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    ちさはり

    @hari_fu_

    ジェイ監倉庫。
    途中で書くのをやめた未完の話ばかり。
    書きかけなので繋がらない箇所も多々ある。

    ☆silencio seguir Grita con emoji 💖 👍 🍚 🍺
    POIPOI 3

    ちさはり

    ☆silencio seguir

    短い話を繋いでひとつの話にしたジェイ監。
    【】のタイトルの時間軸は過去。
    もう少し書き込みたかったけど今はまだ書けない。

    廻る命に祝福を賢者の海【僥薄】静の海【用事】【当たり前のことなのに】虹の入り江【きっかけ】嵐の大洋嵐の大洋Ⅱ後日談【???】賢者の海
     無我夢中だった。
     寝食を置き去りにしてただがむしゃらに腕を動かし続けたのは、記憶が薄れていくのを恐れたからで。
     絵を描く知識なんてひとつもなかった。
     だけど描かなくてはいけなかった。




     ハッとして目を開けた時、飛び込んできたのは薄汚れて古ぼけた天井ではなく、朧気な記憶の片隅に追いやっていた世界のそれ。
     体にかけられた柔らかな布団を跳ね退け床に足を着いたが、まるで暫く歩いていなかったみたいに力がはいらない。
     咄嗟に引っ張った布団と共に縺れるように転がれば、派手な音を立てて身体が床に叩きつけられ目線の先には綺麗に整頓された机が見えた。だけど見覚えのあるものはひとつもない。
     いつかのあの日に貰った魔法石の欠片も不思議な形の植物も、特別に調合してもらったルームフレグランスも相棒が悪戯でつけた足跡つきのメモ帳も、光の加減で色を変える葉もみんなで買ったお揃いのキーホルダーも、美しい弧を描く巻き貝も。
     ぐしゃりと顔を歪ませた時、慌ただしくなにかを叫び合う声と足音が聞こえてドアが開いた。


    ──描くものを。
    ──絵を描くものがほしいの。
    ──クレヨンでも色鉛筆でも絵の具でも良いから。


     名を呼び泣き喚く声を聞けば記憶の洪水に呑まれそうになったけれど、この身体にすがりつく温かくて優しいたくさんの腕と涙を振り切って叫んだ。
     今必要なのはそれじゃない。
     引き出されて蘇る記憶じゃなくて、あの日の思い出。
     そしてそれを具現化するための道具。

    ──お願いですから、描くものをください。










     その日からがむしゃらに腕を動かし続けている。
     あの部屋より随分と狭く感じる白い壁に、記憶を映し出す。
     青と緑と白を何度も何度も重ねていく。
     クレヨンが磨り減り壁に擦った爪が割れても、痛みは感じなかった。滲んだ血と青が重なる。爪の先ほどになってしまったクレヨン。これはもう使えないと放り出して次は絵の具を手に取った。
     何度も筆を往復させる。時々白で線を描く。
     だけど筆では足りないと、気付けば両手が染まっていた。
     思うままに色を塗る。
     優しく柔らかく激しく強く寄せては返す記憶を手繰り寄せて掻き集めて。
     何度も重ねて壁紙が破れても、それすら一部なのだと手を動かし続けた。





     そうしてどれくらい経ったのだろう。
     分からない程遠い。だけど瞬きのように短くもある。
     朝も昼も夜も太陽も星も、何もかもを越えたその刹那、疲れた頬を風が撫でていった。


    「…………」


     消して広くはない、その部屋の壁に。


    「……できた」


     記憶の中の海を描いた。







     開け放たれた窓から風が吹き抜ける。
     この風は、あの日彼の髪を乱した追い風だろうか。
     汚れた手を壁につけ、耳をつけると海が聞こえた。
     この音は、あの日の慟哭だろうか。


    「……ふ、」

     堪らず壁に縋り付く。
     一粒の雫が落ちると、もうだめだった。
     万感の想いを、黙り込む海へと叫ぶ。

    「……つれていって……ッ」


     海よ泣け。
     風よ叫べ。
     世界の理を超えてここへ戻った私の声を聞け。
     私の声よ、嵐を起こせ。
     轟く雷鳴にあの人を映して。
     逆巻く波の砕ける波濤が、あの日の背中を映し出す。
     割れた爪で自分を抱き締めても足りない。
     彼の、あの人の温かく力強い腕がほしい。
     拳を壁に叩き付けても、響くのは虚しさだけ。
     海よ、私の叫びを運べ。
     風よ、私の涙を運べ。
     寄せて返し渦を巻く海が生きとし生けるものたちの流した涙だというのなら、私の涙も、この一粒も仲間にいれて。
     万感の想いを込めた一粒を母なる海の懐へ還すから、どうか──どうか。
     冷たい飛沫に彼の瞳の熱を思い出し、泣き叫ぶように轟く雷鳴に優しい囁きを聞く。
     泣けよ、叫べよと荒れ狂う海が語りかける。
     喉が張り裂ける程愛しい名を叫べば、身体中の水分全てを海へと差し出せば、あの日の背中は振り向くか。
     頬が冷える隙など与えずに、途切れることなく流れる涙は皮膚を焼く。ひりひりとした痛みはあの日の潮風によく似ている。
     この部屋が私の涙で満ちてしまえば、私の叫びは彼に届くか。


     縋り付いたのはあの腕ではなく、ただのざらついた壁で。
     冷えた涙が色を溶かして落ちていく。



    ──僕と。
    ──僕と一緒にいきませんか。


     差し伸べられた手を取れなかった、あの日。
     繰り返されるあの日の『罪』が私を蝕み、否応なしに貴方のいない現実を突き付けてくる。
     この別離は、まるで『罰』だ。

     壊れたオルゴールのように、何度も何度も名前を呼んだ。
     呼ばなければならない。
     呼び続けなれば、私は、この命は、干からびる。

     逆さまの水面。
     揺らめく命の万華鏡。


     先輩。
     ──ジェイド先輩。


     貴方は私の、
     私の──┄




    ──愛してます





     その一言が、私の命の回路を止める。






     どぷん、と。
     私の涙が海を作った。
     侵入する水に大きな泡が口から溢れて昇っていく。

     手を伸ばしても、もう、届かない。



     ああ──

     満ちていく

     泡が、ひとつ
      震えて、空へ
       泡が、ふたつ
        縺れて、弾ける

    ぱちん、ぱちん。

     泡が、ひとつ
      花びら、ひとつ
       泡が、ふたつ
        きらきら、きらきら
         まるで、鏡の欠片
         踊るように揺蕩う
        揺れて、回って、沈んで、浮いて
       花びら、ふたつ
      極彩色の、道標











     わたしは とけて あわに な る




    【僥薄】 どこかで仔猫の声がする。


     おかあさんおかあさんと呼ぶ声は、どうやら中庭の奥から聞こえてくるようだ。声は吹き抜けの廊下を風に乗って流れている。動物言語をある程度理解している生徒はそれに一度足を止め、それから声のする方を見てから「なんだ」とまた歩き出す。聞こえても気にも留めない生徒も多々いる中で、ジェイド・リーチはその足を止めた。
    「………」
     目線は中庭の奥。
     差し込む光に二色の双眸も片方だけのピアスも煌めかせながらじっと見詰めている。しかし動かないその視線はどうやら声の主を探しているわけではないようだ。

     可愛いねぇ。

     微かに聞こえた声に耳を澄ます。相変わらず仔猫はおかあさんと鳴き続けている。
    「お腹空いてる?」
     声の主は、やはりオンボロ寮の監督生。
     顔見知りの後輩──よりもほんの少しだけ交流のある後輩。それ以上でもそれ以下でもなくて。監督生の姿を見かけても「いるな」程度にしか思わない。
     それなのに今こんなにも視線を向けているのは、母を求める鳴き声への返答が、全くもって的外れで掠りもしていないからで。

    「なに見てんの」

     足を止めたジェイドに気付き、先に行っていたフロイドがふらふらと戻ってきた。彼もまた監督生に気付いたようではあるが、今は大して興味もないのか視線だけ流して「ウケる」としか言わなかった。
     ウケる。
     面白い、笑える。
     どこが楽しいのだろうと思ったがただの口癖みたいなものかと一人納得して瞬くと、「今日から始まるメニューですが」と前を向く。踏み出した踵がかつんと小気味いい音を立てるのを聞きながら、話半分だろう片割れに朗々と言葉を並べていく。
     はいはい分かった。分かったってばもうしつこいなぁ。ジェイドの並べた言葉をガリガリと飴のように噛み砕いて顔を歪めるフロイドだが、遠くにクラスメイトを見つけてこちらの話を投げてしまった。
     困った人ですねぇと眉を下げてしまえばもう、中庭の光景なんて忘れてしまった。



     放課後なんとなく思い出して仔猫の居た場所へ行ってみると、小さな段ボールとタオル、それから小皿が置かれていた。
     タオルの上には黄色い仔猫が丸くなって寝ている。
     あれだけおかあさんと鳴き喚いていたのに、今は眠っているようだ。
     この粗末な設備を準備したのはあの監督生なのだろう。こんなものを準備するくらいならあのオンボロ寮に連れていけばいいのに。
    「薄情ですね」
     規則正しく上下する薄汚れた毛並みを見下ろしながら呟くと、仔猫の瞳がジェイドを捉えた。
    『なんだ、違う』
     それだけ鳴いてまた瞳を閉じた。誰だと期待したのか。ふるり震えた長い尻尾の先がジェイドの靴先にふわりと当たる。
     素っ気ない仔猫はもうそれ以上なにも言わず、ただ尻尾の先をゆらゆら揺らして時々地面を弱々しく打つだけだ。
     せいぜい意地の悪い生徒や猛禽類に狙われないようにと心にもない声をかけると、仔猫はふぅと細く息を吐いた。
     なにかを期待したわけではないが、思ったよりも面白いものでもなかったと、ジェイドは名残惜しさも感じずその場を後にした。
     中庭を抜けて校舎に戻る手前に、吹き抜けの廊下にまで腕を伸ばした林檎の木がある。
     この一本だけ何故か離れて生えているし、日当たりが悪いのかなかなか色ツヤのいい果実を実らせない。それでも小鳥たちが集うのだから不思議なものだ。
     朽ちかけた無様な果実を啄みながら、小鳥たちが話しているのを聞いた。今日は天気がいいとか昨日食べた虫の不味さだとか、学園の生徒がまた喧嘩をしていただとか。たまに有益な情報を話していることもあるが、今日は収穫なしのようだ。
      ジェイドは生徒も疎らな廊下を歩きながら、意図的に動物言語へのスイッチを切る。これをしないと優秀すぎる頭は全て拾ってしまうのだ。
     努力家の『彼』も天才肌の『片割れ』も、ついつい忘れて窓の外に「うるさい」と怒っている時がある。あのハートの女王の権化のような『彼』ですら。
     なので動物言語を習う際にはまずこの方法を学ぶ。同じ陸に暮らす者同士でも線引きは大事なのだと教師はいった。人間と動物。動物と昆虫。言語が異なるのなら生活スタイルも考え方も常識も違うということ。確かに、海でも人魚と魚は違う。
     言語はコミュニケーション、とはよく言ったものだ。
     ──さて。
     今日はどんな『言葉』でコミュニケーションをとろうか。
     ラウンジの仕事とは別件を思い出し、知らず知らず弧を描いた唇から歯を覗かせた。
     
