ぬくもりに寄り添う(ヒース+ファウスト) 〈大いなる厄災〉の襲来を翌日に控えた夜。
魔法舎内の自室で寝る準備をしていたファウストは、人の気配に眉を顰めた。
誰かが廊下を行ったり来たりしている。
向かいの部屋のムルやシャイロックではない。もっと控えめで、遠慮がちな気配だ。それが誰のものなのか察し、ファウストは少しの逡巡の後に扉を開けた。
「眠れないのか?」
声をかけると、気配の主――ヒースクリフがびくりと肩を震わせて動きを止めた。
いつもとやや雰囲気が違って見えるのは、普段は丁寧に整えられている髪が無造作に流れているからだろうか。服装もラフなもので、寝る準備は万端らしい。とはいえ、強ばった表情からは眠気はまったく感じられないが。
「明日は戦いになる。きみは初陣だろう。早く休んで、魔力と体力を養いなさい」
それでも、歩き回るよりは横になる方が若干はましなはずだ。または、階下のキッチンでホットミルクかハーブティーでも淹れてやってもいいかもしれない。あくまで、ファウストが自分用のものを作るついでに。
考え込むファウストの前で、ヒースクリフは恥じ入るように俯くと、胸の前で枕をぎゅっと抱きしめた。
「それはそう、なんですけど。厄災の夜はいつもシ……幼馴染と一緒だったので、少し……落ち着かなくて」
まだ前日だっていうのに、おかしいですよね。そう言ってへにゃりと眉を下げるヒースクリフはいかにも頼りなげな様子だ。
〈大いなる厄災〉が接近すると、影響を受けて体調を崩したり、心が不安定になる魔法使いは多い。ファウスト自身、感情の増幅には覚えがあった。繊細そうなヒースクリフはきっと、その影響は『寂しい』『心細い』という方向に出ているのだろう。
普段の彼は東の国の実家で、家族や幼馴染、使用人とともに暮らしていると聞く。平和な時代に、家族に愛されて育った、まだ十八歳の少年である彼が、初めての戦闘を前に、慣れ親しんだ人々と引き離されて不安に陥るのは当然だ。その感情が厄災の影響で増幅されているとしたら、耐えられないほどになっていてもおかしくない。
「俺の部屋の周り、今日はあんまり人がいなくて……。ファウスト先生の部屋の隣、空き部屋でしたよね。お借りしても良いですか?」
それでも、ファウストに迷惑をかけまいとしているのだろう。慎ましやかに、健気に絞り出された願いは、ひどく遠慮がちなものだった。
「人の気配があった方が落ち着く?」
「……はい」
答える声が細く揺れる。
枕を抱きしめた指が白くなっている。伏せがちの睫毛は細かく震えて、引き結ばれた唇には血の気がない。
少しの思案の後、ファウストは扉を開いたまま半身を引いた。
「入りなさい」
「え、……え?!」
ヒースクリフが青い目をまん丸に瞠って、部屋の扉とファウストを見比べている。
「……空き部屋の方がいいなら、それで構わないけど」
「いえ! 嬉しいです、すごく。ありがとうございます」
お節介だったかもしれない。瞬時に後悔して発言を取り下げたファウストに、ヒースクリフが勢いよく首を振る。柔らかそうな髪が乱れて、白い頬に僅かに血が上る。その声音と表情に、どうやら迷惑だったわけではないらしい、と知れて、ファウストは密かに息をついた。
「いつもはどんなふうに過ごしていたの」
迎え入れながら尋ねる。物珍しげにきょろきょろいていたヒースクリフが、うーん、と小さく唸ってから、ふわりと目を細めた。懐かしそうに、愛おしそうに。
「そうですね、大人たちに怒られないで朝まで幼馴染と過ごせる貴重な日だったので、こっそりお菓子や玩具を用意したりして……」
「お菓子や玩具……」
生憎、持ち合わせがない。あったとしても、付き合ってやれる自信がない。
顎に手を当てたファウストに、過去に思いを馳せていたヒースクリフがはっとして手を振る。
「あ、でも、それは小さい頃だけです! 最近はせいぜい、隣で寝るくらい、で、……え?!」
「《サティルクナート・ムルクリード》」
それなら可能そうだ。正直なところ、喋っているうちにだんだん眠くなってきたので、それでいいならファウストとしてもありがたい。
そう思ってさっさと呪文を唱えたファウストに、ヒースクリフが素っ頓狂な声を上げる。
「何。こういうことじゃなかった?」
魔法で大きくしたベッドを前に、首を傾げる。ヒースクリフはしばらく硬直した後、ギギギ、と音がしそうなほどぎこちなく頭を振った。
「えっと、合ってます……けど。先生、こういうの苦手そうだと思っていたから、その……少し驚いて」
「昔は男所帯にいたからね。雑魚寝には慣れてる」
「そうなんですか?!」
間違っていないようなら良かった。眼鏡を外してケースに仕舞い、さっさと布団に入り込む。やたらとこちらを凝視したまま固まっているヒースクリフに、どうぞ、と促すと、失礼します、と小さな声が応えた。彼がベッドの端に潜り込んだのを確認してから、室内の灯りを落とす。
「どうしたの。もっとこっちへ来なさい」
「……はい」
おずおずと、慎ましやかな気配が、3mmくらいファウストに近づく。
緊張した様子で隅っこに縮こまっているヒースクリフは、人に慣れない猫みたいでどこか微笑ましい。が、しっかり睡眠を取って明日の戦いに備えてもらう、という意味では芳しい状況とは言えない。
やはり、慣れ親しんだ幼馴染ではなく、自分みたいな陰気な呪い屋の隣では、居心地が悪いばかりだっただろうか。人の気配があればそれでいい、というわけにはいかなかったらしい。
「きみの幼馴染はどんな子なの」
気を逸らすように振った話題は、どうやら当たりだったらしい。強ばっていた空気がふわりと綻んで、ヒースクリフが微笑む気配が伝わってくる。
「無鉄砲で、危なっかしくて……でも、すごく優しい奴なんです。厄災の夜、俺が怖がっているといつも励ましてくれて……。そういえば、もしも賢者の魔法使いになったら、自分が厄災を追い払ってやるから安心しろ、なんて言ってくれたこともありました。……結局、賢者の魔法使いに選ばれたのは俺でしたけど」
「じゃあ、今年はヒースが厄災を倒して、幼馴染に報告してやりなさい」
「! そう、ですよね。ありがとうございます、先生」
はかなげな声はまだ明日への不安に揺れていたが、緊張はだいぶ解けたらしい。手を伸ばしてそっと頭を撫でると、さらさらと、絹糸のように繊細な感触が指に伝わる。ヒースクリフがくすぐったそうに身を竦めてくしゃりと笑った。
「おやすみ、ヒース」
「おやすみなさい、先生」
囁くように挨拶を交わす。ほどなくして、隣から安らかな寝息が聞こえてきたのを確認して、ファウストはほっと安堵の息を吐いた。
(……『幼馴染』、か)
心の中で呟いてしまってから、溢れそうになる思い出に蓋をして、布団の中で指を組む。
どうか、この心優しい少年の未来が、あたたかなものでありますように。
どうか、彼とまだ見ぬ彼の幼馴染が、ずっと仲良く、一緒にいられますように。
そのためには、まずは目の前の厄災戦を切り抜けなければならない。祈りと決意を込めて、ファウストも目を閉じた。
〈終〉