「甘噛み」 リビングのデスクに広げた資料とパソコンを前に、おれが仕事に苦しめられていたとある深夜のこと――きい、と扉の軋む音が静かな空間に響いた。はっとして振り返れば、ドアの隙間から室内を覗き込むパジャマ姿の恋人の姿が見えて、おれは目を細めた。
「ユウリ。どうしたの?」
「……ヴィクトル、まだ寝ないの?」
意思の強そうな眉が、かなしげに下がってるのを見て、罪悪感が刺激される。
「うん、ごめんね。もうちょっとかかるよ」
「さっきも、それ聞いた。ねえ、ヴィクトル。もう今日は一緒に寝ようよ」
おれの返事に、勝生家の末っ子は少しだけ唇を尖らせて裸足の足でペタペタと部屋の中に入り込んでくる。
おれの隣に座り、ぎゅっとTシャツの裾を掴んでくる恋人の仕草に気持ちがゆらいだが、拒絶には聞こえないようにできるだけ優しい声で言った。
「ユウリ、先に寝てていいよ。疲れてるでしょ」
「……今日はヴィクトルと一緒に寝たい」
「嬉しいお誘いだね……」
今晩のユウリは、随分とあまえたな気分らしい。可愛い。あまりにも可愛すぎて、急ぎの仕事があることがたまらなく憎い。
ごめんね、と再度恋人に謝罪し、心を鬼にしてキーボードを打っていると、突然、二の腕ににぶい痛みが走った。驚いて視線を向ける。
かぷり。
かぷかぷかむ。
「……」
見れば、おれの腕を手に掴み、半袖から剥き出しの肌にやわらかく何度も歯をたてるユウリの姿があった。そう、まるで子猫の甘噛みのように。
「……可愛い」
思わず声が漏れる。おれと目を合わせたユウリは噛むのをやめて、不服そうに唇を尖らせながらあまえたような声で言った。
「……こっち見てよ、びくとる」
上目遣いのアーモンド色の瞳、柔らかそうな頬に、おれの理性は吹き飛んだ。思わず、はっ――と低い笑いを零してしまう。深い息を吐きながら、静かにPCを閉じた。
「……『朝』、そんなに足りなかった? ユウリ」
「え……? あっ…!」
ユウリのパジャマに手をかけ、その裾を引き上げる。照明の下、露わになったのは、あちこちに散らばる赤い情交の跡といくつか残されたおれの歯型――全て、今朝のベッドの中で恋人と愛し合った証だ。動揺して目を白黒させるユウリに、おれは優しく微笑みかけた。
「ごめんね、エッチの時ちょっと噛んじゃって。ユウリがあまりにも可愛くて、我慢出来なかったんだ。でも、ユウリはもっと噛まれたいみたいだね?」
「そんな意味じゃな……! びくとる!」
ただ純粋に、あまえたモードだったであろうユウリ。逃げようと踵を返した背中を捕まえて、その身体を抱き上げる。腕の中で暴れるユウリを連れて行くのは、勿論二人の寝室だ。
「やだやだ! もう一人で寝る!」
「遠慮しないで? ユウリ?」
気が済むまで、沢山噛んで、愛してあげる。おれを目覚めさせたのはユウリなんだからね?
おしまい