      



     風が撫でても微動だにしないそれは魂がもうここにはない、ただの脱け殻で。
     その傍らで、じっと。
     監督生はまんじりともせずただ見下ろし佇んでいる。
     ほとんど動かなかった瞳を一度だけ固く瞑ると、跪き大事そうに抱えていた布の塊を側へと置いた。
    「おかあさん、いたよ」
     そう呟いた監督生の表情は、影が落ちていて分からない。
     数日前に降った雨が地面に大きな穴を空けた。
     地中を泳ぐ動物の痕跡か、それとも木の根が腐ったか。どちらなのか定かではないけれど、その穴に落ちて抜け出せなかったようだと、動物に愛された彼がひどく悲しそうな顔で教えてくれた。
     もう少し早く見つけられていたらとオーロラの美しい瞳を揺らす彼の足元では真っ白い雪のような兎が毛繕いをしていて、枝の上のリスが木の実を大事そうに抱えていたのを覚えている。
     動物たちの視線は、ただひたすらに真っ直ぐ彼を見つめていた。

    「待たせてごめんね」

     触れた四肢は固く、指先よりも冷たかった。


     

     小鳥が歌う。

     おかえりなさい、かわいいわたしのこどもたち。
     さぁ、ねむりなさい、命の輪廻のゆりかごで。
     

      



     
     購買帰りのジェイドが中庭を通った時、あの薄汚れた仔猫も粗末な設備さえも見当たらず、代わりにこんもりとした小さな山が出来ていたので首を傾げた。
     そこに大小二つの石が寄り添うように置かれているのを見て、そうかと理解した。

     そうか、あの仔猫は死んだのか。

     二つあるのは、もしかしたら、随分前に穴に落ちていた同じような毛色の猫のものだろうか。特に興味はなかったので自力で這い上がるだろうと思ってそのままにしたが、あの監督生が見つけて共に弔ったか。似た毛色だったが血縁までは当然わからない。全くの赤の他人かもしれないのに、同じ場所に埋めたのか。
     その辺で摘んだのだろう、添えられている白い花はまだ新しい。
     見渡せばぽつりぽつりと花が咲いていた。手近なそれを一本引き抜いてみる。頼りない黄色のそれは、土に埋もれているだろう猫たちに似ている気がした。
     ジェイドはそっと膝を着くと、手にしたそれを白い花の上に置いた。感慨はなにひとつとして沸かなかったが、なぜだろう、自分の置いた花より白い花の方が鮮やかに見えるのは。大きさ的には、自分の花の方が大きいはずなのに。
    「…………」
     数回瞬きを繰り返すと再び手を伸ばし、手の届く範囲の花を引き抜いてはその山へと散らしていく。花だけではない。指先に、手のひらに触れた草も一緒に引きちぎる。
     なんとなく──ただ、本当になんとなく、そうしたくなった。
     監督生の置いたささやかな献花が見えなくなるまでそうしていると、やがて手作りの山は緑色に染まる。
     漂うのは千切れた草花の匂い。
    「……さて」
     膝に着いた土を払いながら、この後植物園のキノコを見に行こうかと考える。確か『生育状態の悪いもの』がいくつかあったはずだ。
    「オオキツネダケ、イバリシメジ、アシナガヌメリ…」
     さぁ、どれを連れてこようか。
     心なしか軽やかに去っていく彼の後ろ姿を小鳥たちはじっと見つめ、それから「薄情」と囁きあった。

    静の海 いいよ、話してあげる。


     ここじゃない世界から来た女の子が鏡に飲み込まれる瞬間、見送るみんなを掻き分けてあいつは言ったんだ。

    「愛してます」

     声に振り向いたあの子は、すごく嬉しそうに、だけどすごく悲しそうに顔を歪めて、それから、消えた。
     まるで泡が弾けるみたいに、ぱしゃって。
     残ったのは女の子の涙みたいな水溜まりと、いろんな色の綺麗な花びら。

     それをかき集めて、そいつは海に流したんだよ。


     その日から、そいつは笑わなくなった。
     いや、笑わないわけじゃない。
     あの日、あの女の子が消えた鏡の前でしか笑わなくなった。それ以外で浮かべる笑顔なんて、張り付けように白々しい。
     鏡に話しかけて、笑って、時々触れて。
     だけど毎日通えるわけじゃない。学年が上がれば研修もあるしね。でも休みの度に学園に来ては鏡に話しかけていた。
     そう、卒業しても。
     卒業する時学園長が言ったんだ。

    「鏡を持っていきますか?」

     でもそいつは頷かなかった。
     なんでかって?

    「もしまたあの人が戻った時、鏡を抜けた先が知らない場所だったら不安になるでしょう?」

     本心かどうかは分からない。
     それにあの子が戻ってくるかも、なんて。
     そんなこと期待してたって、虚しいだけなのにね。
     だってあの子は元の世界に『帰った』んだから。
     でも鏡はこのままでいいって、そいつは目を伏せた。


     休みの度に学園に通うのが日課になって、どれくらい経ったんだろう。
     もう知ってる後輩もいなくて、先生たちも一人二人しか顔見知りがいなくて。
     それでもずっと通い続けた。
     忘れてないよって。
     自分はここにいるよって。
     言い聞かせてたんだろうな。
     恋人もつくんないで、結婚もしないでさ。
     微笑みを浮かべるのも、愛を囁くのも、鏡の前でだけ。
     そいつを知ってるみんなは言いたいことたくさんあったけど、でも何も言わなかった。
     何も言えなかったんだ。
     だって幸せそうに笑うから。
     縋るように寄り添うのを、引き剥がしたりなんてできないでしょ?


    そう。
    それからまた何年か経って、顔見知りが学園長と先生一人だけになったある日。
    連絡が来たんだ。

    「急いで来い。鏡が割れた」

    使える手段全て使って学園に駆け込むと、鏡は割れていた。
    割れた瞬間は誰も見てなくて、でもその寮にはもう誰も近付かないし、魔力の痕跡もない。
    劣化だろうね。
    ずっとずっと昔からある鏡だったから。
    報せを聞いて集まってきた卒業生たちと、それからあいつ。
    皆で茫然とした。
    だって割れた破片の中には、あの子の『思い出』がたくさん散らばってた。
    あの子の相棒が悪戯で足跡をつけたメモ帳、仲良しの友達みんなとお揃いで買ったキーホルダー、綺麗な形の巻き貝、特別に調合したルームフレグランス、錬金術で出来た魔法石の欠片、光の加減で色を変える羽根みたいな葉っぱ、それから、写真。
    写真には女の子と、あいつが二人で写ってた。
    二人とも誰も見たことないくらいすげぇ笑顔で。
    でも不思議なんだ。
    鏡は壁に埋め込まれていたから、そこに物を隠すなんてできないはずなのに。
    誰かがそこにばらまいた?
    いや、違う。そんなことはできない。
    なぜならその部屋の鍵はあいつが持っていたから。
    窓も割れてないし、鍵もかかってる。
    部屋自体に保存魔法も掛けてあったから、物を動かすことなんてできない。──そう。保存魔法をかけていたのに、鏡は割れた。
     なんで?って皆で首をかしげた時、落ちていた巻き貝をあいつが拾ったその瞬間──

    『あー!折角ジェイド先輩からもらったのに!』

     それはあの子の声だった。

    『へへーん。そんなとこに食いもん置いとく方が悪いんだゾ』
    『だからって…あぁもう一枚しか残ってない……。これはねぇ、ジェイド先輩が私に!くれたものなんだけど』
    『名前書いてなかったもんね』
    『憎たらしい……。最後の一枚大事に食べよう…はぁ、美味しい…』
    『またジェイドからもらってこいよなんだゾ』
    『ふふ。おやおや、ですねぇ』
    『似てねぇんだゾ』

    本当に偶然なんだろうね。
    偶然テーブルかどっかにあった巻き貝が切り取った日常は、確かにそこにあった『日常』で。
    特別でもなんでもないそれが、後から一番染みる。
    あとはもう、泣くだけだよ。
    泣くことしかできなくて、蹲ったままそいつは繰り返すんだ。
    何度でも作ります、って。
    あの子の大事にしていた思い出たちの真ん中で、確かにそこにあったはずの日常を抱き締めて、それから愛してるって繰り返す。


    あの涙は、あいつの『罪』だ。



    一度だけ「一緒にいきませんか」って言ったことがあるんだって。
    二人で山に行って、海がみたいといったあの子を連れて。
    そんな回りくどい言い方しないで、好きだから一緒にいたいって。
    愛してるから一緒に生きて、って言えばよかったんだ。

    あの子はなんて答えたかって?
    まぁ元の世界に帰ったってことは頷いてくれなかったんだろうね。
    ただ泣きそうな顔で笑ってたって。
    あんな顔されたらもう求めることはできないって。
    あいつ馬鹿だから、それで諦めたんだよ。
    ──いや、諦めたつもりだった。
    最後の最後に手を伸ばしたってことは、やっぱり諦めきれてなかったんだよなぁ。
    かっこつけて意地はって怖がって、それでも諦めきれなくて伸ばした手が掴むのは、虚空だった、なんて。
    あれはもう、絶望だよ。
    後悔ならまだ救いはある。
    なにかで昇華できるから。
    だけど絶望は、どうすることもできないんだよ。


    二人の間に流れる空気は誰よりも特別なものだった。
    みんなわかってた。
    本人たちも分かってたと思うよ。
    だけどあと一歩。あと一歩が踏み出せなかった。
    踏み出した時にはもう全部が遅くて、残るのは擦りきれた思い出と切り取られた日常だけ。

