蚕食した愛への形骸化 ここではないどこか遠い──もう二度と行くことの出来ない地で暮らしていた感覚が抜けきれないまま、時間が過ぎていく。
夢から覚めた後は兎劉と暮らすようになっていた。
あれからもう7日は経つらしいが、白亜──否、“夢から覚めた”亜瑠はまだ3日ほどの時間しか感じられていなかった。あれから一睡も出来ていなかったからだ。眠らないと一日が終わった気がしないのだが、どんなに横になって目を閉じていても眠気すら来ない。そんな感じでぼんやり一日を過ごしていると、気がついたらあっという間に朝から夜になり、また朝を迎えているのだ。
もしかしたら自分は、あれで一生分眠ってしまったのかもしれない。
最初は夢であったことが受け入れられず、一日中兎劉に質問攻めをした。
兎劉は困った顔をしていたが、隣に座って亜瑠の質問に全て真剣に答えた。答えられないことも勿論あったが、答えられることにはすべて答えてくれたように思う。
2日目の午前はぼんやり過ごしていた。
あれらが夢だったことを実感したのか、昨日のように混乱はしていなかった。少し頭を整理したくて、ただぼんやり何もない白い壁を眺めていた。
いまいる家は少しオシャレだった。壁は白くて床は薄暗いフローリング。家具はすべて薄い肌色か白色な、全体的に色が薄い家だ。兎劉は黒以外の濃い色が好きではなかった気がしたので、きっとすべて兎劉の好みだろう。
壁に触ると少し手がざらつく。爪で引っ掻けば簡単に傷がつくかもしれないと思い、ガリッと爪を立ててみたが思っていたより頑丈で傷は付かなかった。自分の色のない爪を眺める。髪も爪も、白亜だったときとは比べ物にならないほどキレイだった。兎劉が手入れをしてくれたんだろう。恋人の爪や髪を整えることに、兎劉は喜びを感じる男だったから。
キッチンらしき場所には何もなかった。見たところ電力もガスも無さそうだ。こんな場所でどうやって暮らしているんだろうと思ったが、鍋や包丁らしきものを見つけて、一応食事はどうにかなっているのだと推測する。
今は家にひとりだった。
気を利かせてくれたのか、兎劉は早朝から昼まで出掛けていた。どうやら家の裏に畑があって、兎劉はそこで毎日野菜を収穫しているようだ。帰ってきたときには腕に抱えた籠に野菜がいっぱい詰まれていた。
3日目はさすがに退屈だった。することがないのだ。
兎劉は卒なく家事をこなしてしまうし手伝いも拒むため、出来ることもやることも無い。……かといって他にすることもしたいことも無い。
よく見ると家の中はオシャレなのだが退屈な空間だった。家具は最低限あれど、棚や引き出しには生活必需品以外は何も入っておらず単なる飾り物に成り下がっているし、娯楽らしい娯楽もない。テレビもなければ玩具もないのだ。
なので外に出たいと頼んだが、ダメだと即答された。窮屈なら家の中の物を好きに使っていいと言われたが、この家には何も無くて退屈だと訴えると、兎劉はかつて見たこともないほど困った顔をしていた。
そんなに困ることなのかと不思議だったが、本当に面白いほど困り果てていたので触れないでおいた。
4日目。家の中に植物が増えた。なにも無くて退屈だと言ったのを気にした兎劉がどこからか摘んできたようだ。花の種と土と鉢も貰い、ただ水をあげればいいだけだからと暇つぶしを与えられた。
「いや……花に水あげた後が暇じゃん……」
土に埋まった種に向かって独り言を呟いた。花は話しかけてやると綺麗に咲くと聞いたことあるが本当だろうか。兎劉がいない間は退屈なので花──というかほぼ植木鉢──に話しかけてしまっていた。
「そういえば君は土に埋まってるからいいけど、俺ってなんで全裸なんだろ」
4日間、亜瑠はずっと服を着ていなかった。
兎劉も寝る時は全裸だ。ベッドは大きな物がひとつしか無い家だった。亜瑠は柄にもなく、寝る時に何かあるのではとドキドキしてしまっていた。しかし兎劉はこの4日間、自分に指一本触れることが無かったのですぐに緊張しなくなった。
おまけに、外に全く出ないから服が必要にならないのだ。そのせいなのか、全裸でいることに慣れつつあった。──いやいや、それはいけないだろう、人として。
家の中を動き回る時は毛布を体に巻いていたが、ダブルベッド用のものなので大きくて歩きづらい。
しかし家の中をどんなに探しても衣服どころかバスタオルすらない。浴室には小さなタオルが数枚あって、あとはテーブルを拭く用の台布巾と雑巾ぐらいだ。この家に服は、兎劉が着ている寝間着しかないのかもしれなかった。
その夜、兎劉に服がほしいと頼んだが、案の定「無い」と言われた。
今まで全裸だったらしい。……嘘だろ?
そう否定したかったが、亜瑠にはそれが出来なかった。
あの長い夢を見る前のことを、亜瑠は何故か忘れてしまっていたのだ。今までこんな何もない家で、どうやって兎劉と2人で暮らしていたのか、亜瑠には全く解らなかった。尋ねれば兎劉が語ってくれたが、実感がなかった。
兎劉いわく、自分はここ数ヶ月間はずっと兎劉とここで暮らしているのだと云う。ここはハルファか、と尋ねたが「ハルファなんて惑星は知らない」と返されたので違う惑星にいるのだろう。
長く眠っていたので寝惚けているのだと兎劉は笑っていたが、そんなに長く寝てたのかと尋ねれば18時間程度だと言われた。まあ、たしかにそれは長いが……もっと長く寝ていた感覚がしていたので18時間はとても短く感じる。
オラクルはどうなったのかと尋ねる。
さあ、と返される。
「俺たちは今新婚なんだよ。いま長期休暇中」
「え? 俺と兎劉って結婚してるの?」
「それも憶えてないのかよ……さすがの俺でも傷つくぞ」
「ご……ごめん……」
兎劉が首にチェーンを通して下げている指輪を見せる。よく見ると、自分の指にも同じ指輪が嵌っていた。宝石のないシンプルなものだ。アークスとして働く時に戦闘の邪魔になるから派手な物は控えたのだろう。
──あれ? こんなの最初から嵌ってたっけ? ……手なんて気にして無くて気づかなかったな。
「変だと思わないの?」
俯き、見慣れない指輪を指で撫でながら問う。兎劉は何がと質問を質問で返した。
「俺が──寝惚けているからってこんなに色々憶えてないことが……」
「あー……」
まるで自分がこういう疑問を抱くことを想定していたかのように、兎劉はすぐに答えた。
「この惑星、少し特殊なトコなんだ。惑星というか、世界というか……」
「別時空にいるってこと? オメガみたいな……」
「あー、そうそう、そんなん。俺みたいな人外は何ともないが、人間には何かあるかもしれないと言われて来たからな……フォトンもないし。……亜瑠の体に何かしらの異変が起こることは解ってたんだよ」
「それって危険な場所なんじゃ……?」
「命に関わるほどの大問題が起こるわけじゃねェし、何かあっても一時的なモンだ」
だから焦らなくていいし、このことで不安を感じなくてもいいと兎劉は微笑んだ。
その微笑は亜瑠の心になにか引っかかるものだったが、結婚のことを忘れている自分に傷ついているのだろうと思うことにした。
夜になっても家は明るかった。眠れない亜瑠に合わせて兎劉も極力眠らないようにしていたのもあり、深夜になっても灯りを消すことがなかった。
畑で野菜を収穫していたり蝋燭で灯りを確保しているので、まるで無人島にいるような気分だった。
料理のときに火を起こしたり水を汲んできたりしないといけないのは不便だったが──全部兎劉がやってくれているが──夜は真っ暗なので、窓から見える星空が夢の中で見ていたものよりも美しくて輝いているのは何だか素敵だと思う。
──空がキレイだな。
頭の中で誰かがそう言った。夢の中での思い出だ。思い出すと、すぐに声色も口調すらも泡のように忘れてしまい、文字だけが頭に残る。
胡蝶の夢とはよく言ったもので、今の自分を言い表すならその言葉が合っていた。今この生活が苦痛というわけでも、嫌というわけでもない。ただ無性に、あの夢の世界に「行きたい」ではなく「帰りたい」と思っているのだ。そう思うのはおかしな話だが、おかしいと思うことを奇妙に感じるのも確かだった。
夢の中で自分を愛してくれていた人を思い出して、思わず窓から離れる。……あの白くて美しい、子供のように笑うあの人にはもう会えないのだろうか。
何故かその人のことだけは覚えていなかった。夢の内容は覚えているのに、その人物のことだけは刳り貫かれたかのように思い出せないのだ。顔、声、名前、性別すら……何もかも、だ。
ただ彼と家庭を築いたことは覚えていて、果鸛(カコウ)と夜重(ヤエ)と言う名前の愛する我が子がいたのは憶えていた。でも何故か息子の夜重の顔は思い出せなかった。きっとその人に似ているであろう夜重は、声や背格好などは思い出せても記憶の中でのっぺらぼうだった。
そんな話をすると、兎劉は「そういうのはそのうち、なにかのキッカケで思い出すだろ」と言った。
「嫌じゃないの? 俺が兎劉以外の人と結婚した夢を視た~とか、そういうの……」
気分がいい話題ではないだろうに。そうは思えど兎劉に話すことを辞められなかった。兎劉が嫌な顔ひとつせず、むしろどこか嬉しそうな目で真剣に聴いてくれるので亜瑠もペラペラ喋ってしまうのだ。
「夢は夢だろ。起こってすらいないことに、とやかく言うつもりは無い。それに……話してくれないことのほうが嫌な気分になる」
こうして話してくれるのは嬉しい、とベッドに横になりながら兎劉は呟いた。
「亜瑠にとってそれは幸せな夢だったんだろ? 愛してる奴が、俺と嬉しかったことを共有しようとしてくれてる……それだけで嬉しいから、嫌とか思ったことねェよ」
ベッドに座っている亜瑠の長い髪を兎劉は掬い上げ、その髪に口づける。思わずカッと顔が赤くなってしまい、気付かれないように顔を逸らした。コイツたまに不意打ちでカッコイイんだよな……。
夢の中の自分よりも、今の亜瑠は髪の毛が長かった。地面を引きずるほど長く、自分の身長の倍はありそうなほどだ。後ろを振り返って歩き出すと引きずった自分の髪を踏むぐらいに長いのだ。
そういえば目覚めた直後に「こんなに伸びると邪魔そうだな」なんて兎劉が言っていたな。もしかしてこれもこの世界のせいなのだろうか。
「そうだろうな。ここに来る前は、肩ぐらいだった。ここに来てから少しずつ伸びてったが……流石にソレ以上は伸びないみたいだな」
なんで自分だけこんなに伸びるんだ……と思ったが、よく見れば兎劉もいつもより少し髪の毛が長いように見えた。兎劉のは元々なのだろうか。そう思って自分の髪をいじりながら見つめていると、兎劉は小さく笑いながら言った。
「邪魔なら明日切るか」
「え? いいの?」
「勿体ないとは思うが、管理しきれない長さの髪は傷むだけだしな。汚い髪を頭からぶら下げるぐらいなら、切ったほうがマシだろ」
そして翌日。
初めて外に出た。全裸なので玄関のすぐ前のみだが。周りに人はいないかと入念にチェックをしてから外に出る。風が草花を揺らす音がするとすぐに家の中に隠れてしまう亜瑠を兎劉はケラケラと笑い「ここには俺たち以外は誰もいないから大丈夫だ」と笑った。
周りを警戒しながら椅子に腰掛け、ベッドのシーツで全身を覆う。こうなればもう人が来ても安心だと安堵する。
「どれぐらいにするの?」
「亜瑠はどれぐらいがいい?」
とりあえず、と兎劉は地面についている部分をカットした。それだけでも背中が隠れるロングストレートのカツラが作れそうな長さだと2人で笑った。
「そうだなあ、俺は──」
腰の上付近まで短くなった髪を、兎劉がお揃いだといって頭の上で縛り上げてくれた。兎劉のヘアゴムのスペアだ。お揃いの赤いゴムが、黒い髪に映えている。そう兎劉に褒められ、亜瑠は満足そうに満面の笑みを浮かべた。
「兎劉も切りなよ、長いよ?」
兎劉も足首付近まで髪の毛が伸びているようだ。少し膝を曲げれば地面についてしまいそうだ。
「あんまり切りたくないんだよなあ、俺は」
「知ってる。でも俺は短いほうが好きだよ?」
「そうかぁ? 短いってどれぐらいだよ」
「ん~……四さんぐらい?」
亜瑠はクスクスと笑いながらそう言った。
こんなことを言っても兎劉は亜瑠のために髪を切るような人ではないのを亜瑠は知っていた。だから彼は冗談のつもりで言ったのだ。それなのに少し悩みだした兎劉が面白くて笑みが溢れる。
兎劉は自分の髪にとてつもない愛着を持っており、それはもはやプライドと言ってもいいかもしれない程だった。肌よりも髪を大事にしているような男なのだ──いや、命より大事にしているかもしれない、なんて思い亜瑠はクスリを笑う。それほど大事にしているので、俺が好みだと言ったところで兎劉が大事に伸ばして手入れをしてきた自分の髪を切るわけがないのだ。
「ちょっと肌寒いね……」
服代わりに纏っていたシーツが髪の毛まみれになってしまったので、全裸になることが回避できなくなった時だった。兎劉が服を渡してきた。季節的には春になる前の冬ぐらいだろうか。それとも、冬になる前の秋だろうか。季節感を感じさせない景観なので解らないが、肌を外気に晒して外を歩くにはやや寒い。
「これ着てろ」
「え? 服は無いんじゃなかっ──」
広げた服を見つめ、そこまで言って気づく……おそらくこれは、そのへんにある植物の繊維で糸を作り簡単に編んだものだ。なんて器用な男だ……機織り機もないのに……。
「どうやって作ったの……」
「簡易な機織り機作って、それで織った。あんまり強くねェから、思い切りひっぱたりするとブチブチッと切れるけどな」
簡単に着脱できるように前が開いているので上着のように羽織るのみだったが まあシーツよりはマシかと思い羽織る。かなり丈が長いようで、足首まですっぽり隠れた。袖はないポンチョのようなそれは思ったより温かかった。あとでそれは暖炉の火の薪代わりに使うと言われ、少し残念な気持ちになった。
「シーツ洗って干すから、しばらくそれで我慢してろよ」
「家の中にいなくていいの? 外に出ちゃダメって最初言ってたじゃん」
「あの頃は──亜瑠がまだ混乱してたから……。今はいい、家から離れなければな。森の中には入るなよ。思ってる以上に広大だから、迷子になったら助けてやれない」
周りを見る。ここはどこか深い森の中のようで、家の周辺には何もないが、すぐそこには背が高い木々がまるで檻のように並んでいた。
神話に出てくる森のようだ、と思った。殊守ちゃんが見ていた「地球」のスウェーデンを舞台にした映画を思い出す。こんな森の中で迷子になるホラー映画だったな、と思い出し、その映画では森の中に得体のしれない何かがいたのを思い出して突然木々の間の影に恐怖を抱く。
思えば、兎劉の言う通り誰もいなければ何も居ない気がする。
人はもちろんだが、そもそも動物すら見かけない。鳥が飛んでいるかと思って数分空を見上げていたが何も飛んでこないまま、兎劉が洗濯を終えて帰ってきて「首痛めるぞ」と笑われた。
足元は柔らかい乾いた土に、足がすっぽり隠れるほどの草が生えていた。ジッと見つめながら家から離れないように歩いてみたりもしたが、虫すらいなかった。洗濯物を干していた兎劉にぶつかって「危ないぞ」と再び笑われる。
もしかしたらここには俺と兎劉しか生き物がいないのかもしれない──などと疑問を抱いたが、何故かこれは尋ねてはいけないことのように感じて、亜瑠は頭を横に振った。考えないようにしよう。別に居なくても困らないし、何か居るほうが困るなら気にしないほうがいい。
洗濯物を干し終わった兎劉は、今後も木が生えてる所までなら外を歩いていいと言ってくれた。家の裏にある畑を見せてもらったが、よく見る畑というより普通の庭だった。亜瑠にはどれが野菜でどれが雑草かが解らなかった。
