「鳥籠の天使」蝉の声が遠くで途切れ、夏の残響が窓辺に溶けていた。

一颯の部屋は薄暗く、カーテンの隙間から差し込む陽光が埃を踊らせている。
彼女はベッドに座り、膝を抱えていた。160cm程のしなやかな体は、今や骨ばって見えるほど痩せ細り、かつてバスケットボールで鍛えた筋肉は影を潜めていた。
緑の瞳は虚ろに宙を彷徨い、長いまつ毛が震えるたび、涙がこぼれそうになるのを堪えているようだった。
あの日から、私は壊れた。壊れたまま、こうやって息をしている。生きているのかさえ、分からない。
そこに、彼女がいた。
星咲杏癒。銀髪が光を浴びて青みを帯び、白い羽が腰から伸びる姿は、天使のようでありながらどこか歪んでいた。小さく、華奢な体の彼女は生きていた頃の痩せた輪郭をそのままに、紫の瞳が渦巻く白い瞳孔とともに一颯を見つめている。彼女は微笑み、柔らかな声で囁いた。
「大丈夫だよ、一颯ちゃん。僕、ちゃんとここにいるから。」
一颯の心が軋む。杏癒の手が頬に触れ、その冷たい感触に震えが走る。幻覚のはずなのに、彼女は確かにそこにいる。触れる。語りかける。一颯以外には見えず、聞こえず、ただ彼女だけの天使として存在する。
触れるなら、本物だ。杏癒は死んでなんかいない。私を置いて、どこかへ行ってなんかいない。

＿

8月のあの日の記憶が、一颯の脳裏にこびりついている。
蝉が鳴き、日差しが肌を焼いた、ありふれた夏の日。
杏癒が屋上から飛び降りた瞬間、彼女の笑顔が一颯を貫いた「愛してるよ、一颯ちゃん」と呪いのように響いたその言葉が、心に棘を刺したまま抜けない。
止められた。
止められたのに。
一颯は動けなかった。混乱と恐怖が足を縛り、杏癒の小さな体が地面に落ちる音が耳に残る。
以来、彼女は不登校になった。鬱が心を蝕み、過食と嘔吐が体を壊した。親の声も医者の言葉も届かず、一颯は聞こえないふりをした。聞こえるのは、杏癒の声だけだ。
「一颯ちゃんがそんな顔しても、僕には分かるよ。君は僕を愛してるよね？」
天使の羽が揺れ、銀髪が陽光に溶ける。
杏癒は一颯の髪を撫で、かつての優しさで彼女を包む。過食の衝動が収まり、嘔吐の苦しみが消える瞬間、一颯は安堵に身を委ねる。
杏癒がいるなら、それでいい。
彼女がそばにいてくれるなら、私は生きていける。
だが、天使は天使ではなかった。

＿

ある日、杏癒が一颯に囁いた。
「一颯ちゃん、僕に許されたいよね？」
緑の瞳がつり上がり、彼女を見つめる。
杏癒は机の上のカッターを手に取らせ、細い腕に刃を滑らせた。一颯は抵抗せず、従った。血が滴り、痛みが脳を刺す。
杏癒はただ微笑んで「上手にできたね。」なんて頭を撫でる。
次に、薬だ。杏癒が20粒ほどの錠剤を手に持たせ、一颯はそれを飲み込む。吐き気と目眩が襲い、思考が霞む。
そんな一颯を見て 杏癒は背中をさすり、指を口に差し込んで吐かせてくれる。愛おしそうな紫の瞳が一颯を見つめ、彼女はただ頷く。

私が苦しむたび、杏癒は喜ぶ。
私が壊れるたび、彼女は私を愛してくれる。
これが、私の罪への罰だ。

一颯は知っている。間接的に杏癒を死に導いたのは自分だ。
いじめで彼女を孤立させ、歪んだ愛で縛った。その報いが、この天使なのだ。だが、罪悪感は後悔と混じり、彼女を杏癒に縛りつける鎖となる。
「君は僕がいないとダメだよね、一颯ちゃん。」
杏癒の声は甘く、羽が一颯の肩をかすめる。天使の象徴は救いではなく呪いだ。神聖な白い羽は、悪魔の翼のように一颯を絡め取る。
そうだ。私は杏癒がいないと、生きられない。
彼女が私を壊しても、それが愛ならいい。

＿

部屋は鳥籠となった。外の世界は遠く、親の声も届かない。
一颯は鏡を見なくなった。そこに映るのは、かつての活発なバスケ少女ではなく、緑の瞳が死んだ抜け殻だ。だが、杏癒がそばにいる。
銀髪が揺れ、紫の瞳が渦を巻く。彼女は一颯の手を取り、囁く。

「僕とずっと一緒にいよう？」

一颯の心が震える。許されたい。愛されたい。その思いが、彼女をさらに深く呪いへ引き込む。
「一颯ちゃんは、僕に許されたいんでしょ？
大丈夫だよ。僕は生きてた頃もずっと、君を愛してたから。ぜんぶ、ぜんぶ知ってたよ。」
杏癒の言葉が刃となり、一颯の胸を抉る。
知っていた。杏癒は一颯の弱さも罪も、すべて見抜いていた。それでも愛してくれたなら——。

「ねぇ、こんな僕でも愛してくれるならさ。こっちへ来て、僕とずっと一緒になろう？」

天使が手招きする。白い羽が揺れ、銀髪が風に舞う。一颯は立ち上がり、窓辺に近づく。外の世界は霞み、鳥籠の中だけが鮮やかだ。杏癒の小さな手が一颯を導き、彼女は微笑む。
一颯は薬を手に取った。20粒ではない。今回は、すべてだ。机の上の瓶を空にし、喉に流し込む。杏癒が背中を撫で、優しく見つめる。
「…よくできたね、一颯ちゃん。」
目眩が世界を歪ませ、吐き気が胸を締める。だが、一颯は笑った。杏癒の紫の瞳が近づき、羽が彼女を包む。
これでいい。杏癒と一緒なら、どこへだって行ける。
私を許してくれるなら、この鳥籠で終わるのが救いだ。
部屋が静寂に沈み、蝉の声が消えた。一颯の体が床に崩れ、緑の瞳が閉じる。天使はそこに立ち、銀髪を揺らし、紫の瞳で最期を見届けた。

「愛してるよ、一颯ちゃん。」

呪いは完成し、鳥籠は永遠となった。天使の羽が静かに折り畳まれ、2人の魂は誰にも触れられぬ場所へと溶けた。