最悪な1日から最高の1日にかわるとき.
『今夜、とても大事な話があります』
そんなLINEが送られてきた昼の14時。
五条は呪霊を祓っている真っ只中で、大好きな嫁(これからなる)の恵からの連絡は、肝が冷える。瞬時にここ最近の自分の行動を振り返った。何、なんだ、何をした、自分は?!と思い、冷や汗が止まらない。
もう面倒になってその辺一帯を巻き込んで祓いながら頭をフル回転させる。
昨日の朝、仕事に行きたくなくてグズッた。一昨日もそうだった。その前、は深夜に帰ってきて恵が足りなくて、寝てたのに布団捲って服の中に頭突っ込んで寝た。起きた恵にめちゃくちゃ怒られた。その前…は、ゴミ出すの忘れた。
あと最近の恵はちょっと怒りっぽい。短気になったっていうか、気が立ってる。ちょっとした事で小さな喧嘩が増えた。そんな事で怒らなくてもって思っていた事もあった。
あ、そういえば…昨日、誘おうとしたら全力で嫌がられた。
喧嘩が増えて、夜も嫌がられて…考えたくないけれど、もしかしたら恵にはもう好きな人がいて、その人と比べられてるから喧嘩の種になっているんじゃないか?自分よりも優しくて、恵を笑顔にしてくれる顔の知らない誰かと、自分を比べられている。
これが終わって帰ったら、恵から別れ話されるのかなって思ったら、もう何もしたくなくなった。だって自分は恵が好きだ。小さな頃からずっと見てきた大事な子。いつの間にか愛情が恋に変わって、また愛になった。これからもずっとそう。恵もそうだと思ってたのに。
「恵は違ったのかなぁ…まぁ若いから仕方ないか」
恵が4年制だった高専を卒業して2年。今年21歳になる。
まだ、21歳だ。そりゃ遊びたいよな。自分もそうだった、と思いながら、不安と焦燥感が拭えなくて、最後の呪霊に全力で拳を叩きつけた。
「もし…もし、恵が別れたいって言ったら、」
だめだ、考えるのはやめておこう。
帳から出て、伊地知の車に乗り込む。思わず出たため息に、伊地知が『お疲れ様でございました』と声をかけてきた。
「ねー、大事な話がありますって言われたら、何思い浮かぶ?」
「また突然ですね、何かあったんですか?」
「何思い浮かぶかって聞いてんだけど」
「いたっ!また横暴な…」
後ろから伊地知の椅子を蹴る。ルームミラー越しに伊地知が五条の様子を伺ってから、交差点をウィンカーを出して左に曲がる。
「まぁ…あんまり良い状況が浮かぶっていうのは、考えられないですよね」
「やっぱりそうなるかー」
「例えばですけど…五条さんと伏黒くんの関係が、たった数年の、2年とかそれくらいのものでしたら何か打ち明けておきたい秘密がある、という風になると思うんです。…例えば借金があるとか、身内の話とか。でも五条さんと伏黒くんの関係はそうではないので…」
「ないから?」
「………何かあれば話を聞く、くらいでしたら、お受けしますので」
「伊地知、降りたらマジでビンタ」
「ヒッ!」
伊地知の中でも五条が伏黒にフラれることは確定気味なのかもしれない。
確かに五条から伏黒をフるのは絶対にありえない。
今の呪術界は、伏黒あっての五条だと思われていても相違ないくらい、五条にとっても呪術界にとっても伏黒は無くてはならない存在だと思わせているのだ。
恵は十分強くなった。1級術師になって、頼れる存在になっている。その術師としての存在もとてもありがたがられているのだから。
だから、愛想を尽かされた、という話が噂されたとしたら、それは『五条』が『伏黒』に愛想を尽かされたと言われる確率の方があまりにも高かった。
頭の中をぐるぐると回らせながら、車はどんどん恵が待つ自宅へと近づいていく。
恵が初めて笑ってくれた日、恵が初めて手を繋いでくれた日、恵の入学式、卒業式、喧嘩して泣かせた日、初めて動物園に連れて行った時のきらきらした瞳、テーマパークで迷子になって不安で震えてた手、好きだと伝えた時の真っ赤な顔、初めて抱いた翌日の朝の幸せな気持ち。
もう人生の何もかもに恵がいるのに、恵がいなくなってしまったらってことなんて考えられない。この手から離れるのなら、いっそ恵を、だなんて物騒な考えが巡る。
窓の外を見ながら深くため息を出した。
「到着しました」
「おつかれ」
「はい、お疲れ様でございました」
伊地知の車の走り去る音を背に、今までこんなにカードキーが重たいと感じたことがあっただろうかと思いながら、入口にカードキーを翳した。中に入るとコンシェルジュがおかえりなさいませ、と言って頭を下げる前を無言で通り過ぎる。
