メビウスの輪(下)(完結)「自分、誰や」
思いの外に高い声が、小さく部屋に響く。何か言わなければ、そう思うのに。喉がカラカラで声が出ない。
「……」
「誰?」
「あ……」
「誰や聞いとるやろ」
白石と同じ、関西弁。鍵を開けて、ちゃんと閉めたこと。ひょっとしてこの男が、白石の言っていた同居人なのだろうか。
「同僚、ですけど。白石の」
「……へぇ」
不機嫌そうに、男が答える。
「あなたは?」
「誰でもええやん。起こしてしもて堪忍な。寝とってや」
男はそう言うと、白石の部屋に入って行った。俺はそれを見送りながら、迷惑な男だなと思った。
白石の口振りでは、あの男は勝手にこの部屋から出て行ったようだが。その上こんな時間に戻って来るとは、非常識極まりない。
そう考えてから、急に不安になる。あんなガラの悪い男と、白石が特別に─同居するくらい親しかったりするものだろうか。テニス選手でもある白石には、熱狂的なファンも居ると聞く。ストーカーじみたファンが─いや、あの男はファンには見えないが。例えばファンに依頼された人間が、こっそり鍵を複製して、押し入ってくる可能性もあるんじゃなかろうか。
様子を覗うも、男は白石の部屋から出て来ない。
同居人にしては、おかしい。同居人ならば、普通は自分の部屋に泊まるのではないだろうか。俺はあの男を、白石の部屋に通してよかったのだろうか。背中に嫌な汗がにじむ。俺はそっと立ち上がると、ゆっくり、ゆっくりと足を進めて、白石の部屋のドアの前に立った。
「……」
白石の部屋からは、何も聞こえない。あの男はどうしたんだ。この部屋で、何をしている。重い空気の中、じりじりと身体を進め。そっと扉に、耳を寄せる。
「……ぁ」
部屋からは、白石の声も男の声も、何も聞こえなかった。ただ音とも声とも振動ともいえないものが、確かに伝わってきて。
俺は全てを理解した。
翌朝俺は、白石と例の男が、くすくすと楽しそうに話している声で目を覚ました。白石のマンションに泊まったことも、あの男が現れたことも、どうやら夢ではないらしい。
「おはようさん。コーヒー飲む?」
俺に気付いた白石が、コーヒーを淹れてくれた。おはよう、世界一最悪な朝だ。一口すすったコーヒーからは、ドブみたいな臭いがする。
「ゆうべはよう寝れた? こいつが突然帰って来てなぁ。うるさなかった?」
「いや……、全く気付かなかったな」
浅黒い肌の男が、手元に広げていたファッション誌を閉じた。
「お客さんおるとは思わんかったから、びっくりしたわ。会社の人なんやろ? ノスケがお世話になってます」
男が白々しく、軽く頭を下げる。ノスケという言葉に少し戸惑ったが、白石の下の名前が、蔵ノ介という古風な名だったことをすぐに思い出した。
「いや…こちらこそ、白石くんにはお世話になってます」
「自分、好青年やなぁ。今度合コンしよか、合コン」
「ちょお、ほんまにこのゴンタクレは」
白石は男を小突きながら、俺にサンドイッチを出してくれた。ハムとチーズとレタスの挟まったサンドイッチは、成る程、ビーチサンダルの味がする。
「修二は今日、どないするん? 荷物持って帰るん?」
「帰るてなんや。ここが俺の家やろ」
「何やねん。勝手な奴やなぁ」
朝日がきらきらと反射するダイニングで、白石は笑った。花がほころぶようだった。
朝食を食べ終わると白石が、「修二、車あるやろ。○○クンを駅まで乗せてってや」って言い始めて。白石も行くのかと思って駐車場まで行けば、ふざけたことに2シートの車だった。
修二と呼ばれている男が運転席に座り、助手席の俺と同時にシートベルトを締める。さっき体感した世界一最悪な朝を、もう更新することになるとは思わなかった。
そうして俺は白石に別れを告げ、男の運転する車で、白石のマンションを去った。もうこの場所には一生、二度と来ることは無いだろう。
「ゆうべは悪かったなぁ」
赤信号で停まった車内で、男が言う。どんな表情をしているかは、前を見据えている俺には分からない。
「ノスケが男を連れ込んどる思たら、えらい盛り上がってしもたわ」
「……はぁ」
「俺が部屋に入ってったらなぁ。お前が入って来たかと思て、ノスケがえらい慌てとったで」
「俺が? あり得ない」
俺が白石の部屋に入るだなんて、あり得ない事だ。俺を利用して、勝手に盛り上がるのは勘弁してほしい。
「俺は、ゲイじゃありませんよ。あなた達とは違って」
「えー、そうなん?」
「いや、それともあなたはバイですか? いかにも、女遊びが激しそうに見える」
「ふふ」
「白石も意外と、男の趣味が悪い」
「よう言われるわぁ」
信号が青に代わり、男がアクセルを踏み込む。しかし渋滞した朝の街では、すぐにまた、ブレーキを踏むことになる。男は車の音に紛れて独り言みたいに、「悪いけどノスケの事は、諦めてな」と言った。
「何の話か分かりませんけど─」
窓の外の歩道には、沢山の人が歩いている。もしこの中に白石が居ても、もう俺には見付けられないだろう。
「俺は白石のことが、嫌いです」
「はは、一緒やな」
そう言って笑う、浅黒い肌の男を見て。俺はやっぱりこいつの事も、確かに嫌いだと思った。