逆上す夜「まだ始めたばかりなのに……大丈夫? イレブンちゃん」
薄暗い部屋に、低く囁くような声。
その声は挑発的で、どこか楽しげにも聞こえる。
声の主は旅芸人シルビア。元々は気ままに一人旅をしながら世界中で巡業をしていた彼だが、現在は自分の夢を実現させるべく、勇者一行と旅をしている。
「んっ……全然平気ですよ、シルビアさん……っはぁ……」
シルビアの傍らには、汗を滴らせ若干息を切らしながらも、微笑みを浮かべる少年がいる。
彼こそが勇者イレブンだ。
「まあ、頑張り屋さんねぇ♡ それなら、もっと楽しみましょう」
シルビアはニッコリと笑顔を返した。
夜も更け、日中の喧騒が嘘だったかのように街中がすっかり静まった頃。勇者と旅芸人は、二人きりの時間を過ごしていた。
厚い壁に囲まれたこの空間では、囁き声どころか互いの息遣いまでもがはっきりと聞き取れる。
(どうして……こんなことになったんだっけ……)
徐々に荒くなる呼吸をなんとか整えようとしながら、イレブンは考えていた。
実はこのイレブン、シルビアに秘めたる想いを抱いている。
その想いを自覚したのはごく最近ではあるが、サマディーのサーカステントでシルビアを初めて見た時から、胸の奥に淡い感情が芽生えていた。
そんな想い人をチラリと盗み見ると、シルビアもイレブンほどではないが汗を額に滲ませ、首筋に流している。
普段はかっちりと整えられた美しい黒髪は乱れ、汗に濡れた長い睫毛は瞬きする度にキラキラと光る。
やや上気した頬と、つやを増した唇から漏れる吐息。
昼間の陽気な彼からは想像できないひどく艶めかしいその姿は、自然とイレブンの鼓動を早めさせた。
盗み見だったはずが、思わず見蕩れてしまっていたのだろう。
いつの間にか凝視していたらしく、視線に気付いたシルビアが笑いかける。
「あらあら……言い出しっぺちゃんが、早くも降参かしら?」
(ああ、そうだ。元は僕が言い出したんだった……)
次第にぼんやりとしてくる頭で、イレブンは何故このような状況になったのかを思い出した。流れだったとは言え、自分から持ち掛けたのである。
すぐさま首を横に振り、己を奮起させた。
(シルビアさんに格好悪いところは見せられない……いや、見せたくない!)
けれどもそんな思いとは裏腹に、頬は紅潮し、呼吸と鼓動はさらに激しさを増していく。
対してシルビアは汗を流してこそいるが、まだまだ余裕といった様子を見せている。
(これが経験の差なのかな。悔しいなぁ……)
イレブンは自分の未熟さを不甲斐なく思った。
十六年間暮らしたイシの村を旅立ってから初めて経験し、その後は片手に収まるほどしか回数をこなしていない。
故に体がまだ慣れていないのだから、致し方ないことであるのに。
しかも今相対するのは、普段にも増して美しい想い人。
いつ限界を迎えてもおかしくないイレブンだが、『シルビアと少しでも長く一緒にいたい』というその気概が、ギリギリのところで集中力を保たせていた。
一方シルビアは仲間になって日は浅くとも、この勇者の負けず嫌いな性分を見抜いている。
今でこそ旅芸人として大成した彼だが、かつては騎士の道を歩んだ身だ。
自分の半分ほどの歳の若者に挑まれた勝負。大人気ないとは分かっていても、簡単に勝ちを譲るつもりなんて毛頭なかった。
思いの外粘りを見せるイレブンだが、今やその体は茹で上がったように赤く、全身から汗が噴き出し息も絶え絶えといった具合。
初めは楽しんでいたシルビアも、いよいよ懸念を抱くようになっていた。
「イレブンちゃん、我慢は良くないわ。そろそろ……」
「ま、まだ大、じょ……ぶ……続け……くださ……い」
もはや返ってくる笑顔も声も弱々しいこの健気な若者に、シルビアの胸がきゅんと切なくなる。
しかし、これ以上無理はさせられない。
「もうやめましょう……ね?」
乞うようにイレブンの目を見つめ、手を強く握った。
朦朧とする頭でも、ここまでなんとか集中力を保ってきたイレブンだったが、不意にシルビアの熱の籠った目に見つめられ手を握られたことで、はっと我に返る。
同時に、とうとう限界を迎えることとなった。
「……っ! 僕、さきに……いきます……っ!」
言うや否や勢いよく立ち上がり、イレブンはバタバタと駆け出した。
「……行っちゃった」
シルビアはそのあまりの素早さに反応することも出来ず、呆然と彼の背中を見送った。
ここはホムラの里名物の蒸し風呂屋。
鍛治の材料にと、良質な鉄鉱石を求めて里周辺を探索していた一行だったが、収集に夢中になる内に日が暮れたため、今晩は里で体を休めることにした。
束の間の自由行動。
カミュは酒場に、ベロニカ・セーニャ姉妹は買い物やスイーツ探しにと、思い思いの場所へと出かけて行った。
イレブンはどうにかシルビアと二人きりになれないかと、美肌効果を謳う蒸し風呂に誘い、見事連れ出すことに成功したのだ。
二人きりになるのは初めてではないけれど、何しろ互いに入浴着一枚という格好。
その上、利用前のマナーとして浴びたシャワーで洗い髪のシルビアは、普段より輝きを増しているように見えた。
初めこそ平静を装えていたイレブンも、シルビアの妖艶な姿についに耐え切れなくなったのだろう。
照れ隠しなのか、はたまた自分を誤魔化すためなのか、『どちらがより長く入っていられるか』なんて勝負を挑むも、まんまと返り討ちにされてしまった……というのが事の顛末である。
ひとり浴室に残されたシルビアは、イレブンのことを考えていた。
あの正直者の勇者の気持ちが自分に向けられていることなど、シルビアはとっくに気付いている。
歳の差やイレブンの未来を考えれば、素直にその気持ちを受け止めるわけにはいかないことも理解している。
だがそれ以上に、自分に真っ直ぐな視線と気持ちを送ってくるひたむきなイレブンに、どうしても『愛おしい』という感情を持たずにはいられなかった。
それに、イレブンは分かっていない。
自身がどんなに美しく気高く、どれだけ他人を惹き付けているのかを。
そんな自身の、息を切らし汗を滴らせ紅潮する姿に、劣情をそそられている者がいることを。
追おうと思えば出来たはずなのに、胸が波打ち動けなかった。あのまま追っていれば、掴まえて口付けの一つでもしてしまっていたかもしれない。
かつて、ここまで心を掻き乱す存在は居ただろうか。
「イレブンちゃんったら、本当に困ったコ……」
そう呟きながら『ふふっ』と綻ぶシルビアの顔は、慈しみに満ち溢れた表情であった。
その頃、イレブンは里を一望できる露台で体を冷ましていた。
「僕、かっこ悪かったな……」
ベンチに身を横たえ、顔に被せたタオルの下でそう零す。
蒸し風呂とは違った熱で頬を染めているシルビアのことなど知りもせずに。