その黄金に恋をした恋に落ちる衝撃を雷に喩えた作家がいた。初めてその言葉を知った時、ぼんやりと「そうなんだな」くらいにしか思わなかった。しかし、ライトに照らされた彼を見た時、その言葉が事実であった事を知ったのだ。
「お前も聞いたことくらいあるだろ?文武両道眉目秀麗、演劇ダンス声楽なんでもござれの『ケイ様』の話」
「……あるけど、急になんだよ」
目の前で楽しそうに話すのはソテツ。一年の時に同じクラスになって以降、割とつるんでる情報通。コンプレックスの顔をメガネで誤魔化して教室の片隅で本を読む俺とは正反対のタイプ。なんで俺みたいな陰キャに絡んでくるのかは、いまだによく分からない。
「で?その『ケイ様』がなんだよ」
「来月だったか?演劇部として舞台に立つらしくてな。お前も興味があるんじゃ無いかと思って」
「は?なんで俺が?」
「お前、この間千一日物語読んでただろ。今回の舞台の題材が『トゥーランドット』なんだと」
にまりと笑ったソテツとは裏腹に、俺は顔を顰める。
「どうせオペラの方だろ。しかも原典じゃなくて、プッチーニとか、ウェーバーとかのやつ」
「ま、詳しいことは知らんがな。とりあえずチケットは確保してきたんだ、観るだけ観てこい」
そう言ってソテツは俺に一枚のチケットを渡してくる。学校で行われるそれにチケットが必要なんて、ずいぶん大掛かりだ。「感想待ってるぜ」と言い残して席を立ったソテツにため息をついた。
放課後の図書館は静かだ。元々あまり人が来ないのもあって、本にだけ集中できるそこは、俺にとっては庭同然だった。何せ一年の頃から放課後はここに籠って数多の本を読んできているのだ。どこに、なんの本があるかくらいは把握している。その日の気分によって作品を決めて、訳者違いから同作者の物まで。帰宅部の自分に与えられた時間は、ここ二年全て本に費やされていた。
(あった、千一日物語。別訳は…流石にないか。あとはゴッツィの戯曲と、念のためプッチーニも見返すか)
つい、と背表紙に指を走らせながらいくつかの本を抱えて机に戻る。自分でもたかだか学生劇のために予習をしている馬鹿馬鹿しさに笑えてくるが、それはそれ。いっそ観るのであれば、最大限に楽しみたかった。活字を追っていれば、あっと言う間に下校時間。チャイムの音に顔を上げた俺は、急いで一冊をカウンターへ持っていく。残りはまた明日読めばよかった。
そんなこんなで、舞台の日。放課後の体育館は人で溢れていた。立ち見の席に群がる人を尻目に、俺は手元のチケットに目を落とす。
(……もしかしてこれ、プレミア物なんじゃ?)
人目を避けるように入り口の係にチケットを渡せば、案の定前の方の席に通される。席についた俺は、真っ先にスマホでソテツに連絡を入れる。
『こんなに前とか聞いてないんだけど?』
『よかったじゃないか 楽しんでこい』
(ほんとアイツ……面白がってるだろ)
両隣から視線を感じて、俺は思わず顔を伏せる。メガネをかけてるとはいえ、やたらと目立つこの顔が恨めしい。居心地の悪さを感じながら座って待てば、開演のブザーが鳴り響く。幕が上がるのをぼんやりと見ていた。
どうも、これはミュージカル調に話が進むらしい。話の流れ的に、元になっているのはやはりプッチーニのオペラらしかった。
(時間の関係もあるし、流石に千一日の方は無理か)
トゥーランドット役の女の子が歌いきり、フードをかぶっていたカラフ役の男が歌い出す。低く、それでいて甘やかな声。ふわりとフードが取れて、精悍な顔立ちが露わになった。湖畔の瞳が会場を射抜く。狭いわけでもない会場を一瞬で掴んだ男と目があった気がした。
(あ、)
それは、衝撃だった。雷のような、一瞬の衝撃。リンゴの実が木から落ちるように、あまりにも自然な、しかし見過ごすには大きすぎるそれ。耳元で数多の作家たちの絶賛が聴こえて、羊飼いの女が俺を笑う。興味もなかった学生劇で、俺はまことの恋をした。
(嘘だろ……)
舞台が終わり、俺は呆然と帰路についていた。脳裏に焼き付いた黄金とターコイズ。耳に残る甘やかな低音。これが恋であることは百も承知だった。
(でも、相手は男でしかも一年だろ?接点なんてできるわけもないし……。見込みはゼロだって)
