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    Fukuaka_MoMoMo

    @Fukuaka_MoMoMo

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    Fukuaka_MoMoMo

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    豊土のヤ×彫師パロ
    龍が如く程度でしかヤの知識はないし彫師だなんだも詳しくないし何故か豊に関西弁を喋ってほしかった

    箚青の狐   一、
      
        
     お疲れ様です、の一声は、言い慣れたようで難しい。低く強く太く大きく、けれども喧しくしてはいけない。覇気がないのも悪いのだが、人によってはうるせえと一発拳を振り下ろす者もいる。そうでなくても、相手の機嫌が悪ければ、すぐ暴力が振るわれるような環境にある。八つ当たりなのはわかっている。それだけに、情けない。決してこのようにはなるまいと思いながら、豊久は己の頬が鋭い音を立てたのを知った。
    「あんた、その薩摩弁どうにかならんのか」
    「……」
    「郷に入っては郷に従え。知っとるやろ」
    「……へえ。えろうすんまへん」
     頬を叩かれたことで崩れた礼を改めて取りながら、豊久は頭を下げた。頭上でふん、と荒く鼻息が鳴って、視界に映る男の靴が豊久から向きを変えた。憎たらしいほどに磨かれた靴が目の前から消えてから、豊久は顔を上げる。この仕事は男を車で送るだけ、帰りを待つ必要はないという命令だったから、早速豊久はここから立ち去ることにした。
     赤く腫れた頬はそのままに、豊久は開けっぱなしになっていた後部座席のドアを勢いよく閉めた。運転席へ乗り込んでエンジンをかけ、いつものようにCDボックスを開けた。不織布ケースの背をなぞり、この辺りだったと一枚を引き抜けば、目当てのCDが収まっていた。びんご、と薄く笑って、豊久はそのディスクをプレイヤーに差し入れた。流れ出した歌を口遊みつつ、豊久は車を走らせた。
     京都の街は、正直なところ苦手だった。街自体を見ても、地図を見ても、みんな同じように見えてしまうのだ。それでも、碁盤の目になっているこの土地を車で走ることは仕事の一つになっていたし、嫌でも多少は覚えていく。とは言え、車で移動するのがいいのかどうか、渋滞が多いことを考えると、極道も電車を使ったほうがいいのでは無いか、と思わなくも無い。
    「えろうすんまへん、のう」
     小さく呟いて、己でもぎこちない発音に鼻で笑った。滑稽だ。豊久は余所者で、京の人間になろうとも思わなければ、なる必要もない。紛い物になるだけ馬鹿馬鹿しいというものだ。
     と、豊久の携帯が震えた。ズボンのポケットから引き抜いて、片手で開ける。画面をちらりと見てから、豊久は通話ボタンを押した。
    「もしもし」
    「おう、俺だよ」
     携帯のスピーカーからは、壮年の男の声がした。
    「今日はもう上がりか?」
    「ん、何じゃ」
    「おつかいを頼みたくてなぁ。胡麻油が欲しいのよ」
    「胡麻油ぁ?」
    「丁度切らしちまってよ。店もそろそろ開けなきゃなんねえし、お前今晩来るだろ? 買って来てくんねえ?」
    「あー……」
     豊久は信号が赤に変わったのを見てブレーキを踏みながら、これからの道のりを確認する。普段と違うルートにはなるが、スーパーはある。あそこになら、彼が愛用している胡麻油もあるだろうと思って、よか、と豊久は答えた。
    「ありがとよ、じゃあまた後でな」
     ひひ、と特徴的な笑い声を最後に通話が切れる。知り合ってまだひと月にもなってないこの男の名は織田信長という。豊久が京へ来て初めて出来た友人である。彼はバーを経営していて、早くも豊久の行きつけとなっていた。
     
     
     カランカラン、とドアに取り付けられたベルが心地良く鳴って、カウンターに立っていた男は顔を上げた。右目を覆う黒い皮の眼帯は、明らかに男がただのカタギではないと物語っている。
    「おかえり」
    「おかえりじゃなか」
     豊久は苦笑しつつ、手に持っていたビニール袋をカウンターに置く。信長はその袋の中を見て、おいおい、と言った。
    「んでポテチがあんだよ」
    「胡麻油は買うたじゃろ」
    「しゃーねえな」
     信長は懐から財布を取り出して、代金を豊久に渡した。確認すると胡麻油とポテチを併せた金額より幾らか多い。今度は豊久がおい、と声を上げたが、信長はひらひらと手を振ってそれを遮った。お小遣いというつもりなのだろう、これではビールを一缶買える程度でしかないが、豊久は素直に受け取ることにした。
    「何飲む?」
    「芋」
     豊久は椅子に腰掛けて、袋からポテチを取り出しながら答えた。
    「あっコラ、俺の店でポテチ食うなよ、他の客もいるんだぞ」
     信長がポテチを取り上げ、代わりに豊久の前に芋焼酎のロックを出した。む、と信長を見、店を見渡すも、未だ豊久以外の客の姿は無い。豊久はポテチを取り返そうとしたが、信長は首を振った。
    「俺が食うぞ、金払ったんだからいいよな?」
    「気になっなら皿に出せば良かなかか」
    「はー、めんどくせえ」
     溜め息をついた信長は、頭を掻いた。現状他の客はいないのだし、そう張り合う必要もないと判断したのか、渋々と言った様子で信長は皿を棚から出した。
    「ところで、お前その顔どうした?」
    「顔?」
     皿に盛られたポテチを口に運びながら、豊久は首を傾げた。信長が右頬を指すので撫でてみれば、ひりひりとした痛みが広がった。ああ、とそこで豊久は上司に叩かれたことを思い出す。痛みに関しては鈍感な豊久は肩をすくめた。
    「俺の薩摩言葉が気に食わんのじゃと」
    「ほーん、えらく腫れてるぜ。冷やしたほうがいい」
     そう言うと、信長は冷凍庫から氷を取り出して、手頃なサイズに砕いた。ビニール袋に入れて口を縛ったものを豊久に投げて寄越す。別に手当の必要はあるまいと豊久は思ったが、おとなしくその氷袋を右頬に当てた。
    「お前、よく殴られたりしてくるよな」
    「ん? そうかの」
    「まだ知り合って日も浅いがよ、いつも怪我してるじゃねえか」
     こないだは鼻血出してたし、その前は目元が紫に腫れてたぜ。信長は苦笑いして続けた。
    「でもけろっとしてやがるし、回復が早えから、そこまで心配しちゃいねえが」
    「そうか」
    「よっぽど上司とは仲が悪いと見える」
    「まあ」
    「大変だなあヤクザ業ってのは」
     くつくつと信長は笑った。隻眼を細めて豊久を見つめている。さも他人事のような口ぶりに、お前もじゃろ、と小さく返してやれば、信長は肩をすくめた。
    「なんのことだか」
    「お前かてただのカタギじゃなかじゃろが」
    「どうでもいいだろ俺のことは。ヤクザでもねえし」
     そうだろうか。豊久は信長のいでたちに訝しむ。前述の通り眼帯が怪しいのは勿論、腕まくりによって見える肌には数多の傷跡がある。切り傷のみならず、銃創らしきものまであるのだから、真っ当な人生を歩んできたはずがなかった。けれども、信長はいつもこうして自分のことは語りたがらない。それもそうかとも思う。己も声高々にヤクザだと言いはしないし、実際元ヤクザならば尚更口にはすまい。
     まあいいか、と豊久がグラスに口をつけた時、再びドアのベルが鳴った。
    「ただいまー! あっ、お豊じゃないですか!」
     若い青年の声が元気よく店に響く。信長がお前なあ、と応えた。
    「遅いぞ、与一」
    「ちょっと用事があって」
    「電話一本ぐらい入れろよ」
    「いいじゃないですか、まだお豊しか来てないんでしょう?」
     与一と呼ばれた青年は、軽やかに笑いながら奥の部屋に入っていく。彼はこのバー『安土』の従業員の一人で、このビルの一つの部屋に下宿している。与一が来たということは、今晩は客が増えることだろう。結い上げられた艶やかな長髪と中性的な見た目に惹かれる客は、男女ともに少なくない。
    「賑やかになりそうじゃの」
    「俺は渋いバーにしたいんだけどにゃー」
     そう言いつつも、信長も与一を重宝しているのは確かである。
    「ホストの方が向いとるかもしらんのう」
    「おお、ぞっとする。うちの売上はガタ落ちよ」
     だが、信長の人柄などを好んで来ている客もいる。不穏な見た目でありながら、客の扱いは上手く、場の盛り上げも得意な彼に、また会いに来ようと思うのは豊久も分かる。この店は豊久にとっても非常に居心地が良かった。