そして兎劉は亜瑠を抱き上げると少し歩き、木々たちの群れの入り口に立って遠くを指差した。
「木が邪魔で見えないかも知れないが、あそこに川があるんだ。見えるか?」
兎劉が亜瑠を自分の肩に座らせる。目を凝らしてみるが、なんとなくそれらしい草花が途切れている部分を確認できたが水は見えなかった。でも微かに水の音がするので、間違いなくあるのだろう。
「俺はこの家と畑、もしくはあの川しか行き来してねェ。だから俺が家にいないときに何かあったらソコに来い」
「わかった」
兎劉が何度も行き来しているからなのか、川に向かって少し獣道のようなものが出来ていた。この通りに進んだ先に兎劉が必ずいるなら、すれ違うことも迷子になることもないだろう。
兎劉はそのまま亜瑠を抱き直して横抱きにすると、ふわりと浮いた。風のチカラで浮遊しているようだ。根本で仰ぎ見ても頂上が見えないほど大きい木々のてっぺんを越え、家が小さくなるほど空高く飛ぶ。家の周りの木がない部分はキレイに円形になっていた。誰かが故意に木を狩らねばこうはならないだろう。
「さ……寒い」
植物の服がなかったら確実に風を引くほどの空気の冷たさに思わず兎劉に擦り寄り丸くなると、兎劉が小さく笑った音がした。
「見ろ、亜瑠。俺たちが今いる地だ」
鼻水が出そうなほど寒いのでなるべく兎劉から離れたくなかったが、見ないと降ろしてもらえないだろうと仕方なく見る。目の前に広がる景色に目を見開いた。
兎劉の正面にはどこまでも平らな大地が広がり、地平線を埋めているのは木のみだった。背の高い巨大な細い木々たちが、地面が見えないほど満遍なく生えている。少し顔を右──亜瑠の足がある方向──に向けると、少し離れた場所に巨大な湖があるようだった。あそこが水源か。
後ろを見ようと身を捩ると、危ないから動き回るなと小さく注意される。ハァイと可愛く返事をして気づかないフリをしたが、自分の背後、首を180度回さないと見えないであろう場所に何か巨大な物があったのが一瞬だけ見えた。
おそらく、兎劉はアレを見られたくないのだろう。亜瑠が後ろを見ようとすると、すぐに「コラ」と小さく注意するのがあからさまだった。「アッチは何があるの?」と尋ねると「何もない」といったので亜瑠は確信する。
なんだったのだろう。よく見えなかったが、こんなド田舎っていうか無人島というか、服ですら草から作るほど原始的な場所にしては、かなり文明が発達した何かだったような気がした。岩や山という訳ではなく無機物な何かだった……おそらく金属質な何か……──。
「亜瑠。降りるから掴まってろ」
「ぁ……、うん」
せめてアレが何だったのか見たかったが、それはもう叶わないのだろう。残念に思っているとフと亜瑠は方法を閃いてしまった。
少し身を上げ、ギュッと兎劉に首にしがみつく。
「これでいい?」
兎劉の耳元で尋ねると、兎劉は一瞬息を呑んで「ああ」と頷いた。ヨシと心の中でガッツポーズをする。
この体勢なら少し首を右に逸らすだけでさっきまで自分の後ろにあった景色が少し見えるのだ。あからさまに首を横にするとバレそうなので、ほんの少しだけ右に顎をずらして目玉だけで何とか見ようと試みる。
やはりそれは金属質のもので、黒のような紺色のような壁に苔が大量についていた。表面の苔や草の付き具合からして、もう何千年も放棄されたものかもしれない。
視界に隅になんとなく見える程度なので正確には解らないが、亜瑠はそれをどこか懐かしいもののように感じた。俺はアレをどこかで見たことがある──気がする。惑星アムドゥスキアの龍祭壇にあったドラゴンストーンを思い出したが、アレではないと確信はあった。
柔らかい土に足がつく。空に比べると地上は温かく感じた。
「解っただろ? 森の広さが。だから絶対に迷子になるなよ。木々が声を遮断しちまうからな」
「うん……絶対ひとりで森には入らない……」
わざわざあんなことしなくても、お子様じゃないんだから……と少し拗ねて見せたがハッとした。そういえば夢から覚めて、初めて兎劉に触れた気がした。温かっただろうか……肌触りはどんなだった? しまった。深く気にしてなかったから全然意識してなかった。惜しいことをしたな。
もう一度自分を抱っこしないかと尋ねたが、面倒臭がらず自分で歩けと怒られる。
別にそういう理由で言ったわけじゃないのに。
昼を過ぎると亜瑠は家に入った。外に出れるようになってもやはり暇だったのもあるが、少し怖かった。生き物が居ないかもしれないと思っていても、風が吹くと木々が不気味に鳴いたし、木々の隙間に影でも横切ろうものならきっと夜眠れなくなる──元々眠れてないが──。
家の中が安全とも限らないが、外にいるよりよっぽど安心できた。
兎劉は幽霊が恐いくせにこういう場所は大丈夫なのだろうかと思ったが、兎劉は暗闇を見れば幽霊よりも生きた人間がいることを恐れるタイプだったので何とも思わないのだろう。
そもそも恐れを抱くのはここが正確にどういった場所なのか解っていないのもあるかもしれないが、それを知っても不気味には感じるかもしれないなと思い込むことにする。
「気持ちいい~」
カラリと乾いた布団がふわふわになって返って来て気持ちがいい。
今日のご飯は? この後なにかするの? もう家にいる?
眠くないか? お腹は空いてないか? 他に訊きたいことはあるか?
亜瑠と兎劉は、そんな他愛のない話を毎日繰り返していた。
それから1ヶ月ほどが過ぎただろうか。退屈な割に時間が過ぎるのはあっという間に感じる。
やがて日が沈む回数を数えることを兎劉も辞めてしまっていた。
まだ休暇してて良いのかと尋ねると、朱黎から気が済むまで2人でいていいと許可は得ているらしかった。太っ腹な上司だ。
亜瑠は悠我や悠海のことが少し恋しくなってきていた。今はどうしているんだろう。あれらが夢だったなら悠我と四は恋人にはなっていないだろうし、「白亜」なんて人物はいないはずだ。
きっと幼い人には色々と甘めな劉凰さんが悠我くんを何とかしてくれているだろうし、蓬くんも性格は悪いが女の子をいじめる男性に容赦ないので悠海ちゃんを守ってくれているかもしれない。
夜──寝台に座ってそう考えていると、兎劉が顔を覗き込んできた。
「寂しいか?」
そんな顔してた、と微笑んで見せる。
「兎劉は俺とだけ居て、寂しいって思わないの?」
「俺はお前にとっての悠我とか悠海みたいな存在いないからな。劉凰や四が心配だが……お前が悠我や悠海に抱くソレじゃなくて、何かヤベェことやらかしてないか不安って意味でならソワソワはするな」
「ふふふ。確かにふたりとも問題児みたいなとこあるもんね」
「だろ?」
兎劉はよく笑った。あんまり笑うイメージがなかったが、俺と話す時は花を咲かせたように笑う。
夢の中では、俺は恋人として共に居た兎劉と別れて別の道を歩み、その先で別の人と結ばれた。つまり俺にはちゃんと、兎劉と恋人として共にいた記憶はあったはずなのに薄情なほど憶えてないのだ。だからなのか、「俺の恋人はこんな人だっただろうか」と時折思うことがある。
こんなに愛おしい人だっただろうか。ひとりの時間は毎日退屈だったが、兎劉といると静寂すら心地が良く感じた。
何もなくてぼんやりする昼下がり、リビングの窓際にあるロッキングチェアに座って亜瑠を膝に乗せる時間が兎劉はお気に入りだった。微かに揺れる椅子に座り、2人で外を見たり目を合わせて見つめ合ったり、手を繋いだり撫で合ったり──そんな何てこと無い時間が30日以上も続いてるのに、何故か兎劉といる時間が退屈になることはなかった。
胸の中が満たされていくのを感じていた。もうずっとこのまま、こんな日が続けばいいと思える。働かなくちゃいけないかもしれないけど、お金がなくてもどうにかできてしまうことを学ぶと、本当にこのままここでずっと2人きりでいるのは悪くないのかもしれない。
横に寝転がる恋人──いや、今は伴侶と呼ぶべきだろうか──彼の顔を見る。首に下がる指輪が月光に照らされて輝いている。よく見ると、小さく亜瑠と兎劉の名前が内側に掘られている。兎劉は文字の読み書きができないから、きっとお店に頼んだか、劉凰がやってくれたものだろう。
早くいろいろ思い出したい。
兎劉とここに来るまで、どんなことがあってどんな言葉でプロポーズされたのか……ちゃんと思い出したかった。
「白亜」
突然だった。
頭の中に声が響く。ぞわりと悪寒が全身に走り、心臓が大きく跳ね上がった。頭の中で響いたその声はもう声色すら思い出せなかったが、とてつもない不安と焦燥感が身を支配していて、居ても立っても居られずに勢いよく起き上がる。
「亜瑠?」
冷や汗が全身を湿らせていた。未だ心臓が高鳴っており、息苦しさを感じる。ここに居てはいけない。早く行かなければいけなかった。──どこに? ただ、この場所が自分にとって毒である気がしてならなかった。
「外に……。外に出たい、かも……」
亜瑠が小さくそう呟くと、兎劉は無言で亜瑠を毛布で包むと、抱き上げて早足で外に亜瑠を連れ出した。
いつもなら森が生み出す闇に怯えているが、兎劉に横抱きにされている今は目の前に夜空だけが広がっていた。その夜空を見て、何故かとてつもない悲しみを感じて涙が止まらなくなった。
なんでこんなに涙が出るのか解らない──と謝罪を交えながら兎劉に話すと、兎劉はただ静かに亜瑠の頭を撫で、落ち着くまで亜瑠を抱きかかえたまま立っていた。
いつもより夜風が冷たく感じた。
次の日。
亜瑠は明け方近くまで小さい子どもみたいに泣きじゃくり、星空が薄くなってくる頃には泣き疲れて体を重く感じていた。兎劉が寝台に横にさせ、日が昇るまで頭を撫でてくれていたのを思い出すと、恥ずかしさのあまり暴れたくなった。
情けない。成人近い男が、朝まで、グズる赤ん坊みたいに泣いてしまった。時折兎劉が額や頭、涙で濡れた頬に口づけをしてくれたことを思い出し、それもまた恥ずかしく思えて亜瑠は寝台の中で静かに悶えた。
泣きながら、震える声で、亜瑠は夢の中で愛した人のことを切れ切れに兎劉に語った。まだあの夢に焦がれていること。あの夢の世界に行ける方法があるのなら、迷わずに行ってしまうかもしれないこと。何も憶えてないのに、夢で愛した人がどこか兎劉に似ていたように感じることを。
その話を兎劉がどんな顔をして聴いていたか亜瑠は見ていなかった。見る余裕がなかったのだ。見ておけばよかったと今更後悔する。傷つけたかもしれない。今にも泣きそうな顔で俺の話を聞いていたらどうしよう。謝るべきだろうか。もしかしたら何とも思ってないかも……。
とりあえずベッドから出ようと寝台から這い出る。恥ずかしさや申し訳無さで兎劉に会いたくなかったが、そうは行かないので覚悟を決めないと……。部屋の扉に近寄ると、兎劉がキッチンで調理している音が微かに聴こえる。
──夢は夢だろ。起こってすらいないことにとやかく言うつもりは無い。──話してくれないことのほうが嫌だ。
そう言ってくれた兎劉の言葉を思い出し、いつもどおり「おはよう」と声をかけて、朝ごはんは何かと無邪気に尋ねようと意を決し扉を開けた。
「えッ」
そう計画を立てていたのに、真っ先に視界に入ってきたものに驚き、すべてを忘れて声を上げる。
兎劉の髪が短くなっていたのだ。それも四みたいに、だ。
「どうしたの その髪!」
思わず駆け寄って珍しい物を見るような目でジロジロと兎劉を見る。恥ずかしいのか兎劉は視線を合わせようとせず、恥ずかしさを誤魔化すように自分の首の後ろを撫で始める。
「……短いほうが好きだって言ってたのはソッチだろうが……」
「え……俺のために?」
「ンだよ、悪いかよ……」
かなり恥ずかしいのか、拗ねたような顔で睨まれる。あれ? こんなにカワイイ生き物だったっけ、この人。
「まさか! 悪いわけないよ! 似合ってる! ……なんか髪の毛短くなると、いつもより一層幼く見えるね? かわいいよ、兎劉」
クスクスと笑いながら頭を撫でる。踵を上げて触る亜瑠を見て、兎劉は思わず姿勢を屈めたがすぐにハッとして姿勢を正した。
「席につけ! 朝飯だぞ!」
「ふふ、はーい」
まさか自分のためにあれほど大事にしていた己のプライドを切ってくれるとは……なんだかとても嬉しい。自分は兎劉にとってそれほど大切な存在であるのだと言われているようで、笑みが抑えられなかった。
恥ずかしいのか照れたのか、いつもより手を素早く動かして何かしら物を頻繁に落とす兎劉を眺める。
あんなに慌てちゃって、かわいいなぁ。
「──」
まただ。何かが頭の中に浮かんではすぐに消えた。ビクリと体を強張る。
頭の中でそれを手繰り寄せようとするが、もう掴めないほど深くに沈んでしまった。思い出せそうで思い出せない感覚に胸がざわつき、少し苛立つ。
「どうかしたのか?」
朝ごはんは野菜スープだ。毎日野菜スープだが、具材がいつも違って味も違うので飽きることはなかった。美味しそうな匂いを嗅いで、首を左右に振った。
そのうち思い出せるだろう。
「なんでもないよ、苅」
「!」
「──あれ……?」
自然と口から出たその言葉に、亜瑠が硬直する。
「……その名前、夢から覚めたときも言ってたな……。それが夢の中で亜瑠が結婚したっつー奴の名前か?」
兎劉が溜め息を吐きながら椅子に座り、亜瑠を見つめて尋ねたが、亜瑠は混乱していた。──すでにもう、自分がなんと口走ったのか憶えていなかった。
「な……なんて言ってた……? ごめん──いま兎劉をなんて呼び間違えたか憶えて無くて……」
「ガイ、だ。ガイっつった」
「ガ、イ……?」
教えてもらったというのに、瞬きをする速度と同じぐらいの早さでその名前が頭から消える。それが悔しくて思わず顔を歪めてしまい、今の自分の顔を兎劉に見られたくなくて俯く。
「……憶えてないんだ──憶えられない……。なんて言った? いや、どうせ聞いてもまた忘れちゃうから、いいんだけど……。多分、その人の名前……だと思う……」
「……」
兎劉は再び、今度は小さく溜め息を吐くと一気にスープを飲み干して立ち上がった。
怒られるだろうか……愛想を尽かされた? 不安に思いながら兎劉を目で追っていると、彼は亜瑠の後ろのほう──玄関までまっすぐ歩いていき、外に出て行ってしまった。
亜瑠はしばらく玄関の扉を見つめていたが、やがて静かに前へ向き直りスープを飲む。悲しみと罪悪感に苛まれており、味を感じる余裕はなかったが、食事を残すと兎劉の機嫌はもっと悪くなるので無理をしてでも食べておかねばならない。
スープを飲み干し、兎劉と自分の分の食器を水桶に入れ、軽く洗いで日向に置く。
何も言わなかったし、一度もこちらを見てくれなかった。さすがの兎劉も怒っただろう。──謝らないとダメだ。──でもどうやって謝ろう。先程座っていた場所に再び座り直す。
兎劉は何も言わないが、兎劉の話からして今、俺と兎劉は新婚旅行中のはずだ。新婚旅行でずっと違う男のことばかり考えていたら不快に決まってる。
もう忘れなきゃ。兎劉に失礼だし、自分にとっても良くない。どんなに素晴らしい夢だったにしたって、俺は今ここで、兎劉の隣で生きていくべき人間なのだから……。
「あれ……?」
人間という言葉を思い出して、一瞬だけ呼吸が止まった。
そうだ。夢と違って俺は白亜じゃなくて亜瑠で、正真正銘の人間のはずだ。
──人間って、こんなに寝なくても何とも無い生き物だったか……? 少なくとも1ヶ月は眠っていない。思えばトイレも一切してない気がする。そもそもウチにトイレあったか? 無いよな……。
──俺って今……人間なのか?
