ひみつのこーい「シライさん、今から夕飯ですか?」
シライが自室のドアを開けると、たまたま前を通りかかったアカバが声をかけた。まるで人懐っこい犬のように、嬉しくてたまらないという顔をしている。アカバはシライの前では、いつもこうなのだ。
「ああ。おまえもか?」
「わしはもう済ませました。これから風呂です」
「へえ」
「じゃあ、また」
「アカバ」
「……あ」
ドアを開けたままその名を呼んでやれば、少し神妙な顔したアカバが、黙ってシライの部屋の中に入った。さっきまでは犬だったのに、今は借りてきた猫のようだ。
「座れよ」
「……はい」
アカバは言われるまま、いつものようにベッドの縁に座った。シライもその隣に座る。
「どうだ? 調子は」
「はい。絶好調です」
嘘だ、と思う。少しだけ、いつもより疲れているように見えた。いや、もしくは自己の投影か。正確なところは分からなかったが、ともかくシライは、アカバをリラックスさせてやる必要があると感じた。
「キス、していいか?」
「っ、はい」
アカバは一瞬身体を強張らせた後、小さな深呼吸をし、瞳を閉じて顔を上げた。一方のシライは特に何の躊躇もなく、アカバの唇に自身のそれを重ねた。
「ん……」
アカバの唇の、ふにっとした感触が、シライに伝わる。何とも言えず、心地いい。
「んむ」
二度、三度、唇を離しては、またふれ合わせる。角度を変えながら様子を窺えば、ぎゅっと瞼を閉じて、眉間に皺を寄せているアカバの顔が見える。
別にこれが初めてではない。もう何度も、こういった行為を繰り返している。
最初は、任務が思い通りにいかず、ひどく落ち込んでいるアカバを見た時だった。大人であれば、酒に逃げたりもできるだろう(それも、不健全な方法ではあるが)。
しかし子供であるアカバには、心の澱を上手く消化する術がなかった。そしてシライは、このようにアカバを一段大人に引き上げることでしか、アカバの心を救うことができなかったのだ。
巻戻士は過酷な仕事だ。こういった人とのふれ合いが、いくらかストレスを軽減させてくれる。少なくとも、シライにとってはそうだった。こうして唇を重ねていれば、それだけで、様々な後悔が少しだけ和らぐのだ。
「んん……」
しかし、どうだろう。果たしてこれは、本当にアカバへの救済なのだろうか。
シライが唇を離すと、アカバはため息のような息を吐くと、黙ってシライの様子を窺った。いつもこうだ。
アカバは、自分からシライを求めたりはしないし、もっと欲しいとねだることもなかった。逆に、嫌だとシライを拒絶することもなかった。意志のない人形のように、ただただアカバは、シライにされるがままだった。それがシライには、少々面白くない。
「……」
アカバは黙ってシライを見ている。単純なはずのアカバが、何を考えているのか分からない。
「なあ」
「……はい」
「舌、入れていいか?」
「え……、あ、はい」
よくないことだとは、分かっている。ただ今は、シライを求めるアカバか、もしくはその逆か。どちらかが見たいという欲が、少しだけ上回った。
「あ……」
もう一度唇を重ねてやれば、アカバの口が薄く開いた。そこに己の舌をねじ込んでやる。
「いてっ」
反射だろう。思わず閉じたアカバの歯が、シライの舌先に刺さった。強い力ではなかったが、アカバの歯は鋭利だ。思わずシライは舌を引っ込めたが、ピリピリと痺れる痛みは、二度目の侵入を躊躇させるには充分だった。
「ったく。なんなんだその歯は」
「すみません、生まれつきなんです」
そういえば6歳の時のアカバも、人並み外れた鋭利な歯を持っていた気がする。あれが乳歯か永久歯かは分からないが、そういう家系なのだろう。
「……」
シライは自分の舌先の感覚を確かめた。血こそ出ていないが、まだ痛む。しかしここで引き下がるのも、男の、年上としての沽券に関わる気がする。
「仕方ねえな。口、開けろ」
アカバが薄く口を開けると、シライは自分の顎を上げて、言外に『もっと開けろ』と伝えた。そしてアカバの顎に両手を添えて、「ちょっと我慢しろよ」と言った。
「うぐっ……?」
アカバの困惑した声が漏れる。シライがアカバの口の中に、両手の親指を突っ込んだのだ。
「これでもう、噛めねえだろ」
正確には、既にもう噛んでいるのである。