       二、
       
        
     そういや、と信長が話を持ちかけてきたのは、豊久が京のヤクザの下っ端として働き始めてふた月経とうという頃だった。
    「お前墨入れてんの?」
    「墨?」
    「刺青だよ」
    「いや、入っちょらんが」
     そう答えると、ふうん、と不思議そうに信長は豊久を見やった。
    「つかお前、今更だけどどこの組なんだ?」
    「……」
    「お前が代紋バッジつけてんの見たことねえや」
    「別に、見せびらかすもんでもなか」
    「あっそう、そういうもんなのかね」
     信長は酒を作りながら、曖昧に頷いた。そういえば、豊久はこの男に己はヤクザだと自ら言った記憶がない。今となっては豊久も認めているから否定するには遅いのだが、信長はどうして己の素性を知っていたのだろう。確かに豊久は、ヤクザの証である代紋バッジをつけたことが無かった。
    「……で、墨がどげんした?」
    「ああ、そうだった。昨日久々に彫師の客が来てよ」
    「彫師の?」
    「たまーに来んのよ。そんでお前のこと思い出してさ、墨入れてねえのなら、あいつに入れて貰えばって」
     そこまで言うと、信長は奥の控え室に行き、何かを手にして戻ってきた。名刺の束のようで、えーと、とそれらをパラパラ確認していく。
    「あ、あったあった」
     一枚の名刺を引き抜いて、信長がそれをカウンターテーブルに置く。豊久は紫煙を吐き出してから、それを手に取った。
    「ひじかた、としぞう……」
    「ちっと無愛想な奴だが、腕は確かだ」
    「……」
     豊久はその小さな厚紙をまじまじと見た。黒い紙に、箔押しで銀の文字が書かれている。裏を見ると、梅の絵が印刷されている。
    「気になるなら店に行ってみたら良い」
     やるよ、と信長が言うので、豊久は有り難く彫師の名刺を胸ポケットにしまった。
     
     
     刺青は遅かれ早かれ入れるつもりだった。しかし、豊久はこの世界を昔から知ってはいるものの、足を踏み入れたのは最近のことである。信長はそれを知らないから、筋彫りすら入っていない豊久を意外に思ったのだろう。とは言え、極道者ならば刺青がなければならないわけでもない。組織の上層部の者の中には否定的な者もいるし、彫っていても刑務所に入ってしまって未完成の者がいることも豊久は知っていた。
     名刺を片手に、豊久は細い路地へ入った。完全予約制で、名刺には住所の記載がなかった。電話で問い合わせたところ、店は少しわかりにくいから気をつけろ、と店主は言った。低い男の声だった。
    「この辺りか……」
     京都の建物は、鰻の寝床といったものが多い。この辺りも例外では無かった。目印にと教えられた、梅の彫られた木の看板を探す。日が落ちかけて暗いその場所をしばらく見回していると、がちゃりとドアが開く音がした。驚いてそこを振り向けば、ドアには梅の彫刻が施された札が下げられていた。ドアを開けたのは、遠目からでも目を引くような、肌の白い男だった。
    「……あんた、電話をくれた島津さんですか」
    「あ、ああ」
     豊久が頷くと、どうぞ、と男は顎をしゃくって中へ入るように促した。
     店は黒を基調にした内装で、豊久は勧められるままに椅子に腰掛けた。店に入ってすぐの部屋には、テーブルと椅子、小さな棚がある程度で、質素なものだった。施術室は奥にあるのだろう。エアコンがよく効いていて、汗が滲んだ体を穏やかな冷風が包む。
    「コーヒーでいいですか。それか麦茶」
     奥へ行っていた男が、暖簾を分けて豊久に声をかけた。戸惑いながら、コーヒー、と豊久は答える。
     やがて、微かに煙草の匂いのする部屋に、コーヒーの匂いが漂い、男がマグカップを二つ持ってやってきた。あいがと、と豊久はその一つを受け取る。
    「結構迷いましたか」
    「うん、まあ」
    「初めて来る方のほとんどがそう仰います。ここぐらいしかいい物件が無かったんですよ」
     すみませんね、と男が苦笑する。そしてすっと背筋を伸ばし、軽く頭を下げる。
    「改めて、初めまして。土方歳三と申します」
    「俺は島津豊久じゃ」
     釣られて豊久も頭を下げる。なぜだか緊張している己に、豊久も薄く笑った。
    「まぁ気楽になさってください。刺青は初めてですかね」
    「ああ……」
     豊久が言い淀んだので、土方が首を傾げる。豊久は興味本位で店にやってきたのであって、今すぐ刺青を彫ろうとは全く考えていなかったことに気づいた。どういうつもりなんだと自分でも思いながら、もごもごとそう言うと、土方は困ったように眉根を下げた。
    「そうでしたか」
    「信……『安土』ちいうバーのマスターと知い合いでの、そんわろにお前を教せっもろて……」
    「ああ……そういうことか」
     土方は納得したように頷いて、コーヒーを一口飲んだ。すまん、と豊久は土方に頭を下げる。土方は構いませんよ、と答えた。
    「刺青は一生もんです。店に来てやっぱりやめる、って言う客もたまにいますし。勢いでやっちまって後悔してからじゃ遅い」
     言いながら、土方は棚からファイルを数冊引き抜いた。それらを豊久の前に広げて見せる。そこには刺青の下絵や、写真、スケッチなどがファイリングされていた。
    「こや全部すっぺ、お前の?」
    「ええ、全部ぜんぶ
     そう返されて、あ、と豊久は顔を上げる。己の喋りを恥じたことはないが、通じにくいことは自覚している。しかし、土方は豊久の薩摩言葉がわかっているらしい。僅かに目を見開く豊久に、土方は少しおかしそうに相好を崩した。
    「遥々鹿児島から? ──って、んなわけねえか」
    「ああ……その、仕事で」
    「なるほど。ちなみに職場は、刺青オーケーなところですか?」
     問われて、豊久は返答に困った。ヤクザだと答えるべきなのだろうか。店によっては暴力団関係者はお断りなところもあろうし、迷惑はかけたくない。豊久は口を開きかけたが、土方が先だった。
    「まあ個人の自由か、自分の体に文句言われる筋合いねえよな」
     そして豊久の表情を見て、
    「大丈夫ですよ、俺はヤクザだろうが誰だろうが、モラルがあってマナーを守れる人なら等しく客として受け入れます」
    「……」
    「師匠もヤクザ相手に商売してましてね。弟子だってんで、俺の方にもヤクザは来るんです」
     そして付け加えるようにして、俺ぁカタギですよ、と土方は言った。
    「ヤクザであろうとなかろうと、無理に言わなくていい」
    「……いや……確かに、俺はヤクザじゃ。じゃっどん、決してお前には迷惑はかけん」
    「そうしてくれると、非常に助かる」
     その後豊久は、彼の作品ファイルをじっくり見ながら土方と語った。彼の作品は和彫だけでなく洋彫もあって、実に様々なデザインのものを手掛けているようだった。土方はお喋りな男では無かったが、豊久が見入っている絵には、これはこういう図案で、こういう意味があるのだ、などと解説してくれた。その声は耳に心地よく、また、彼が刺青について語る時の表情が豊久は気に入った。熱く、と形容するのは少し違うが、とにかく好きなのだということは強く伝わってきた。
     帰る頃には、豊久はこの男に墨を入れてほしいと思うようになっていた。豊久がそう告げると、男はそうですか、と嬉しそうに微笑んだ。
    「そいで、図案が決まっちょらんし、また相談しに来ても良かか」
    「勿論」
     土方の返答に、豊久は破顔する。二人は連絡先を交換して、また、と別れた。
     その日の晩の酒は、不思議といつもより美味く感じた。 
     