バタンと思い切り玄関が開く。ビックリしてそちらを見ると兎劉がそこにいた。そのへんで拾ってきたのか剥がしてきたのか解らないが、皮のような木の板を持っており、それを亜瑠のすぐ目の前に置いて亜瑠にナイフを手渡した。
「ど、どうしたのこれ……」
「ガ、だ」
「?」
兎劉が木の板を指差す。
「俺は文字が書けねェから自分で書け。聞いたら忘れるなら書いときゃいいだけだろ」
「え……」
信じられない思いで兎劉を見つめた。兎劉は怪訝な顔をして、掘り方が解らないのか──などとこちらの気も知らずに首を傾げている。
「なんでそこまで許してくれるの? 普通自分以外の男のこと考えていたら、嫌な気持ちになるモンじゃないの……?」
「……」
そう尋ねると、兎劉は言葉を探っていた。なんと答えればいいのか解らないのだろう。俺が傷つかないように言葉を選んでくれているのだろうかと不安に思っていると、それが顔に出ていたのか兎劉はすぐに口は開いた。
「なんつーか……その夢っつーのを視てからお前は様子が変だし、昨日だって突然泣き出したりしたろ? 確かにあんまイイ気はしないが、俺はそんなことよりお前が元気じゃないことのほうが嫌なんだよ」
ギュッと強く握り込まれた亜瑠の手を、兎劉は両手で包みこんだ。
「だから、亜瑠の気が済むまで付き合ってやるよ。こういうときこそ支えてやるのが夫婦ってもんだろ」
涙が出てくるのを必死にこらえ、ありがとうと震えた声で亜瑠は俯いた。そう伝えるのが限界だった。コレ以上言葉を発すると、それと一緒に涙が出てしまいそうだった。
オラクルの文字で「ガイ」と書かれた木の板がリビングの装飾に追加された。本当はどういう文字だか解ればよかったのだが、と兎劉が謝ったのがなんだか可笑しくて、その日は一日中気分がよかった。
深夜。風もない静かな夜に兎劉とベッドに入ってゴロ寝をしていた。全裸で一緒に寝ることにいよいよ抵抗が全くなくなっていた。それどころか、時折互いの胸に手を当てたり、心臓の音を確かめ合ったりした。始まりは亜瑠が眠れなくなったのを気にした兎劉の言葉からだった。人間は他人の心音を心地よく思うものだから、心音を聴いていたらもしかしたら眠れるかもしれないとのことだった。
それからずっと実践しているが、眠気は一度も訪れず安心感だけを亜瑠は得ていた。
「ねえ……俺のこと、白亜って呼んでみてくれない?」
「夢の中でそう呼ばれてたのか?」
兎劉は亜瑠が突拍子もないことを言い出すと、とりあえず何でも夢と結びつける癖が付き始めていた。
「うん……なんだか亜瑠って呼ばれたくなくて……。兎劉が良ければなんだけど……」
「……」
兎劉はしばらく亜瑠の頭を撫でながら無言でいたが、「遠慮する」と断った。
「亜瑠が本当にそうしてほしいって強請るなら呼ぶが、ややこしくなりそうだから遠慮しとくわ。俺はバカだからな」
「はは、そっか。どうしても呼んで欲しいわけじゃないから、大丈夫だよ」
兎劉を困らせたくないし、と兎劉の背中に腕を回す。温かい。
白亜と呼びたくないと言った兎劉にどこか安心していたが、そう思う自分が気味悪かった。しがみつくように兎劉に抱きつく。兎劉にそう呼ばれることを心のどこかで恐れていた気がする。そう呼ばれたら、きっとまた夢と現実が解らなくなってしまいそうだった。
俺は亜瑠だ──白亜じゃなくて、亜瑠なんだ。
そういえばなんで俺は、白亜と名乗っていたんだろう。
次の日、窓の外から雲ひとつない青空を見つめながら、ずっとそのことを考えていた。
なんだか、思い出せないことが増えた。そもそも自分が何故兎劉と離れ離れになったのか。白亜と名乗り出した経緯。今はもう家族の名前すら思い出せないその人とどうやって出会ったのかも、もうぼんやりとも思い出せなくなってきていた。
嗚呼、やっと夢のことを忘れられる。やっと兎劉との生活に戻れるんだ。
安堵するべきなのに、希望よりも不安のほうが勝っていることに亜瑠は気づかないふりをした。
季節的に、今は秋だったのかもしれない──と、亜瑠は思った。どうやら紅葉になる木は生えていないようで落葉すら無いのだが、頭上にある重そうな灰色の厚い雲を見てそう思った。
「食欲の秋……」
亜瑠がひとりで空を見上げながらそう呟くと、ちょうど畑から戻ってきた兎劉が首を傾げた。
「腹減ってンのか?」
「いや……逆なんだよ。全く空いてない……」
生活リズムのせいなのか、毎日3食は食べていなかった。一日1食で済ませる日もあれば2食食べるときもあったが、3食食べることは無かった。そのせいか、亜瑠の胃袋はだいぶ小さくなっていた。
3食食べないでいたのは、夜が暗かったからだ。ここには蝋燭しか灯りがないので、窓から差し込む月光だけを頼りにすると行動しづらかった。しかし蝋燭には限りがあるから、無意味に消耗するのは気が引けたのだ。
兎劉も似たようなことを考えているのか、蝋燭がいらないほど辺りが明るくなると畑に行くのだ。そのあとご飯を食べ、洗濯物があれば洗濯をしたり、ぼんやりしたり……。そして、お湯を湧かすのには時間がかかるので、昼の温かい時間帯にお風呂に入り、蝋燭が必要なほど暗くなってきたら布団に入って朝までゴロ寝をする生活だった。
すごく怠惰な毎日だ……と思いながら、やはりここでこのまま兎劉と暮らしていけたら幸せだなと考え出しても居た。
少しワガママを言うなら、もう少し景色がイイところに移り住みたいかも。木々に囲まれる生活は少し怖い。
「俺も、できればもうちょっと広い草原みたいなトコに行きたいな」
夜。布団の中でそんなことを話すと、兎劉も枕の上にある窓の外を見ながらそう呟いた。
「木が嫌いってわけじゃないんだが、視界が悪いんだよな」
「そうそう」
「暴風でどっかの木が倒れたら、ギリギリ家に当たりそうだもんな」
「やめてよ……風が強い日、怖くなっちゃうじゃん……」
兎劉がクスッと小さく笑う。からかわれたと思い亜瑠は頬を膨らませた。
「いつか移り住むか……。もうちょい視界がよくて……、そうだな……山が遠くにあるといい。もっと色んな木が生えてて……、やっぱ街が近くにほしいな。俺はいいが、亜瑠は不便だろ」
「そうでもないよ。退屈ではあるけど、兎劉がいろいろしてくれるし……」
それに……と亜瑠が照れくさそうに俯く。
「兎劉と一緒にいる時間が前よりも特別に思えて、嫌いじゃない……かな」
それを聴いた兎劉が、嬉しそうに笑う。照れ隠しをするように亜瑠は兎劉の胸の中におさまった。心音が心地良い。
もうすぐ冬になるんだろうか。冬になったら雪が降るかな? そしたらまた、できることが増えるかも。でもさすがに全裸で雪原を歩きたくはないな、と亜瑠は心の中で呟いた。
「兎劉。湖? みたいなところに行ってみたい。ダメ?」
「湖?」
ある日突然そんなことを言い出した亜瑠に、兎劉はウーンと唸りだした。
「兎劉がまた俺を抱っこして飛んで行ってくれればすぐでしょ? ……ダメならいいけど」
「ダメってわけじゃないが、飛んでいったら寒いだろうが」
「あ……そっか……」
それは仕方がないね……と、亜瑠が昼まであからさまに落ち込んで見せると、兎劉は大きな溜め息を吐いて折れたのだった。次の日行こうと兎劉から言い出してくれたので、亜瑠は嬉しさを表現するために大袈裟に喜んで見せた。
次の日。
兎劉の服を着てシーツに包まれた亜瑠は、全裸の兎劉に抱きかかえられて湖にたどり着いた。
湖は思いのほか深く、泳ぐのは少し憚られた。しかし深いからこそ、真っ青で美しかった。案の定、魚はいないようだ。
「どうして俺たち以外の生物がいないんだろう」
兎劉に尋ねるでもなく、無意識に思ったことが口から出た。思わず、兎劉が戸惑ったりしてないか見てしまったが、兎劉は真面目な顔で腕を組んでいた。──全裸なのが気になる。
「たぶん、未完成な世界なんじゃね? わからんが……」
「未完成?」
「生まれたてってことだな、──多分だからな?」
出来たばかりの惑星ということだろうか。それにしたって植物が生え過ぎな気がするが、兎劉がそう思うならそうなのだろうと思うことにした。こういう自然の摂理のようなものは、ただの人間である俺には理解できないことなのだ。
湖の周辺には家の近くにはない植物もいっぱい生えていた。傘になりそうなほど大きな葉があり、それで兎劉を扇いだり扇がれたりして遊ぶ。その後は湖の比較的浅い場所で兎劉と水を掛け合って遊んだり、風のチカラで守られた状態で兎劉と湖に潜ったりもした。
「楽しかった!」
「そりゃよかった」
帰り道、ほんの少しだけ森の中を歩いてみたいと言った亜瑠の望みを聞き入れ、手をつないだままを条件に森の中を歩いていた。
「早く帰って、おチビに水やらないと」
「俺がやった種の名前か? ひどい名前だな」
「他に思い浮かばなくて……。芽を出した時すごい小さかったからおチビって名付けたの」
兎劉に貰った種は今や蕾を付けていた。最初は面倒くさくて水を忘れることもあったが、最近では何色の花が咲くのかとても楽しみで毎日しっかり水を与えていた。
「あれって何の花なの?」
「さあな~。俺は花には詳しくないからなあ……」
俺も咲くのを密かに楽しみにしてると兎劉が微笑む。
食事に使えそうな木の実や花を見つけると、兎劉がそれを摘む。亜瑠はそれを手伝おうと、繋いでいないほうの手で兎劉が摘んだものを持っていた。
「これも食えそうだな」
兎劉は摘んだものをとりあえずその場で一口食べて毒味をした。舌が痺れたり喉が痛くならなければ摘んで亜瑠に持たせた。ただそれだけの作業だが、見ていて面白いので亜瑠は静かに見守っていた。
持って帰っても、3日ほど様子を見て兎劉が大丈夫そうだと判断してはじめて食卓に並ぶ。今収穫している新しい草や実は数種類あるので、これを亜瑠が食べられるようになるのは最低でも1ヶ月後になるということだ。どんな味なのか楽しみだ。
フ、と視界の端で何かが不自然に動いた気がして思わずソチラを見る。そよ風が吹いているので、葉や枝が上から降ってきていることはあったが、それらにしては不自然な動きをしたものが見えた気がした。
木はとても密着して生えているので50メートル以上先なんて見えはしないのだが、亜瑠は何かが見えた気がする場所をシンと見つめた。目を細め、注意深く見ていると人の手らしきものが現れる。ソレは歩いていて体勢が崩れたのか、歩くのが辛いのか、支えにするために木の幹を掴むように現れた5本の指にビクリと体が竦んだ。──誰か歩いてる。
「う、兎劉! 誰かいる……!」
「は?」
亜瑠が小さな声で兎劉に声を掛け、指が見えたほうを指差す。先程まで木の幹を掴んでいた手は消えていた。
「あそこに手が見えたんだ。ほんとだよ?」
別に疑ってるわけじゃない、と亜瑠の頭を撫でる。
「……待ってろ、見てくるから」
「や、やだ! 離れないでよ!」
兎劉が手を離そうとするのでガッチリと両手で握り返す。
「抱っこして兎劉! すぐ帰ろう!」
「お、おう……わかった……」
兎劉はキョトンとしていた。くそ……幽霊が怖いくせに、こういう時は全然怖がらないなコイツ。幽霊だって確認してからじゃないと怖がらないのか? なんか俺のほうが怖がってるみたいだ……いいや、兎劉に危機感がないだけだ!
