて唇を噛み乱暴に目元を拭った。
「監督生さん」
「あ、ジェ……」
ジェイド先輩。
そう続くはずだった言葉は、違う形でぽろりと監督生の瞳から溢れてしまった。
「おや」
「……あ、いや」
嫌か否か。どちらにせよ顔を見た途端に泣かれてはいい気分はしない。が、見なかったことにはできない。軽く腕を引けば流されるように廊下の端へと足を向ける監督生が懸命に目元を擦っていたので、それをやんわり止めさせる。
「擦らないで」
「すみません、ごめんなさい」
「責めているわけではありません。……フロイドが約束を忘れるなんてよくあることでしょう?そんなに大事なご用事で?」
ふるふると首を振れば、また涙が眦を伝う。
「それじゃあどうして?フロイドは関係ない?」
「……いいんです、もう」
眉間にぐっと皺を寄せ、珍しくどこか苛立ったような声音でそう言われた。絡まない視線に少しばかり可虐心を刺激され、覗き込む。
「なにが、もういいんですか?」
「………あの」
「泣いている後輩に声をかけているだけです」
「ごめんなさい、今は」
「今は?」
唇をきゅっと噛み締め、涙に濡れた瞳が力強くジェイドを睨み付けた。
「その顔、見たくないんです」
濁流のように監督生の瞳から涙が落ちていくのを見たその日以来、見かける度に声をかけるのがジェイドの日課になった。
「今はどうですか?」
「……大丈夫です」
「本当に?鼻が赤くなっています」
「あの、この間は八つ当たりしてすみませんでした」
「大丈夫ですよ。やっぱり似てないから」
「……小エビちゃん」
「あ……」
「似てないんでしょ?」
「うぅ」
「小エビちゃん」
「ジェイド先輩、怒りますよ」
「バレちゃいました?」
「隠す気ないじゃないですか。明らかにジェイド先輩でした」
「ジェイド先輩」
「おや、先に声をかけられてしまいました」
「残念でしたね」
「泣かないんですか?」
「なーきーまーせーんー」
監督生に合わせた歩幅で顔を覗き込めば、くすくすと笑いながら睨まれる。全く怖くないそれにジェイドも笑い、「残念」と肩を竦めて見せた。
繰り返される戯れは飽きることなく続いていたが、そこに他愛もない雑談やお茶の誘いが混じるようになってからは、やがて姿を消していった。だけど時折、思い出したかのようにジェイドから仕掛けたり、監督生から「真似してください」とねだるようになっていた。
「私、フロイド先輩が好きなんです」
何度目かのお茶会の時、なんの前触れもなく監督生がそう呟いた。
御茶請けのクッキーをラウンジの紙袋に入れて持ってきたのだが、そこに描かれていた気紛れな兄弟のいたずら書きを見たのだろう。穏やかな微笑を浮かべたままそれを手に取った監督生に、ジェイドは「そんな気がしていました」と紅茶を一口飲む。
そんな気はしていた。
フロイドを見る監督生の瞳は切なく揺れていたし、彼を呼ぶ時の声は上擦っていた。気紛れに絡まれてもどこか嬉しそうに笑う彼女は、確かに恋をしているのだろう。
「あの日本当は、フロイド先輩に告白しようと思ってて。それで朝の内に約束していたんですけど……全然、来なくて。待っても待っても来なくて。」
「……恋とは、どんなものですか?」
かちゃりと置いたカップの中で琥珀が揺れる。
「どんなもの」
「ええ。僕は恋をしたことがないので、どんなものなのか気になります。後学のためにもぜひ貴方の感想を聞かせていただければと」
「切なくて苦しくて、だけどとっても素敵なものです!」
無邪気な笑顔でそう言った。
「切なくて苦しいそれを、素敵だと思える愚かさが恋なのですね」
「言い方……。それも含めて、ですよ。胸がドキドキして楽しくて、だけどやっぱりちょっと切なくて」
「不整脈ですか」
「真面目に聞いてます?」
「ふふふ、聞いてますよ。続けて?」
「ちょっと欲張りにもなります。親しい人に向ける笑顔じゃなくて、自分だけの笑顔がほしいなぁとか。あと、少し」
「少し?」
「……体温が知りたくなります」
「おや、それはまた随分と大胆な発言ですね」
「え?あ、待って!待ってください!手を繋ぎたいとかそういうことですよ!?」
「性的な接触はいらないと?」
「……そこまではまだ、考えてません」
「じゃあこれからですか」
「とにかく!今は恋の話です!」
「ジェイド先輩、フロイド先輩の真似してください」
「……やだぁ」
「ふふふ。どうしてですか?」
「だって小エビちゃん……泣くじゃん」
「自分が泣くと困るしめんどくさいです?」
「困らないしめんどくさくないけど、でも」
「でも?」
「嫌だなとは思います」
「……そうですか」
「はい。物真似はおしまいです」