    みんなで泣いたよ。
    だってみんなあの子が大好きだったから。
    みんなの涙で海ができるんじゃないかってくらいに泣いて、叫んで悔やんで。
    いい年した大人たちが声をあげて泣いたんだ。
    まるでみんな、生まれたばかりの子供みたいに。


    時間が経たないとできないことはたくさんある。
    だけど時間が解決するわけじゃない。
    時間なんてものは素知らぬ顔で通りすぎるだけ。
    通りすぎた足跡がその内固まって、歪な何かを作り出す。
    だから納得いくまで何度も時間を見送って、どうにかこうにか形を作っていくんだ。
    人それぞれ見えるものは違うから、あとはもう本人次第。
    だからあいつも、自分なりに色々考えて形を作っていったんだろうね。
    綺麗なものも汚いものも全部何もかも織り混ぜて、落とし所を見つけて。
    それでもまだ足りない時は、自分の足でみんなのところに行って話を聞いてたみたいだよ。
    自分の知らないあの子の思い出を、ひとつひとつ大事に拾い集めてた。

    そんな中、ふと海に行きたくなったんだって。
    あの子と二人で眺めた場所に行きたくなった。
    あの子が最後に残した花びらたちを流した、あの場所。
    どんなにみんなが呼んでも、もう何年も何年も海に『帰って』なかったのにね。
    自分が海に帰るのは死んだ時だって言ってたのに、急に行ってきますって仕事放り出してさ。

    そして、そいつは見たんだ。



    海に手を振る女の子を。

    【用事】「おや、珍しい」

     授業の合間の休み時間、珍しい人物が教室を覗き込んできた。廊下側一番前の席だったジェイドはひょっこり現れた顔に形だけ驚いて見せ、それからにこりと笑顔を浮かべた。
    「どなたにご用事が?」
    「あ、ジェイド先輩。こんにちは。えっと、リドル先輩は……」
     律儀に挨拶してくる後輩──オンボロ寮の監督生に笑って返事を返し、リドルならトレイに用事があると三年生のクラスに行ったと伝える。目に見えて落胆した監督生に来訪の理由を尋ねると、どうやら借りた本を返しに来たらしい。
    「僕がお預かりしましょうか?」
    「ありがとうございます。でも借りたのは自分なので……」
    「律儀なお人ですね」
     話しながら席を立てば、こちらを見上げる目線がそのまま動いた。自身の胸元より少し低い位置につむじが見える。
    「それでは僕は用事があるので」
     すみませんありとうございますと、特になにもしてないジェイドに頭を下げた監督生も教室から離れていく。追うように教室から出ると、丁度階段のところで監督生はカリムたちと出会ったようだ。
     事情を話して一緒に三年生のクラスに行くのだろうか。それとも時間を置いてまた来訪するのだろうか。どちらでもよかったし、どうでもよかった。
     だが。

    「この本に書いてあるキノコって存在するんですか?」

     その一言で振り向いてしまった。
    「あぁ、丁度キノコに詳しい奴がいるぞ」 
     何事もなかったように踵を返しかけて、熟考の従者の言葉が背中に刺さる。振り向いたことは気付かれていないようだったけれど、「ジェイド!」と呼ばれてしまっては立ち止まるより他ない。
    「はい、なんでしょう?」
     笑みを浮かべたまま今僕を呼びました?と澄ました顔で会釈をすれば、カリムのキラキラした赤い瞳が元気一杯こちらに手を振っている。
    「監督生がキノコのこと聞きたいって!」
    「あー…カリム先輩」
    「知らないのか、監督生。ジェイドと言えばキノコ。キノコと言えばジェイドだぞ」
    「え?」
     ジェイド先輩は人魚ですよね?とどうにも繋がらない監督生は不思議そうな顔をしていたが、思い出したのか「山を感じる会!」と声高に叫んだので即座に訂正した。
    「愛する、です」
    「すみません。山を愛する会でした」
    「はい。それで?どのキノコでしょう?」
    「ここに書いてあるんですけど」
     押し付けるようにその場を離れるスカラビア主従の背中を見送っていると、周りを気遣い廊下の端に寄った監督生が本を開いた。
     リドルから借りたと言うのでてっきり論文か参考書かと思ったけれど、これは小説──いや、詩集だろうか。それにしてはみっしりと文字が詰め込まれている中を指で辿り、この辺ですと言って読み上げる。
    「えっと……“まるで傷つけられたソライロタケのように私の心は色を変えた。突き抜ける青空のようだった心はどこか陰鬱として黄ばみだし”──ここですね」
    「ふふ。黄ばみだし、ですか」
     監督生の手元を覗き込みながら笑ってしまう。なんて文章だ。人間の心の動きをキノコで表現するなんて。もっと他にもあっただろうに。
    「ソライロタケって聞いたことなくて。しかもたぶんですけど、ここを読む限りでは傷が付くと黄ばむのかなって」
    「そうです。黄ばむという表現が正しいかどうかは分かりませんが、黄色になりますよ」
    「え、そうなんですか?」
    「はい。とても珍しいキノコなので僕も実物を見たわけではありませんが、実在しています」
    「本当にあるんだ……」
     へぇ、と瞳をきらり光らせこのキノコは魔法でできてるんでしょうかなんて、可笑しなことを言う。
     監督生にしてみれば、不思議なことは全て『魔法』。
    「ちなみに食用かどうかは分かっていないそうです」
     今度の「へぇ」は声音が違う。ジェイドはふむ、と小さく頷いてからもしかしてと頭を傾ける。
    「お好きですか、キノコ」
    「はい、好きです」
     なるほど、これはいいことを聞いた。それじゃあと辺りを憚るように腰を屈めると、

    「お裾分け、いります?」

     瞬間、ぱっと顔を上げて至近距離で何度も頷くので、監督生からの風圧でジェイドの髪がそよいでいる。一房長い髪を耳にかけながらにんまり笑った。
    「僕の育てた可愛い子達です。たくさんありすぎて捨てるには忍びなくて」
    「育……?そんなことまでしてるんですね、ジェイド先輩」
     すごいと純粋な言葉と眼差しが心地いい。たまには手放しの称賛もいいものだ。いい気分になって放課後持っていきますよと約束していると、丁度予鈴が鳴った。
    「あ、先輩なにか用事があったんじゃ…」
     先程会話もそこそこに席を立ったことを言っているのなら、問題ない。
     目線だけを斜め上に泳がせ、隠した口許で笑う。
    「大丈夫です」
     特に用事なんてものはない。 
     その場を離れるためだけの口実だと気付かないのであれば、口八丁で丸め込めば容易く籠絡できそうだ。つくづく思うが隙だらけである。有事の際には土壇場若しくは火事場のなんとやらを発揮しても、日常でこんなにふにゃふにゃしていれば誰かに齧られても不思議ではない。
    「それでは今度、お持ちしますね」
     にっこりいつもの笑顔で言えば、心底嬉しそうな顔。
     もしかして口でどうにかしなくても普通に餌付けすれば躊躇いなくこちらの懐に飛び込んでくるのではないだろうか。
     失礼しますと頭を下げる小さな人間の薄い背中を笑顔で見送りながら、齧るならどこからがいいか考えた。
     


    【当たり前のことなのに】 朝から降り続いていた雨は、午後の授業が始まる前に上がったようだ。
     ぽたりぽたりと小さな水滴を落とす木々が眩しい。雨雲が過ぎ去った空はさっきまでの天気を忘れたみたいにどこまでも晴れている。午後特有の気だるげな雰囲気を纏った教室に響くのは、朗々と流れるような教師の声。まだ始まったばかりだと言うのに、何人かは姿勢が崩れていた。
     そして子守唄の権化みたいなトレインの声を遮るように、今日も今日とてどこかで爆発音がする。まぁどこかといっても錬金術の教室か魔法薬学の離れかどちらかなのだが。
     音の聞こえ方を考えるに、錬金術の方だろう。

    「また一年坊主か」

    隣の席のクラスメイトが大きなあくびを隠すことなく呟くのを聞いて、ジェイドは頷きながら肩を揺らした。

    「ふふ。僕たちの時もこうだったんですかね」

     爆発音が聞こえようが悲鳴が聞こえようが「この駄犬ッ!」の怒号が響き渡ろうがトレインは通常営業だ。一度は目を醒ましたクラスメイトたちがまたうつらうつらと船をこぎ始めるのを後ろから眺め、ジェイドは視線を巡らせ窓の外を見やる。

     ごめんなさい!

     聞こえた声に何人かが吹き出した。なんともまぁ情けない声だ。最前列ど真ん中を陣取ってるリドルもどこかそわそわしているので、自分のところの寮生じゃなきゃいいな、なんて思っているはずだ。

     素手で触るな!
     ごめんなさい!
     保健室へ行け!
     いってきますー!

     うわぁんと聞こえてきそうな声と共に、廊下を走る音が。それに被さり「走るな!」なんて声が追いかけているが聞こえているのかどうか。
     そわそわしているリドルも船を漕いでいた生徒も窓の外をそろりと見ている。それに気付いたトレインが小さく咳払いをした。

    「余所見をするな」

     ぴしゃりと放たれた言葉に姿勢を正したのはリドル他数名だけで、その他大勢はまだ外を見ていて、くつくつと笑っている。

    「オンボロ君だったよ」

     隣席の友人が肩で笑いながら耳打ちしてきた。そうみたいですねと笑みを浮かべて返したが、ごめんなさいの第一声ですでに分かっていたから特に驚きもしない。

     明日は山登りの予定だ。
     雨が降ったので地盤が緩んでいるかもしれないなと、神経質そうなトレインの文字をノートに書き写しながら思う。だから行こうと思っていた場所ではなく、その少し手前までにしておこう。最近見つけたその場所はなかなかに『適正な環境』なのでキノコの生育にもってこいなのだ。
     あぁ、でも沢が近いから水位が上がっているかもしれないが、どうだろう。
     いつの間にかペンはノートの端へと動き、綴るのは文字ではなくなっていた。キノコかよと隣の席から落胆した声が聞こえてきたが、何を期待して覗き込んできたのだろう。キノコですけどと片眉をあげて答えてやると、

     ただいまー!