     
       三、
       
       
     今日は結構機嫌が悪かった。あや女にでも逃げられたかの、と口の端を歪めて、豊久は腹を撫でた。流石に何発も受けてしまうと、多少は痛む。殴るその拳だって痛いだろうに八つ当たりをしてくるのは、ある意味自傷行為なのかもしれない。
    「勉強になるのう」
     さて、己ならばこういう者にどう対処するか。そもそものところ、このような者が末端組織といえども長を務めていることがおかしいとも思う。全体の組織が大きくなりすぎたのか、教育が行き届いていないとも思う。そういう場合、さらに上の立場に立つ者はどうするべきか。力に物を言わすのが手っ取り早いけれども、それではこの小物と変わらない気もする。暴力が全ての統率に使えるかと言えばきっとそうではない。
     先程借金の取り立てをした会社が収まる雑居ビルの屋上で、豊久はぼうっと空を見上げた。周囲の反対を押し切って、単身で京都に来たのは正解だった。豊久は生まれた頃から周りにちやほやされがちで、おまけに皆忠誠心の厚い者ばかりだったから、腹を殴るなんて真似は決してされてこなかった。いや、彼らが豊久にそんなことが出来るかといえば、本来出来るはずも無いのだが、豊久は彼らが部下に手を出すところも滅多に見たことがない。組織に恵まれたものだ、と思うも、それがいつまでも続くとは限らない。親と子は別の人間であるからして、真逆の性格である可能性も大いにあるのだ。それが己でないと断言出来るわけもなかった。
     ふーっ、と濃紺に染まりつつある空に煙を吐き出して、肘を置いている鉄柵に煙草の吸い殻を押し付けた。腕時計を見やれば、そろそろ土方が起き出す頃合いだった。彼は昼間の連絡には一切反応しない。初めて店に行く時も、前日の昼に電話をしたが繋がらず、数時間後に彼の方から電話を折り返してきたのだ。昼夜逆転の生活をしているから、出来れば陽が落ちてから連絡してくれた方が良い、と連絡先を交換しながら彼は言った。道理で肌が白いわけだ、そんな変な感想を抱いたのを豊久は覚えている。
     安土にいる、と短いメールを送って、豊久は歩き始めた。ビルから出ていく途中に“仕事相手”と目が合って小さく悲鳴が聞こえた。代紋も背負っていない、明らかに余所者の豊久に対してもこれである。いや、一般人にとってヤクザなど皆一緒だろうか。それにしてもネームバリューとは恐ろしいものだ、と喉の奥で笑った。
     会津組。それが今、豊久の属する組織の名だ。京都に本部を置いている極道組織。関西でも五本の指のうちには入るだろう大きい組だ。厳密には豊久は、その会津組の三次団体に身を寄せているのだが、これは会津組組長から直々に許可を得ている。
     ──社会勉強、なぁ。
     会津組組長、松平は豊久の言葉を繰り返した。
     ──まぁ、ええけど。兄弟……維新からも頼まれちゃ、無下には出来ひんし。せやけどあんた、そないな下っ端でええのん?
     はい、と豊久は答えた。己は生まれながらにしてある程度の地位は約束されている身、叩き上げの者と比べれば経験不足なことこの上ない。部下もそのような者に従いたくもないだろう。
     ──あんたんとこは、ええ部下に恵まれとるっちゅう話やったけど。ちゃうんか、今の樺山は?
     そこまで言って松平は溜息混じりに苦笑した。僅かに目線を下げた豊久を、不憫だというように見つめる。
     ──すまん、今の樺山組はあってないようなもんやったな。……ほな、三次団体に面倒な組があるさかい、そこに行きや。遅かれ早かれ消すつもりやで、好きにやってもろてええわ。
     ご迷惑めわっをおかけしもす。豊久が頭を下げると、松平がやめえや、と手を振った。
     ──うちはなんやったら、あんたにあの組を消してもらいたいなんて思っとるんやから。迷惑なんてもん気にせんでええ。
     そして松平は、懐かしそうに目を細めた。
     ──にしても、あいつによう似とる。
     頭を深く下げたままの豊久に、小さくその声は届いた。
     
     
     梅サワー、と土方はやってくるなり言った。滑らかな動きで豊久の右横のカウンターチェアに腰掛ける様は、どこか猫を連想させる。
    「すまないな、遅くなって」
    「いや」
     土方の詫びに、豊久は微笑んだ。
     豊久が仕事終わりに土方へメールを送ってから、土方は二時間後に電話を寄越した。まだいるか? と少し寝惚けたような声に、無理せんで良か、と豊久は返した。しかし、土方は今からでいいなら行く、と言ったので、それからまた三十分ほど待っていたのだ。
    「無理せんで良か」
     豊久は再び言った。出されたお通しを土方の方へ差し出す。空きっ腹に酒は良くない。
    「お前もせっかくの休みじゃっで、お前の好きにしたら良かよ。お前の空いちょっ時に、俺は合わせる」
    「休みったって、特にすることもねえよ。昼間寝てんだからこうやって酒飲むか、刺青のデザイン考えるか……」
     あふ、と土方は欠伸をする。自然体の土方の様子に、目の前で酒を作っていた信長がしみじみとした目線を向ける。
    「お前らいつの間にそんなに仲良くなったの」
    「まだそんなにってほどでもねえが。会うのは五回目ぐらいか?」
     土方が煙草に火をつけながら豊久に訊く。豊久はそうじゃな、と頷いた。
    「飲みに行こち言たんは今日が初めっじゃの」
     それまでは豊久が土方の店へ出向いていた。彼は夜間しか営業していない割に客はそれなりにいるらしく、充分に時間が取れるのは休みの日ぐらいだった。勿論豊久は、土方の都合の良いタイミングであれば、なるべく自分の予定も合わせるようにしたし、それが少ない時間であったとしても構わなかった。だが、土方はそれでは申し訳ないと思っているらしかった。だから、週に一度の土方が休みの日には、豊久の刺青についてのカウンセリングが設けられたのだ。
    「でもよ、もう夏だろ。墨入れるにゃ不向きじゃねえか」
    「そうなんか?」
     信長が言い、今度は豊久が土方に訊ねる。土方はまぁなぁ、と頷いた。
    「汗は大量にかいちまうし、日焼けは避けなきゃならねえ。冬なら陽も短えし長袖を着るから構わねえが、夏だとそうもいかねえだろ。だから夏はおすすめしない。ちょうど言うつもりだった」
    「ま、そうよな」
    「詳しいな、やっぱり」
     にやりと土方が笑う。
    「バッカ、おめえまで俺をスジモンだっつうのか」
     信長がいつものように顰めっ面をする。土方もどうやら信長を元ヤクザだと思っているらしい。くつくつと笑う豊久の横から、でもー、と与一が口を挟んだ。
    「信さんは半袖とか着ませんよねー」
     辛うじて七分丈ですかねえ、と与一が言えば、信長はムッとした顔で与一の額をデコピンした。
    「うるせえ、仕事しろ」
    「ほら! 何か隠してますよね!?」
     半ばはしゃいだような与一の声に、豊久は込み上げてくる笑いを堪えられなかった。特別面白い話というわけでもなく、これまで何度もしてきたくだりだ。けれども、なぜだろうか、今日はいつもより楽しく感じられる。
    「──ふふ、」
     己のものではない笑い声がして、豊久は軽く目を見開いた。右横を見やれば、土方が口元を押さえて、ふ、ふっと笑っていた。これには信長も与一も驚いたのか、土方をキョトンとした顔で見ている。本人はそんな状況を誤魔化すように咳払いをした。
    「そ、そんなに面白かったか?」
    「いや、別に、ふふ」
     信長の問いに、土方は首を横に振る。
    「なんか、いいなって、思って……」
     笑いの合間に彼は答えた。
    「俺、あんまり外に出ねえから、こうやって人と話すこともねえんだ。だから」
     その赤らんだ笑みを、豊久は知らず見入っていた。土方がこのように笑うのを見たのは初めてのことだった。驚きが大半の感情を占めていたが、別の感情も確かにあった。だが、それはまだ言語化が出来そうになく、どういったものかもわからなかった。豊久が自身の気持ちに僅かに戸惑っているうちに、土方も落ち着いてきたのか、ふう、と大きく息をついた。
    「ああ、しょうもないことで笑っちまった」
     そして頬杖をついて、豊久の方を向く。
    「来てよかった」
     こんな夜もいいもんだな、と土方は小さく言った。
     