「えぇ?先輩、今物真似してました?」
「一部の小エビさんには泣くほど好評なんですけどね」
「似てなかったです」
「僕はフロイドと兄弟なだけですから、似てなくても仕方のないことです」
「ジェイド先輩は、どうしたら泣いちゃいますか?」
「僕が泣いたら貴方は困るでしょう?」
「困らないですけど、でも」
「でも?」
「嫌だなと思います」
そうですかと笑えば、そうですねと笑みが返ってくる。
「ねぇ、フロイド」
「んー?」
「僕が泣いたら困りますか?」
「は?ジェイド泣くことあるの?」
「例えばです」
「えぇ?……んー、そうだねぇ……取り敢えず珍しいなって笑うかも」
「おや、笑っちゃうんですか」
「だってジェイド泣かねぇじゃん」
「まぁ泣きませんけど」
「例えばとかもしもとかの話はめんどくせぇよ。そん時考えるわ」
「……では、監督生さんが泣いたら?」
「小エビちゃん?なんで?」
「例えばです」
「なんなのさっきから。小エビちゃん……小エビちゃんねぇ。……あぁ、やっぱ笑うかも」
「やっぱり笑っちゃうんですか」
「笑っちゃう」
「ふふふ。そうですか」
「なんなのよ」
「ただ気になっただけです」
「ちなみにアズールが泣いても笑うよ」
「よく笑いますねぇ」
「笑ったら怒んじゃん?そしたら涙も止まんじゃね?知らないけど」
「なるほど」
「監督生さん」
「ジェイド先輩。こんにちは」
「はい、こんにちは」
「どうしたんですか?一年生の教室まで来て」
「放課後予定がないのであれば、お茶しませんか?」
「お茶」
「えぇ。この前話した茶葉が手に入ったんです。硝子のティーセットも準備したので、都合が宜しければご一緒していただけないかと」
「いいんですか?」
「はい。現物を見てみたいと仰っていたので」
「わぁ。オクタヴィネル行きますか?それともウチに来ます?」
「差し支えなければオンボロ寮で。放課後お迎えにあがりますので、一緒に帰りましょう」
「分かりました」
「……なんかユウとジェイド先輩、仲良しすぎてジェラシー」
「あははなにそれ」
「たしかに。最近一緒に帰ることも多いよな」
「この間はホラー映画見ながら二人してソファーで寝てたんだゾ」
「え?お泊まり?」
「それは、大丈夫なのか……?」
「節度と礼儀をもって接すれば、優しい先輩だよ」
「なんか裏がありそう」
「そういうこと考えたら、ご期待に添えるよう頑張りますねとか言われる」
「う」
僕なら、傘を差しかける。
あの人が濡れてしまうくらいなら、僕の傘を。
「じゃあアンタにとって、その人は大事な人ってことでしょ」
「そう……なるんでしょうか」
「なるでしょ?だって自分が濡れて汚れるのも厭わないなんて、愛がなきゃしないわよ」
「ですが僕は」
「対価を要求する?アンタはその時何を望むの」
「僕の……?」
──恋はどんなもの、ですか?
はい。
僕はそれが知りたい。
──そうですねぇ。切なくて苦しくて、だけどとっても素敵なものです!
ねぇ、ユウさん。
貴方のそれが恋ならば、僕のこれとは違う。
だってこんなにも。
こんなにも。
(あぁ、僕は)
(僕は貴方が)
ただひたすらに、いとおしい。
こんなにも、愛しさだけが降り積もる。
切ないわけじゃない。苦しいわけでもない。だけど素敵なものでもない。
ただ、いとしくて愛おしくて、言葉にできない。
他愛ない話に揺れる肩、想い人を追う視線、話す声。
なにもかもが、いとおしい。
いとしい、貴方。
「…………」
ぽたりと、雫が落ちた。
「……すみません。なんだか少し」
「気にしてないわ。ただ雨が降ってきただけでしょう?」
ジェイドの淹れた紅茶を傾けながら、カップにつけた唇で笑う。それはからかうようでもなく、ただ見守るだけの微笑みだった。
「局地的に雨が降るなんてよくあることよ。……綺麗な虹が見れるといいわね」
「虹なんて、出るのでしょうか」
「さあ?誰にも分からないわよ、そんなこと。虹が出るのか、それとも雨が降り続くのか。雨が止んだって虹が出るとは限らないし。だけど願うことは自由でしょう?」
「恵みの雨になればいいわね」
ごちそうさまと、カップが鳴った。
いつか貴方がその恋を打ち明けた時、きっと冷たい雨が降る。
貴方の頬を、雫が伝う。
例え打ち明けずに元の世界に帰ったとしても、僕は。
僕は。
「僕、ユウさんの傘になりたいです」
「傘ですか?」
「はい」
「なに言ってんだこいつ」
きっと貴方は濡れてもいいと笑うのだろう。
この雨は自分の想いの証だと。
それなら僕は、貴方と共に濡れてみたい。
「広げてもらえない傘でもいいから、ただ、その手の冷たさを僕にも分けてください。……貴方の手の温度を、僕は知りたい」