     突如聞こえた声に虚を突かれた。

     しかもすかさず「おかえり!」なんて返ってきたものだから我慢できずに何人かが吹き出した。これにはさすがのジェイドも歯を見せて笑ってしまう。

    「おかえりて」
    「今のクル先じゃねぇよな」
    「誰だよ今の」
    「っつーかただいまって何」

     ざわつく教室内を見回し、それから窓の外を見てトレインが息を吐く。騒がしいと眉間の皺を深めて。
     
     

     放課後、同じ寮の一年生で監督生と同じクラスの生徒に「おかえり」が誰だったのかを聞いたところ、クルーウェル先生ですと言われて暫く顔があげられなかった。あの教師にそんなことを言わせるなんてと肩が震えて仕方ない。
     さすがというかなんというか。本当に相手の懐に入るのが上手な人間だ。本人は特別意識せずにするりと懐に入り込む。入られた方もそうとは気付かず、例え気付いたとしても別に悪さをするわけではないから気にならないのだ。
     そういう人間が一番怖いというのに。

    「でもあいついっつもなんで、俺らはもう慣れましたけど」
    「おや、そうなんですか?」
    「教室に戻ってくればただいまって言うし、誰かがもどってくればおかえりなさいって言うし。いってきます、いってらっしゃいもいつもです。家かよって思いつつも悪い気はしないんですよねぇ」

     クラスメイトたちは、すっかり懐柔されているようだ。
     またしてもくつくつと笑い始めたジェイドにどうしていいのか分からず狼狽える一年生に、礼をいってその場を後にする。

     そういえば、あの人は『挨拶』に重きを置いているようにも思える。見かける度に律儀に声をかけてきて、挨拶だけを残して去っていくこともある。
     おはようございます、こんにちは、こんばんは、さようなら。それからありがとうございます、ごめんなさい。
     挨拶というより礼儀か。
     以前モストロ・ラウンジでヘルプに入った時も、休憩に入るスタッフに「いってらっしゃい」と声をかけていたような気がする。あまりにも自然だったのだろう、ジェイドも言われたかどうか、それに返事をしたかどうか覚えていない。
     はい、だけじゃなく、きちんと返事を返せていただろうか。
     気になりだすとそわそわしてしまう。
     次はいつヘルプに入るか分からない。なんせ本当に『ヘルプ』なので余程の緊急事態──人手不足じゃないとあの人は呼ばれないのだ。
     いっそラウンジでアルバイトでもさせようか。
    日々慎ましやかに質素に生きているあの人なら二つ返事で頷きそうだ。けれど学園長や教師たちの雑用係もしているようなので、もしかしたらアルバイトをする時間はないかもしれない。
     まぁ支配人であるアズールが頷かなければ無理な話なのだが。
     そこまで考えて、小さく笑った。
    こんなにも思考を巡らせるほどのことだろうか?
    ただ、そう──興味があるのだ。
     あのクルーウェルに「おかえり」と言わせるほどの「ただいま」も、クラスメイトたちを懐柔するほどの「いってらっしゃい」も意識して直接浴びてみたい。
     おざなりの返事ではなく目を見て返事をしたのなら、あの人はどんな顔をするのだろう。
    いつものあのふにゃふにゃの笑顔が更にふにゃふにゃになるのだろうか。
    「…………」
     忙しいのは嫌いではない。
     やらなければならないタスクは多ければ多いほど楽しい。
     それなら明らかな人手不足になるように、ヘルプを呼ばざるを得ない状況になるように、尚且つアズールも喜びそうな企画を考えなければ。

     明日は山登りの予定だ。
     しかし雨が降ったので地盤が緩んでいるかもしれない。
     沢の近くにあるあの場所も、明日は水に沈んでいるかもしれない。
     残念だが山登りは次の休みに取っておこう。
     誰にともなく心の中で頷いて、飽きて途中で止めた企画書はどこへやったかなと考えた。
    虹の入り江
     それはとても奇妙な光景だった。

    白い砂浜に一人座っているその少女は、海に向かって一生懸命手を振っていた。
    こちらに背を向けているので顔は見えない。
    別れを惜しんでいるのか、それとも誰かを呼んでいるのか。

    「どうしたんですか?」

    革靴が砂を踏み締める独特な感触を厭わず声をかけた。
    しかし次の瞬間、その子は消えた。

    本当に、ふっと。
    砂が波に浚われるように、炎が風で消されるように。
    その子がそこにいた痕跡すら残さず、消えた。


    ただのゴーストでは?と幼馴染みや兄弟に言われたが、場所が場所だけに気になってしまった。
    ここはあの少女との思い出の場所。
    もしかしたらと淡い期待を胸に再度訪れたジェイドは、こちらに向けられた背中に、あの子の名前を呼びかけた。
    今度は消えたりしなかったが、返事はない。
    こちらの声が聞こえていないのかもしれない。
    何度か呼びかけたが返事はなく、相変わらず少女は手を振っている。

    「…………」

    もしかして、と。
    その子の動きを見て思った。
    もしかしたらこの子は手を振っているのではなく、何かを描いている?
    よくよく見ればその指先はひどく汚れていた。爪も割れている。
    着ている服はパジャマだろうか。
    しかし砂は付着していない。
    砂浜に座って何かを描くゴースト。
    その背中は小さく細い。
    まるであの子の背中みたいだ。

    「…何を、描いているんですか」

    そう問いかけると、少女は消えた。



    その海を訪れるのが日課になった。
    どんな時間に行っても、少女は必ずそこに現れた。
    最初からいる時もあれば、ジェイドが訪れてから現れる時もある。
    声をかけても消えないが、問いかけると消えてしまう。
    だから少女が現れると、ジェイドはただ話をする。

    読んでいる本が面白くて夜更かししてしまった、マジフト大会を観覧しに行った、久しぶりに飲みすぎて二日酔いになった、陸の赤ん坊にはまだ慣れない、仕事で行った国で偶然旧友に会って驚いた、気に入っていた傘が強風で壊れてしまった。

    どれもこれも他愛ないことだ。
    話をして、背中を見つめて、また話をして。
    質問をしていないのに突然少女が消えた日もあれば、虚しくなって話を切り上げて背を向ける日もあった。
    それではまた、と。
    結ばれない約束を勝手に取り付ける日も。
    自分が来ていない日にも、彼女は何かを描き続けているのだろうか。

    「…どうして」

    そうして幾日も過ごしたある日、耐えかねて手を伸ばした。
    触れたのは、ひやりと冷たい何か。
    あと少しと言うところで何かに遮られる。
    硝子のような、鏡のような冷たいもの。
    触れられない少女は、初めて見たときから何一つとして変わらない。
    まるで思い出の中にいるあの子のようで。

    「…貴方に、触れたい」

    透明な隔たりに手のひらと額を擦り付け、呻くように呟いた。

    貴方に触れたい。
    貴方の声が聞きたい。
    貴方の顔が見たい。

    少女に向けてか、それともあの子に向けてか。
    きっとそのどちらでもあった。
    例えそれが虚しい願いだとしても、願わずにはいられなかった。

    「今日はもう、帰ります」

    引き絞るように一度だけ固く目を瞑り、詰めていた息と共にそう吐き出す。
    革靴の下で砂が鳴く。
    寄せては返す波音は、まるで誰かの慟哭のようだ。
    髪を乱す追い風にあの日を思い出した。


    僕と一緒にいきませんか。


    あの日の彼女の顔が、どうしても思い出せない。
    逆光の中であの子は。
    あの子は──。



    ──……つれてって。


    瞬間、弾かれたように振り向いた。

    少女が、泣いている。
    描き続けた手を止め、見えない何かにすがりついて。
    何か?
    違う。
    見えていた。
    最初から、ずっと。
    ずっと自分は見ていたじゃないか。
    少女の描いているものは、

    「……海を、描いていたんですか」

    呟いて、一歩踏み出す。
    少女は消えなかった。
    消えない代わりに、少女がすがりつく景色が止まった。
    波は止まり風は止み、一枚の大きな絵画になる。
    その絵にすがりつき、抱き締めるように。

    つれていって、と。

    鼓膜を揺さぶる。
    確かにそう聞こえた。

    「ユウさん!」

    叫んで、手を伸ばす。
    冷たい何かを叩き割るように、何度もそれに拳を打ち付ける。

    「ユウさん!」

    こっちを見て。
    自分は、僕はここにいる。
    僕はここにいるから。

    吹き抜ける風が少女の髪を乱す。
    すがり付いた横顔が露になった。
    あぁ、あぁ。
    貴方はそこに。


    貴方はずっと、ここにいたの。


    「ユウさん!」

    拳が割れて血が吹き出しても構わなかった。気にならなかった。
    もう、どうだっていい。

    「こっちを見て。顔を見せて声を聞かせて。連れていくから。どこにだって、一緒に。」


    「貴方は……ッ!」

    僕だけのもの。

    血を吐くように叫び続けてがむしゃらに拳を叩きつける。















    砕けた音が、悲鳴のように響き渡った。















    ジェイド先輩。


























    気付いた時には、病院だった。
    なかなか帰ってこないジェイドを心配したフロイドが、携帯のGPSで居場所を確定したそうだ。
    砂浜に倒れているジェイドの両手は血塗れで、死んでるのかと思うほどに真っ白な顔をしていたと言う。
    その時周りには誰もおらず、魔力の痕跡すらなかったらしい。

    言葉もなく、ジェイドは静かに涙を落とした。
    それはまるで彼の心そのものだった。

    一度目は手を掴むことすらできなかった。
    二度目は伸ばした手すら届かなかった。


    この手はなにも掴めない。


    「少し、疲れました」

    伝う涙を拭うこともせず、痩けた頬に微笑を刻んだ。
    窓際の花瓶の中で、透明な水が揺れる。
    差し込む光が反射すれば、伏せた睫毛に光が踊る。
    金色を溶かした涙が、巻かれた包帯に染みを作った。
    【きっかけ】檻のようだと思った。
    しかし伸ばした指先は、どこにもぶつからずに濡れるだけ。
    校舎と校舎を繋ぐ吹き抜けの廊下は少しだけ肌寒い。
    それでも手を伸ばした。
    檻のように見えるそれは確かに雨粒なのだと、ただの錯覚なのだと実感するために。
    廊下が濡れぬようにとかけられた魔法の壁。
    目に見えないそれをすり抜け、曇天に手を伸ばす。
    あぁ、これはただの雨だ。
    ただ無意味にこの指を濡らすだけ。
    冷たい指先を握り込み、ユウは安堵の息を吐いた。