      
       四、
       
      
     大学、と豊久は伯父の言葉を繰り返した。伯父は頷いて、腕を組み直した。
    「ないごて、大学に」
    「行っ損は無かじゃろ」
    「じゃっどん、俺は」
     あまりに予想外なことに、豊久は伯父が咥えた葉巻に火を差し出すのも忘れ、反論するための言葉を探した。
    「お前が家久の跡を継ぎたいのは、よくわかっちょっ。俺もお前が二代目になっこつに異論は無か」
     それなら、と身を乗り出した豊久を、伯父は手を軽く挙げて制した。豊久は咄嗟に口を噤み、浮いた腰を下ろす。自分で葉巻に火をつける叔父の動きがどうにも遅く見えてしまい、苛立ちに唇を噛んだ。一体どういうつもりなのだ、この維新という男は。
     豊久が今対峙している男は、九州一の極道組織である十文字会の大幹部であり、維新組組長の島津義弘だ。約半年前に父親を亡くした豊久の、今の保護者である。
    「今のお前は、ものがよう見えちょらん。仇討っこつしか頭に無んだ」
    「じゃっで、頭を冷やせち仰るとですか」
    「おう。そん通りじゃ」
    「納得行きもはん!」
     思わず声を荒らげた豊久を、義弘は睨め付ける。豊久を見下すような、馬鹿にするような、それでいて冷たい視線が気に食わない。義弘は本来、このような男では無い。彼は本来情け深い性格で、豊久にも昔から優しかった。豊久を引き取ろうといの一番に申し出たのも義弘である。だからこの話だって、何の反対も無いだろうと豊久は考えていた。
    「そいなあ何なら納得出来っ? 崩れた組の天辺に立って、今のお前がまともに下の者を従えられるとは思わんが。あいつのように死ぬのが目に見えちょっ」
    「伯父上!」
    「黙れ!!」
     義弘の発言に、怒髪天を衝いた豊久が叫ぶと、それを上回る強さで義弘が怒鳴った。
    「お前のよな若造に、俺の弟を殺したわろの仇を取るっのか」
     のう? と義弘が拳を作って豊久に迫る。まさか殴るのか。それもいいだろう。豊久はその気迫に負けぬよう、目に力を入れて伯父を真正面から見つめ返した。
    「こやお前の、樺山組のこつ。じゃっで、お前が家久の仇を取るこちは何も反対はせん。じゃっどん、お前はまだ極道ごくどでも、ただの餓鬼じゃ。違うか」
    「……」
    「確かに、今の樺山は崩壊寸前。お前が焦っのも分かっが、ここで先走ったらほんなごて壊れかねん。極道になるなちいうつもいは無かが、今はならん。お前の復讐が叶うまで、俺は待つ。樺山組も俺が何とかしよう」
    「……そいなあ、大学は?」
    「別に暇潰しでん何でん良か。ただ、お前は頭が良か。放っておくのはあったらし」
     そいに、学生ちゅう真っ当なカタギのままであればったあっね目に遭わずに済んじゃろ。義弘が言って、膝の上に置かれたままの拳を開く。その手を伸ばしてきたので、豊久は半ば驚いて、ぎゅっと目を閉じた。だが、感じた手の感触は柔らかく、ぽんぽんと頭を撫でるのみだった。
    「お前は家久によう似とる」
     
     
       五、
       
       
     すぅ、と息を吸って目を開いた。少しずつアラームの音がはっきりと聞こえるようになってきて、豊久は時計のボタンを叩くようにして押した。呻きながら汗ばんだ体を起こすと、枕元に紙が数枚あった。それを手に取り、じっと見つめた後、紙の皺を伸ばしつつテープを探す。
    「……あった」
     この小さくて黄色のケースに収まったセロハンテープは、このためだけに買ったものだ。適当な長さで切って輪を作り、紙の裏面に貼ってやる。この紙はなんと言うのだろうか、コピー用紙でもないが、かといって豊久の知る画用紙のような厚みや凹凸はない。うっすらと光に透けるその紙には、花や動物などが描かれていた。土方が描いてくれたものだ。それらを豊久は丁寧に壁へ貼っていく。アイデアスケッチだとか、ラフだとか土方は言っていたが、豊久には美術用語はわからない。けれども、それが作品として未完成のものであれ、土方の絵が豊久は好きだった。初めて目の前で描いてくれた時、持って帰って家に飾りたいと言った豊久に、土方が目を丸くしたことを覚えている。こんなの、飾るようなもんじゃない。そう言ったことも覚えている。しかし、尚も欲しがる豊久に、土方は苦笑しながらその絵をくれた。飾ると言っても額縁に入れることも出来てはいないのだが、豊久は少しずつ家の壁に増えていく土方の絵に頬を緩ませた。
     
     
     それにしても、なんにしても、京都の夏は暑い。豊久は代謝がいいのか、よく汗をかく方だった。ジャケットなど着れるわけもなく、半袖のワイシャツが汗で張り付いて気持ちが悪い。胸元の布を掴んでばたばたと煽ぐのは、極道もカタギも同じである。もしかすると地元よりも暑いかもしれない。うげ、と口元を歪めながら、夏に刺青は彫らないほうがいい、という助言に納得した。
    「気が狂いそうじゃ」
     噴き出す汗を拭いつつ夜の街を歩いていれば、携帯電話が鳴った。画面を見れば豊久がケツモチをしているキャバクラからの電話だった。店でのトラブルだろう。
    「今行くわ」
     通話ボタンを押して、それだけ言った豊久は携帯を閉じてポケットにしまう。仲間には手短に店の名前を言って、豊久は走り出した。すぐ近くのキャバクラであることと、きっと冷房がよく効いているだろうということに、気のせいか足が早まる。
    「キャーーーッ!!」
     裏口から店の控え室に入ると同時に、ホールの方から女の悲鳴が複数響く。豊久はずかずかと控え室を突っ切り、勢いよくホールへと飛び出した。
    「おい」
     豊久が大きな声で呼びかけると、全員の顔がこちらへ向いた。怯えた顔のホステスと、緊張した面持ちの客たち、憤慨する黒服たちの目が、豊久を見つめる。豊久は明らかに異常な卓に大股で歩み寄った。そこでは二、三の酒瓶が割れ、中身が辺りをびしょ濡れにしていた。上質そうなソファには血痕もあって、相当な暴れ様だ、と頭のどこか冷えたところで思う。今、頭から血を流している黒服の胸倉を掴み揺さぶっている奴がやったので間違い無いだろう。豊久はその男の腕をむんずと掴む。男の据わり切った目がこちらに向いた瞬間、右の拳を顔面にぶち込んだ。めきょ、と面白い音がして、己の右手にも衝撃が伝わる。
    「お客さん」
     視界の端で、黒服がふらふらと逃げていくのを確認しながら、豊久は男に言った。男は酷く酔っているせいか、それとも突然殴られたせいか、状況を飲み込めていないようである。ぽかんとしたまま床に尻餅をついている男の首根っこを、豊久は掴んだ。
    「ちょっとお話あるんで裏行きましょか」
     そう言って豊久が男の体を引きずり始めると、男はようやく気がついたのかじたばたともがき始める。どうどう、と豊久は苦笑しながら、問答無用で引っ張っていく。大の男が全力で暴れているのだから、決して楽では無いのだが、そんなことは関係ない。
    「騒がせてすまんのう、ちょっとこいつにはお仕置きせなあかんけど、もう大丈夫ですわ」
     去り際、豊久が明るい声で言った時の空気は、決して良いものではなかった。
     けれども、豊久にとってはこれが仕事である。
     
     
     繰り返すが、京都の夏は暑い。それは夜でも変わらないことだし、運動なんかすべきではないと豊久は思う。厄介な客を殴るのだって、割と苦痛である。だが容赦をするつもりはない。あの現場を見るに、あの男は黒服の頭を酒瓶で殴りつけたのだろうから、同じぐらいのことをしてやらねば気も済まなかった。
     仕事を終え、先ほどの店に戻ってみると、やはり他の客は早々に帰ってしまったらしい。ホステスも早めに上がらせたとのことで、当然の判断だ、と豊久は肩をすくめた。例の黒服は額をすっぱりと切ってしまっていて、十何針かは縫うことになるだろう。支配人がそう言いながら、豊久に礼を渡した。豊久は血に濡れた手を雑に服で拭い、それを受け取る。そしてしばらく眺めた後、
    「しばらく涼んでもええか?」
     と豊久はそのまま冷たい床に寝転んだ。シノギを得たはずなのに、なぜだか嬉しくも何ともない。手の中の紙束が土方の絵だったらなと馬鹿なことを考えてみる。暑さで頭がやられてしまったのかもしれなかった。せめてソファで寝てくださいよ、という支配人の困っている声を聞きながら、豊久は目を閉じた。
     