シライの親指は、アカバの上下の奥歯の間に挟まっていた。奥歯ともなれば、いくらアカバの歯でも多少は鈍い。痛みがない訳ではないが、充分に耐えられる。
「舌、出せよ」
「んう」
戸惑っているのか、シライの指が邪魔で出せないのか。アカバは舌を出さなかった。構わずシライは、アカバの口の中に自身の舌を挿入した。
「ふ……」
指で引っ張られたアカバの唇は薄く伸び、全く感触はよくなかった。そしてアカバが身じろぐ度に奥歯が指に食い込み、やはり痛む。その上シライの親指はシライ自身にとっても邪魔な存在で、全くキスに集中できなかった。
─それでも。
それでも伸ばした舌がアカバの舌先に重なって、くすぐったいような愛おしいような、不思議な快感を与えてくれた。
「んー……」
生温かくぬるぬると湿った舌先は、アカバが生きているのだと感じさせてくれる。シライの舌で前後に撫でてやれば、戸惑いながらも舐め返してくれた。それは快楽を求める動きではなかったが、シライにとっては充分に満足のいくコミュニケーションであった。
「んっ」
シライはひとしきりアカバの舌先を楽しむと、顔と手を離した。ベッドのシーツで、唾液のついた手を拭う。シーツは後で洗えばいい。
「ふーっ……」
アカバが珍しく、大きなため息をついた。緊張していたのだろう。額にうっすらと汗が滲んでいる。
「アカバ」
「あっ、はい」
「今度はおまえが舌入れて?」
シライはやや舌を出しながら口を開けると、それを自分で指さした。ごくり、と、アカバが生唾を飲む音が聞こえた気がする。
「そ、それじゃ失礼して」
アカバはベッドに座り直すと、大きく深呼吸をして、それからシライを見上げた。額に張り付いた前髪が生々しい。シライはリトライアイを曝け出さぬよう気を付けながら、少しだけアカバの前髪をかき上げた。
「こいよ」
「では、いきますっ」
ぷちゅっと唇がふれ合い、ぬるりと舌が挿し込まれる。やはり、こちらの方が気持ちがいい。
「いてっ」
しかしすぐに、アカバの唇は離れてしまった。
「え?」
「あっ、すいません」
「え、おまえ、自分で自分の舌噛んだのか?」
「うう、……はい」
「はは、なんだそりゃ」
シライが笑うと、恥ずかしそうに俯いていたアカバも、つられて笑った。
「おまえ、そんなんで日常生活大丈夫なのか?」
「あー、メシの時とかも、たまに噛みます」
「ふふ、そりゃ大変だな」
アカバは「そんなに笑いますか?」と口をとがらせながらも、嬉しそうに笑った。笑顔のシライに安心したのだろう。シライも、こんなに心から笑うのは久し振りな気がした。やはり疲れていたのは、シライの方だったのかもしれない。
「これから、風呂だっけ?」
「あ、はい」
「ちゃんと洗えよ」
「はーい」
笑顔のアカバは、やはり年相応にあどけない。シライはもう一度、ふれるだけのキスをした。
「ん」
アカバはやはり従順だったが、これまでで一番いい顔をしていた。欲目かもしれないが、やはり特別に見てくれがいい気がする。
「おまえ、心配だな」
「何がですか?」
「付き合ってもねえ男に、あんまり普段から油断するんじゃねえぞ」
どの口が、ではあるが。シライにとっては、ほんの軽口のつもりだった。
「してませんて」
「してる」
「え?」
「してるだろ、おれに」
軽口のつもりだったのだ。だからシライはもう、ベッドのシーツを引っ張り、交換のことを考えていた。しかしふと顔を上げると、目を見開いたアカバが、青白い顔でシライを凝視していた。
シライは、言わなくてもいいことを言ってしまったことに気が付いた。
「付き合ってもないヤツには、油断してませんけど……」
「ああ……、うん」
「わし、シライさんと付き合ってるんじゃないんですか?」
「あー……」
これまで、シライは勿論アカバも、一言も付き合いたいなどと言ったことはなかった。アカバの性格上、付き合いたいならばそこは明確にすると思っていた。だから何も言わないのならば、この不確かな関係性を受け入れてくれていると思っていたのだ。
しかし実際は、アカバの中では交際が成立してしまっていたようだ。どうやら思った以上に、思い込みの激しい性格らしい。
「違うん、ですか?」
「付き合っては、いない」
嘘を付くのは簡単だが、後々のことを考えるとこの辺で引いておきたい。
