中井プルーン農園の危機第一話『帰郷』
「えっ?!農園ば売る?!」
キイチの突然の大音声に、リビングで寛いでいた梨はビクリと肩を振るわせた。
「なんで急にそぎゃんことに?」
『農園に熊が出たとよ。あんたも知っとるでしょ?山ん熊』
キイチの実家は九州は熊本、祖父の代からプルーン農家を経営しており、子供たちが自立した後も両親逞しく管理運営を続けている。両親が年老いた今、姉夫婦、特に婿養子に入った姉の旦那が農園を引き継ぐことに意欲的で、来月には本格的に引越しを始める話までしていた最中での突然の意外な報せであった。余程のことがない限り電話もメールもしない母からのいきなりの電話に緊急事態を警戒したキイチが応答すれば、なるほど確かにこれは大事件であった。
『熊が降りてきて、作物とか農具ば壊しはじめたと。もう大変たい。さすがに危なかけんて、古都華さん、あんたの叔母さんたちも心配しなはってね。ほら、お姉ちゃんたちにももしものことがあったらいかんて』
キイチにはこの熊に対しての苦い記憶があった。何しろ顔の切り傷は、幼い頃に姉と農園に面する山に探検に行き遭遇した、他でもないこの熊によって付けられたものである。危険性は重々承知していた。
「そう…。駆除とかできんと?売るて言うても、そぎゃんすぐ買い手がつくとも限らんでしょ」
『小さか町でしょ?みんな怖がって誰もやりたがらんとたい。猟師さんに相談しても「九州に熊はおらん」て取り合うてくれんしね』
聡明な読者の皆様はお気づきかもしれないが、熊本県には基本的に熊はいない。
『それでね、珠生叔父さんが「ほんなら自分が」て、買い手に名乗りあげてくれたとよ』
「え、叔父さんが?」
『そいならどこか遠すぎんとこで始めた方が、いろいろよかかもしれんて、お父さんとも話してね。タイミングもちょうどよかし。お姉ちゃんたちにも話は通してあると』
聞けば聞くほど全てが片付いていて、キイチが口を挟む隙は無いようであった。相談というより報告に近い。キイチは「そっか」と一言電話口に呟いた。
『だからね、これで最後になってしまうけん、売る前に一度帰ってきたらどぎゃんね?』
「うん、そうだね」
『愛彦くんも一緒に来てよかとよ』
「ブーーーーーッ!!!」
突然噴き出したキイチを「きったね」という顔で一瞥した梨であったが、お前の話をしているのである。
ちょくちょく彼女はどうだ結婚はどうだとそわそわしていた両親だけにキイチは梨のことを話した。両親は寛容な部類だし、無駄に結婚やら将来やらについて心配させ続けるよりかは、いっそそういうことだからと打ち明けてしまう方が親切だと考えた。それにキイチは常にパートナーに誠実でありたかった。
「き、来たがらんじゃなかかなあ…」
『無理やり顔見せろて言いよるわけじゃなかよ。九州旅行やと思えばよかたい。それにプルーンの在庫も、できるだけ捌かしてしまいたかと。たらふく食べていってよかけんね』
そうは言いつつ声からは息子のパートナー見たい見たーいがそこかしこに滲み出ていた。梨の顔をチラリと見やる。まあダメ元だ。
「あー…、愛彦?」
「あ?」
「突然で申し訳ないんだけど、私の実家来ないか?」
「行かね」
「だよな」
「行かないって」
『ちょっとあんた、聞いとったでしょ?!誘う気なかでしょ!!スピーカーにしなっせ!愛彦く〜ん?こんにちは〜、木苺の母です〜!』
「うわあー!!」
スピーカーにこそしていなかったが、母の大声は梨にも届いた。困惑。
『ええとね!うち、引っ越すことになりましてね?!それでその前にー、プルーンをご馳走したいな〜と思ってるんですよ〜!!どうかしら〜?』
「わああー!!」
キイチは通話を切った。これ以上生き恥を晒すのは耐えられなかったのだ。
「……ごめん」
「…お前も大変だな」
「うう…😭…あの、お前が来る来ないはさておき、農園、あ、実家な、売っちゃうみたいなんだ。私はその前に一度少し帰ろうと思う」
「いいのか?今の感じ、一人で行ったら相当叩かれそうだけど」
「え?だって行きたくないだろ?絶対うるさいぞ両親」
「うーん。プルーン食い放題なら」
「まあそうだよn、え?!嘘?!?!!?!」
この時キイチは知らなかったが、梨はプルーンが大好きだった。1d100なら95くらい好きだった。それはさておき。
「なんだよ、来いって言ったのお前だろ」
「いやそりゃあ意外だったからさ...。何?どうしたの?」
「別にどうしたもこうしたもねえよ。仕事が多少は落ち着いてるし、絶対行けない理由があるわけでもない。それに」
「それに?」
「あの手の親の圧は俺もよく知ってるし......」
「ああ......」
妙齢独身の共通の悩みに二人は共振した。
梨の親は妹のこともあり、息子に対して放任を貫く覚悟があるタイプではあったが、その”自由に生きろ!””幸せになれ!”こそが確実に可視化できないレベルである種の圧をかけている要因にはなっていた。俺も話したほうがいいのかな、と梨は遠い目をしながらぼんやりする。
「なるほどね。気遣いは嬉しいけど、別にお前に無理してほしいわけじゃ決してないぞ」
「おい、お前がウジウジすんな、余計億劫になる!」
「痛い!ごめん!わかったよ、行こう、行きましょう!」
キイチは膝裏をゲシゲシと蹴られながら、突然発生した帰省という名の九州旅行に思いを馳せた。あ、嬉しいかも、と顔が綻ぶ。
「せっかくだし、色々案内するよ。楽しい旅行にしような」
***
「「いらっしゃ〜〜〜〜い♪」」