     
       六、
       
       
     刺青のモチーフは、実に様々である。龍や虎、鯉や般若などは勿論、仏を彫ったりもするし、桃太郎や水滸伝などの物語からデザインを決めることもある。
     どうだ? と画集をめくり続ける豊久に土方が声を掛けた。豊久はすぐには答えず、しばらく一ページずつ絵を見ていく。この画集は土方の私物で、豊久にもわかるような有名な浮世絵師の絵が載っていたから、全くつまらないというものでもなかった。
    「別の見てみるか?」
    「うーん……」
     しかし、豊久は首を傾げながら画集を閉じた。たまには浮世絵なども見てみないか、という土方の提案に頷いたは良いのだが、いまいちこれというものが無かった。戦国武将の浮世絵などには心躍るが、彫りたいというほどでも無かったし、好きな逸話も思いつかない。
    「じゃあ……自分の目標、とか」
    「目標?」
     豊久が目線を上げると、ああ、と土方は頷いた。
    「目標とか願い事に合わせてデザインを決めるのもありだ。例えば龍みてえな男になりてえ、だから龍を彫る、そんな具合にだ」
    「なるほど」
     そういえば、と豊久は椅子の背もたれに身を預けながら、伯父の背中の紋紋を思い出す。義弘の背中を最後に見たのは何年前だったか定かでは無いが、彼には鬼の刺青があったはずだ。その猛々しさは迫力満点で、昔はよく見せてくれとせがんだものだ。今では『維新』の他にも『鬼島津』という通り名がある義弘だが、そういった人間を目指した上での刺青だったのかもしれない。そして、はたと豊久は気づいた。
    「……きっ」
    「ん?」
    きっ。……きつねじゃ」
    「きつね?」
     おう、と豊久は頷いた。どうしてこのことを思い出さなかったのだろうか、と我ながら少しおかしくて、苦笑しながら画集を再び開く。
    「俺の家系は、皆狐を彫っちょっんだ」
     月岡芳年の『月百姿 むさしのの月』を指差して、とんとんと叩きながら豊久は言った。そこには月明かりに照らされた狐の姿が描かれている。
    「俺の……家系?」
    「おう。俺の親父おやっども、三人の伯父上も、爺様もひい爺様も、皆」
     それを聞いた土方は、ふむ、と言って、手元の紙に狐と素早くメモを取った。
    「それは皆同じデザインで?」
    「違ご。大概、狐と二、三のもちーふが入っ。例えば、俺の伯父上の一人には狐と鬼が入っちょっ」
    「狐と鬼……狐と鬼か」
    「おん。……どげんした?」
     何か思案する様子の土方の顔を覗き込むと、土方は首を横に振った。そしてまた、狐と鬼、とメモをとる。
    「狐はどういう理由で?」
    「んー……稲荷信仰、ち言うんかの。御先祖様が狐に助けられた逸話があって、そっかい信仰に繋がったんじゃな」
    「ほう……」
    「必し狐を彫れと言われたこちゃないが、伝統みたいなもんかの」
     その代わり、島津家以外に狐は許されない。それは暗黙のルールなのだと豊久は語った。
    「じゃあ、お前も狐を彫るのは決定で良いのか?」
    「あー……」
     そう言われると、豊久は少し躊躇う。確かに、父・島津家久もその背中に狐を背負っていたのだが、その刺青を彫るまでに少なからず批判があったことは豊久も知っている。それは、家久は四兄弟の末っ子にして唯一、愛人の子だったからだ。家久本人も、己は正妻の息子ではないのに狐を彫って良いものかと思っていたそうだ。
     しかし、家久は立派な極道だったと豊久は思うし、事実狐を背負うことを許されているのがその証だ。だから、その息子の豊久が狐を引き継いでも構わないはずなのだ。
    「じゃっどん、俺は……」
     それでも躊躇うのは、今の豊久の組の状態のせいである。現在、豊久が属する樺山組は酷く不安定で、形だけは存在するものの中身が危うい。ゆくゆくは二代目樺山組組長として豊久が立つつもりだが、それもまずは組を治めてからである。まだこうして京で下積みを経験している豊久には、この刺青を背負えない。背負う資格はまだないと思われた。
    「……島津」
     豊久が顔を上げると、土方は微笑う。その表情はとても穏やかだが芯があって、豊久は僅かに目を見開く。
    「思う存分に悩めば良い。俺も手伝うよ」
    「土方……」
    「ただでさえ刺青はその人の人生に大きく関わる。ヤクザにはヤクザの刺青の重みがあるだろう。それを蔑ろにすべきではないし、俺だってしたくない」
    「……」
    「俺に彫って欲しいと言ってくれた奴には、俺の刺青が好きだと言ってくれた奴には、尚のこと真剣に向き合いたいんだ」
     そう言う土方のまっすぐな瞳が、豊久を捉えて離さない。濃藍の虹彩は、光を取り込むと暖かな色味に変わるのだと知った。細められた目を縁取る睫毛の長さも分かるぐらい、豊久は土方に見惚れてしまっていた。
    「……あいがとう」
     たった一言の言葉が震えていたことに、土方もきっと気付いただろう。だが土方は揶揄いもせず、俺の方こそ、と答えた。
     たとえ彼の言葉が、彫師としての信念のみからくる言葉だったとしても、確かに豊久はその時、土方に対して深く感謝した。豊久の中にある、普段己でも目を向けないようにしている不安や悲しみが和らいだ気がしたのだ。
     島津の狐に見合う男になるよりも、土方歳三の彫る刺青に見合う男になりたい。
     豊久は画集を閉じながら、そんなことを思った。
     