兎劉は亜瑠をシーツで包むとサッと抱き上げて飛ぶ。怖がった亜瑠をすぐに安心させるためにすばやく高度を上げてくれたのだが、風が勢いよく当たって寒かった。木々の頂上が自分たちの横に並ぶほど高く飛んだときには「ふう」と声が出るほど亜瑠は安心していた。
「なんかと見間違えたんだろ。ここにある木がそもそも人肌に色が似てなくもないしな」
そうか? と思ったが兎劉がそう言うならそうだろうと亜瑠は思い込むことにした。兎劉もそうは思っていないようで、自分を安心させるために適当に言ったことなんだと表情を見てすぐに解った。兎劉も不安なのかもしれない。これ以上騒ぐと不安が大きくなるだけだ。兎劉が言ったとおり、何かを見間違えたのだと自分にも言い聞かせる。
家に帰ったあと、亜瑠は森の中を極力見ないように努めた。窓の前を通ると、癖でつい窓の外を見てしまうので窓に近づかないようにし、夜は兎劉にこれでもかというほど強く抱きついた。
それほど怖がる亜瑠が面白いのか、兎劉は帰ってきてからずっと笑っていた。
「笑い事じゃない! こわかったんだから……」
「こんなに広い場所なんだ。俺たち以外にも人はいるかもしれねェだろ。まあ人間じゃないかもしれんが、人型の精霊とかはどこにでもいるしな」
「でも俺は霊感ないから、霊体化した兎劉は見えないよ? 精霊って、人間のために実体化してくれてないと普段見えないんでしょう?」
「それはそうだが、何かの拍子で一瞬だけ見える時もある。雨が降ってると見えるとか、ガラスを通して見えるとか、視界の端でチラッと見えるとか……」
そんな話をされ、もしかしたら兎劉にはあそこに誰かが見えていたのかもしれないと考え始める。自分には一瞬しか見えてなかったが、兎劉には誰かが歩いていたのがちゃんと見えていたのかも……それならあんまり怖がっていなかったのも納得できた。
「じゃあ……精霊だったのかな……」
「そうかもな」
兎劉は、亜瑠をギュッと抱きしめ返しながらそんな話をしてくれた。最近ベッドに入ると兎劉が自分の頭を優しく撫でてくれるのが、亜瑠はとても気に入っていた。
「……楽しかったから、また行こうね……湖」
「そうだな。今度は森の中を歩くのはナシだな」
「もー! 何も知らないから怖かっただけ!」
「ははは」
やがて会話が無くなると、2人は何も話さなくなる。亜瑠が眠れるかもしれないことを考え、兎劉は深夜になると口を閉ざした。亜瑠もそれに合わせて目を閉じて、眠れないか試みているのが習慣だった。
たくさん遊んで疲れているのに、亜瑠は結局一睡もできなかった。
明け方になる。そろそろ兎劉が起き始める頃だと身じろぐと、いつもと違うことが起きていた。──兎劉が爆睡しているのだ。
昨日、湖にいくためにチカラを使ったし、湖に潜ったりもしたので疲れたのだろう。兎劉の回復手段は呼吸だったが、チカラを使いすぎると効率よく回復するために兎劉は深く眠ってしまうことを亜瑠は知っていた。こうなると兎劉は叩いても起きないのだ。
寝顔がとても幼い。顔だけ見ればまるで同い年ぐらいの少年だ。首から下は鍛えられた筋肉がしっかりあるし、身長も180は超えているので全然少年ではないのだが、兎劉は童顔なので顔だけは成人前の自分と変わらないほど幼いのだ。頭を撫でる。短くなった髪の毛がふわふわで、心地が良い。ソッと頬に口づけ、亜瑠は寝室からなるべく音を立てずに出た。
彼が起きるまで退屈だ。兎劉の代わりに畑に行って野菜を収穫したりしたいが、野菜と雑草の区別がついていないので諦める。食べられない植物が家の周りに生えているのを放っておくような人ではないと思っているが、万が一を考えた。
朝食を作っておこうかとも思ったが、そもそも調理器具の使い方がわからない。オラクルには無かった奇妙な形の物が沢山あったのだ。──これは……すり鉢か?──。そもそも料理をするためにはまず川に水を汲みに行かないといけない。水桶はとても大きくて重いのでいっぺんに大量には持ち運べそうにない。森にひとりで入り、家と川と何往復もひとりでやらねばいけないと思うと、亜瑠は昨日のことを思い出して足が震えた。たとえ汲んできたとしても火の起こし方が解らないので、結局何もできないし辞めておこう。
「……俺……無能だな……」
起きたらいろいろ教えてもらおう……せめて食材を用意できるぐらいにはなっておきたい。
兎劉は明け方前に寝息を立てていた気がするので、起きるのは昼ぐらいになりそうだ。オラクルに居た時は大体それぐらい寝ていた。
──あれ? いつの間にかオラクルで兎劉と暮らしていたときのことを思い出せている。
そこで亜瑠はあることを思い出した。最初に兎劉に抱っこされて飛んだときに見えた謎の建造物だ。湖の反対方向なので昨日も見ることはできなかったし、帰り道は怖くて目をギュッと瞑って兎劉にしがみついていたのでスッカリ忘れていた。
兎劉との約束を破るつもりは無いのだが、思い出すと無性に気になり出す。森に入るのは少し怖かったが、好奇心のほうが勝ってしまっていた。兎劉の言う通り昨日見たのが精霊なら話は通じるだろうし、ちょっと出かけるぐらいなら大丈夫かもしれない──なんて自分に言い聞かせながら、亜瑠は兎劉の服を借りて外に出たのだった。
万が一にも迷子になってはいけないと考え、亜瑠は通り過ぎる木々にナイフで切り傷を付けながら歩いていた。
このナイフは家にある唯一の刃物だが、何も持っていかないよりは兎劉も安心するだろう。
兎劉は見えない場所に物を隠す。物理的にではない。兎劉の世界の人たちは、自分の周辺に亜空間のような物が存在していて、そこを倉庫みたいに利用しているのだ。だから俺が知らないだけで、兎劉はもっと色々持っているかもしれないのだ。亜瑠の手の届く場所に置いておくということは、亜瑠が使っても問題はないということ。刃こぼれさせてしまうかもしれないのは申し訳なかったが、後々兎劉を安心させるためにも亜瑠は最善を尽くした。
数分ほど歩くと、運動不足だからなのかすぐに息が上がった。裸足だから足の裏も痛くなり、握力が衰えてきていたのでナイフを持つ手も震え出す。木に跡を付けるのに時間がかかり始めていた。
限界かと思い始めた時にそれは姿を現した。その苔むした黒い壁を見て、亜瑠は息を呑んだ。
どういうことだろうか……これはアークスシップだ。自分たちがいた艦かは謎だが、それは確かにオラクルで自分たちが乗っていた艦隊の一つだった。中に侵入できそうな出入り口を見つけ、まるで誘われるように侵入する。
中は植物まみれだった。苔むし、雨水が溜まっている。一体、何千年の時が経てばこうなるのだろう。それほど壁や床が傷んでいた。頑丈だったはずの扉や壁は、非力な亜瑠が少しチカラを加えただけですぐに開く──というか、倒れるほど風化していた。
「……誰かいますかー……?」
あまり大きくない声で確認をする。返事が返って来たらそれはそれでビックリしそうだったが、キャストかハイキャストか、奇跡的にまだ稼働しているロボットが返事をしてくれるかもしれないと思ったのだ。
しかし何も返っては来なかった。ただ風が隙間を通ってヒュウと鳴く音しかしない。
「……」
それからしばらく探索をしていたが、今の自分たちの役に立ちそうな物を見つけることはできなかった。扉が所々開いていて、きっと兎劉もここに来たのだと考えた。この存在には気付いていたのだ──もしかしたら兎劉が既にいろいろと調べてくれたのかもしれない。
そろそろ戻らないと、帰る頃には昼になっているだろう。脚が悲鳴を上げているので、帰りも行きと同じペースで戻れるとは限らない。兎劉が目覚めて俺が家に居なかったら怒られそうだ。
そう思っていると、明らかに自分のではない足音が響いてきて、亜瑠は思わず物陰に隠れた。
靴の音だ。自分はもちろん裸足で、兎劉もずっと裸足だった。靴があったならまず亜瑠に履かせようとするはずだ。コツコツと固い足音は確実に靴から出ているものとしか思えないので、兎劉が来たというわけではなさそうだ。
息を潜ませ、ソッと物陰から顔を出す。別に無害そうならいいのだが、武器を持っていたりしたらどうしようと不安だった。もしかしたら、ダーカーとか……。もしそうだったら、逃げられるのか? 否、此処に来るまでにかなり体力を使っているし自分はいま運動不足の最高潮だ。マトモに走れるとも思えないし、応戦できるわけもない。
こんなところで死んでしまったら、兎劉がものすごく悲しんでしまう。もし敵なら、なんとしてでも生き残らないと……。
「ああ……やっとここに来たんだね、白亜くん。待ちくたびれて、そろそろ帰ろうかと思ってたところだったよ」
ガッチリ目が合ったその人は、そう言った後にわざとらしい大きな溜め息を吐いた。
聞き覚えのある声に心の底から安堵し、緊張していた体が一気にチカラが抜けた。そこにいたのは冰埀(ヒスイ)だった。彼女は兎劉や劉凰さんたちの専属医のような人……だったはずだ。亜瑠は物陰から姿を出した。
「冰埀さん? どうしてここに? ……それに……」
聞き間違いでなければ。自分のことを白亜と呼んでいた。
「迎えに来た──って言うのは語弊があるね。君に現状を説明しにきた……そう言うのが正解かな」
「現状?」
「白亜くん。君が居るここは──すごく大雑把に表現すると、ここは夢だ。君はいま、永い夢を視ているんだよ」
「え……」
冰埀は戸惑う亜瑠を無視し、とても簡潔に現実でのことを説明した。
亜瑠──否、白亜が眠っていること。しかし魂のみがどこかに行ってしまい、それにイチ早く気付いた冰埀が白亜がいる現実世界の時間を知り合いに頼んで止めたこと──そうしないと肉体が壊れてしまうかもしれないから──。それからずっと、冰埀は白亜の居場所を探っていたこと。
「俺からしてみれば1ヶ月ぐらいの時間は過ぎているけれど、時間が止まってる連中からして見れば、君は少し寝坊したぐらいの扱いになるのかな」
「は、はあ……なるほど?」
自分たちもそれぐらいの時間を過ごしていたので、時間感覚は同じなのだろうかと考える。
「俺がいるここは本当に夢なんですか? 感覚とかあるし、食べ物にも味があるんだけど……」
なんだか受け入れ難く、白亜は確認するように質問をした。
「夢と云うのは少し違うと言うべきなのかな? 夢には2種類あってね。視覚的イメージを想像し、空間認識能力が高ければ脳がそれらを擬似体験させてくれるものを夢と呼ぶんだ。でも稀に、魂が視る景色、魂に宿る思い出をうっかり視てしまうことも夢と呼ばれることがしばしばある。先程、君の魂がどこかに行ってしまったという話をしただろう? まあつまり、幽体離脱というべきかな?」
少し表現は違うが、そんな感じの現象なのだと冰埀は語った。
「ここは魂だけが入ってこれる世界なんだ。本来、幽体離脱した状態でも魂の視界を視ているのは肉体なんだ。監視カメラのようなものだね。魂がカメラで肉体が映像出力装置だ……本来は、ね。だから魂が入れる場所であるにも関わらず、この場所は“夢”と呼ばれる。でも白亜くんは、今完璧に魂だけがウロウロしている状態だよ」
「それじゃあ俺は、肉体がない……ってこと?」
足の裏は痛いし、歩き疲れて脚が痛い。肉体がないのなら、コレは一体何が痛んでいるんだろう。
「肉体がないってことを深刻に考えなくてもいい。ただ単純に、俺や兎劉と同じってことだよ。魂は膜に覆われていて、俺たち精霊や天使たちはその膜を体としている。幽霊なんかもそうだね。見えているのは膜であって魂じゃない。魂は決して何者にも見えないんだ──まあ一部を除いてね」
なるほど、と白亜は頷く。つまり自分は今は霊体というだけで、これは第二の体と言うべきなのだろう。
「俺たちはここを、神秘の森と呼んでいる……もしくは神の森? 簡潔にいえばつまり、人智を超えた森ってことだよ」
白亜と冰埀は苔むした椅子に座りながら話をしていた。静かな艦内に、高い冰埀の声は少しだけ響いた。
「俺たちも詳しくは解らないんだけど、此処に来ると探し物が見つかると云われている。それは人なのか、物なのか、それとも形なき何かなのかは誰にも解らない。探している本人ですら、具体的に何を探しているのかは解らないんだ」
「ええ……なにそれ」
「でも見つかると、自分が探していたものはコレだと本能で解る──そういう場所なんだよ。俺もここで夫と出逢ったんだ。俺は探される側だったけどね」
「探される側?」
「そうだよ。探す人がいるなら、探されるモノも必ずいる。基本的にヒトは、自分がどっち側か解らないんだ。……君は、どっちだろうね?」
冰埀が首を傾げた。
「……それは、見つかったらどうなるんですか?」
「夢から目覚めるはず──なんだけどね? 未だに目覚めていない君を見るに、どうやら誰も何も見つけていないということになる」
その言葉に、白亜は心当たりがあった。
おそらく探す側は兎劉で、俺は探される側なのだろう。もしかしたら兎劉は、見つけたという実感を得られていないのかもしれない。俺が夢に囚われていたから……──。
「俺、実は冰埀さんたちのこと夢だと思ってて……今じゃあもうほとんど思い出せないんです……」
白亜がそう明かすと、冰埀は突然白亜の頭に触れて目を閉じていた。頭に置かれている手が光っているように見えて、何かしているんだと解りおとなしくしている。5秒ほどでそれは終わった。冰埀の手が頭から離れていく。
「……診た所、頭に異常はないね。おそらく抑止力だろう」
白亜にわかりやすいように言葉を選びながら、冰埀は白亜の記憶障害の原因を語った。
冰埀は最初に、白亜はそもそも自分たちとは違う時空からやってきた存在であることを確認した。白亜はそうだと頷く。だから自分が存在しているのに、亜瑠という“もうひとりの自分”が同じ場所に存在しているのだ。
「それ自体は別に珍しいことじゃないんだ。まあ頻繁にあることでもないけど……。でも本来は有り得ないことなんだよ? でもそれを可能にしているのは、俺たちが今存在しているこの時空では、誰もキミを知らないからだ」
冰埀が魔法で半透明な2つの球体を出現させる。それは冰埀の指の先で浮遊していた。片方を「白亜が亜瑠として生きていた時空」と言って青色に、もう片方を「白亜と亜瑠が存在している時空」と言って赤色に染めた。
「まず言っておくけど、世界と時空というのは別の意味だ。ややこしいから説明しておくんだけど、世界は惑星と置き換えて……時空は──つまりパラレルワールドだね。決して俺たちのいる世界、時間と交わらないけども、同じ様な時間を進んでいる全く別の現実を別の時空と呼ぶんだ。並行時空とか、並行宇宙とかとも呼ぶね」
まず最初に冰埀が説明する。白亜は解ったと頷いた。
「あくまで仮設だけど、俺たちは今、こっちの青いほうの時空にいるのかもしれない。なんで来たのかは解らないけど、神秘の森のチカラでキミが引っ張られたんだろう。この森は、入ってきたヤツの探し物を強制的に別時空から召喚できるとんでもない森なんだよ」
そう言って冰埀が、青い球体を白亜に渡す。それはどんなに手を近づけても、手とは一定の距離を保って浮遊する不思議な球体だった。
「この青いほうの時空には、君が知っている苅がいない。だけど君は、苅が世界に存在していたという記憶を持っている。そうすると世界は、“別時空の記憶”を改ざんするんだ。世界を正しく回すために、世界が行う防衛本能を、抑止力と呼ぶんだよ」
赤い球体から、赤い光が飛び出す。きっとこれは俺を例えたものなのだろう。青い球体の中に入った赤い光は、少しずつ紫から青に変わっていき、やがて青い球体の中に溶け込んでしまった。
「あまりにも辻褄が合わない記憶を持っていると、世界は記憶を持つ者の存在ごと消そうとするけども……。君はこの時空に適合できているようだね、安心だ」
サラリと怖いことを言われたな。冰埀が黒く染まった髪の毛を指差しながら言った。
「記憶をいじられたからといって、外見が変わることはありえない。でもそうして君の外見が変わったということは、君がこの世界に存在していたという記録が“世界の記憶(アカシックレコード)”に残っているということなんだろう。世界は、白亜くんが俺たちの時空に来る前の姿へと、強制的に君の体の時間を巻き戻されているのかもしれないね」
白亜は少し知識を整理するために俯く。神秘の森。魂のみの状態。世界の抑止力。ふと、冰埀の足が少しずつ透けていってるのが視界に入りギョッとする。
「冰埀さん、消えてない」
「おや、時間切れだね。本来探す物もなく、誰かに探されてるわけでもない奴は入れないように出来てるのに、綻びを見つけて無理矢理入ってきちゃったから……」
「綻びがあるんだ……?」
そう尋ねると、冰埀が白亜を指差す。
「君だよ。俺は今、君と俺たちとの縁を辿ってきたんだ。縁が綻びとなって、この森に穴をあける。俺は再び、それを君に結んだ。……もしかしたら、君が俺を探しているのかもしれないけどもね」
