聖者の行進目蓋を開くと部屋は薄暗く、頬をひやりとした空気に包まれていた。
もう日が沈んでしまっていて、夕飯を食べ損ねたんだと気付く。
ベトベトだった身体が綺麗になってて、うっすらと、風呂に運ばれたような記憶が残ってた。
深く眠り込んでいる圭介さんの睫毛の影を目線で辿って、無茶振りしちまったかな、と思った。
「俺しか知らないはずなんだけどなぁ…」
昼間から放置していた携帯に手を伸ばし、メールを開く。
《やっとヒナの親父さんから、結婚を認めてもらえた!2年もかかったけど、ぜってーヒナのこと幸せにしてみせる。千冬、もう大丈夫だから、心配するな》
詰めていた息を、吐き出した。
この世界は、誰も死なずにみんなが幸せになれるんだ。
いや、本当はもうずっと前から、わかってたんだけど。
俺だけが、こんなところで立ち止まってる。
当たり前のように圭介さんの側に置いて貰えて、愛されて、一緒に歳を取る。
その幸せを知らなかった俺は、いつだって圭介さんの居ない世界で、14歳の場地圭介の背中だけを信じて、追いかけてた。
もう、あんな思いをするのは嫌だ。
寂しくて、でも誰にも寄りかかれない。
心を奮い立たせるものが、実態のない思い出だけなんて。
幸せすぎて、手放したくない。
圭介さんの大事なもん全てを放り出させて、それでもまだ不安だった。
何かの切っ掛けで、この幸せが消えてしまうかも知れない。
誰にも渡したくないから、俺だけのものにしたいから、閉じ込めた。
本当に狡くて、最低。
手にした携帯をまた放り投げる。
微かに聴こえる虫の声と、耳に痛い程の静寂。
今から飯作るの、めんどくせぇな…。
刻むだけのサラダが簡単だって思ってた今朝の俺はもう何処かに行ってしまっていて、保存食棚の中身を思い浮かべている。
インスタントのやきそば、まだあったっけ。
きっと夜中になったら腹減った~って2人して起きちゃうだろうから、はんぶんこしよ。
団地に居た頃も、夜中に持ち出して階段の踊り場ではんぶんこした。
交代のひとくちを差し出すトップクを着た圭介さんの笑顔。記憶に思考を沈めながら、寝息に合わせて上下する胸に頬を押し当てる。
「ん~…」
腹の虫が不満げな声を盛大に上げて、瞼を持ち上げる。結局、夜中のヤキソバも食べ損ねた。
圭介さんの胸の上に乗りあげたまま、朝の気配を感じて身動ぎする。
「ちぃ…?起きたん…?」
「…まだです」
「まだでいーよ」
「もう、目ぇ開けてくんねぇかと、思った」
「ちゃんと開けてんじゃん。夢だと思うなら、もっかい寝てみろ…次に起きても、現実だかんな」
「…うん」
バレバレな寝たフリは、俺の日課。
「心臓に耳、押し付けて寝る癖ついたんは、いつからだっけなぁ」
小さく笑いながら俺の頭をくしゃくしゃ撫でて、ゆっくり布団から抜け出してく。
俺より早く起きて庭仕事すんのは、ここに移り住んでからの圭介さんの日課だ。
庭の小さいリンゴの木は、いつもみたいにタバコ屋のおっちゃんから貰ってきたナントカ乙女ってヤツ。
ちっせーリンゴが成るんだって。
そんなん育てられんのかよって圭介さんは言ったけど、秋になったら実がなるから二人で収穫してぇって譲らなかった。
最初は上手く実が付かなくて、すっげぇ落ち込んだ。次の秋こそはと、春先には熱心に毛虫取ったりして大事にしてる。俺の熱意に負けた圭介さんも、水やりしながら様子見てくれてるみたいだ。
当たり前になんでもない生活をする圭介さんの気配を常に感じながら、二度寝するときがいちばん安心する。
「圭介くん、おはよ~。昨日のパン、食べてくれた~?」
「ワタナベさん、はざっす!パンあんがとな~、今から食べようと思ってんだけど、千冬がまだ起きてねぇんだワ」
「食べたら感想聞かせてね~」
「おー、千冬にも伝えとくナ」
ワタナベさん家の嫁も声がでかい。健太のクソデカボイスは遺伝子の仕業だ。
庭から聞こえる会話が寝坊の合図で、夢じゃなくて現実だったって確認する。
ごろんと寝返り、眩しい日差しに背を向けた俺の耳に、息を吹き込むように声が降ってくる。
「ちぃ~、そろそろ起きろよ、腹減った」