    「今日晴れるって言ったじゃーん」

    スマホの画面を睨み付けたエースは、そう言って唇を尖らせた。
    画面の中では穏やかに微笑む女性がいる。最近の彼のお気に入りだったお天気キャスターの彼女は、先日有名な俳優と結婚したらしい。裏切られたと机に突っ伏していたのは彼だけではなく、他にも何人かいたのを覚えている。

    「まぁ、あくまでも予報だから」

    先の授業で返された小テストは、こつこつ復習していたのが功を奏したようで、思ったよりも点数が良かった。
    隣で呆然としているデュースの肩を叩き、今日のBランチはオムライスだよといえば少し復活したようだ。


    みんなそれぞれ、浮き沈みを繰り返す。
    波に揺られる木の葉のように。



    雨は、放課後になってもまだ降り続いていた。
    運動部の友人たちは、体育館の場所取りに駆り出されて早々にいなくなってしまった。
    グリムも教室に忘れ物をしたからと珍しく一人で行ってしまったので、生徒の疎らな廊下で一人、中庭を眺めることにした。
    楽しいものなど、ひとつもない。
    曇天から落ちる雨粒はずっと変わらぬ速度で地面を突き刺し、空気を冷やしている。雨に煙る中庭の木々はしんと静まり返り、絵画のように動かない。
    冷たい手摺を握り締めて身を乗り出すと、伸ばした指先に雨粒が落ちた。

    「濡れますよ」

    声にぎくりとした。
    振り返れば二、三歩離れた所に彼が、いつも通りの佇まいでそこにいる。
    色の違う双眸を柔らかく細めて、その頬に笑みを浮かべながら。

    「何をされていたんですか?」
    「グリムを待ってるんです。教室に忘れ物をして」

    ジェイドはそうですかと頷いたが、大して興味はないのだろう。それなのに何故か距離を縮めてきたので驚いた。すぐにこの場からいなくなるものだと思っていたのに。

    「それで、貴方は何を?」

    腰を曲げて、まるで会釈でもするかのように覗き込む。
    何がーー自分の何が彼の興味を引いたのか分からなくて言い澱むと、小首を傾げたジェイドはその手を伸ばして雨に触れた。
    黒いグローブが滴で僅かに光っている。

    「こう……されてましたよね。確か昼休みにも」

    見られていたのかと、閉口する。
    別に見られて困るような事ではないが、改めて「見ていた」事実を突き付けられるといい気分はしない。
    それが分かってて、彼は今そうしているのだろう。

    「雨が珍しいわけではないですよね。なにか意味が?」

    わざわざ冷たい水に触れる、その行為の意味は?
    濡れたグローブが手摺に触れる。ぴちゃりと濡れた音が鼓膜に届いた。

    「……意味は、ないです。ただなんとなく」
    「なんとなく触ってみたくなった?」
    「そうですね」
    「それで、どうだったんですか?」

    大して面白い話でもないのに広げようとする。
    聞いてどうするんだろうと思いながら、素直に冷たかったですと言えば、彼はくすりと笑った。

    「そうですか」

    でも、と。

    「陸での雨の日は静かでいけない。海の中と違いすぎて、それがまた郷愁を誘います」

    郷愁。
    陸を謳歌する人魚の口から出ると、少しばかり薄っぺらく感じる。


    「海ではどんな感じなんですか?」
    「雨粒が海面を弾くと、獲物と勘違いする魚が多いんです。それを狙う捕食者も増えるので、騒がしいですよ」

    それを笑うフロイドの声も聞こえます、と笑う。
    想像に容易い。けたけたとそれはそれは楽しそうに笑うのだろう。

    「それじゃあ、雨の日は少し寂しくなりますね」
    「山にも行けませんし」
    「大事なことですね」
    「そう。でも僕にはテラリウムもありますから」
    「趣味がたくさんあるといいですね。寂しく思う暇もない」
    「貴方も趣味を持ってみては?寂しさも少しは薄れるかもしれませんよ」
    「そう見えました?」
    「少し。でも寂しいとはちょっと違うような気もしました」

    ジェイドの言葉に返事はない。
    ただ微笑を浮かべているだけだ。
    やがて騒がしい声と足音に呼ばれ、その微笑も消えた。

    「……やっと来ました」

    良かったと笑うその顔は安堵にも似ている。先ほど浮かべた笑みとは種類の違うそれにジェイドの加虐心が小さく震えた。

    「おや、僕と二人はお嫌でしたか」
    「そういうわけじゃないです」

    慌てた顔にほんの少しだけ満足した気がした。再度呼ぶ声が。探しているのだろうか。あの容姿なら鼻も利きそうなのに。それとも迎えにきてほしいという甘えだろうか。

    「……呼んでますね」
    「ですね。行きます」

    困ったように眉根を下げた。それに会釈で返すと、一歩踏み出したはずの足がとまった。
    振り向いた顔は、どこか悪戯を思い付いた時の子供のようで。


    「先輩。海が恋しくなったら、こうやって耳を塞げばいいんですよ」

    両手で耳を塞いでにかりと笑う。真似してみると満足したようで何度も頷いている。

    「ざあざあ聞こえますが……。筋肉の振動でしたか」
    「ロマンがないです。これは海の音ですよ」

    さようなら。
    はい、さようなら。


    遠ざかる背中を見送ると、ジェイドは濡れたグローブをぎゅうと握り込んだ。
    話している間に少しは乾いたようだ。

    曇天に手を伸ばす姿が目に焼き付いて離れない。
    すがろうとしているのか、手離そうとしているのか。
    こういう時人間はどんな感情を持つのか気になり声をかけたが、結局分からなかった。


    再び耳を塞ぐと、海の音がする。
    ジェイドの知る海より穏やかな音だ。
    こんなことをしなくても、帰ろうと思えばいつでも海に帰れるのだ。
    二本の足を尾鰭に変えて、こんな狭苦しい身体ではなく自由にどこへでも、どこまでも行ける。

    視線を上げれば未だ降り続く雨。雨。
    曇天とぬかるんだ地面を繋ぐそれに、檻の中に囲われているような気になる。
    もしかしたらと思ったが、振り向いた時にはもう、あの小さな背中はどこにもなかった。

    ただ、さようならの言葉だけが胸に響いた。

    嵐の大洋全てが満ちていた。

    耳も目も鼻も口も頭の中も身体中、全てが。

    あぁ、満ちている──





    揺らめく、水面。
    霞む月、さざめく金色。
    靡く黒髪。

    あぁ、堕ちている。
    満ちて、堕ちていく。

    薄い皮膜は、母の胎内か。
    羊水に抱かれ、眠れ、眠れ。

    心臓の音。
    ことり、ことり。

    泡が、ひとつ。
    震えて空へ。
    泡が、ふたつ。
    縺れて弾ける。

    ぱちん、ぱちん。

    泡が、ひとつ。
    花びらひとつ。
    泡が、ふたつ。
    きらきら、きらきら。
    まるで鏡の欠片。
    踊るように揺蕩う。
    揺れて、回って、沈んで、浮いて。
    花びら、ふたつ。
    極彩色の道標。

    煌めく、水面。
    覗くのは、誰?
    泣かないで、泣かないで。
    金色から雫が、ひとつ。
    雫が、ふたつ。
    泣かないで。


    泣かないで。


    耳のすぐ近くで、何かが砕けた。
    砕けて、弾ける。
    押されるように、浮上していく。
    急激に押しやられ水面が近付いた時、身体は思い出した。

    眥が切れる程目を見開き、肺が呼吸を思い出す。
    大きく口を開けた時、一際大きく心臓が跳ねた。
    手を伸ばして、空へと飛び込む。







    激しい水音と共に、肺一杯に空気を吸い込んだ。
    潰れていた肺が空気を取り込むと同時に水の侵入も許し、喉が痛くなるほど咳き込んでしまった。
    思い出した身体は生きようと踠き、がむしゃらに腕も足も使って無様に泳ぐ。
    浮き沈みを繰り返してようやく辿り着いた陸地に倒れ込んだ。

    ベタつく身体はひどく重い。
    足首を撫でる生温さに顔だけあげて振り向けば、青い空とどこまでも広がる海。

    「……海?」

    どうして、ここに?
    自分は、どうして。

    混乱する頭で考えるが纏まらない。
    波の音が思考を邪魔する。
    ずるずると重たい四肢をどうにか持ち上げると、服の隙間から細かい砂が落ちていく。
    そこでようやく自分がいるのが砂浜だと知った。
    服は、着ている。
    見慣れて着慣れた──学園の制服だ。

    「なんで、海?」

    ここは、どこの海だろう。
    どうして海に『出た』のだろう。
    キョロキョロと辺りを見回すと、遠くからランニング中と思われる誰かが走ってきた。
    こんな濡れた格好だと不審に思われるだろう。しかし他に手立てはない。仕方なくのろのろと立ち上がると、向こうから走ってくるその人に手を振った。

    「すみません!」
    「え…?ちょっと、やだ…」

    当然ながら不審な顔をされた。
    しかしその人はずぶ濡れの制服を見て、「あなたもしかして」と、思いもよらない言葉を口にした。

    「NRCの子?」
    「あ、え?」

    声をかけたのはこちらなのに、相手よりも驚いた。
    だってその学園は。その学園の名前を知ってるということは。
    血の気が引いた。
    どうして?と呟いて崩れ落ちるように膝をつくと、慌てた様子で身体を支えられた。優しい手が何度も大丈夫?と背中をさする。
    確かに、現実だ。

    「あの、私」
    「うん。ゆっくり呼吸して、ね?」
    「か、鏡をくぐって、私」
    「うん。座標がズレたのかな。とりあえず一旦学園に…いや、警察?」
    「鏡をくぐって、」


    ──元の世界に帰るはずだったのに。












    泡が、ひとつ。
    震えて空へ。
    泡が、ふたつ。
    縺れて弾ける。

    ぱちん、ぱちん。

    泡が、ひとつ。
    花びら、ひとつ。
    泡が、ふたつ。
    きらきら、きらきら。
    まるで鏡の欠片。
    踊るように揺蕩う。
    揺れて、回って、沈んで、浮いて。
    花びら、ふたつ。
    極彩色の道標。
























    ディア・クロウリーは息を止めた。
    呼吸の仕方を忘れたように微動だにしなかった。
    いや、出来なかった。
    警察から迷子らしき生徒を保護したと連絡を受けた事務のゴーストに、学園長をご指名だそうですと言われて渋々やってきただけなのに、今、呼吸の仕方を忘れている。
    どうして?
    なぜ?
    いや、待って。え、なんで?

