しあわせを願う(東4人)「僕はもう、幸せになるつもりなんてない」
その言葉が聞こえた時、あ、まずいな、とネロは思った。
「えっ」
案の定、絶句したような声がして、前を歩いていたヒースクリフがどさどさと荷物を取り落とす。彼の隣を歩いていたシノもぴたりと足を止めて、微かに背中を強張らせている。
その音が聞こえたのだろう。何か話していたらしいファウストと賢者が、ゆっくりとこちらを振り返る。
「おまえ、今、幸せじゃなかったのか」
「先生、今、不幸なんですか……?」
「シノ、ヒース、今のは、」
口々に言い、駆け寄ってくる生徒たちに詰め寄られて、ファウストがたじろいでいる。賢者が空を仰いで、そろりと一歩後退った。
「俺たちの授業をしている時も……」
「中庭で猫と戯れている時も……」
「俺の作ったガレットを食べてる時も……?」
「……、ネロ!」
戸惑った視線が、ショックを受けた表情のヒースクリフ、純粋に驚きを浮かべたシノの上を順番に泳いで、ネロのもとで止まる。一人だけ怒った声で名を呼ばれて、ネロは肩を竦めた。半ば面白がって便乗したのがバレたらしい。
けど、俺を睨むより先に、目の前の相手のことを気にしてやった方がいいんじゃねえの、先生。そんな忠告を口にする前に、ヒースクリフが決然とファウストを見つめて、語気を強めた。
「先生!」
「……なに」
平静を装った声音が、動揺を映して微かに揺れている。
じり、と一歩踏み出したヒースクリフに気圧されたのだろうか、ファウストの踵が僅かに引かれる。それを見咎めたヒースクリフが、逃がすまいというみたいに、ぱっとファウストの手を取った。祈るように、両手でぎゅっと握りしめる。
「俺は、魔法舎で先生と出逢えて幸せですし、先生にいろいろなことを教えてもらえて、先生と一緒にいられて嬉しいです。先生は、違うかもしれませんけど……」
「おい、ヒース」
震えた声が徐々に小さくなって、淡い色の睫毛が頬に影を落とす。ファウストがあからさまに狼狽えて、俯いたヒースクリフの顔を覗き込んだ。
透き通る青と、レンズ越しの紫が、ぱちりと交わる。何かを察してファウストが身を引こうとするが、遅い。ファウストの手を握るヒースクリフの手に、ぐっと力が籠った。
「……っでも!」
ヒースクリフが顔を上げる。
目尻に力を込めて、唇を引き結んで、真っ直ぐにファウストを見据える。
そうだった。普段は控えめなくせに、こういう時、ヒースクリフは絶対に引かない。
「先生に幸せだって思ってもらえるように、俺、頑張りますから!」
「……、」
何か言おうとしたらしいファウストが、何も言えないまま口を閉じる。助けを求めるような視線を向けられた賢者が、ふるふると首を振った。この件について、賢者はヒースクリフの味方らしい。
「そうだぞファウスト。オレもおまえのことは気に入ってるし、おまえがオレたちの先生で良かったと思ってる。だからもっとシャンとしろ。辛気臭い顔をするな」
「僕がどんな顔をしてようと関係ないだろ……」
無造作なシノの追撃に、反論するファウストの声は力ない。
シノがぱちくりと瞬いて、首を傾げる。思ってもみなかったことを言われた、という様子だ。
「関係ある。オレは、好きなやつには顔を上げていてほしいし、笑っていてほしいからな。……それと。自分では気付いてないのかもしれないが、猫を構ってる時のおまえは結構幸せそうだぞ」
「……っはは! そうそう。それに、こいつらの話をしてる時もな」
「……シノ、ネロ」
ぐっと親指を立て、ついでにウインクをひとつ飛ばすシノに、ネロは思わず吹き出した。茶化す声音で言葉を継いで、『こいつら』と言いながら若者たちの方を指さす。
ヒースクリフの顔がぱっと華やぐ。シノはヒュウ、と口笛を鳴らしながらも嬉しそうな様子だ。無邪気な反応を正面から受けて、ファウストがぐったりと項垂れる。本当に彼は、子どもたちに弱い。
ネロは小さく笑って、ボケットに手を突っ込んだ。
この件に関して、ネロはあまりとやかく言える立場ではないかもしれない。けれど、それでも、今。頑なで優しいこの魔法使いの隣に、素直で真っ直ぐな子どもたちがいて、良かったと思えた。
〈終〉