強制的に落としておいて、なんて男だと笑う。向こうだって、こんな陰キャの男に惚れられるとは思っても無いだろうに、とんだ逆恨みだ。ズボンのポケットで振動するスマホに、ソテツをどう誤魔化すか考え始めるも、あのターコイズを振り切れなかった。
「で?どうだった?」
来た。来ると思った。ニヤニヤと笑うソテツはこちらの事などお見通しと言わんばかりだ。
「面白かったよ。案の定プッチーニのなぞりだったけど」
俺はなるべく表情を変えないようにしながらも、そっけなく答える。ふうん、という相槌には笑いが含まれていた。
「俺はてっきりお前もケイに落ちて帰ってくると思ったんだがな」
「……は?」
「いや、アイツの演技といい歌といい、一流だろ?大体、アイツの舞台を観たヤツは絶賛して帰ってくるからな」
「…あぁ、確かに上手かったよ」
見透かされたような言葉に思わず声が出たが、ソテツはつまらなさそうに窓の外を見ながら続ける。自分が危惧した意味じゃなくて本当によかった。それでも全部お見通しな気はするけど。
「ま、お気に召したなら何よりだ。また何かあったら譲ってやるよ」
ひらりと手を振って教室を出ていくソテツを見送った俺の鞄には、シェークスピアの『お気に召すまま』。ソテツをマーローに当てはめるには、意地が悪すぎるなと思った。
俺を衝撃が襲ってしばらく。全くもってケイとの接点がないまま、俺は変わらず図書室に籠っていた。読んでいるのは奇巌城、アルセーヌ・ルパンシリーズの四作目。恋を知ってから、なるべく恋愛物を避けている俺にとって、ルパンやホームズ、アガサ・クリスティといったミステリやトリック小説はケイを忘れられる逃げ口だった。尤も、その勝率は二割にも満たないけれど。今だって、華麗に警察を撒くケイを想像してはうっとりとため息をついてしまう。ふるりと頭を振って視線を本に戻したと同時に、静かな空間に引き戸の音が響いた。
(珍しいな、今日は司書さんもいないのに)
司書のいない日は貸出ができないことを知らない人も多いのだろう。折角放課後に来て、運がなかったのは誰なのだろうと何の気無しにドアを振り返った。
(え、ケイ?!)
そこに立っていたのは獅子の髪を持つ意中の男。図書館を見渡した彼と目があって、思わず顔を背けた。鮮烈なターコイズが脳裏を焼く。
(どうしよう、俺から話しかけても大丈夫なものか?というか、なんでここに)
「すまない、一つ聞きたいのだが」
パニックに陥る俺の思考にするりと入ってきた声に、今度こそ俺の思考はショートする。固まったままの俺の視界に、スラリとした男の手が映り込んだ。
「っあ、はい。ええと、なんですか?」
「良かった、聞こえていたか。今日は司書はいないのか?」
バクバクと鳴る心臓が、彼の声をかき消してしまいそうで。意識的に息を大きく吸って無理矢理鼓動を鎮める。彼と話す機会なんてそうそう無いのだ、一言一句聞き漏らしてたまるかって。
「きょ、うは休みで。読むだけならできても貸出はやってないんです」
「そうか、残念だ」
彼の瞳が宙を漂い、俺は視線から解放された。なんらかの魔力でもありそうな碧眼が逸れたことに安堵していれば、再び感じる視線。恐る恐る顔を上げれば、彼の視線は俺の手元に注がれていた。
「……奇巌城とは、なかなかいい趣味をしている」
「ありがとう、ございます?」
好奇の色を隠さないまま、ケイは俺の隣の椅子を引く。腰掛けた姿に絵画みたいだ、なんてありふれた感想が浮かんだ。
「俺としてはルパンであれば、八点鍾の方が好みだが、暗号の方が好みか?」
「……ぁ、いえ、今は一から読んでいるので。ケイ、はトリックの方が好きなんですか?」
俺の問いかけに、彼は柳眉を上げる。端正な顔立ちが好奇と軽い驚きを乗せた。
「俺を知っているのか」
「俺たちの代でも話題ですから。ものすごい一年が入ってきたって」
「先輩か、道理で記憶にないはずだ。失礼を許して頂きたい」
「そ、んな畏まらなくても。さっきまでと同じ話し方でいいので」
急に頭を下げられて困惑する。慌ててフォローを入れれば、金の軌跡を残して彼が優美に顔を上げた。
「……では、そうしよう。失礼ながら、名前を聞いても?」
「銀星、銀の星と書きます」
「ワーベライトか。美しい名だ」