いつもなら早く恵に会いたくて会いたくて、マンションの近くに来たら術式で飛んで行くのに、今日はどうしても時間を稼ぎたくて仕方なかった。1階に着いて乗る人を待っている準備のいいエレベーターが憎たらしい。
部屋まで待ちきれなくて、このエレベーターの中で恵を掻き抱くようにして激しくキスをした時もあったな、なんて思い出をぼんやりとする頭の中で思い出していた。
当階についてエレベーターの扉が開く。心を休められる自宅の扉のはずなのに、今は開けたくない気持ちでいっぱいで、用事ができたと言って今からどこかへ飛ぼうかと思ったが、ずるずる関係を続けるだけつらいだけだと考え直して自宅の扉を開けた。
「…ただいま」
時刻は19時を少し過ぎたところだ。いつもなら恵が奥から出てくるはずなのに、今日は出てこない。やっぱり『そういう』ことなんだなと思ってため息が出た。そうか、だったらこのアイマスクは不誠実になるだろうな、と思い、アイマスクを下ろしてリビングへと続く扉を開けると、予想外の現場があった。
「恵…?寝てるの?」
五条の体格に合わせて海外から取り寄せた大きなソファーの上で、恵がお腹の上にタオルケットをかけて眠っていたのだった。
寝顔はいつ見ても子供のころから変わらず可愛くて、スゥスゥと立てる寝息が愛しくてたまらない。やっぱり手放すなんて無理だと思い、身を屈めて寝息を立てる唇にそっとキスをした。
「…あ、れ…」
「…恵、こんな所で寝てたら風邪ひくから」
まるで物語のお姫様のように、恵はゆっくりと目を覚ました。
しばし五条の顔を見てぼんやりとしていたが、次第に意識が覚醒してきたのか、ハッとした顔をして時計を見た。
「俺!寝てたんですね、すみませんご飯の用意も何もしてない…」
「いいよ、疲れてるんでしょ?何か頼もうか。恵好きなの選んで注文してて」
僕お風呂入ってくるから、と矢次早に告げて、まるで逃げるようにバスルームへと姿を消した。
いつもと同じような口調になるように、極力頑張った。多分バレてはいないはずだと自分に言い聞かせて、邪念とともにばさばさと服を脱いで洗濯機に放り込んだ。
浴槽には既にお湯が貯められていて、丁度いい湯加減になっている。全部恵がやってくれていた事だ。これがもうなくなってしまうかと思ったら。
まだ冷たいシャワーを頭から浴びながら、また小さくため息を吐いた。
思いのほか長風呂をしてしまったらしく、リビングの扉を開けると恵が食卓テーブルにデリバリーした料理を並べてくれていた。そう、並べてくれていたのだが、やけに量が多い気がする。
「恵、こんなに食べきれるの?」
「あー…なんか腹減ってて、つい」
あ、デザートは冷蔵庫の中にありますから、と言って恵は飲み物の用意をしてテーブルについた。
恵お気に入りのパスタの店のものが並んでいるのだが、恵の前にあるのはレモンとクリームソースのパスタと、紫蘇と梅がたくさん入ったパスタの2種類だった。普段、恵があまり食べないようなもので五条は不思議に思ったが、そうか自分が知らない誰かと行った店で食べて、それで美味しかったんだなと腑に落ちてしまった。気付きたくなかった。
「いただきます」
「いただきます」
相変わらず小さな口で、フォークに巻きつけられたパスタを器用に口に入れる。レモンクリームが口の端についたのを、赤い舌でぺろりと舐めて取る。五条が好きな恵の仕草の一つだった。
二口めを口に入れて、咀嚼しながら恵が妙に眉間に皺を寄せていることに気づいた。
ここのは美味しくなかったのだろうか、そう思いながらずっと見ていると、恵がその視線に気付いたのか苦笑いを浮かべた顔で五条に話しかける。
「なんか…これが食いたいって思ったんですけど、違いました」
「そう?残してもいいんだよ?」
「いえ、ちゃんと食べます」
その違いました、はどんな意味なのだろう。知らない誰かと行った店のほうがおいしかったって事なのか、と考えて、五条の心は暗い影を落としていく。
レモンクリームを食べきってから今度は紫蘇と梅のパスタに手を付けた恵は、一口食べてから少し目を輝かせた。こっちは気に入ったようだ。嬉しそうな顔が可愛い。
可愛いと思うのに、ずっと心の影は晴れないままだった。
しかし、食べ終わった後の恵はまた妙だった。