冗談交じりに冰埀が笑う。俺”のような“物を探しているのかも、と冰埀が付け加えて白亜は首を傾げたが、一瞬だけ頭の中にある人物を思い浮かべた。
「──苅……」
でも、この森で見かけていないので探してはいないのかもしれない。そうだ──俺はずっと、「帰りたい」と望んでいた。ソレは神秘の森と呼ばれる場所ですら、どうしようもできない望みなのかもしれない。
「また来るよ、白亜くん」
冰埀が立ち上がり、最後に白亜を見下ろしながら言った。
「忘れないでおいてほしいことが他にもあった。……この夢はね、覚めると忘れるんだ。ここで起きたことは何一つ、どこにも残らない。でも何かが吹っ切れたような感覚を必ず得られるんだ。森の中で出逢ったモノと現実世界で再会できれば、ここでのことを思い出せるんだけど──それはほぼ不可能に近い確率だ。……つまりさ、何が言いたいか解るよね?」
「……」
冰埀の姿が完璧に消えてからも、白亜はしばらくその場から動かずに居た。
慌てて帰るとちょうど兎劉が起きた頃だった。「どこかに行っていたのか」と問われ、思わず「畑を見ていた」と反射的に嘘を吐いてしまった。
──ここには魂だけしか入ってこれない──。
──夢から覚めたらここでのことは憶えてない──。
白亜はしばらく、冰埀に言われた言葉を頭の中で反復させていた。
つまり、俺も兎劉も魂だけの存在。兎劉の場合は元々が霊体なので、どこか遠い場所で永く永く眠っているというわけではないのかもしれない。
そして俺がここにいて、髪の毛が黒く染まったということは、兎劉のいた時空で生きていたことの証明。
それは彼が──間違いなく自分がかつて愛していた兎劉なのだということだった。
「兎劉」
キッチンに立っている彼の名前を呼ぶと、髪の毛が短くなって幼くなった顔がこちらを見つめてくれた。なかなか続く言葉を言い出さない白亜に、兎劉が首を傾げる。
元々すこし紫がかっていた毛先が青く染まっている。よく見ると、爪の色が青かった。兎劉の爪は紫色のはずなのに……。いや、もっと凝らして見るとその爪の青は所々剥がれて紫色がチラついていた。上から塗ったのだ──青色に。
亜瑠だった頃、青色を好んでいたような気がする。兎劉は鮮やかな色が好きじゃないはずなのに、わざわざ俺が好きな色を選んで、爪に塗ってくれているんだ。髪の毛も、もしかしたら故意に色を変えてくれているのかも知れない。
「亜瑠? どうかしたのか?」
「……いや、なんでもないよ。呼んだだけ」
目が熱くなってきて思わず不自然に顔を背けてしまったが、兎劉はすぐに昼食を作ることに専念してくれたので顔を見られることはなかった。
兎劉は──俺を探している。…………そしてこの森を訪れた。
冰埀に会った翌日。白亜は、苅のことや元いた場所のことを思い出し始めていた。冰埀が縁を再び結んだと言っていたが、これがそういうことなのだと理解するのは早かった。
俺は何をすればいいのだろう。ここから出るためには、おそらく兎劉のために何かをしないといけないはずだ。
考えすぎで、頭が痛くなってきた。気分転換に少し家の外を歩こうかと窓の外を見ると、白亜は目を輝かせた。
「兎劉! 雪が降ってる!」
「お? 寒いと思ったら……」
兎劉が白亜の隣に立って窓の外を見た。
「結構降ってるな……こりゃ積もるぞ。夕方には白銀の世界かもなあ」
「裸足で出歩くのは辛そうだね」
白亜が兎劉の足を見る。精霊だから大丈夫なのかもしれないが、それでも寒そうだ。
そこで白亜は、先日訪れたアークスシップのことが頭に浮かんだ。
「……ねえ? 兎劉」
兎劉が返事をしてこちらを見る。
「……実はね……昨日兎劉に嘘ついちゃって……」
白亜はモジモジしながら、俯き気味に自分がひとりで森の中に入ってしまったことを兎劉に明かした。そこでアークスシップを見つけてしまったことも。
冰埀に会ったことは、何故か話せなかった。
怒られるだろうかと兎劉をチラリと見る。兎劉は苦虫を噛んだような顔をしていたが、ただ大きな溜め息を吐いただけだった。
「そうか……まあ無事だったから、別にいいわ」
白亜の頭をポフポフと撫でる。昨日一緒にお風呂に入った時に足の裏が傷だらけだったので、もしかしたらなんとなく予想はしていたのかもしれない。
「……それで? 今このタイミングで話すってことは何かあるんだろ?」
「その……ショップエリアのほうには行ったことあったりする? 服とか靴とか、あるんじゃないかなって思って……」
「ああ……そんなこと……考えたこともなかったな……」
兎劉はあからさまに目を逸らしてそう言った。
嘘だ。コイツまさか……俺がこう言い出すことを想定してて、俺の裸が見たくてワザと隠してたな? やたら俺に見せないように隠していたのはそういうことだったのか
「あの花の種も、アークスシップで拾ってきたんだよ。もっと色々拾ってくるか」
兎劉が出かけるぞ、と白亜を抱き上げる。
「この距離を歩いたのか、すごいな」
あまり上へ行くと空気が冷たくなるので、今日の兎劉は低空飛行をしてくれた。こんなに速く飛んでいても木にぶつからないなんて、すごい動体視力だ。
「大変だったんだよ? ……これから、ちょっとずつ運動していかないと……」
「そうだな。何かあった時に困るしな」
手始めにアークスシップの中を歩いて運動しようと、到着して白亜を下ろすと兎劉はニ、と笑った。
ショップエリアがとても懐かしく思えた。ハルファに行ってから全く見かけなくなっていたので、そのせいもあるかもしれない。
「やっぱテレポーターは起動しないな」
兎劉がバンバンとテレポーターの壁を叩く。そんな古い機械みたいに扱っても動かないだろうに……。
「テレポート無しで移動したことないから、どこにロビーがあるか解らないね」
「テレポートなしでロビーに入れるような道っつーと……キャンプシップ乗るとき通る通路ぐらいしか思い浮かばねェな」
「外に出ないと入れないってことだね」
兎劉がそう言いながらも既に色々と物色し始めていた。
「そうだな。ま、ロビーのほうは行かなくてもいいだろ。何もなかった気がするし……」
そうだね、と頷く。
ショップの裏もやはり扉が風化しており、白亜が軽く叩いただけでガタンと大きな音と埃──おそらく花粉──を上げて倒れるほどだった。
それから数分、白亜はショップエリアから出ないようにと言われ、兎劉は風のチカラを使って素早く探索し始めた。数分もすると、数着の衣服を抱えた兎劉が戻ってくる。
「洗えば着れそうだな」
白亜は武器を見ていた。この前みたいなことが今後もないわけではないだろう。神秘の森には一組しか入れないなんて冰埀は言っていなかったのを白亜はよく憶えていた。森の中で見たあの手──もしかしたら別の探す人、もしくは探されている人がいるのかもしれない。その人たちが完璧に無害な保証は無いだろうから、護身用に武器は欲しかった。
しかしショップエリアにある武器はどれもフォトンあっての武器だったため、フォトンがないこの世界ではただの鈍器と化していた。
……まあ、何もないよりはマシかな? そう首を傾げて白亜はハッとした。
「あれ?」
何故アークスシップはあるのに、ここにはフォトンがないんだろう。兎劉は魔力というもので生きているから、この世界に魔力があるのは確かだろうけども……。
もしかして──と廃墟と化したアークスシップを見渡す。
このアークスシップは、誰かの探し物なのだろうか。
「どうかしたのか?」
「いや、なんでもないよ。他になんか使えそうで、必要なものあったかな~って思ってさ」
もしかしたらそうなのかもしれない──そこまで考えて、白亜は自分たちのことの専念することにした。もし誰かの探し物なら、見つけられたら消えてしまうかもしれないので急いだほうが良さそうだ。
「服とタオル……あと家具もちょっと貰ったわ。白亜は? なんかほしいのあるか?」
「うーん……服がほしかったぐらいかな……」
「んじゃ、もう帰るか」
雪雲のせいで、いつもより暗くなるのが早かった。ショップエリアの上はガラス張りになっているので他の場所より比較的明るかったが、これ以上長居すれば暗くなって動けなくなってしまうだろう。
兎劉は亜空間に集めた物を仕舞うと、白亜を抱き上げて飛び立った。
家に帰り、持って帰ってきたものを整理する。服は一度洗濯してから使うことになったが、これでようやくタンスの中に衣服が詰まるなと満足そうに笑うと、兎劉は少し残念そうにしていた。──こいつ、やっぱり俺の全裸が見たくて黙ってたな?
兎劉は実用的な物の他に、ヌイグルミとボールと、いくつかのテーブルゲームを持って帰ってきていた。
「トランプだ! なつかし~」
「懐かしいって……ここに数十年住んでるわけじゃないんだぞお前……」
「兎劉と違って俺は人間なの! 数ヶ月間見てない物は大体懐かしいんだから!」
兎劉はハイハイと適当に返事をしたが、喜ぶ白亜を見て嬉しそうにしていた。
そういえば暇潰しになりそうな物が欲しいなんてこれっぽっちも思ってなかった。きっと初日に退屈だって言ったことを、兎劉は未だに気にしているんだ。あの時は悪いことをしたな、と白亜は反省していた。新婚旅行で「退屈だ」なんて、傷つくに決まっている。ずっと困った顔をしていたのは、傷ついていたんだなと今なら解る。いつかお詫びになにかしよう。
今も兎劉が家にいないと退屈ではあったが、兎劉といれば何かしらやることが増えるので、最近は娯楽を求めることが無くなってきていた。
それほど兎劉との生活で己が満たされていることを実感し、白亜は兎劉に抱きつきたくなるほど嬉しい気持ちで胸が満たされていった。
今日も朝食のために出かけた兎劉を待っている間、ずっと考え事をしていた。最近は、兎劉がいない時間は冰埀と話したことを考えるようになっていた。しかしどんなに考えても、兎劉が何を求めていて、俺がどうすればいいのかは検討もつかない。
少し気分転換がしたいと思い家の中を見渡すと、いつの間にか咲いていたおチビが目に止まった。
「咲いてる……!」
思わず駆け寄る。蕾の時は全く解らなかったが、咲いた花は見知った花だった。──白詰草だ。
確か蓬くんが話してくれたことがあった気がする……これの花言葉は「復讐」だと。怖い花言葉だね、なんて果鸛と話していたことがある気がする。
「一輪だけじゃ寂しいね、おチビ」
指で花をつつく。たくさん咲いたら、これで花冠が作れるのに。今の兎劉は髪が短いから、きっと似合う。よく見るとこの白詰草は少しだけ青いような気がする。
コレがもう少し銀色だったなら、兎劉と同じ色だと思えたのに……白詰草のまっさらな白と青で思い出される人物は、白亜の中ではひとりしかいなかった。
「……苅……」
苅はどうしているんだろう。時が止まっているなら何ともないだろうけど、起きてくるのが遅い俺を心配していないだろうか。いや、最近の苅はちょっと意地悪で冷たいから寝坊した俺のことなんてあんまり気にしてないかも。朝は果鸛とトレーニングがてら散歩に出かけてしまうし、寝坊してることにすら気付いてないかも。夜重のほうが気にしてくれてそう。
早く帰りたい。──でも、俺が帰ったら兎劉はどうなってしまうんだろう。起きたらここでのことを忘れてしまうとは言え「兎劉は俺を探しているのかもしれない」と考えると、また離れ離れになるのは気が引けた。ここから抜けて吹っ切れたとして、兎劉がまたここに戻ってこない保証はあるんだろうか。
『やあ、白亜くん。君はいつも少しだけ気づいてくれるのが遅いね』
「 ──うわあ 花が喋った」
花から声がして思わず飛び退く。花からクスクスと笑い声がした。よく聴いたら冰埀の声だ。なんてややこしい。心臓が口から飛び出そうになった。この人は人を驚かせるのが好きなのかもしれないな……。
『もう体をそちらに持っていくことができなくてね、綻びから声だけお届けしているよ。ちなみに、キミが飛び跳ねた姿はしっかり見えてるよ』
「……ビックリするんでやめてください」
『驚かせるつもりはなかったんだよ、ごめんね』
窓の外を見る。兎劉が帰ってくる気配はまだ無さそうだ。──この窓際に居るのは、兎劉が帰ってきたことにイチ早く気付けるからだった。
『いろいろ整理できたかな?』
「いや、むしろゴチャゴチャしちゃって……」
『ゆっくり考えて、と言いたいところだけどもあまり時間がない。スッキリサッパリ解決できるよう手助けしてあげるよ。質問はある?』
「時間がない?」
もしかしてこの世界は時間制なのか、と不安になる。
『この森へのアクセスが困難になってきたんだ。そして、君の体のこと。時間を止めているけど、ずっと止めてあげられるわけじゃないしアクセスできなくなったらいつか動かさないといけない。でも君が目覚めてない状態で時間を進めたら、魂が抜けた君の体は3日ぐらいで朽ち、こちらの現実世界に帰ってこれなくなるからね』
「なんだか、大変な事態だ……。この森に入ってきたヒトたちは、みんなそうだったんですか?」
自分のことなのに、どこか他人事のように聴こえた。
『いいや。こんなケースは今の所、君だけかもね。本来は極普通の睡眠時間で視るひとときの夢なんだよ。まあ神秘の森に行く夢を視ると、起きるまで絶対に目を覚まさないというルールはあるけどね』
「なんで俺だけ……?」
『それは解らない……。でも奇妙だね。神秘の森に家があるのなんて、見たことも聞いたこともない』
花がひとりでに首を動かす。動く花は素直に気持ち悪いな、と話題から逸れた感想を抱いた。
「本来はどういう夢なんですか?」
『森の中で目が覚めて、どこだろうって森の中を彷徨うんだ。探しものが見つかるまで──もしくは、見つけてもらう迄。それに神秘の森は常に夜のはずなのに、どう見ても朝だね』
花が外を見る。今日は雪は止んでいて、とても綺麗な青空だった。
『未知が多いからなんとも言えないけどね。……君等に合わせて、少し形を変えた森なのかもしれない。森は入ってきた人に合わせるというのは過去にもあったからね』
「……起きたら憶えていないはずなのに、どうして冰埀さんはそんなに詳しいの……?」
白亜は前々から疑問に思っていたことを問う。
『度々こうやって、綻びを見つけては覗いているから……かな』
「覗き魔……」
『人聞きの悪い。研究者と言っておくれ』
冰埀がクスクスと笑っているのが聴こえる。思ったよりよく笑う人なんだな。
『白亜くん、森とはなんだと思う?』
突然の質問に、白亜が反射的に変異をする。
「木がいっぱい生えてるとこ……?」
『そうだね、森林のことだ。じゃあ君がいまいる場所は?』
「……、……家?」
『そう、家だ。森林は木々が生えているからこそ森林と呼ばれる。森林の中に家を建てたところで、それは森林ではなく家──もしくは森林の中にある“家”なんだ。もう一度尋ねよう、白亜くん。森林とは何だと思う?』
「……?」
冰埀が伝えようとしていることが解らずに首を傾げる。
『どうやら家主が戻ってきたみたいだね』
窓の外を見ると、兎劉が水桶を持って戻ってくるところだった。上半身はほぼ露出した黒い袴のコスチュームを着た兎劉は、やっぱりいつ見てもカッコイイな、などとついいつも考えてしまう。
花はもう動くことも話すこともなくなっていた。またそのうち、ひとりでに喋り出すんだろうか。正直ちょっと花が嫌いになりそうだからやめてほしい。
白亜はいつもどおり玄関まで兎劉を迎えに行った。兎劉がただいまと言う前におかえりと言うのが日課なのだ。
「おかえり!」
「……ただいま」
そう微笑む兎劉は幸せそうだった。
「兎劉。森林ってなんだと思う?」
「なんだその質問は」
その日の夜、白亜は冰埀にされた質問を兎劉にもした。同じ精霊の兎劉なら解ると思ったが、やはり兎劉も白亜と同じリアクションをした。
「ここは家でしょ? 森の中に建てた家は、森の中に建つ家じゃん? じゃあ、森林ってなんだろう……って」
「人が住める場所かそうじゃないかってことか?」
「え? そういうこと?」
「は? なんだそのリアクション……、お前が言い出したんだろ……」
そんなナゾナゾみたいな問題だったのか? 白亜はどこか腑に落ちずにいた。モヤモヤとひとりで考えていると、兎劉がその質問の意図をどう考えているのか語り出した。
「森は道と一緒だろ? 誰かが通り過ぎてゆくべき場所だ。そこに住むなら、生き物は“巣”を……人間は“家”を作らないとなって話かと思ったわ」
「ああ……」
白亜はそこでようやく、冰埀が言いたいことが解ったような気がした。
つまり本来は通過するべき場所であるはずの神秘の森とやらに家が建っているということは、ここはもう“通り過ぎるだけの場所”ではなくなっているということなのだろうか。
いや、それがつまり……だからどういうことだと言うんだ?