サラリと出てくる褒め言葉はケイの知識の幅を教えてくる。羞恥に思わず顔を伏せると、ケイの指先が本をなぞる。ページに添えられた指が少し力を入れれば、まだ見ぬページが数字だけを露わにした。今更俺を緊張が襲って、沈黙が怖くなる。声をかけようとして、ケイがカタリと音を立てて立ち上がった。
「すまない。部活動の途中でな、また日を改めるとしよう」
「ぁ、はい。ええと、頑張って?」
「ああ、また今度」
さらり、と彼の髪が宙に揺れる。図書室を後にする尻尾を夢見心地で見つめていた。
さて、俺とケイが図書室で知り合ってはや二週間。俺たちの交流は驚くことに続いていた。何がケイの興味を引いたのか、初めて言葉を交わして二日後、ふらりと図書室に現れた彼に驚いた。なんでケイが俺なんかと話しているのかはわからないけれど、火曜と木曜の放課後が終わる三十分前にケイが図書室に来て話をするようになった。いわく、火曜と木曜の演劇部は比較的緩めらしい。彼との話題は大体、その日俺が読んでいる本だった。
ケイは文学にも明るかった。世界中の古典から現代の名作まで、俺が読んでいるものを既に読み、尚且つ詳しい話ができる。初めて出会えた同じ世界を持つ人。それは彼も同じだったようで、時折俺の解釈に同意し、意見する。二人で声を顰めて文学義談に花を咲かせる週二日は、俺の秘めやかな楽しみになっていた。
「ほう、今日はユゴーか」
「わ、驚いた。ケイ、早かったですね」
「座長が眠りこけてな、置いてきた」
呆れたように息を吐きながら、ケイが俺の横の椅子を引く。積まれた本の背表紙をなぞったケイは、ゆるりと俺を見る。静かな動作一つが高貴で色っぽい。夕日に照らされた彼の髪が金に光った。
「それで?貴様はそれが好みだ?」
「……そう、ですね。レ・ミゼラブルはもちろんですけど、ノートルダム・ド・パリも捨て難いですね」
「リュイ・ブラースかと踏んだが、鐘撞き男か」
「ええ、悲恋というか、誰も報われないところがユゴーの作品ですけど。……それでも、顔にコンプレックスがある点だと、カジモドの気持ちもわからなくは無いので」
カジモドは醜く、皆から顔を背けられる存在だった。俺は逆に、目立ちすぎる自分の顔が嫌いだった。正反対の悩みではあれど、悩んでいるパーツは同じだ。何だか居た堪れななくなって、俺は俯く。顔が悩みであると打ち明けた相手、それも叶わぬ恋の相手に顔を見られて平気なほど、俺は図太くなかった。
「銀星」
低く美しい声が俺を呼ぶ。それでも顔を上げられなくて俯いていれば、視界の端に映る指。かしゃり、と音を立てて悪戯な指が俺のメガネを引き抜いていく。ケイの驚いたような吐息に、伊達メガネだったことがバレたのを察して観念したような息が漏れた。
「銀星、顔を上げろ」
ベルベットが俺を呼ぶ。タイミングを逃して上げづらくなった顔が羞恥に染まるのを自覚した。
「最後だ。銀星、顔を上げろ」
上げられるわけないだろう!自分でも顔が赤いことはわかっているし、何よりコンプレックスだって言ったばかりだ。拒否するように顎を引いて顔を背ければ、小さくため息が落とされる。顔を上げるのがさらに怖くなった。
顔のすぐ近くに気配を感じて、俺は咄嗟に目を閉じる。顎先に触れた体温に思わず肩を跳ねさせた。そのまま顎を捉えられて、ツイと顔を上げさせられる。顎クイってほんとにあるんだ、なんて現実逃避はターコイズに打ち消された。
「貴様は自分が思っているよりも美しい顔をしていると思うがな」
真正面からケイの瞳に射抜かれて、緊張と羞恥でクラクラする。夕焼けの赤じゃ誤魔化せない俺の真っ赤な顔を見て、ケイは随分と穏やかに微笑んだ。
「何より、俺が貴様の顔や態度、知識を好ましく思っている。それだけでは不安か?」
首を傾げながら問うケイは、きっとわかってやっている。見惚れる俺を置いて、彼の指が顔の輪郭をなぞる。耳を擽ったケイは、随分と上機嫌だ。こそばゆい感覚に意識を戻すも、言葉がつっかえて出てこない。多分、そんなものなくても熱を帯びた耳と顔で、俺の気持ちは筒抜けだろうけど。
「随分と愛らしい反応をするな。男の前だぞ」
そう呟いたと同時に、唇に感じる体温。音もなく離れていったそれを追うように唇を触れば、目の前の獅子が獰猛に笑った。