SONAR[ SOund NAvigation and Ranging / 音響航法・測距 / ソナー ]
夕暮れ時は仕事を切り上げる合図だ。慌てて最後のお客さんに荷物を渡してため息をついた時には、もうだいぶ日も傾いて辺りはすっかりオレンジ色に染まっていた。石畳には長い長い影がのびて、向こうから歩いてくる人影も薄暗くて分かりにくい。
「……あれ、ユウだ」
「シャオ!」
私が気づくより早くシャオに話しかけられた。ひらひらと手を振って「今日は初めて会うね」とシャオは笑う。
「ユウはお仕事もう終わった?」
「うん、これから帰る所だよ」
「そっか……あ、ちょっと待って!」
少し遠くに何かを見つけたらしいシャオが慌てて駆け出し、またすぐ戻ってきた。
「そこにチョコドリンクのキッチンカーが来てる! あれ滅多に見つからないんだよ!」
「シャオが言うなら相当レアなんだね……」
「おれ今から新作でてないか見に行くけど、ユウも頼む!? どれも美味しいよ!」
「そうなの? じゃあ…」
ピスタチオおすすめ! とシャオから教わったから、いま私の手元にはクリームの上に薄緑色が散るチョコドリンクがある。
「ユウ! こっちだよ、ついてきてー」
通路と言うには少し狭い壁の間をすり抜けて、一体どこをどう歩いているんだろうか。シャオに「行きたいとこがあるんだ」と言われるままについていく。
「シャオはなに頼んだの?」
「ラズベリー!」
蔦で覆われたはしごみたいな形の柵の、よくわからない所にシャオは手を突っ込む。かちゃんと音がして柵の入り口が開いた。そこが開くと思ってなくてびっくりしてしまった。
「ここ通れるんだよ」
蔦のアーチを通り抜けて進む。シャオが一足先にアーチの通路を抜けて、私が目の前をよく見られるように少し体を避けて振り向いた。
「どう?」
宝物をこっそり見せびらかす子供みたいな笑い方をするシャオの向こう。
「これ……公園?」
黄色やオレンジの花々が咲き誇る公園。その奥に、中華風のガゼボが見えた。
「そ。おれのとっておきの場所」
シャオはガゼボの中の小さな木製の椅子に座り、すぐ横のスペースをぽんぽんと叩く。
「うん、今いくよシャオ」
シャオのすぐ隣に座って二人でドリンクを飲む。滑らかな甘さが心地よかった。
「地球はまだこういう草木のある公園って残ってるの?」
先に飲み終えたシャオが口を開く。視線は目の前の花壇に向けられていた。
言われて地球にいた頃を思い出す。
「大分少なくなったらしいけど、ちゃんとあるよ。近所にも大きな公園があったし、学校の授業で植物園に行ったりしたなあ」
「ふうん。思ったよりおんなじ感じだね」
「うん。だからそんなに変わらないかな。でもここの方がなんだか……映画や小説の中の、昔の地球みたいだなって思うよ」
「そりゃそうだよ。このあたりは昔の…古き良き時代の地球をイメージして作ってるから」
「……ああ、だからかあ」
「【だから】?」
つい納得して出た言葉にシャオが驚いて見つめてくる。
「この街の人達、ほんとにマスクつけてないんだなって……昔の地球みたいに」
「えっじゃあ地球の人達、まだ防護マスクつけてるの? あれメディアの偏向報道じゃないの!?」
「宇宙ステーションだってマスク必須だよ。なのにここに降りたらみんな素顔だからびっくりしたなあ」
「宇宙ステーションは特別だって!」
うっそでしょ、とシャオは驚きのまま呟いた。
「地球は人口密度が一番高い惑星だから、伝染病は警戒してもしきれないんだよ。一つ収束しても、いつ次の変種が来るか分からないから」
「なんだっけ。ソーシャルディスタンス……? ええー無理覚えてない」
「教科書に出てくる単語だ……」
「てことはユウってこんな近くで人と話したりしないの? あの透明パーテーション越しでずっと喋るの?」
「不特定多数の人間が集まる場所はそんな感じだけど……」
「ひえ」
身振りも大げさに驚いてみせたシャオが、急に困った顔になる。
「おれさ、よく君のすぐ隣に来てたけど、近すぎたんじゃない? 嫌じゃなかった?」
「大丈夫だよ、そのくらい安全な街なんだって知ってて来たんだから」
「でも慣れてない距離なんだよね?」
「だってここじゃ当たり前のことなんだし……」
「それはさ、君にとって当たり前の感覚じゃないよね」
シャオがいきなり身をかがめて見上げるように覗き込んでくる。
「ほら、ここまで近づかれたら怖い?」
「だ、大丈夫」
いつもは少し高いところからだったシャオの眼差しが、ひどく近くにある。頭の位置が同じ高さになったからだ。
「おれ、ときどき君の手を引いたりするでしょ。接触はダメなんじゃないの?」
「それは、そうだけど……そうだったけど、シャオは嫌なことしてないから」
シャオの目がなにかを探すように細くなる。
「おれが触っても平気?」
「うん」
「……本当に?」
親指が頬のあたりを軽くなぞっていく。ひんやりしたシャオの体温に体が少しすくんでしまうけれど、手を振り払ったりはできなかった。
「いま、震えた?」
それでもシャオは見逃してくれない。
「だい、じょうぶ」
「ふうん」
親指が頬を伝い顎をとらえて、シャオの顔がまた近づく。視界いっぱいに緑色の瞳が広がって。
「ユウ。これは嫌だって、断るべきものだよ」
吐息がかかるくらい近くでシャオは静止する。私の心臓から始まる震えが、多分はっきりシャオに伝わっている。
「お願いだから、断って」
「……こ、これ、やめて、シャオ」
「はー……」
シャオは手を離して大きなため息をついた。
「あっぶない。君色んな意味で危ないー」
私の膝の上まで倒れ込んだシャオが、猫が伸びをするみたいに両手を伸ばしてじたばたしていた。
「やめてよもー。おれはこういう距離感をみるの苦手なんだから。嫌なら嫌ってもっとはやく言うんだよー」
「嫌じゃないよ」
わざとらしい話し方に、咄嗟に声が出た。
「シャオは楽しそうに手を繋いでくれるから。慣れてないけど、嫌じゃないんだよ」
膝の上でごろごろしていたシャオが、上半身をひねって私の顔を見た。また探るような目だった。
「でもまたぎりぎりまで無理しそう」
「ちゃんと言うよ、それ以上は嫌だって」
「ほんとー?」
眉根をよせたシャオのおしゃべりがとまる。私がシャオに手を伸ばしたのに気づいたからだった。
……あと少しなのに躊躇ってしまう。それでも人差し指でそっと頬に触れた。シャオは触れられた側の目をくすぐったそうに閉じて、それだけだった。
「シャオは嫌じゃないの?」
「嫌なわけある?」
少し、触れる手にすり寄られた。
「じゃあ私も大丈夫なんじゃないかな」
「……なんかごまかされた気がする」
「とりあえず、今が一番くっつかれてる気がするからそろそろやめてほしいかな」
「えー……やだー……確かにやめてって言えてるけどおれがやだー……」
不満顔を隠さないけど、シャオは立ち上がった。
「はーあ……大分暗くなっちゃったねえ。帰ろうか」
あっち、とすぐに出口を指差すシャオにつられて立ち上がる。
「ねえ、シャオ」
思い切って手を差し出す。気づいたシャオがにこっと笑う。
「暗いから気をつけてね。このまま着いてきてね」
そう言って私の手を握った。
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(距離感を測りたい話でした)