     
       七、
       
       
     京都に居はするものの、豊久へは定期的に地元から連絡が来る。それは勿論、樺山組内外についてのことで、今月のシノギがどうだの、今はこの地域が危ういだのといった内容だ。それは大抵、従兄弟である島津忠恒からのメールだ。
     しかし、今晩はメールではなく電話だった。ちょうど安土にて一人で気持ちよく酔っていた豊久のポケットから、無機質な着信が鳴る。
    「ん、ちとすまん」
     それまで会話を交わしていた信長らに一言断って携帯電話を開けば、画面には忠恒の二文字が表示されている。珍しいな、と思いながら通話ボタンを押した。
    「おう」
    「ああ、豊久兄」
     久々に聞く従兄弟の声に、どげんした? と豊久は訊ねる。
    「豊久兄、単刀直入に言うど。──すぐ京都を出ろ」
    「は?」
     深刻そうな忠恒の声に豊久も異常を感じ、席を立つ。足早に一旦店を出て、人気のない路地裏へ入る。声を潜めて、電話口の向こうへ問いかけた。
    「何があった?」
    「反樺山の奴らが豊久兄の居場所に気づいたんじゃ」
    「……」
     反樺山という単語に、豊久の携帯を握る手に力が入る。
    「そいでの、兄がおる会津組に手を出すのも時間の問題じゃろう。いや、もう出しちょっかもしれん」
    「馬鹿なこつを」
    「ああ、俺もそう思も。じゃっどん、あいらは兄を殺せたら他は何でん良かんだ。三次団体ち言ても他所のシマ、しかも相手は京で幅ァ利かせちょっ会津組……そげんこつは、あいらには関係無か」
     たとえエンコ詰めようが、臭い飯を食うことになろうが、そんなことはどうでも良いのだ。苦虫を潰したような調子で、六つ下の忠恒が言った。
    「伯父上は?」
    「親父は……維新組は手を貸すつもりは無かち言ちょったが……じゃっどん、そやあまりにも──」
    「良か、助けはいらん」
    「はぁ……!? 阿呆か!?」
     怒鳴るような悲鳴が聞こえて、豊久は思わず耳から携帯を遠ざける。頭の中で響いた声が収まってから、おう、と再び携帯電話に答えた。
    「お前もよく分かっちょっじゃろ。こや俺の問題じゃ」
    「そいで何じゃ、初代の仇でん討つつもいか?」
     馬鹿なこつを。今度は忠恒が吐き捨てた。
    「良かか、俺は樺山組のもんでも無し、まだ極道ち言うよりかチンピラじゃ。そいでん今の兄が馬鹿じゃち言うこつは分かる」
    「今頃か」
    「せからしか! じゃあ一人でどげんすっ?」
    「どげんしようかの」
     豊久が薄く笑うと、忠恒の心底呆れたらしく、知らんわもう、と呟いた。
    「とにかく、俺は言うたど」
    「おう、あいがとうのう」
     舌打ちと共に電話が切られ、豊久はくつくつと笑う。この従兄弟は日頃は素行が悪く、義弘からよく怒られているのだが、組のことはとても大事に考えているようだった。同時に、組違いではあるが昔から親しんできた豊久にもよく懐いていた。だが、義弘が手を貸さないと言った以上、子である忠恒にも豊久を助けることは出来ない。それは忠恒もよく分かっているはずだろうに、おそらくあの調子では義弘を説得しようとするに違いない。その心遣いを有り難く感じながら、豊久は携帯電話を懐にしまった。
     しかし、反樺山派が動き出したと言うことは、忠恒の言うとおり京都から離れなければならないだろう。会津組に迷惑をかけるわけにはいかない。けれども、どこへ行けば良いのか、豊久には見当もつかない。或いは、父親の仇を討つ良い機会だと前向きに捉えることもありだろう。
     確実なことは、豊久は反樺山派を始末してやらねばならないということだ。
    「大丈夫か」
     バーに戻ると、信長が訊ねた。何か勘づいているらしい。豊久は肩をすくめ、会計、と苦笑とともに答えた。
    「困ってんだろ」
    「まあ厄介ごとには違わんのう」
    「カタギの俺には話せないか」
    「そうじゃなあ」
     財布から札を数枚取り出しながら、豊久は頷く。隠す気は無いが、深く語るつもりは毛頭無い。この店にもしばらくは来れないななどとぼんやり思いつつ、グラスに残った酒を一気に飲み干した。
    「じゃあ、今から言うのは俺の独り言でいい」
    「……?」
     低く小さな声に、豊久は顔を上げた。鋭い隻眼と目が合う。その視線がいつものとは違っていて、豊久もじっとその瞳を見返した。
    「この店から北に三つ、西に四つ目の角に、『プファルツ』っつー店がある。そこに行って、紫か緑の髪をしたオカマに声をかけろ」
    「……」
    「まずお前が『明後日の予定は?』と訊ねる。そうすると相手が『あなたからプレゼントをもらう』と答える」
    「……そいで?」
    「お前はそれに『では二十三時五十六分に』と答えればいい。助けてもらえる」
    「……」
     あまりに唐突な説明に、豊久は僅かに戸惑った。どうしてそんなことを言うのか、信長はどこまで己のことに気づいているのだろうか、そしてその情報は信じていいものか。様々な疑問が浮かんだが、信長がヒヒッと笑ったのを見て、不思議と豊久の口の端も歪んだ。
    「そや、どげな奴が?」
     おつりを受け取りつつ訊けば、信長はなぁに、と言った。
    「ただのオカマだよ」
     
     
     そもそもの発端は、きっと父・島津家久が生まれた頃なのだろう。九州一の極道組織である十文字会十五代目の四男にして唯一の妾の子として生まれた家久は、幼少期から差別の中で生きてきた。彼は兄である義久、義弘、歳久らとは別々に暮らしていたと豊久は聞く。けれども、家久が十五になった時、豊久にとっては曽祖父にあたる島津忠良の推薦で、家久は本家へ迎えられることとなった。極道の素質があると見込まれたのだろう家久は、その読み通り十文字会で頭角を表していった。初めはそれを気に入らなかった兄たちも、彼の敏腕振りに感嘆せざるを得ず、次第に家久を受け入れた。また四兄弟が成長していくにつれ、十文字会は九州のほぼ全土を治めるようになっていった。今では義久が十文字会の十六代目会長を継ぎ、義弘は維新組を、歳久は日置組を設立し初代組長を務めている。
    「──で、家久が樺山組。でも六年前に死んだから、今は組長の座は空席になってるわね」
     目の前のソファに座る、長身の男が言った。いや、男というと違うかもしれない。滑らかにウェーブがかった金髪を梳りながら語るこの人物は、いかにも高級そうなドレスを身に纏い、よく磨かれたハイヒールのパンプスを履いている。化粧だってそこらの女よりも華やかで、所作の一つ一つが洗練された女性のそれだ。だが、その体格と声の低さ、そしてこの店のオーナーであることを考えると、確かに彼は男である。
    「ていうかオカマと喋るの初めて?」
    「えっ、あ、ああまぁ……」
    「トヨちゃんてば戸惑ってる! かわいー!」
    「トヨちゃん……」
     おそらく学生時代、それも小中振りに呼ばれたであろう「ちゃん」付けのあだ名に、豊久は顔を顰める。
     今、豊久が対峙しているこの人物は、名をサンジェルミといった。ニューハーフキャバクラのオーナーで、信長に紹介されたのが彼だった。
    「ないごて、俺の家んこつをそげん知っちょっ?」
    「そりゃ情報が私のところに集まってくるからよ。つーか、あんたん家も相当な家だってこと自覚しなさいよね」
    「……」
     言われると確かにその通りか、とも思われて、豊久は口を噤んだ。そんな豊久に小さく溜息をつき、サンジェルミは赤ワインを一口飲んだ。
    「まぁ、要は今のあんたの状況も大体わかってるってわけ。あの信長の紹介ってんなら仕方なし。しばらくの間隠れる場所と、武器、あとは兵が欲しいってところかしら」
    「兵……? お前、そんなこつまで」
    「別に、大したもんじゃないわ。でも、正直言って彼らを貸したくは無いわね」
    「何故?」
    「だって私の兵たち、皆カップルだもの」
    「……」
     豊久は思わず半目になり、そしてふとサンジェルミの後ろに控える黒服を見やると、彼はにこっと笑った。それで何となく察せられて、そうか、と豊久は頷いた。
    「しかし、その反樺山派もしぶといわねえ。家久を殺すことに留まらず、トヨちゃんを殺しに京まで来るなんてね」
    「逆にこれまでよう俺を殺さんかった方じゃ」
    「それもそうだわね。あなたが義弘の庇護下ではなくなったこと、極道の世界に足を踏み込んだことがきっかけだったんでしょう」
    「うむ……」
     その通りだ、と豊久は首肯した。
     反樺山派というのは、読んで字の如く、樺山組を良しとしない者たちの総称である。否、正しくは島津家久と息子である豊久を受け入れられない者たち、と言った方がいいだろう。彼らは島津家本家の血筋を第一とし、十文字会で家久の存在が大きなものとなっていくのを許せなかったのだ。
     六年前に家久が死んだのも反樺山派によるものだ。側近の一人に反樺山派がおり、その者に毒を盛られ、最後は銃で撃たれて死んだ。当然、犯人は既に始末している。だが、だからと言って豊久の身が安全なはずはなかった。
     だから、当時未熟な餓鬼だった豊久が復讐に走ろうとするのを義弘は止めたのだ。大学に行かせることで、カタギとして生きることになるならその方が良い。それで完全に安心出来るわけでも無いけれど、裏社会から縁を切れれば、それに越したことはない。今なら豊久も分かる。
    「じゃっどん、俺は島津家久の子じゃ」
     豊久は言った。
    「親父を殺されて、黙っちょっ子がどけいようか」
     六年前は、煮え滾って仕方なかったこの感情は、確かに鳴りを潜めていただろう。だが決して忘れたわけではないし、許したわけではない。
     だが、仇打ちと言われると少し違う。面子を守ると言った方が近いだろうか。もしかすればどちらも同じかもしれない。それならそれでも良いだろう。
    「さんじぇるみ」
     豊久が改めてサンジェルミと向き合うと、彼は少し目を見開いた後、ふ、と薄く笑った。
    「何よ」
    「ちっと世話になる」
    「良いわよ」
     その代わり、うちの店の太客になりなさいよね。意地悪くサンジェルミが言うので、おうさ、と豊久もにやりと笑った。
     