「兎劉は神秘の森って知ってる?」
「どうした急に」
「いや、昔そんな話を誰かとしたことを夢を視たのを思い出してさ? そういえばここは森だな~って思ってさ。どんな森なの?」
「神秘の森は精霊なら全員知ってる。探し物が必ず見つかる森のことだ」
冰埀と同じことを言っている。やはり共通した知識なんだと白亜は頷いた。
「常識なんだ?」
「ああ。でも探し物がある奴が必ず入れる場所じゃねェんだよ」
探し物があれば必ず行ける森なら、神秘の森なんて大層な名前は付かないだろう? と兎劉が問い、白亜は頷いた。確かにそうだ。なんでも見つかる便利な森になる。
「神秘の森っていうのはな、絶対に手に入らない物を望んだ者だけが入れるって噂なんだ」
「手に入らないものが?」
「聞いた話だと、大体みんなそうなんだと。ある時は、大昔に絶滅した“幸福の青い鳥”を求めたヤツが。またある時は、この世に存在しない筈なのに、どこかに片割れが存在している確信を持った双子が──神秘の森に入れたらしい」
「あ、じゃあ冰埀さんも……?」
「ああ。冰埀っつーか……冰埀の旦那だな」
「冰埀さんの旦那さんは、何を探してたの?」
そう尋ねると、兎劉は思い出し笑いなのかプッと小さく吹き出した。
「俺この話好きなんだよ。面白くってな」
兎劉は笑い終えると、これを聞いたらお前も絶対に笑うと言いたげな顔でどこか得意げに答えた。
「愛すべき人、だとよ」
白亜は小さく吹き出した。
「ふふっ、なにそれ。つまり運命の人ってこと? そんな不確定な物でも見つかっちゃうんだ?」
「らしい。ただこれがまた不思議な話でな。もしそれが本当なら、お互いが同じ場所にしっかり存在していたことになるだろ? わざわざ森に頼らなくても、そのうち出逢って恋に落ちていただろうってことになってな? なんでだろうって後々調べたんだよ。そしたら──冰埀の旦那はリクって言うんだが──つまり俺たちと同じ精霊でな? 俺たち精霊は冰埀を知らないわけがないんだ。アイツは俺たちの王様だからな。でも、リクは冰埀に出会うまで冰埀のことを全く知らなかったんだと」
その言葉を聞いて、思わず一瞬だけ白亜の表情から笑顔が消える。
「だからリクは、どこか別のどっかから来た“精霊ではない何か”なんじゃないかって、未だに噂がある」
「そ……そうなんだ……」
見つけた側が、見つけられた側の時空に来たということだろうか。否、その逆なのかもしれない。抑止力なんてものがあって、世界という歯車を円滑に回すため、生きとし生けるものの記憶を都合よく改ざんしているのならば──どちらもあり得るのだろうか。
なら、俺がこのまま兎劉の探しモノとして兎劉の手の中に入ってしまうと、俺は──。
『察している通りだよ』
次の日。兎劉が川に言ったタイミングで、思った通り喋り出した花に、昨日の夜に兎劉とした話をしていた。
『俺の夫の場合は、そもそも俺たちの時空に存在していなかったことが解ってる。それを突き止めた頃には時間が経ちすぎていて、夫はもう自分がどこに居てどう暮らしていたのかは憶えてなかったんだけどね』
「キレイさっぱり無くなってたってこと?」
『そうだね。俺みたいに何の問題もなく別時空を行き来できる精霊は俺と精霊女王のみだから、夫が別時空の精霊だったのなら記憶は消されてしまうだろう。精霊は人間と違って、世界が過去を捏造できるほど雑な生き物じゃないんでね』
繊細なんだね、と白亜が笑う。本題に戻ろう、と冰埀が腕──葉を上げた。
『君はここの家主の物になれば、君は恐らくそちら側に行くことになるだろう。ただ少し疑問がある』
「疑問……?」
『この家だよ。森は森で、家は家だ。通り過ぎるための場所に、住む場所なんて普通作らない。でも、ここの家主はそれを建てた。その理由が不明瞭なんだ』
それは確かにそうだった。
「そういえば、アークスシップがここにあるのも不思議だ。あれも誰かが探している物だからこの森にあるんですよね?」
『さすが……飲み込みが早いね、白亜くん。そのとおりだよ』
白亜はアレも誰かの探し物なのかと、昨日抱いた疑問を冰埀に投げたが冰埀は首を捻った。
『もしかしたら、探す側かもしれないよ?』
「え……アークスシップに魂があるってこと」
『何かを求める物に、意志があるか心があるか、魂があるかは、また別の話だよ。まあ、付喪神──なんてものも居るからソレの可能性もあるけど』
「なんでもアリだな……」
『だから神秘の森なんだよ』
「神秘って言葉、都合良すぎる……」
『話が逸れたね』
冰埀がコホンと上品に咳払いをする。
「あ、まって!」
兎劉が戻ってくるのが見えた。いつもと違い、何故か駆け足だった。
「何かあったのかな? ちょっと様子を見てくる」
『待って! 白亜くん!』
冰埀が呼び止める声も聴かずに玄関を開けると、兎劉はとてもニコニコしていた。まるでサプライズを用意して親を喜ばせようとする子どものような笑顔で、これは何かあると白亜はすぐに解った。
こっちの気も知らないで……。きっと兎劉は、ここが神秘の森だということすら知らないのだろうなぁ……などと思いながら、不安を隠すように微笑んで兎劉を出迎える。
「おかえりなさい? ……どうしたの? 急いで戻ってきてたけど……」
「渡すのスッカリ忘れてたのを、さっき思い出したんだよ」
そういって兎劉が渡してきたのはおチビ──たくさんの白詰草の種だった。そして兎劉は大きな植木鉢を取り出した。もう土が入って重そうなソレをテラスに置く。
「昨日咲いてるの見て、ちょっと寂しそうでな。地植えは怖いから鉢植えになっちまうが。おチビをこっちに植え替えてやって、仲間作るのはアリだろ?」
ひとりぼっちで可哀相だ──兎劉とまったく同じことを思っていたので、不意なことで頬が綻ぶ。元気よく頷いた白亜は、素早くおチビを大きな鉢に植え替えて、再び花の世話に追われる日々を迎えたのだった。
あれから花は喋りだすことはなかった。もう7日が経過していた。
動く花は気持ち悪かったのでそれはそれで助かるのだが、連絡が途絶えると不安になることが増えた。今日も朝食のために水を汲みに行っている兎劉の帰りを待ちながら、白亜はソワソワと動き回る。
一番不安なのは自分の体のことだ。時間を止めているとは言っていたが、ずっとは止めていられないとも言っていた。あとタイムリミットはどれぐらいなのだろう。あまり遅くなると苅にもう二度と会えなくなってしまうと思うと、白亜は焦りを覚え始めた。
でもこれ以上もう、することも出来ることもなかった。兎劉と一緒に、まるで熟年の夫婦のような幸せな生活を送っている自覚はあった。これ以上兎劉が何を望んでいるのか、俺には解らなかった。──解ってやれないのだ。
それは、俺がもう兎劉のものでは無いからなのかもしれない。
思えば酷い別れ方をしたと思う。互いを嫌いになったわけでも、愛が冷めたわけでもなく、他に道がなくて仕方なく別れた。兎劉はいつまでも待っているような人だということは解っていたが、それでも一緒にいくことはできなかった。みんなには一つしか道がなかったが、自分には選択肢があったからだ。でももし、同じ道を歩んであげられていたのなら──。
いいや、過ぎたことはもう仕方がない。もう取り戻せないんだ。
取り戻せない。
その言葉が頭に浮かんだ時、考え事をしながらリビングを歩き回っていた白亜は足を止めた。
──もしかして……俺なのか? 俺が、ここに兎劉を喚んだのか?