    「あ、あ……」

    呆然とそれだけを繰り返す。
    不審に思った隣の警察官が、小さく咳払いを落とした。

    「学園長?」
    「は、い」
    「この子、お宅の生徒さんで間違いないですか?」

    間違いない。
    間違いないが、間違っている。

    ふらりと一歩踏み出すと、腰にくくりつけた鍵が鳴った。
    こちらを見つめる双眸は、黒曜石。
    どうして、と。
    知らず知らず瞳に問いかけていた。

    「どうしてここに」

    目の前にいるのは、確かに生徒だ。
    いや、生徒だった子だ。
    遠い昔にやってきて、遠い昔に送り出した生徒。
    元の世界へと。

    あの時確かに、送り出したのに。

    「ユウ、くん」

    その子は──ユウは小さく頷いた。











    「あの、私、鏡をくぐって元の世界に帰ったはずなんですけど……」
    「……ええ」
    「帰ったと思ったのに、海の中にいて」
    「……はい」
    「学園長、聞いてます?」

    俯いたり天を仰いだりを繰り返しつつ弱々しい返事を返してくる学園長に、いよいよ不安になってきたユウだ。
    帰れるはずだったのに。
    鏡をくぐって世界を越えたはずなのに、賢者の島から少し離れた陽光の国の海岸に漂着するなんて。
    あれだけわんわん泣いてさようならしたのに、希望が絶望に変わって一周回って羞恥しかない。

    「……聞いて、ます……っ」

    今にも崩れ落ちんばかりに呻くようにそう返されて、責めたくても責められなかった。
    失敗したことを悔やんでいるのだろうか。
    だけど彼にも予想外だったのだろう、ユウを見た瞬間、仮面の奥の瞳らしき光が最大限開かれていた。

    「……あの、学園長……?」

    部屋には学園長とユウしかいない。
    警察官たちに退室を促したのは学園長だ。
    聞いたことがない程低く響く声で「退室を」とだけ言った。

    「あの、私、怒ってはいないんです。ただ、なんでかなぁって。失敗したなら失敗したで別に」

    もう一度挑戦しましょうよと言おうとしたが、言えなかった。
    鋭い爪の装飾のついた片手で顔を覆い、もう片方の手のひらをこちらに向けて付き出されたのだ。
    それ以上は、言うなと。
    言葉を紡ぐはずの唇が空回る。
    何度かそれを繰り返していると、学園長が動いた。
    ジャケットの内ポケットからスマホを取り出し、目を見張るほどの速さで操作する。

    「緊急招集。五分後及び十分後……いえ、十五分後に転移魔法発動します」

    電話の向こうの誰かにそう言った。
    それから数字を幾つか言って、一度通話を切るとまたどこかに掛け直す。

    「近くに誰がいますか?……そうですか、それは好都合。五分後彼に転移魔法を発動させます。ええ、五分後です。他の方は十五分後学園に転移させます。はい、ぶん殴ってでも起こしてください。他の誰でもない『彼女』の瞳に、一番早く映りたいなら」

    早口でそう言うと、相手の返事を待たずして通話を終えた。
    それからユウに向き直ると、「五分後です」と静かに伝えた。

    「五分後、貴方の世界は変わります」

    静かだけれどどこか深みのある、慈しむような声音だ。
    世界が変わる?
    意図を汲み取れず不安げに繰り返したユウに、学園長は小さく笑みを浮かべた。
    そうしながら側にあった机や椅子を壁際へと移動させると、持っていた杖で床をガリガリ削り始める。

    「戸惑うことはたくさんあるでしょう。不安も恐怖も。後悔も。だけど貴方は、それを埋めて余りあるほどの幸福を手に入れるんです。背負った『罪』は森羅万象の理を超えて贖われた」

    幾つもの円陣と、見知らぬ装飾のような何かを流れるように描いていく。踊るように、軽やかに。泳ぐように、悠然と。

    「さぁ、残された時間は少ないですよ。最後に確認しておきましょうか」

    学園長はそう言うと、杖を高く掲げた。

    「ユウくん」
    「はい」
    「貴方が元の世界に戻るためと鏡をくぐる瞬間を、覚えていますか」
    「…はい」

    覚えている。
    制服のポケットに宝物を、思い出を詰め込んで鏡に手を伸ばした、あの瞬間を。

    「それでは最後に貴方がその瞳に映した人物を、その耳で聞いたその人の言葉を覚えていますか」

    覚えている。
    忘れるはずがない。


    ──愛してます。


    「……ジェイド、先輩」


    唇が紡げば、じわりと目頭が熱くなった。
    名前だけでもう、こんなにも愛おしい。
    面影を浮かべるだけで、こんなにも幸福を感じる。

    「……私、手を取れなくて」
    「ええ。知っています」
    「でも」
    「でも?」
    「先輩に会いたい」

    大粒の涙を落としながら呟けば、学園長は大きく頷いた。

    「ジェイド・リーチ。貴方『も』赦されました」



    掲げられた杖が、振り下ろされる。
    全てを塗り潰す白い光に、包まれた。







































    光の中に、あの日の背中が見えた。
    手を伸ばせなかった、あの日。
    ぶわりと風が吹き抜ける。
    あの日彼の髪を乱した追い風が、今は背中を押している。
    押し出されるまま、一歩踏み出す。
    そうすればもう、自然と手を伸ばしていた。

    先輩。
    ジェイド先輩。

    喉が張り裂けるほど、身体中で叫んだ。
    背中が、振り向く。
    見開かれた金色と榛を正面にとらえた時、彼もまたこちらに手を伸ばしていた。
    指先が、触れる。

    その瞬間、力強い腕に抱かれた。
    嵐の大洋Ⅱ言葉にならなかった。
    溢れるもの全て、万感の想いを乗せて掻き抱いた。
    背中に食い込む爪の固さ、触れる体温、重なる鼓動、その全て。
    これは、現実だ。
    現実なのだ。
    込み上げて溢れて、だけどそれでは足りなくて。
    名前を呼びたい。
    謝りたい。
    愛を囁きたい。
    しかしどれもできなくて、言葉を紡ごうとしても唇は震えて嗚咽だけが押し出されてしまう。
    腕の中に、確かに、存在している。
    現実に、ここに。
    生きて。
    まるで生まれたての赤子のように大声で泣いて、この身体にしがみついて。
    貴方が、ここに。
    僕の、腕に。

    「……ユウさん……ッ」

    絞り出した声は、確かに彼女の鼓膜を揺らした。



    その声を受けて、答えるようにユウは抱き締める腕に力を込めた。
    この身体を抱く腕より遥かに力は弱いけれど、それでも精一杯引き寄せしがみついた。
    一ミリの隙間も、風の抜ける隙間すらも作りたくないとでも言うように。


    あの日、手を取れなかった。
    本当は一緒にいたかった。生きたかった。
    あの日、叫べなかった。
    本当はずっと好きだと言いたかった。
    私も貴方を愛してますと、叫びたかった。

    「せん、ぱ…っ、すき、好きで、す」
    「…はい」
    「いっしょ、に…一緒に生きていきたいです……っ」
    「はい」
    「わた、私、先輩と一緒に、生きたい…ッ」

    ずっと一緒がいいです、と。
    嗚咽混じりに繰り返す。
    元の世界には、帰れなかった。
    いや、帰りたくなかったのかもしれない。
    手を取れなかったことを悔やみ、叫べなかった愛が自分を引き留めた。
    だから元の世界には戻らなかったのだ。
    過ぎ去った過去もやがて訪れる未来も、絡まった現実に還る。
    力強く優しく温かなこの腕だけが、全てを溶かす。

    顔を、見せてと。

    声が降ってきた。
    背がしなる程抱き竦めていた力が緩まり、涙に濡れた頬に触れた。

    「顔を見せてください」
    「今、ひどい顔してます」
    「僕も同じです。……いえ、僕の方がひどいから、驚かないで」

    促され、顔を上げた。
    吐息が触れる距離の双眸は、胸が焼けつく程に恋い焦がれた金色と榛。

    「あぁ……貴方は変わらないまま、戻ってきたの」

    その言葉に、違和感が生まれた。
    今目の前にいるのは確かにジェイドなのに、ジェイドのはずなのに、どうしてだろう。

    「先輩、やつれてます?……少し老けたように見え……あれ?」

    改めて、首を傾げた。
    しがみついていた手を緩めてその頬に手のひらをあてがうと、

    「三十超えたらおじさんですかね」

    ジェイドは綺麗な瞳を細めて笑った。

    「さん……え?おじさ…え?」
    「嫌ですねぇ。君がおじさんなら私なんておじいさんじゃないですか」

    ぬっと会話に入ってきたのは学園長だ。
    その足元には先程とは異なる円陣が描かれている。
    それをコツコツと杖で叩きながら大きな溜め息を吐く。

    「二分遅れていますが、学園に転移します。こちらへ来てください」

    混乱中のユウに立つよう促したジェイドが、再びユウを腕の中に閉じ込める。
    改めて見上げれば彼は優しく微笑んでいて、けれど記憶のそれより随分と大人の男の顔だった。











    眩しい光にぎゅうと固く目を瞑ってジェイドにしがみついていると、優しく背中を叩かれた。

    「ユウさん、目を開けて」

    厚い胸板にめり込むほど押し付けていた顔を上げる。
    微笑むジェイドの背後に見えたボロボロの天井は、見慣れたオンボロ寮のそれで。壁紙の色からすれば談話室だろう。
    ほっと息を吐いて、視線を巡らせる。

    「!」

    ユウの肩がびくりと震え、またきつくジェイドの身体を抱き締めた。いや、しがみついたというのが正しいか。
    巡らせた視線の先に、見知らぬ大勢のお兄さんたちがいたのだ。
    みんな目を丸くしてこちらを見ている。
    怯えないはずがない。
    怖いと呟きかけた時、視界の隅から何かが飛んできた。

    「ひ、」
    「ユウーーー!!」

    飛んできたそれはぶつかる寸前ジェイドに捕まり、空中で手足をバタつかせて泣いている。
    大型犬くらいの大きさのそれは、見慣れた毛色と、見慣れた声。

    「……グリム?」
    「ふなぁぁぁん!!」

    見慣れているはずなのに見慣れないグリムが、ジェイドの手から逃れて腰に抱きついてきた。
    そして弾けたように歓声があがった。

    「え?」
    「ユウ!ユウ!」
    「え、誰!?先輩、助けて!」

    呆気に取られる隙もなくお兄さんたちがわぁと駆け寄ってくる。怖い怖いと再びジェイドにしがみついたが、はたと気付いてお兄さんたちを改めた。
    待って。
    本当に知らない?いや、知ってる。
    面影が、ある。
    だけど、違う。
    ぞわりと肌が粟立った。

    「……何年、経ったの……?」

    血の気が引いた。
    ユウを取り囲む彼らも、ぴたりと動きを止める。

    「ユウさん」

    震え出す身体を暖めるように、ジェイドが背中からその腕の中へと誘う。
    落ち着かせるように髪を撫で、頬に触れ、背中をさすった。それから一度強く抱き締めると、血の気が引いたユウの頬を優しく包み込んだ。

    「あの日、貴方が鏡をくぐった日から、十六年経ちました」

    ゆっくりと、教え込むように。

    「じゅ、十六、年……?」
    「はい」
    「でも私……え……?」

    その間、どこにいた?
    気付いた時には海で。
    人間が海で十六年も生きているはずがない。
    それなら、私はどこにいた?
    空白の時間は、どこに?
    私は、『何』者?