     
       八、
       
       
     サンジェルミの店に駆け込んだ翌朝、豊久は彼に教えてもらった番号に電話をかけた。呼び出し音が三回、四回と鳴ってから、はい、と低い男の声がした。会津組組長の松平である。本当に出た、という驚きを隠せないまま、豊久は口を開いた。
    「樺山の島津です」
    「島津? ……どうしてこの番号を知っとる?」
    「ぷふぁるつの……」
     そう言うと、ああ、と松平は納得したようだった。松平もサンジェルミのことは知っているらしい。サンジェルミがただのキャバクラのオーナーではないことは確かだが、一体どういう人間関係になっているのだろう。
    「まぁちょうど良かった」
    「ちょうど良かった?」
    「あんたが今おる組がどうも怪しいと報告が入ったところや。薩摩言葉の男が、事務所に数人出入りしとるってな」
    「──」
     豊久は唇を噛んだ。予想以上に相手の動きが早い。
    「その反応やと、反樺山派……ってことでええんやな?」
    「おそらく……松平どんには、ほんなごつすいもはん」
    「ほんまや。他所のシマで暴れようなんて、子を躾しきれんかった樺山の親父が悪いわ」
     しかし、言葉とは裏腹に松平は喉の奥を鳴らして笑った。
    「けど気にせんでええ。初めにも言ったけど、俺にとってはあいつらいらんかったんや。そんで、あんたも反樺山はいらんやろ? 一緒に二つ潰せてお得や」
    「……」
     そういえばそんな話もあったっけか。豊久は曖昧に頷く。
     しかし、反樺山派が豊久を探しに事務所に訪れたなら、仕事仲間の彼らはどう対応したのだろうか。豊久は彼らと打ち解けていたわけではなかったし、何だったら、会津組組長直々に振り分けられたということで怪しまれていた。つまり豊久を良く思わなかった者がほとんどだろう。そんな奴を殺しに、縁もゆかりもない九州から野郎がやって来たのだ。たまったものではないだろう。島津家の御家騒動なんぞにどうして巻き込まれてしまうのかと憤ってもおかしくない。
    「けど、事務所は静かなもんやで」
    「え?」
    「特別騒がしいって報告は無い……まだな」
    「そう……ですか」
     サンジェルミの所にいるなら当分の間は大丈夫だろう、と松平は続けて言った。ただ、当然松平もこの件については動けない。乗り込んで来たのは反樺山派だが、あまりにことを大きくすると抗争になりかねないからだ。
     つまり、豊久が早急に事態を収め、松平に詫びを入れる必要がある。
     電話を終えた後、豊久の背後でドアをノックする音がした。返事をすると、ガチャリとドアが開いてど派手な緑の髪が目に入る。豊久がこの店に来た時、合言葉を告げた男である。
    「どげんした」
    「あなたに武器を用意したわ。ついて来なさい」
    「ああ」
     豊久は頷く。確かフラメと呼ばれていたこの男は、豊久を一瞥して歩き出した。
    「ちなみになんだけど、あなた、武器という武器を扱ったことあるの?」
    「無か」
    「メリケンサックは」
    「いつも素手じゃ」
    「ドスは」
    「家に包丁ならある」
    「銃」
    「銃刀法違反で捕まるじゃろ」
    「あなたヤクザよね!?」
     フラメの突っ込みに、豊久も思わず笑った。そうだ、己はつい数ヶ月前はカタギだったのだ。極道に囲まれた環境で生きて来たが、実際にこうして身の危険を侵しにいくことは初めてだった。妙な高揚感がある、と言ったらそれは嘘では無い。
    「……じゃあ、銃は使えないわけね。訓練する時間もないし」
     溜息と共にフラメが言った。そうこうしているうちに、豊久は地下の薄暗い一室に案内されていた。フラメがドア横にある機械に暗証番号を打ち込み、指紋認証を終えると、ドアが音も無く滑らかに開いた。
    「どうぞ」
     フラメに中を示されて、豊久はその部屋に足を踏み入れた。パチン、と音を立ててフラメが部屋の電気をつけると、そこにはずらりと刀や銃が並んでいた。
    「こや……」
    「詳しいことは聞きっこ無しよ。さて、銃は除外するとして……」
     部屋を見渡す豊久の横で、フラメが武器を手に取っていく。刃物は日本刀に始まり青龍刀や長ドス、槍などが壁に掛けられており、銃もピストルやライフル、マシンガンなどが揃っていた。それ以外にも、手榴弾や棍棒、催涙スプレーと様々なものがこの部屋にはあった。
    「そうねぇ、やっぱりドスかしらねぇ。あとメリケンサックと……」
     サンジェルミ同様、滑らかな所作でフラメは武器を手に取っていく。慣れているのだろうが、磨かれた爪が嵌った彼の指先が、銃の引き金を引くとは到底想像がつかなかった。
    「手榴弾も持ってった方が良いかしら。結構強めが良いわよね」
    「そげん大事にしたら」
    「別に、警察とかマスコミとか、そこら辺は私らが何とかするわよ」
    「……」
     ますます彼らの謎が深まってしまったと豊久は閉口した。そんな豊久の前にある机に、フラメが豊久にと選んだ武器を並べていく。
     と、豊久の携帯が着信音を鳴り響かせた。反樺山派に何か動きがあったのかと、豊久は慌てて電話に出る。発信元はサンジェルミからだった。
    「もしもし?」
    「トヨちゃん、あなた土方って彫師の店に通ってたわよね」
    「!」
     突如耳に飛び込んできた土方という名前に、豊久は目を見開く。どうしてこんな時に。
    「土方がどげんした?」
    「それが、──土方が拐われたのよ」
    「!?」
     言葉の意味を一瞬飲み込めず、頭が真っ白になる。サンジェルミは続けた。
    「手短に説明する。反樺山派はあなたのいた三次団体の事務所に行った後、彼らは手を組んだわ。協力すれば金を払うとでも言ったんでしょう。それで、まず奴らはあなたがよく行く店や場所を調べ始めたわけ」
    「なら、」
    「安土はどうって事ないわ、信長がいるもの。それより、土方よ。ぼろぼろに痛めつけられた彼が、複数人の男に拐われるのを見たって情報が入ったのよ」
    「──」
     右手で握る携帯が、ミシミシと音を立てる。言葉を無くした豊久は、ただ奥歯を噛み締めた。なぜ土方を、とか、どうしてこんなことに、とか、そんなことが一瞬思考を掠めたが、何よりも土方が傷つけられたという事実に、怒りで体が震えた。
    「人質だと思うわ。けど良い? 今は落ち着いて──」
    「落て着ていられるか!!」
     ようやっと絞り出せたのはその一言で、豊久はぶつりと電話を切る。早く土方を助けなければ。俺の大事な人を助けなければ。
     すると今度は、全く知らない番号からの電話がかかって来た。即座に通話ボタンを押せば、おっ、と明るい男の声がした。
    「いっき出たのう」
     その一言で、豊久は全てを察した。身に染み付いた訛りが、今は憎たらしく聞こえる。
    「貴様……」
    「若。お久しかぶいです」
     故郷から遠く離れたこの土地で、豊久のことを若と呼ぶのは酷く限られている。
    「今どけいる?」
     豊久の口からは、低い、獣の唸り声のような声が出た。相手はおお、と戯けるような反応を示す。
    「恐ろし、むぜかったあん若が」
    「やぞろしか! 土方をどけやった? 貴様ら、カタギに手を出して許されるち思もちょっのか」
    「土方……ああ、会津組の」
    「は? 会津組……?」
     なぜここで会津組の名が出てくるのか。突如浮上した疑問はしかし、電話相手の声で掻き消された。
    「俺のすぐ横におりもす。──ほれ」
    「……し、……づ?」
     震えたか細い声が、豊久の耳に届く。弱々しいその響きは、豊久に大きな衝撃を与えるには充分だった。掠れた息と、痛みに悶える声に、豊久は絶句せざるを得なかった。そんな豊久に、電話相手は嘲笑う。土方を人質として、とある廃ビルで待っている。金は要らない。ただ豊久に死んでくれさえすれば良い。反樺山派の男は言って、一方的に電話を切った。
    「……ね、ねえ、島津──」
    「ふらめ」
    「!」
    「こん部屋の武器……どれ使こても良かのか」
    「え、ええ……」
     緊張した面持ちのフラメが頷き、ならばと豊久は手近にあった刀を手に取った。鞘は黒漆塗りの野太刀である。刃は四尺はあろうかという長大なもので、フラメが選ばなかった代物だ。
    「ちょ、ちょっと! いくらなんでもそれは」
     流石に使えないのでは無いか、というフラメの言葉は、ぎろりと豊久に睨まれたせいで出なかった。
    「許さん」
     獣のような声だった。
    「土方に手を出したこつ、絶対に許さん」
     