ここは夢であるはずだった。
いいや、言い方が違う。神秘の森は、「夢であるべきはずの場所」なのだ。
最初から、夢を視ているのは俺だけなのかもしれなかった。
俺はずっと、兎劉が夢を視ているのだと思っていた。アークスシップのような無機物ですら探し物を求めてここにくるのなら、兎劉だって夢を視るのかもしれないと思いこんでいたのだ。
だって兎劉はもう──。
通り過ぎるだけの場所を、通り過ぎることが出来ない存在。──それが兎劉なのだ。
だからきっと、森はここに兎劉を留めてくれているのかもしれない。探し物が見つかったとしても、兎劉にはもう向かうべき場所がないのだ。
俺は──また選択を迫られているのだ。
白亜はそう確信を得た。何故かその考えがストンと腑に落ちたのだ。
冰埀が言っていた。
神秘の森はそういう場所なのだ、と。何を探しているか解らないが、見つけた時に本能が理解する──と。
嗚呼……なんだ……そういうことだったのか。
白亜は、絶望の底に突き落とされたような気分で暖炉の前のソファに腰掛けた。
苅を忘れ、抑止力に従ってここで兎劉と共に在るか──兎劉を置いて苅の元へ戻るか。
この森は、どちらか片方だけを選べと、俺に強いているのだ。
窓の外は白銀の世界だ。
外に出る。もう服も靴もあるから、全裸だった頃より全然寒くない。
兎劉は決まった道──つまり川と畑にしか行かないので、ほとんど足跡が無い平らな雪原が家の前に広がっていた。
こんなに綺麗な雪景色を見たら、きっと苅なら「白亜みたいだ」って子どものように駆け回りそうだ。なにもないまっさらな雪に足跡をペタペタつけて、犬のように遊び回るだろうなぁ。
あれから、もう何日が経ったのだろう。冰埀からの連絡は無い。苅のことを覚えているので、まだ縁は繋がったままなのだろう。現実から逃げるように、白亜は兎劉との幸せな生活を満喫していた。
吐く息が白い。自分が生きている証だ。兎劉の息も白いことに、これ以上ないほど安心した。
今までと変わらず、毎夜兎劉の心音を聴いていた。前にも増して、彼の鼓動の音を宝物のように思え始めている自分自身が哀れに思えた。
よくよく考えてみれば、最初から答えは単純明快であった。自分は夢を視ているのだから眠れなくて当然で、ここで眠ることができる兎劉は夢を視ているわけではないということなのだ。
冰埀が言いたかったことはコレだったのか、と思い耽る。そういえば彼女は、一度もここにいる存在を「兎劉」とは呼ばなかったな。
「亜瑠、飯を作るから手伝ってくれ」
あれから、料理を手伝う権利を得た白亜は毎日兎劉と共に朝食と昼食を作っていた。草を擦り潰したり、実の種を手で取り出したりと、手間が多くて大変だったが、兎劉と一緒に作業ができるのは間違いなく幸せで……夢中で作業をしているときに、時折視線が合うと微笑み合う──そんな何気ないひとときが幸福でたまらなかった。
しかし、そうやって幸せを噛みしめるほど、自分が兎劉を手放したという事実が胸を抉った。
出来上がった汁が多めの野菜スープを飲みながら、目の前で同じものを食べている兎劉を見つめる。亜瑠が手伝ってくれるから最近毎日飯が美味いなんて言いながら、幼い子のようにご飯を頬張っている。
気づくのがもう少し早ければ、自分は躊躇いなく兎劉を置いていけた。薄情だとは自分でも思う。でもあの時は、時間が巻き戻ったのだと思っていたのだ。兎劉との幸せな時間よりも別の道を選んでしまったことすら全て、無かったことになったのだと勘違いしていたのだ。
今の自分にはもう、兎劉よりも愛する人が出来ていたのもあった。苅だ。ここに来たばかりの頃は、俺は苅のほうが恋しかった──子どもみたいに夜通し泣くほど、苅が恋しかったのだ。苅と暮らした日々が夢だったことが信じられなかったのだ。──それも夢ではないと解ってしまった。
時間が巻き戻った訳でも、何もかも夢ではなかったのだと解っただけで、自分がこんなにも先へ進むことに躓いてしまうことが、白亜は情けなかった。
もう手放し始めていたんだ。
もう諦めよう、苅とのことは、全部夢だったんだ──もう帰れないんだと何度も自分に言い聞かせて目を逸らし続けて、ようやく掴んだ幸せだったのに……。森はどちらかを選べと、今更俺に問うて来るのだ。
なんて意地悪なんだろう。無情なほど冷たい水を掛けられて、目を覚ませと怒鳴られているような気分だった。
彼の手を離すには、時間が経ちすぎていた。自分は兎劉を愛し始めてしまっていた。
いいや、最初から愛していたんだ。愛し続けていた。
苅を愛している中でも、兎劉は一生忘れられない大事な人であることに変わりなかった。
今なら取り戻せるんだ。この森の中でなら──。
「亜瑠 どうした? スープがまずかったか 砂利でも入ってたか」
兎劉が慌てた様子で立ち上がり、白亜の横に膝をついて顔を覗き込む。
気が付かないうちに涙が溢れ出ていたようだ。
「──ッ」
泣いていることに気づくと、歯止めが効かなくなってボロボロと大粒の涙が目から溢れ、嗚咽が止まらなくなる。
「──ごめん……兎劉……、……ごめん」
「や、悪かった。俺もちゃんと見てなかったから……。亜瑠が好きな具材だけ入れて、作り直してやっから……そんな泣くなって……干からびちまう……」
白亜がどうして泣いているか解らない兎劉は、困惑したまま抱きしめる。
体が動かせなくなるほど泣き疲れ嗚咽が出なくなっても、白亜は延々に涙を流し続けた。
兎劉は白亜を抱きかかえて食卓から離れた後、白亜を膝の上に乗せて暖炉の前のソファに座った。朝から夕まで、そうして白亜の頭を撫でていた。
「一生分泣いてるんじゃねェか?」
兎劉は時折、白亜を笑わせようとそんな冗談を言ってみせたりしたが、白亜が泣き止む気配を感じられず、困惑し続けた。
額や頬に、数え切れないほどキスをされた。「最近はお気に入りだろ」と、兎劉は自分の心音を聴かせたりもしてくれた。
その優しさが、胸に突き刺さって本当に痛かった。胸を突き刺したその痛みが、波のように全身に広がり、再び涙を瞳から零す。
こんなに優しい人を、俺は手放して、独りにさせてしまったんだと思うと、悲しみが止め処なく溢れた。
頭が痛くなるほど泣いていたが、兎劉を想わずにはいられなかった。
愛している──愛しているのだ。こんなにも、彼を大事に想っている。
どうすればいいのか──誰か教えてくれ。
大きな植木鉢を覆い尽くすように、白詰草たちが咲いた。もう春が近づいている頃だ。雪はだいぶ溶け始めており、暖炉の火がなくてもやや肌寒いぐらいで済む日々が訪れてきていた。
やはり桜の樹ぐらいは近くにほしいな、などと兎劉は考えながら、閉ざされた寝室の扉を振り返る。
亜瑠がたくさん泣いたあの日から、30日ぐらいは経過しただろうか。あれきり、亜瑠は無気力になってしまっていた。以前は運動不足を気にして、毎日外を歩いていた。毎日キッチンで、俺の隣で食事の準備を手伝ってくれていたのに……最近はベッドから出ることも無くなってしまった。笑顔になることも、話すこともなくなってしまった。
最後に話したのは、「その髪型をやめてほしい」と請われるように言われたきりだった。
普通の精霊ならばその場でサッと伸ばせるのだが、兎劉は物理的な物を得意とする精霊だった為に髪の毛を伸ばすのに時間が掛かっていた。やっと背にかかるぐらいまで伸びた。
適当に切った短い髪型が、亜瑠──否、白亜と呼ぶべきか──白亜の恋人と同じ髪型だということは、なんとなく察せていた。名前は……そう──苅と言ったか。
白亜の話から、苅が何者であるかもなんとなく察せていた。そんな訳無いと思ったが、怨魔という存在がいたことを思い出して先入観を払拭する。きっと彼がいるのだろう。俺が殺めてしまったあの少年が──今の白亜の恋人なのだろう。
最初こそ、何故自分と結婚したはずの彼が突然夢の中で別の人を愛したなどと、よく解らないことを言い出したのか兎劉には解らなかった。これは遠巻きに別れ話を切り出されるのではとハラハラしていたが、兎劉はそこで初めて、自分の思い出が曖昧な状態であることに気付いた。
この家に来る経緯を全く覚えていなかったのだ。
そしてすぐに理解した。──ここは精霊たちがよく噂している、神秘の森であることを。しかし聞いていた話と少し違っていて、最初は少し混乱した。
神秘の森に入ると、まず「ここはどこだ?」と疑問を抱くのが始まりなのだ。そういうものだと冰埀から聞かされていた。
それなのに、兎劉は始めから「ここは亜瑠と新婚旅行で訪れた別荘」だと思いこんでいた。家があることも、フォトンがないことも……何千年と放棄されているようなアークスシップが森の中に墜落していることも、前からあったことのように、自然に受け入れることが出来ていた。「何故」と問われると解らないことだらけだったことに後々気付いたのだ。ここはそもそも誰が建てた家で、なぜフォトンがないのか。あのアークスシップは何なのか……兎劉には全く解らなかった。
生きとし生けるものは、必ず帰る場所がある。神秘の森に入った者たちも皆同じだ。ここは探している物を見つけるために訪う場所であり、留まる場所ではない。それなのに自分も白亜も留まり続けていた。白亜は何かを探しているように時折顔に不安の色を見せたが、兎劉は何かを探してすらいなかった。探そうとも思えなかった。
そこでようやく、兎劉は自分が「探される側」であるという仮説を立てたのだった。それからは瓦解するように──パズルがハマっていくように簡単に、兎劉は自分が何故ここにいて、何をするべきなのかを理解し始めた。
白亜が夢の話をした時、恐らく亜瑠の語る夢は夢ではなく、ココ自体が夢なのだと確信を得た。
白亜の話を聞いている間に、自分と亜瑠の縁が切れたことも思い出した。
──そうだ……。自分は──もうどこにも居ない存在なのだ。
終わりだけが待つ未来。亜瑠だけが別の未来を掴めることが解った。共に消えるより、亜瑠だけは──。そう思い、俺は最愛の人の手を放し、最愛の人は俺を置いて行った。
俺は置いてかれたのだ。もう動くことのない、時間の中に。
兎劉は空を見上げた。もう雪は降らないだろう。雲のない青空が続いている。
亜瑠が夜空を見て泣いたあの日のことを思い出す。
腕の中で泣きじゃくるこの愛おしすぎる少年を愛する誰かが──再び誰かを愛せるようになったこの人のことを、現実世界で待っているはずだ。
きっとそいつは 、 夜空のように美しい誰かなのだろう。
兎劉は、火を吹き消すような切なさが胸に染みるのを感じた。
「アークスシップに行ってくる」
数日ぶりに部屋から出て、おはようの挨拶よりも先に兎劉にそう伝え、兎劉の顔を見ることもなく家を飛び出した。
あれからずっと、白亜は今後を考えていた。
もしかしたら、もうタイムリミットは過ぎていて、現実世界で俺の体は朽ちているのかもしれない。それがもう不安ではなく期待になっていることに目を逸らし続けてきた。そうであってほしいと何度も望んでしまっていることを自覚して、ようやく外に出た。
もう一度だけでいい──確かめなければ。あそこに行けば、また冰埀に会えるかもしれない。
「冰埀さん!」
アークスシップに辿り着き、中に入るや否やそう声を張り上げた。名を呼びながら走る。たどり着いたのはロビーだった。見慣れた道を歩いてきたと思ったが、キャンプシップへの道だったのか。
「嗚呼──白亜様。申し訳ありません、お待たせしてしまいましたね。時間が止まっている間にどうしても終わらせたい原稿がありまして……とても遅れてしまいました」
ロビーの真ん中──中央のテレポーターの上に腰掛けていたのは、冰埀ではなく稀焉(キエン)だった。
「きーちゃん! なんでここに」
「ここは此方(こなた)が作った世界ですから。此方じゃなくても、神の能力を持つ者なら縁や綻びを見つけて容易く干渉できる場所なのですよ」
「──じゃあ……苅も……?」
辺りを見渡す。どうやら稀焉しかいないようだ。稀焉も首を横に振った。
「苅さまは時間を止められたままです。祇は神と呼ぶには1ランク下の生き物なので……芥さまは動き回っているようですが、彼女は例外ですし……」
「そ、そっか……まだ止まってるんだ……」
何故か安心した。ここに苅が現れても、俺はきっと……。
「ええ。本当はその時空すべての時間を止めるのは、とてもとても良くないことなのですが、神秘の森に囚われた魂──という、バグの中でも特にこれ以上ないほど珍しいバグが起きてしまったので、時の神に時間を止めるよう此方が頼んだのです」
それにしても、と稀焉がクスリと笑う。
「すっかり真っ黒になりましたね、白亜さま。これでは白亜と呼ぶより、黒亜と呼んだほうが相応しいですね」
稀焉のそんな冗談に、「確かに」と白亜も数日ぶりに笑った。笑い終えると、数秒の沈黙を置いて稀焉は微笑んだまま首を傾げて白亜に尋ねる。
「どうするのですか?」
「……」
「……どちらを選んだとしても、森は何も否定しませんよ」
何も答えない白亜に稀焉は困ったのか、少し悲しそうな微笑みを浮かべながら言った。
「……」
覚悟を決めるためにここに来たはずだったのに、まだ猶予があると解ったら再び答えに迷い出してしまった。本当に情けない──白亜は俯き、強く拳を握り込む。
「そ、それより、このアークスシップも何かを探しているんじゃないかって冰埀さんが言ってたけど、見つからないのかな?」
白亜は話を逸らした。稀焉がロビーの天井を見上げる。
「この者は……どうやら、白亜さまを探しているようですよ?」
「え……? ──わっ」
稀焉の言葉に驚く。どういうことかと尋ねようとしたが、突然辺りが光に包まれる。その強烈な光の眩しさに耐えられず、顔を腕で覆う。光が消えると、自分たちは森の中に佇んでいた。アークスシップがあったからか、辺りは開けており、地面も少し抉れているようだった。
「お帰りになられたようです」
「何を探していたのか、結局わからなかったな……」
「ふふ。知らなくてもいいのです。共に消えなかったのならば、知る権利はありません──ただ、彼も寂しかったのだということが解ればそれでいいのですよ」
次は白亜さまの番ですよ、と稀焉がかわいらしく首を傾げた。
何も言わずにいると、白亜が何を考えているのか察したのか、稀焉はやがてフワリとスカートを翻して白亜に背を向けて歩き出した。
「苅さまのことは気にしなくてもきっと大丈夫ですよ。彼はもう祇なのですから。過ぎ去ってしまえば刹那、子どものことを大事に育てながら、今まで通り生きていくと此方は思います」
「……そうハッキリ言われると、ちょっと傷つくな」
しかし否定はできない。苅は祇になってから自分がいなくても毎日楽しく生きているのは確かだった。
──俺は、帰らなくても大丈夫なのかもしれない。
「ねえ、きーちゃん。訊きたいことがあるんだけど……」
「なんでしょう?」
「神秘の森っていうのは、死んだ人も──誰かの探し物に該当するなら、死んだ人もここに来てしまうの?」
「確かに死んだはず──そう確信を得ている誰かがこの森にいらっしゃるということですね?」
稀焉はどこかの国のお嬢様のような仕草で首を傾げ、指で顎を押さえてウーンと考えていたが、すぐにしっかりと頷いてみせた。
「可能だと思います。しかしそれは、輪廻転生の輪に加わっていない者──つまり、成仏できていない者に限るでしょう」
「成仏……」
「はい。輪廻の輪に入れば生まれ変わる時が来るまで、何者も輪から出ることは許されません。神秘の森は、輪に入っていない者しか召喚できないのです。なので、未練があってこの世に留まり続けている魂ならば……森はその者を己の中に誘うことができるはずですよ」
「……」
ああ、訊かなきゃよかった。白亜が俯く。じゃあもう、なにもかも俺のせいじゃないか。全部、自業自得だってことか。
「──3日です」
俯いていると稀焉がそう言った。よく見ると、彼女の体は透けていて、向こう側の景色が見え始めていた。
「10時間までは待ちます、白亜さま。……10時間後、こちらの時空の時間を動かします。白亜さまが神秘の森から出ても、こちらの時間が止まっていたら意味がありませんから」
確かにそうだ。起きた先で時間が止まっていたら、自分もめでたく時間停止の仲間入りになるだけだ。
「白亜さまと此方たちの縁は切れ掛かっています。なので此方たちは、もう白亜さまの安否を確認するために森には来れないのです」
稀焉が申し訳ありませんと頭を下げ、自分が迷惑をかけているのだと白亜が戸惑う──そうか……もう猶予は無いんだ。
魂が抜けた体がもつのは3日間が限界なので、最高でも3日がタイムリミットだと稀焉は言い、最後に「後悔しないように」とウインクをして消えていった。
白亜は誰もいなくなったロビーに1人になった。
夢から覚めれば、ここでのことは忘れる。
3日間のタイムリミット。
苅は俺がいなくても大丈夫かもしれない。
ここにいる兎劉はきっともう──どこにも存在していない。
彼は……ここでしか生きられない。
家路を歩いてる間、ずっと考えていた。
何故か体が軽くなったように感じるが、迷いは晴れていないし、正直まだ悩んでいる。2つの選択肢のうち、どちらを選べば後悔しないのかが未だに解らなかった。
目覚めたほうがいいに決まってる。ここでのことを忘れるのなら、兎劉を置いて──。
俺はまた、兎劉を置いて行くのか?
行けるのか?