    「人の子」

    するりと前に出てきたのは、漆黒のマントに身を包むマレウスだ。
    彼は、記憶の中と違わずそこにいる。
    ただ少し違うのは、髪型くらいだろうか。

    「安心しろ、お前はなにも変わっていない。魔力の欠片もない、か弱き人間のまま。お前は世界の理を超えただけ。嘆くことなどひとつもない」
    「世界の、理?」

    繰り返して呟くと、どこかからか啜り泣く声が聞こえた。
    見ればこちらを見守っていた『彼ら』が、その瞳に涙を湛えている。
    けれど悲しい表情ではない、微笑み頷き見つめている。
    これから調査はしてみますがと、学園長が踵を鳴らした。

    「十六年前、貴方は確かに元の世界に帰りました。貴方の部屋にあった鏡をくぐって。それが割れてしまったのが十年前でしたか?」
    「八年前です」
    「……どうも、ジェイドくん。そして彼、ジェイド・リーチくんが海岸で貴方を見たのが、三年前」

    海岸で、見た?
    そんな記憶はないとジェイドを見上げると、彼は困ったように笑っていた。

    「……貴方は砂浜に座って、ずっと海の絵を描いていました。最初は何をしているのかも、貴方が誰なのかも分からなかった。だけど『つれてって』と。描いた海にすがりついて泣いていたのは、確かにユウさん、貴方だった」

    そう、あれはユウだった。
    いくら彼女を見送った日から月日が経っていたとしても、見間違えるはずはない。
    毎日写真の笑顔を眺めていた。
    毎日巻き貝で切り取られた声を聞いていた。
    一時も忘れるはずがない人を、見間違えることはない。

    「これはあくまで推測なんですけど」

    そう言った学園長が杖を一振すると、談話室にソファーが現れた。それからテーブルとティーセットも。

    「皆さん、どうぞ。ユウくんも」
    「あくまでも推測だから、気を楽にして聞けって事ね」

    凛と響く美声と迫力を増した美貌を湛えた『彼』がソファに沈めば、それを皮切りにみんながそれぞれ腰を落とす。
    ユウに配慮して寮毎に分かれてくれたようで、ようやく誰が誰だか分かった気がした。

    「さて、話を聞こうか」

    草原色の瞳を湛えた男が悠然と不敵に笑うのを受け、学園長が再びその口を開く。

    「十六年前、ユウくんが消えた後に残ったものを覚えていますか?そう、花びらと水溜まり。その後調べたら涙というより海水に近い成分でした。しかしここの世界のそれとは異なっていたので、解析には随分と時間がかかりましたが。なのでざっくりと『海水らしきもの』と表現しますね。それと花びらはよくある、フラワーショップや道端で見掛ける、いたって普通の花たちでした。
    そして、ジェイドくん。貴方はその海水らしきものが付着した花びらを海に流した。そう、貴方たち二人の思い出の海岸から。
    それからユウくん、貴方本当は元の世界に一度戻っていたのではないかと。そこで貴方は、海の絵を描いた。美しい思い出の場所であり、後悔の記憶の場所でもある、海を。
    それを媒介にして、元の世界とここ、ツイステッドワンダーランドは確かに繋がったのでしょう。そして海を媒介にして世界は繋がったので、鏡はその役目を終えて割れた。
    ユウくんの宝物は向こうの世界には行けなかったので戻ってきたんでしょうね。本来ならすぐに排出されるべきものですが、あちらとこちらの時間軸がズレていたために時間差で戻ってきたのかも知れません。
    そして向こうの世界にいたユウくんは、どれくらい経ってからは分かりませんが、何らかの現象によりまたこちらに引き戻された。まぁ、引き戻されたのか、呼ばれたのか、それともはたまた違う理由か。
    鏡のない今、媒介は海です。
    ユウくんが残した花びらと海水、向こうの世界で描いた海、思い出の海。そして十六年という月日は、ユウくん、貴方が向こうの世界で生きてきた年数でしょう?もしかしたらこの十六年は、過ぎるべくして過ぎた年数なのかもしれません。ただ、この世界に生きている貴方たち……特にジェイドくんには、つらくて長い時間でしたね」

    持ち上げられたカップが小さく音を立てる。
    誰も口を開かなかった。
    何を思っているのだろう、組んだ自身の手、ボロボロの天井、窓の外、各々静かに視線を向けている。
    そろりと隣のジェイドを盗み見た。
    彼は少し目を伏せていた。
    十六年という月日に想いを馳せているのか、微かに睫毛が震えている。
    ユウにとって、彼との別れは数時間前の出来事だ。
    けれど彼は、それこそ瞬きの間に十六年分先に行ってしまった。
    ユウへの思慕を胸に抱いて。

    「……」

    学園長は、言った。
    不安も恐怖も後悔すらも埋めて余りあるほどの幸福を手に入れると。
    果たして自分は、同じものをジェイドに返せるのだろうか。
    彼の不安も恐怖も後悔も埋めて余りあるほどのものを、十六年分の空白を、埋めてあげられるのだろうか。

    胸が締め付けられた。
    寄り添うジェイドの手を強く握り締めると、柔らかな光を湛えた双眸がこちらを向いた。

    「確かに十六年は長いものでした。実際何度か挫けてます。だけど貴方がここにいるということが、この十六年分の絶望も後悔も昇華させる。貴方の存在そのものが僕の『幸福』であり、『未来』なんです」

    そう言って繋いだ手に口付けが落とされる。
    その瞬間、どこからともなく黄色い花びらが一枚降ってきた。

    「……花びら?」

    それは羽根のようにふわふわと落ちてきて、溶けるように消えてしまった。
    もしかしたら遠いあの日にユウが残し、ジェイドが流した花びらの一枚かもしれない。
    二人は視線をあわせると、額を寄せて笑い合った。


    「さあ、熱いベーゼを交わしておくれ!」

    突然上がった声に弾かれたように振り向き、ユウは顔を綻ばせた。

    「すごい違和感しかないです」

    ソファから立ち上がった面々が纏うのは、ユウもよく知る寮服だ。
    彼らにとっては懐かしいが、ユウにとっては違和感しかない。何故なら面影はあれどみんな年上で、中にはがらりとビジュアルが変わっている者もいるのだから。
    隣のジェイドも立ち上がり指をパチンと鳴らすと、寮服を身に纏った。
    歳を重ね月日を見送ったその姿に胸がときめく。
    変わりゆく過程を知らないのが悔やまれるが、同じ人物にユウは二度目の恋をした。
    きっとこの先、何度も恋に落ちる予感がする。
    踵を鳴らした学園長がユウの正面にやってきた。
    それから杖を一度振ると、制服が式典服へと姿を変える。

    「ここはウエディングドレスとかじゃないの?」
    「気が利かない」

    途端に沸いたブーイングに、学園長がだまらっしゃいと杖を掲げた。

    「まだ嫁には出しません!」

    そう叫んで床を一突きすると、部屋中に溢れんばかりの花が咲いた。



    さぁ、ハッピーエンドをはじめましょう。



    後日談眠れないの?
    仕方ないなぁ、おいで。


    ……あの子の話が聞きたいって?
    ってどこまで話してたっけ。
    あぁ、そうそう。
    あの子が戻ってきた後ね。


    戻ってきたあの子はまだ十六歳だったから、特例としてまた学園に通うことになった。
    あの子が学びたいって言ったから、みんなで協力したんだ。
    え?
    どう協力したかって?
    それは……うん、穏便にだよ穏便に。
    各方面に顔の効くメンツで上層部に『お話』しに行っただけだよ?
    まぁ、いいでしょそれは。
    とにかくあの子はまた学園に戻ってきた。
    それでもやっぱり魔力のない人間があの学園にいるのをよく思わない奴らもいるわな。
    だけどあの子は、強い子だからね。
    力じゃなくて、頭がいいっていうのかな。
    まぁあの子の後ろにいる面々がアレなもんだから、元々ある強かさに加えてそういう奴らの対処法を身に付けたわけ。
    あれは敵に回すもんじゃないね。
    味方にいたら面白ぇけど。
    それでそこそこ楽しい学園生活を送ったんだ。
    勿論、勉強も頑張ったよ。
    それもみんなで協力したんだ。
    知識が豊富な奴らが周りにはたくさんいたからね。
    みんなあの子が大好きだったから協力したんだ。
    付かず離れず見守りながら。

    え?
    あぁ、あいつ?
    あいつは過保護すぎていけない。
    オンボロ寮の一室を自分の家に繋げて、甲斐甲斐しく通ってたよ。
    さすがに学園の寮だからって学園長も渋い顔したけど、あの子は魔法の使えない女の子で何かあったらどう責任を取るおつもりで?って学園長と上層部に詰め寄ってた。
    ガチガチに防御魔法で固めた寮なのにね。
    あの子を大切に思うみんなでかけた魔法だから、そんじょそこらの奴じゃ歯が立たない。
    それは分かっているのに、離れたくなかったんだろうね。
    気持ちは分かるけどやりすぎだよな。
    あの子が少しでも引いてたら止めさせてたけど、笑ってんだもん。
    嬉しそうに笑ってるから、誰もあいつを止められなかった。
    そんなわけで学校の行き帰り、わざわざ送り迎えしてたわけよ。
    同じ場所に帰るのにね。