「ん~…起こしてくれたら…起きまふ…、」
タオルケットを剥ぎ取られまいと指に力を込めようとしたら、そのままぎゅうと抱き締められた。
「千冬から返信来ねぇってタケミチから連絡来てんだけど…アイツ、橘と結婚すんだって」
「あ、えっと…メールは読んだけど、返事は…まだ」
「東卍全員、式には参加。友人代表のスピーチはお前にしてほしいって、幸せのオスソワケとか偉そうなこと言いやがって…、こっちから分けてやるって言っといたワ」
圭介さんの口元に引き寄せられた俺の手には、貫通するナイフの痕がくっきり浮かんでいる。これはあの日、圭介さんが自分の腹と一緒に貫いた痕跡。
手の厚みの分だけナイフが阻まれて、致命傷に至らなかった。
この手が無ければ、あの廃車置き場でこの人は死んでたんだろう。
「分けてあげるほど、余ってんすか…?」
「なぁ、千冬ぅ、まだ…俺と別れてぇって思ってる?」
2年前の別れ話を突然に蒸し返されて、心臓が大きく跳ねた。あれ以来、一度も触れてなかったのに。
遠くをぼんやり眺めるような目をして、俺の手のひらに頬を擦り付ける。
「…今から喋ンのは、夢の話な?俺が死んじまう夢なんだけどさぁ」
夢ん中の俺は、腹を刺した時に死んじまってんの。
でも、ずーっと、千冬のこと見てんだワ。
大人になった千冬とか、高校生になった千冬とか。俺の墓の前で、泣く千冬とか。
いつも1人で、何回でも俺の名前ばっかり呼んでんだよ。そんなん、1人にしとけねぇじゃん。
でも、どんだけ呼んでも振り向かねぇし、頭くらい撫でてやりてぇのに、どうやっても、触れねぇ。
「なにそれ…そんなん、知らなかった…」
「生きてる千冬に、やっと触れるって。どんだけ抱いても満足できねぇの、俺の方なんだよなぁ」
「それ…いつ見た…?」
「入院してる時。意識戻るまで、ずっと見てたと思う」
じゃあ、俺よりもっと前には、もう。
圭介さんのこと、ずっと見てたはずなのに。今の俺はなんも見えなくなってしまって、知らないことばかりだ。
「あ、それに絆されたわけじゃねぇからな?その前から好きだったし。でも、惚れ直した。もうぜってぇ一人で泣かせねぇって思った」
暖かい息がナイフの痕に、ゆっくり広がる。
冷たくなった指先に少しずつ血が通ってく。
「泣かせたくねぇのにだんだん笑わなくなって、仲間に会っても実家に帰っても、夢ン中で泣いてる時と同じ顔してっから、最初は意味わかんねーって」
でも俺が守れば良いんかって思って、と笑った圭介さんの口元は、脳内に勝手に流れ込んでくる記憶の、あの笑顔と同じくらい優しい。
覗く八重歯が愛おしくて、心臓がぎゅうって縮こまる。
「なんで、それ話そうと思ったんすか…」
「成り行きみてぇにこっち来たから、皆にもオフクロ達にもなんも説明してねぇし。ケジメっつーか、まぁ、アレだ、俺らもそろそろ、結婚すっかなんて」
「は…、ななななんで?!いま、そんな話の流れじゃなくねぇっすか…?!」
当たり前みたいな顔してプロポーズしてくるから、さすがの俺でも顔が熱くなる。
「そんな話の流れだろーが。誰かに分けてやってもまだ余るくらい幸せにしとかねぇとナ」
「圭介さんは、今の生活で幸せなんすか?大事な仲間も家族も仕事も、全部、置いてきたのに?」
「あそこに居たら、千冬は幸せじゃなかったんだろ?人間って、健康な生活した方が幸福度は向上すんだって。だから、ここでの生活は手放す予定まだねぇけど…おい、ちぃ、聞いてっか?」
「俺…、圭介さんは大切なもんがいっぱいあって…、それに圭介さんを奪われるのが怖かったっす…みんなに、平等なとこも全部、好きなんだけど…」
「オメェ、昔は図々しかったじゃん。もっと欲しがれよナ」
馬鹿だな~ってタオルケットごとぎゅうぎゅう抱き締められて、肺から空気がすぅと抜けていく。
耳の奥深くに、聖者の行進が聴こえる。
明るく、賑やかに。
「千冬が俺を、生かしてくれたんだろ。
今度は俺が、千冬のこと引っ張り上げてやる」
「ちがう、違うっすよ…、圭介さんが、俺を生かしてくれたんすよ…」
俺の光は、この世界にひとつだけ、場地圭介だけだった。
それは、これまでも、これからも。