     
       九、
       
       
     それからのことは、豊久自身にもあやふやな記憶しかない。ただひたすらに怒りに飲まれていた。告げられた廃ビルに向かえば、当然のように同業者が集っていて、豊久は片端から殴りつけた。容赦なく顔面を殴って歯を折ったり、地に倒れた者の胸元を蹴り上げ血を吐かせてやった。しかし、豊久が暴れていれば、相手も当然豊久を殴りつけてくる。何度も気を失いかけたのを、その度に堪えた。酷い時は敵の持っていたナイフで己を傷つけ叱咤した。決して少なくない数の相手に、豊久は一人だった。それこそ必死だった。
     そして、どれほど経ったのか、豊久はようやく土方の元へ辿り着いた。立て付けの悪いドアを蹴破って、ふらふらとその埃っぽい部屋に入ると、しまづ、と小さな小さな声が聞こえたのは確かである。息を飲んだのは、おそらく同時だっただろう。土方は血塗れで傷だらけの島津に息を飲み、そして豊久は、ところどころ服が破かれ覗く素肌の痛々しいあざと、抵抗出来ぬようにときつく縄で縛られた土方に息を飲んだ。
    「ひじかた」
     その後のことは、本当に豊久は覚えていない。
     ただ、ただ、目の前が真っ赤に染まっていくことだけは辛うじて感じていた。
     
     
       十
       
     
     土方歳三、年は二十八。京都に住み始めて十二年になる。自分の店を持ったのは五年前だが、それ以前にも師の店で稼いできた。刺青は修行を積んできた和彫を中心に、洋彫も手掛けている。
    「初めから彫師になるつもいで京都に?」
    「いや、彫師になろうなんて、十二年前の俺は思っちゃいなかったよ」
     土方は酒を片手に苦笑した。では何の為に? と豊久が首を傾げると、土方は酒を一口飲んだ後、何にも、と答えた。
    「何にも?」
    「まぁ、不良だったからよ。色々と嫌気が差したんだろうな、高校辞めて、それで当てもなく」
     地元では結構有名で、思い出すと恥ずかしいが「バラガキ」だなんだと呼ばれていたよ。そう言われて、今では落ち着いた風貌の彼からは想像もつかない過去に、豊久は驚く。土方ならばきっと頭も良く、品行方正だろうと思っていたのだ。
    「頭は良かったさ。でも、それが何だって言うんだ。多分俺は、そのまま大人になるのが嫌だったんだ」
    「そいなあ……ないごて彫師に?」
     豊久が訊ねると、土方は目を細めた。遠くを眺めるように、思い出を振り返るようなその目を、豊久は見つめる。
    「そうだなぁ……」
     カラン、とグラスの中で氷が鳴った。
    「何かを背負う男に、惹かれたんだろうなぁ」
     土方は豊久を見て、そして柔らかく微笑んだ。
     
     
       十一
     
     
     目を覚ますと、シミだらけの天井が見えた。身じろぐと全身が痛んで、身体を起こすことは諦める。息を吸うのにも痛むが、大きく深呼吸してみると、頭が少しすっきりした。
    「起きたな」
     聞き慣れた声がして、豊久はそちらに目線をやる。カーテンが閉じられた窓際に、眼帯の男が立っていた。
    「のぶ……」
    「おうよ、気分はどうだ?」
    「……ん……」
     気分はどうだと言われても、何と返せば良いのか分からない。それよりも、ここはどこなのか、どうして信長がここにいるのか、不思議な点が幾つもある。何よりも、織田信長という人物の不明瞭さが気になった。それが顔に出ていたのか、信長は苦く笑う。
    「ここは俺の知り合いの病院で、俺は様子見に来ただけだ」
    「知り合い……」
     そうは言っても、ここはただの病院では無さそうだ。怪訝そうにしていると、あー、と気まずそうに信長は言う。
    「ま、闇医者ってやつかな」
    「……ふ、ふふ、やっぱい」
    「ヤクザだってんだろ? そうだよ、でも大昔の話だぜ? 樺山組二代目組長さんには、わざわざ語る必要もねえことよ」
    「──」
     樺山組。豊久は目を見開いた。
    「ひじかた」
    「あいつは大丈夫だ。心配いらねえよ」
     反樺山派もお前のおかげで全員病院送りだ。信長はヒヒッと独特な笑みを浮かべた。
    「よくもまぁ殺さずに済んだもんだぜ。俺が止めなかったらお前はムショ行きだったろうな」
    「……土方は」
    「だから大丈夫だって」
     そうは言われても、豊久は安心できなかった。己のことなどどうでも良い。彼の為に人を殺めようが、服役しようが、そんなことは瑣末なことだ。
     豊久が信長の隻眼を見つめると、信長はため息をついた。そばにあったパイプ椅子に腰をかけ、懐から煙草を取り出した。豊久に一本差し出したが、今の豊久は腕を上げるのにも一苦労だった。信長も察して、差し出した煙草を己の口で咥えた。チッと火花と共にジッポの火が点いて、煙草の先端を焦がした。
    「土方はお前ほどじゃなかったが、会津組に保護されて治療を受けた。そろそろ退院だろうけどな」
    「会津……」
    「言っとくが、あいつはカタギだぞ。元からずっとカタギだ。ただ、松平に世話になってたことがある」
    「……」
    「その縁で、土方はよく会津組の奴の墨を入れたりするし、松平も何かと土方には気にかけてやってたみたいだ」
    「…………そう、か……」
     信長の吐いた紫煙を目でなぞりながら、豊久は頷いた。信長はサイドテーブルに置いてあった携帯を手に取り、豊久に渡す。首を傾げる豊久に、顎をしゃくって開けろと言った。
     言われた通りに携帯電話を開くと、数件の着信履歴があった。サンジェルミや与一、従兄弟の忠恒の名が並ぶ中、目を引いたのは土方の名前である。頻繁に、というほどでも無いが、彼からの着信が一番多かった。そして最新の着信には、留守電が残されていた。
    「──土方だ」
     再生ボタンを押すと、最早懐かしさすら覚える土方の声がした。その声は、最後に聞いた弱々しい声とは丸切り違って、いつも通りの彼だった。
    「俺は大丈夫だ。心配いらない。助けてくれて、本当に感謝してる。……ありがとう」
    「……ひじかた」
     届かない声が、豊久の口から溢れた。よかった。本当によかった。胸の痞えがとれた心地と共に、豊久は携帯電話を握りしめる。彼の声を聴きながら、嗚咽をひたすらに噛み締めていた。
     
     
       十二
       
       
     樺山組二代目組長候補、名は島津豊久と言う。豊久は九州十文字会の大幹部の一人息子であるからして、極道に囲まれて育ってきた。生まれた頃から若と呼ばれ大事に守られてきたが、当の本人は、極道になるのかどうか考えてこなかった。と言うよりも、そうやって生きていくのが当然だろうと信じて疑わなかった。なるのか、ならないのか、ではない。なって当たり前だと思って育ってきたから、豊久には考えるだけ無駄だった。
     しかし、豊久が極道という生き方を強く意識するようになった出来事がある。彼が十七歳の夏、父の家久が毒に冒され、銃殺された事件がそれだった。それまでは普通過ぎて麻痺していた裏社会というものが、豊久の眼前に迫ってきたのである。豊久は激昂した。父が殺されたことに、悲しむ暇も無く、子であると同時に一人の極道として激した。父を殺めた者を決して許さぬと心に誓った。己の大切な人間を傷つけるならば、どんな者であっても許さぬと。
     その感情が六年経って、再び豊久の中で煮えたぎる事になろうとは、豊久自身も思わなかった。結果として、反樺山派は勿論、反樺山派と手を組んだ会津組三次団体も壊滅に追いやられ、島津豊久の名は極道社会に突如として躍り出た。
     島津豊久、年は二十三。樺山組初代組長、島津家久の子である。
     彼は某月某日、樺山組を解体し、新たに組を設立した。
     九州十文字会直参・豊寿組初代組長──
     それが、今の彼の肩書きである。
     彼の広い背中には、月に吼える狐と山桜が彩られているとの噂だ。
     
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