    そんな感じで過ごして、学年があがって研修にも出て。
    すげぇ悩んでたけど研修先は海洋研究の会社にしてたよ。
    海はあいつの故郷でもあったし、色々と思い入れのある場所だからね。

    長いホリデーには二人連れ立っていろんな国を回ったんだ。
    そう、あいつがあの子の思い出を拾い集めたあの時みたいに。
    そして旅行の最後は、必ずあの海岸に行く。
    どんな天気でも必ず行って、写真を撮って帰ってくる。
    それが二人の決まりごとだった。

    そしてあの子が卒業する日。
    あの子が関わった全ての奴らが集まったんだ。
    人間も妖精も獣人もゴーストも人魚も、種族も年代も関係ない。
    みんな純粋に彼女の卒業を喜んだ。
    だってそうでしょ?
    遠い昔に入学したあの子が、長い月日を経てようやく迎えた日だったんだから。
    絶対に来ないと思っていた日が来たんだ。
    そして。
    あいつがずっとずっと待ち望んでいた日。
    みんなの前で、あいつはあの子の前で膝を着いた。
    そして言ったんだ。

    「僕と一緒に生きてください」

    あの子は目も鼻も真っ赤にして、頷きながらあいつを抱き締めた。
    そしてあの子からキスをしたんだ。
    その時のあいつの顔と言ったら……もうマジで一生笑える。
    写真も動画もあるから明日見せてあげるね。

    二人の結婚式は、それはもうすごいものだったよ。
    あの子は質素でいいと言ってたけど、そういうわけにはいかない。
    卒業式もそうだったけど、絶対に来ないと思っていた日が来たんだから。
    奇跡みたいなその日を、みんな心の底から祝福したよ。
    みんな泣いて喜んで、踊ったり歌ったり。
    まるで昔に戻ったみたいだった。
    みんな年は取ったけど、あの時確かに一緒に過ごした昔に戻ってた。
    それを誰より喜んでいたのは、たぶんあの子だったんじゃないかな。


    これは後から聞いたんだけど。
    知らない間に流れていた十六年に、あの子は何度も心を乱されてたんだって。
    ひとりだけ取り残されてるようだって、涙を落とした時もあった。
    そんな時、あいつはあの子を抱き締めて話をしてあげたんだ。
    各方面から集めた写真や動画を見せながらね。
    社会的な話は少しだけ。
    ほとんどがあの子を知るみんなのプライベートな話ばっかりだったよ。
    そういうの集めるの得意だからさ。
    そうやって根気強く話をしてあげて、その都度あの子の感情も汲んで、まるでその場にあの子がいたみたいに、時には直接相手から話を聞いているみたいにして、あの子の心に寄り添った。
    大変なことだけど、あいつにとってはそれすらも幸せなんだ。
    あの子の不在だった十六年を、そうやって一緒に埋めていけるんだから。








    ……全然寝ないのね。
    え?明日帰っちゃうからまだ一緒にいたい?
    あはぁ、そっかぁ。
    それじゃあお前が生まれた日の、顔面雪崩なパパの写真見る?







    【???】母に手を引かれ公園から帰るその道中、猫の鳴き声を聞いたその日を覚えている。

    にゃぉん。

    風に乗って聞こえてくる鳴き声に足を止めて辺りを見回した。公園から家までは緑道が続いていて、緑眩しいこの季節は、日差しを避けるのには最適だ。春には舞い落ちる桜の花びらと戯れ、秋にはどんぐりを広い集める。冬には父にソリで引っ張ってもらうこの道は、私の大好きな道。

    にゃあ。

    ねぇ、ママ。
    なぁに?
    ねこちゃんの声がするよ。
    そうだねぇ。
    迷子かな?

    母に言葉を向けながらも視線はキョロキョロと声の主を探す。やがてあの辺かなと当たりをつけると、優しく暖かな手を引いた。
    ウッドチップの道を逸れ、木立の中へ。名も知らぬ白と黄色の花が咲き乱れる中心に、その猫はいた。

    にゃおん。

    グレーの毛並みのその猫は、青色の瞳をきらきらと瞬かせてお行儀良く座っていた。こちらの様子を窺っているようではなく、待っているかのようだった。
    繋いでいた手を離して駆け寄っても、その猫は逃げる気配がなかった。それどころか待ってましたとばかりにしゃがんだ膝にすり寄り、撫でろと額を擦り付けてくる。
    可愛いねと母の手が猫の頭を撫でると、嬉しそうにゴロゴロ喉をならしながらまたにゃあと鳴いた。

    これは、運命だ。

    幼心にそう思った。
    だってこの猫は、この子は、こんなにも私を見上げてくる。温かな身体を擦り寄せ愛してと鳴いている。

    「ねぇ、ママ。私この子と帰る」

    小さな腕で柔らかな身体を引き寄せ抱き締める。加減の知らない子供の力で抱き締められても、猫は怒らない。頬を寄せるとざらついた舌に額を舐められた。

    「この子と寝るの。一緒にごはん食べて遊ぶの」

    小さい命の鼓動を聞いた。
    野良猫にしては綺麗な毛並みで汚れていない。だけど首輪もない。猫はするりと私の腕から背中を伝い、肩へと乗った。
    まるで最初からそこが自分の居場所であるかのように。

    長い尻尾の先がくるりと巻き付く。離さないと言っているようで嬉しかった。ずしりと重い命に前屈みになりながらも、隣で同じようにしゃがむ母を見上げて懇願を繰り返す。
    今まで──記憶は曖昧だけど、こんなにねだったことはない。
    諦めが早いわけではなく、父と母が私の納得いく妥協案を出すのが上手いのだ。だけど今回は違う。この子は、他の何かに代えられない。
    この子がいい。
    この子と一緒にいたい。この子がいれば毎日楽しいし、つらいことだって乗り越えられる。今よりもっと優しく強くなれる。
    決して手離してはならないのだと、伝えた。
    逆巻く嵐のように渦巻く海のように感情が暴れる。幼い私はその感情を言葉にできずにはらはらと涙を落とした。拭うように揺れる尻尾はべちゃべちゃになって顔に張り付くけれど、厭わなかった。
    困ったなと母が溢したとき、遠くから私たちを呼ぶ父の声が聞こえた。
    なかなか帰ってこないので迎えにきてくれたのだろう。
    木立の隙間から父の長身が見えた。
    父は私たちを見つけるのがとても上手なのだ。繁る葉を掻き分けるようにしてやってきた父は、肩に猫を乗せた私を見て頬を緩めた。
    可愛い娘がより一層可愛くなっていると笑い、見上げてくる猫をするりと撫でた。
    迷子かな?それとも野良かな?と母に聞いているが、そんなことより私はこの子と帰りたいのだとまた泣いた。
    自分の体温と猫の体温が混ざり、背中はじっとりと汗をかいていた。

    泣かないで。
    母が言った。
    泣かないで。
    父が言った。
    にゃおん。
    猫が言った。

    私の涙を拭いながら、父が困ったように笑う。

    この子が迷子かどうか調べないといけないよ。
    うん。
    家族がいたら、家族の所に帰してあげないと。
    うん。
    その時泣かずにさようならできる?
    ……うん。

    そう返事はしたけれど、確信があった。
    この子が迷子だったのは、さっきまで。
    私が見つけた。
    私のところに来るために、私と家族になるために、この子は迷いながらもここに来たのだ。

    だって、声が聞こえたもの。
























    ──祝福を授けよう。




















































    やっときたかと、彼は言った。
    お前で最後だと笑っていた。
    これでようやく次に行けると吐き出された溜め息は、安堵の色を纏っていた。
    さて、それでは行くとしよう。
    立ち上がった彼がそう呟くと、身体がふわりと宙に浮いた。
    流されるように漂って、くるくると回る。
    彼は小さく笑いながら指を振った。
    ぽつぽつと小さな光が明滅を繰り返し、浮かんでは消えるその光の中に、懐かしい顔が幾つも見えた。
    その中で一際大きく明るい光に、あの子がいた。
    怒ったり泣いたり笑ったりして忙しい、あの子。
    懐かしくはなかった。
    何故ならいつも思い返していたから。
    声も顔も確かに覚えている。
    薄れていくのはぬくもりだけ。
    だから、また会いたいなと思った。
    一度目の別離の時、鏡を通る前にあの子は、またね、と言った。
    そして言葉の通りまた会えた。
    随分と時間はかかったけれど。
    そして今回も、あの子はさよならとは言わなかった。
    だから、また会えるのだ。
    いや、会いに行かなくては。
    あれからどれくらい経ったのかは分からない。
    だけど彼は『お前で最後だ』と言った。
    それなら自分が行かないと、彼も行けないのだろう。
    あの子もあいつも、あいつらもみんな、また、と言った。

    またお会いしましょう。
    また会おう。
    また会おうね。
    また会おうぜ。
    また会いましょう。

    ──また、会いたい。

    お前の願いは叶うと、彼は言った。
    僕はもう待つのは飽きたと笑っていた。
    だから言ってやった。
    お前は待ってばかりだから、たまには自分から招待すればいいんだゾ。
    彼は驚いたように目を見開き、それから大きく笑い声をあげた。

    「そうだな、それならこれを僕からの招待としよう」

    夢ではない、けれど夢のように楽しい日々への招待だ。
    一度結んだ緣の糸は途切れない。
    太さや色が変わっても、同じ糸。
    全ては連綿と続いていくのだ。
    さぁ、目を閉じろ。
    お前と──そう、僕で完成だ。
    魂を紡ぎ、清らかな水の流れで世界を織ろう。
    全ては仮初めの別離だ。
    記憶になくとも魂は覚えている。引き寄せられる。
    巡り巡って命の回廊を音を聴け。
    さぁ、皆の行く末に祝福を──


























    正式に猫が家族になった。
    名前をつけようと家族三人で会議を開いたが、いくつも候補はあがるのになかなか決まらなかった。どれもこれもしっくりこないし、猫に呼び掛けても返事ひとつしない。
    そんな中、母がおずおずと手を上げた。

    ──あのね、猫を飼ったらずっと付けたかった名前があるんだけど。
    母はそう言うと、その膝の上で丸くなっている猫をゆっくり撫でた。
    よく見れば毛先が三つに分かれているその尻尾の先を、母の手に巻き付ける。


    「グリム」


    ふなぁん。

    その一言で、猫の名前は決まった。






    おわり


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