未練を残して留まり続けた兎劉の魂。──留まった理由は、俺に違いない。俺のことを待っていてくれていたんだ──いつか帰ってくると信じて……。
もう二度と会えない。もう二度と帰って来れないとどんなに言い聞かせても、信じて待ってくれているような人だと解っていた。それでも置いていったのだ。その果てがこれか……。
──もう、置いていけない。
亜瑠は駆け足で家にたどり着いた。
もうすっかり夕暮れ時で、家の中は外から見ると暗かった。春が近づいてきていた。暖炉がなくても肌寒い程度の気温なので、家の中の暗さからしてみて暖炉に火は灯っていないようだった。
玄関の前に立つ。ただいまと言おう。そして謝ろう。何日も寝込んで、心配させたこと、苦労させたこと全部。もう大丈夫だと──これからはずっと一緒だと。全部……全部伝えるんだ。
「ただいま!」
勢いよく玄関を開けると、そこには誰も居なかった。寝室を見に行ったが、兎劉は家にいないようだった。靴がないので出かけているようだ。
夕暮れになっても戻ってこない自分を心配して、迎えに行ってしまったのかもしれない。すれ違ってしまったのなら、また森に入るより家で待っていたほうがいいだろう。
ふと、キレイに咲き乱れたテラスの白詰草たちが目に入った。この数なら花冠が作れそうだ。頭に花冠を載せた兎劉を見てみたいと思っていたので、迷惑をかけたお詫びに花冠作ってプレゼントしよう。
白亜は咲いていた白詰草をすべて摘んで、暖炉に火を点けて兎劉の帰りを待つことにした。
花冠が出来る頃、外は真っ暗になっていた。暖炉の薪は燃え尽き、火が消える。
兎劉は帰ってこなかった。
胸騒ぎがした。
いいや、ただ暗い室内にひとりぼっちになって、少し心細いだけだ。そう自分に言い聞かせ、玄関の外で蝋燭を点けて兎劉の帰りを待つ。灯りを灯していれば兎劉が帰ってくるかもしれない。蝋燭が一本燃え尽きそうになったら、また新しい蝋燭に火を移して、いつまでも外で帰りを待った。
どんなに待てど、兎劉は戻っては来なかった。
明け方になり、外が明るくなる。──おかしい。兎劉が俺に何も言わずに帰ってこないなんて、絶対にありえない。
亜瑠は花冠を力強く握り締めてしまったことすら忘れるほど、無我夢中で走り出した。まず最初に川に行ったがそこにはおらず、次にアークスシップがあった場所にも行ったが見当たらなかった。
「兎劉! どこ行ったの! 兎劉!」
ここにいないのなら、あとはもう湖しか心当たりがない。ひとりで行けるだろうか。自力で歩いて、一日で辿り着ける距離だっただろうか。
心が掻き毟られるような焦りを覚え、考えるよりも先に足が動き出した。もう一度家に戻ってみたが、やはり無人だ。──やはり、湖に行ってみるしか無い。
そう思って駆け出そうとしたとき、フと春の匂いがした。風に紛れて、桃色の花びらが飛んできたのが一瞬だけ視界に入る。
どこかで、桜が咲いているのかもしれない。兎劉は桜が好きだった……もしかしたら──。
風が吹いてくるほうへと駆け出す。息も上がり、心臓がドクドクと耳元で鳴るほど高鳴っていた。脚が震えて走ることを拒みだしても、それでも森の中を駆けた──風の吹くほうへ。
やがて嫌というほど見飽きた背の高い木々たちが、開けていくのを感じた。林立に、木の肌を照らすように横薙ぎに光が差し込んでいる。──森から抜ける。
光の先に、桜の並木道が現れた。
すごい──キレイだ。満開になり散り始めている大きな桜たちが、等間隔で並んでいる。道に沿って歩いていると、木陰に誰かが立っているのが見えた。
「──兎劉!」
「お? ……亜瑠」
思わず駆け寄り飛び込むように抱きつくと、兎劉は亜瑠を難なく抱きとめ、驚いた顔で見つめてきた。
「突然いなくなって、帰ってこないし……心配したよ!」
「あ……わりぃ……。桜があんまりにもキレイで、ぼーっとしてた……」
「いや……俺も心配かけたから。──ぁ……」
渡そうと思っていた花冠は、強く握り締めて振り回したせいでボロボロになっていた。
「これ……謝ろうと思ってお詫びにって……編んだんだけど……、ごめん、ぐちゃぐちゃになっちゃったみたい……今度作り直すよ」
申し訳なく思えて、腕を後ろに回して花冠を背に隠そうとすると、兎劉がすばやくそれを取り上げた。
「あ! ちょっと!」
「俺のために編んだんだろ? なら俺のモンだ」
兎劉はそう言うと自分の頭にそれを載せた。水色の混じった白詰草の輪が、とても似合う。
「似合ってるか?」
子どものような無邪気な笑顔で笑う兎劉を見て、亜瑠は「似合うよ」と泣きそうな笑顔で答えた。
兎劉の髪が、いつの間にか背に届きそうな長さになっている。いつの間にあんなに伸びたのだろう。今の自分と同じぐらいの長さだ。
桜の花びらと共に風に撫でられて靡く髪が、本当に美しいと思う。兎劉はやっぱり、長いほうが似合う。
「ねえ、兎劉」
「なあ、亜瑠」
兎劉と亜瑠の声が重なる。「先にどうぞ」と言った言葉すら重なったのが可笑しくて、2人同時に笑い出す。
最初に言葉を紡いだのは亜瑠だった。
「ごめんね、兎劉……心配掛けて。──あのね、また夢のことを思い出してたの。戻れるかもしれないって思っちゃって──それで……どうしようか悩んでたんだ」
兎劉は亜瑠の言葉を静かに聞いていた。亜瑠は兎劉の正面に立ち、そっと兎劉の両手を握る。
「でもね、やめた。夢は夢なんだって──ここが俺の居るべき場所なんだって、やっと気付いたんだ。散々迷惑かけてゴメン。これからはずっと兎劉のことだけ見て、今まで通り生きようって、やっと吹っ切れたんだ」
愛してる。
「亜瑠」
そう伝えようとしたが、兎劉が静かに亜瑠の名前を呼んだことで、亜瑠の言葉は喉で詰まったのだった。
「……いいや」
兎劉をゆるやかに首を横に振る。
「お前は白亜なんだ、亜瑠」
「──え……?」
思わず握っていた手のチカラを緩めてしまうと、兎劉は白亜から手を離した。行き場を失った白亜の手が、虚空に留まる。
「お前は“亜瑠”であることを捨てて、俺はそれを見送った。そしてお前は白亜になったんだ」
兎劉はまっすぐ白亜を見つめながら、我が子に御伽話を聞かせるように、愛おしさが滲み出た声で語った。
「もう二度と戻ってこないと──もう二度と会えないと解っていて、それでもお前を手放したんだ、亜瑠」
兎劉は両目を閉じた。その表情はとても穏やかで、とても静かに微笑んでいた。
「ちがう──違うよ! なんでそんなこと言うの おれがっ──俺が手放したんだ! 俺が兎劉と生きる道を──……だから……!」
「だからいいんだ、白亜」
──やめてよ。その名前で呼ばないでよ。俺は亜瑠だよ。兎劉を愛して、兎劉が愛してくれた亜瑠なのに……。
──こんなところで話すのもなんだし、戻ろうよ。戻ってご飯を食べよう。お腹が空いたよ。暖炉に火を点けて──そうだ。兎劉のせいで蝋燭をたくさん使ってしまったんだ。もう……もう二度と勝手に居なくならないで……。
そう伝えようとして、白亜は気づく。あんなにキレイに並んでいた桜の樹たちが消えていたのだ。今や自分たちに影を落としているこの樹のみだった。それなのに、まるで桜の樹に囲まれているように花びらが舞っていた。澄んだ青空が地平線から自分たちを覆うように広がっている。地面はいつの間にか真っ白になっていた。
その異様な光景が「まるで夢のようだ」と思うと、桜の樹の影が黒い不気味なカーテンに見えるほど、白亜の心は不安で満たされた。
森への道も、もう解らなくなっていた──嗚呼、なんてことだ。俺は……森から出られたんだ──出てしまったんだ。……ここはもう──。
目を見開き、何も答えられずに唇を震わせる白亜を見つめ、兎劉は陽だまりのような温かい微笑みで言葉を続ける。
「ここは夢だ。通り過ぎるべき場所であって、留まれないんだ。最初から、留まることを許されてはいない──いつか時が来たら、過ぎなきゃいけないただの道だ……白亜──待っていてくれる奴が、俺以外にもできたんだろ?」
やめてよ。ソレ以上言わないでよ。ただ愛してると──そう言ってほしいだけなのに。
そう叫びたかったが、心の底から湧いてくる悲痛で声が出ず、白亜は首を横に振ることしか出来なかった。いつの間にか白色に戻っていた自分の髪の毛に気づくこと無く──ただ兎劉だけを見つめた。
「ただお前が心配だったんだ。お前がちゃんと、幸せに生きていけてるのか」
兎劉が少しだけ俯いて、再び白亜の目を見つめる。
「同じ時空で生きているなら、お前を見守ることができた。だが別時空に行ったお前を見守ることはできないことは、解ってた──だから、気がかりだったんだ」
体が震えた。立っているのが辛かったが、ここで足を折ってはいけないような気がした。足を折って倒れ込んでしまえば、兎劉が支えてくれると解っていても、何故かそうしてはいけないという使命感が、白亜の体の自由を奪っていた。
「夢の話を語るお前を見て、心の底から安心した。苅ってやつがお前を大事にしてくれてることが解って、大丈夫だと解ったんだ──もうコレ以上は望んでない。本当だ」
「やめてよ!」
ようやく出た声で叫び、兎劉の手を握る。その手にはもう感覚がなく、彼の手が温かいのか──それどころか、掴んでいるのかどうかすら解らなくなっていた。
優しかった。表情も、声も、視線も、なにもかも。それが嘘偽りない本心だと解った。兎劉はどこまでも優しいのだ。
風が強くなってきていた。涙で濡れた自分の頬が風の冷たさを感じていた。ボロボロと涙が顎へと伝って地面に落ちていく感覚はあるのに、兎劉のことを感じることがもう出来なかった。どうしてこんな意地悪をされているのか白亜は解らず、首を横に振って叫んだ。
桜の花びらが、まるで兎劉と自分の間を遮るように舞っている。
「もっとワガママ言ってよ! ずっと一緒にいたいって言って! そしたら、俺が叶えてあげるから! 兎劉の望みを、絶対に叶えるから……」
だからやめて。
「白亜」
やめて。
「その名前で呼ばないで……」
震える声で懇願したが、兎劉は白亜の手を放して一歩遠ざかる。慌てて手を握り返そうとしたが、白亜の手は風を掴んだだけだった。
「やっ! ──やだ! 兎劉! 行かないでよ! お願いだからッ──置いてかないで」
一歩遠ざかった兎劉に近づこうと一歩足を踏み出す。
「置いていったのはお前だ、亜瑠」
兎劉がそう呟いたのを聞いて、白亜は止まった。
「俺はお前を手放して、お前は俺を置いていったんだ」
彼の頬に涙が伝っているのが見えた。彼の泣き顔を一度も見たことがなかった亜瑠は、もう彼に近寄ることができなくなっていた。
「亜瑠……愛してる──ずっとだ。これからもずっと愛してる。最期に逢えてよかった。俺を探してくれて、ありがとう……亜瑠」
──嫌だ。
「やだよ……置いてかないで──ひとりにしないでよ、兎劉。……なんで……? ……どうして一緒に居たいって、言ってくれないの……? なんで……」
酷使させた足が限界を迎え、白亜は膝から崩れ落ちた。兎劉が駆け寄ってきれくれることを期待したが、兎劉はこちらには来てくれなかった。
涙で滲んだ瞳で兎劉を見る。涙が目の前を遮っていてよく見えていなかったが、そこでようやく白亜は気付いた。
花が散っていくようにひっそりと、兎劉も涙を流していた。
「一緒にはいけない──いってやれない。──ここから動けないんだ。もうお前の手も、声すらも届かない距離まで、俺は置いてかれたんだ──……白亜」
最後に、満開の花のような笑顔を浮かべた兎劉が見えた。風が強く吹く。これは自然の風だろうか──それとも兎劉が吹かせているものだろうか。風が運んだ花びらの多さに、反射で目が閉ざされる。
「お前はもう──亜瑠じゃない」
目が覚めると、電気が消えているのにとても明るい天井が見えた。時計を見る。昼の1時だった。──寝坊した。別に昨日は激しい夜でもなんでもなく、むしろ何もない穏やかな夜だったのに、妙に体が重く感じた。
朝ご飯を作りそびれた……果鸛と夜重はどうしただろう。果鸛は最近、苅と一緒に毎朝トレーニングをして帰ってくるから、きっとお腹を空かせているに違いない。急いで起きてご飯の準備をしないと──。
白亜は小さく伸びをして、服を着替えてリビングへと向かう。
そういえば何か大切な──長い夢を視ていたような気がしたが、不思議なほど全く思い出せない。思い出せないならきっと重要なことではないな、とリビングの扉を開けた。
「おはよう、母さん。昨日は静かだったのに、寝坊なんて珍しい」
親の代わりに姉に昼食を用意していた夜重と最初に目が合った。シャワーの音が聴こえるので、苅はシャワーを浴びているようだ。
「あはは、なんでだろうね? 起きられなかったみたい。俺の代わりに家事やってくれてありがとう、夜重」
「白いパパ! 見て見て!」
果鸛がそういって見せてきたのは、白詰草の花冠だった。
「それ──パパに? ありがと~! 果鸛は器用さんだねぇ」
「うん! はい、どうぞ!」
白亜の頭にポンと載せられたソレは、春のイイ香りがした。やっと寒い冬が終わったんだ。家族みんなでお花見がしたいな。準備をしておこうと、密かに計画を練る。
「白いパパ! 白詰草の花言葉知ってる?」
「姉さん、それはちょっと……」
白亜と同じ言葉を思い浮かべたのか、夜重が眉間に皺を寄せた。それを見て白亜はクスリを笑う。
「ふふっ、知ってるよ? “復讐”、でしょ? この前、蓬くんと話してたよね」
「違うもん! それもあるけど!」
果鸛が頬を膨らませた。
「“私を思い出して”だよ!」
その言葉に、頭の中に一瞬だけ何かがよぎった。それがよぎった時、幸せとも切ないとも言えるような感情が、胸を一瞬掠めた。
「“私を想って”とかもあるんだよ!」
「マトモなのもあったんだ……、あれ? 母さん?」
「え?」
食卓に座っていた夜重が、慌てて白亜のほうまで駆け寄り、果鸛は心配そうに白亜の顔を見つめていた。
「白いパパ、泣いてるよ? どうしたの? 毒でもあった?」
「白詰草に毒って……」
頬を熱い何かが伝い、床に落ちる。思わず下を見ると、水が瞳から滴っているようで、下を向いたことで重力に逆らえなくなったそれがボタボタと床に落ちる。
「あれ? なんでだろう……なんか涙が……」
「白くないパパー! 白いパパが泣き出しちゃったー!」
果鸛が風呂場に向かって声を張り上げる。
「母さん? 本当に大丈夫?」
「よしよし~、白いパパは花粉症かなー?」
「姉さん……」
娘と息子が、よしよしと頭を撫でてくれる。いつの間にか、お風呂から出たばかりの苅が、強く白亜を抱きしめた。石鹸のイイ香りがする。
「……おかえり、白亜」
心配の言葉でも、朝の挨拶でもなく、苅はそう白亜に声を掛けた。何故最初に苅が「おかえり」と言ったのか解らなかったが、白亜は何故かそれが愛おしくて、自然と返事をした。
「うん……ただいま……」