「じゃあ、何でキスしたんですか」
「……アメリカ人とかは、挨拶でキスするだろ」
「わし、アメリカ人じゃないです」
アカバはへなへなと、床に座り込んだ。せっかくさっきまでは、いい顔をしていたのになと、シライは他人事のように思った。
「わし、てっきり付き合ってると思ってて」
アカバの瞳が潤んで、大粒の涙がぼたぼたと零れ落ちた。
「……すまん」
「みんなにも、付き合ってるって言ってしまったんじゃ」
「え?」
アカバはシライに従順だ。シライにとって不利になるようなことを、言い触らしたりはしないだろうと思っていたが。どうやらそれは勝手な思い込みだったようだ。
「キスしたことも、みんなに言ってしまってて」
「え、みんな?」
「わし、浮かれてて」
「なあ、みんなって誰だ?」
「みんな……、そうだジジイにも」
「隊長に?」
クロノやレモンといった、アカバがいつもつるんでいる連中内の話であってくれと、シライは内心願ったが。まさかゴローにまで知られているとは。
思い返せば確かにゴローには、以前「未成年の扱いには気を付けろ」と言われた覚えがあった。てっきり業務上の話かと思っていたが、それがアカバとのことを指していたとは。
しかしこうなるともう、巻戻士全員が知っていると考えていいだろう。自業自得とはいえ、シライは目の前が暗くなった。
「それでジジイが、未成年淫行なんじゃないかって」
「……っ」
「だからわし、結婚前提じゃから、大丈夫じゃって」
「……うん?」
確かに、アカバは未成年ではあるが16だ。結婚前提の真摯な付き合いであれば、罪には問われないのかもしれない。しかしそもそも付き合ってはいないのだから、結婚前提のはずがないし、キスしかしていないのだから、淫行などと言われる覚えもない。
「それにこないだ……」
「まだ誰か?」
「こないだ、インタビューでも聞かれて」
「インタビュー!?」
言われてみれば確かに先日、そこそこ名の通った雑誌の記者が、働く未成年への取材がしたいとやって来たのだ。
巻戻士は、時に30分間隔のタイムリープを1000回以上繰り返す。体感では20日間以上ぶっ続けで働いていることになるが、勤務時間としては10分として計上している。
その辺をマスコミに嗅ぎ付けらると、少々まずいことになる。余計なことは言わないよう、事前に釘を差しておいたのだが。こっちの方面は、完全にノーマークだった。
「インタビューで、何て答えたんだ?」
「職場恋愛のこととか」
「職場恋愛……」
この世で最も恐ろしい四字熟語だ。
「でも」
アカバの瞳が、不安げに揺れる。
「でも、違ったんですよね?」
「……」
「未成年淫行、だったんですよね?」
「それ、は」
それは違うと言いたかったが、言葉が上手く続かない。アカバの歯痕が付いた両の親指が、今更疼く。
「みんなにも、訂正して回らんと」
「別に、わざわざ訂正はしなくても」
「シライさんも、誤解されたままじゃ嫌じゃろ? ちゃんと本当のことを言わんと」
脅している訳ではないのだろう。アカバは目に見えて憔悴していた。しかし脅しでないということは、交渉の余地がないということである。シライにはそれが恐ろしい。
「……ち、違う」
「え?」
「もうすぐ、あの日だろ」
「はい?」
「5月16日」
「あ、はい」
5月16日は、シライが1036回タイムリープを繰り返して、6歳だったアカバの命を救った日だ。アカバにとって何よりも大切な日で、シライがその日付を口に出しただけで、アカバの顔が嬉しそうに綻んだ。
「今はまだ付き合ってねえが、その日にプロポーズするつもりだったんだ」
「えっ」
「サプライズの、つもりだったんだけどな」
勿論、嘘である。しかしシライには、もうそうするしか道がなかった。
「え、えっと、わし……」
アカバは恥ずかしそうに、しかし目に見えて浮かれ、もぞもぞそわそわ、地に足がついていない。
「す、すみません。サプライズをダメにしてしまって」
「いいんだ。おれこそ、思案で不安にさせて悪かった」
シライはアカバを抱き締めた。諦観の境地である。
数日後の、5月16日。夜景の見えるレストランにて。隊長のゴローは、真っ赤な薔薇の花束を抱えたシライを目撃した。まるで死体のような色男だったと、後にゴローは語る。