普段、恵はあまり甘いものは食べないし、食べても五条が食べているのを一口だけ、と言って食べさせるのがいつものルーティーンなのに、今日恵はこっちが悟さんの分です、と言ってデザートを手渡してきたのだが、恵の手には一つプリンが残っていた。
「…恵、どうしたの?珍しいじゃんプリン全部食べようとするの」
「なんか…これも食いたくて…」
言いながら恵はプリンの蓋を開けて食べ始めた。
濃厚なたまごプリンに、たっぷりと生クリームが乗ったそれは普段なら恵は絶対に口にしないものなのに、今日に限って恵はそれをぺろりと平らげたのだ。
不思議に思って五条の手元にあるチョコレートケーキをフォークで一口切って差し出せば、ぱかりと口を開けた。普段の恵なら嫌な顔をしながら食べるものなのに。
「今日、恵おかしくない…?大丈夫?」
「大丈夫です、元気なので」
「そう…」
食べ終わったそれらを持って恵はキッチンへ行って水で濯いでゴミ箱に入れている。
いつもなら食後に飲むコーヒーも今日は飲んでなくて、麦茶をグラスにコポコポと注いでいた。
それを一口飲んで、恵が意を決したように悟さんがそれ食べ終わったら、お話いいですかと聞いてきた。
ついに、来てしまった。
さっきまで恵が寝ていたソファに二人で移動して、隣同士で座りあう。
別れ話を切り出されると思うと顔が見れないと思ったから、これで良かった。
恵が自分の膝の上に置いた手をぎゅっと握って話し出す。
「あの、お話なんですけど、」
「…うん」
「いつ言おうか、すごく迷って、悟さん忙しいし、一緒に住んでるのに会えない日もあるから、」
「…うん」
「だから、あの、今日連絡して、早めに帰ってきてくれてすごく助かりました」
「そっか」
『助かりました』。
あまりに素っ気ない返事ばかり返してしまう自分に、それではいけないと思いながらも頭の中を鳴り響く警鐘を止めることが出来ない。言われてしまう、恵から、別れ話を。去ってしまう、恵が、自分の元から。
気付けば、五条は恵の手を掴んでいた。
「恵、俺は絶対に別れないからな」
「別れ………は?」
恵はきょとんした顔をして、痛いです、と身じろぎするが、もがけばもがく程五条の手の力は強まっていく。
いつも大事にしろと言い聞かせている手を、折れるのではないかと思うくらいの力で。
「いたいです、悟さん!」
「恵が俺のそばから離れるっていうなら、いっそ、」
いっそ、お前を殺してしまおうか。
そして俺もその後で追ってやる。
そう言って首に手をかけようかと思っていたら、恵が焦ったように暴れて口を開いて叫ぶ。
「何言ってるんですか!別れられたら困りますけど!」
「…え?」
え?じゃないですよ!と言って痛みのせいで目に涙を浮かべた恵が仕返しだとばかりに手を掴む五条の手に爪を立ててきた。仕返しの仕方がまるで猫みたいで、無下限なんて知る由もなくギリギリと力を込められる。地味に嫌な仕返しすぎて、五条は毒気を抜かれた。
手ェ離してください!と言って器用に足も蹴ってきた恵にあっけに取られ、五条は素直にその手を離す。
別れられたら、困ると言ったか?
頭がその言葉を理解するまで少し時間がかかって、恵は痛いと言いながら手を摩っていた。
「なんか今日の悟さんおかしいですよ、さっきも自分のこと俺っていってたの気付きました?」
「え、僕そんなこと言ってた?」
「言ってましたよ」
恵がため息をつきながらも、よいしょ、と言ってソファに座る五条の膝上に正面から乗り上げてきたのを、片手で腰を支えてもう片手は恋人繋ぎのように指を絡ませた。
今日初めて恵の顔をまともに見れた気がする。20歳になって精悍さが出てきたけれど、ずっとずっと可愛い僕の恵。
じっと恵の目を見つめて、紡がれる言葉に耳を澄ませる。
「…俺だって、まさかこんな事言う日が来るとは思わなかったんです。でもアンタ忙しいから、なんて言って時間作ってもらおうかなって思って…」
「…うん」
でも別れ話じゃないですから、と恵が言う。
だったら、なんの話なのか。欲しいものでもあるのか、どこかに行きたいのか。
全部ぜんぶ、かなえてやりたい。恵の為だったら、何でも。
あー、うー、と言葉になっていない言葉を数度口にしてから、よし、と言って数度深呼吸した恵はまっすぐ五条を見つめ、言葉を紡いだ。
「悟さん、あの、」
「なぁに」
「あの、ですね」
「うん」
「…あかちゃんがいるんです」
ここに。と言って恵が自分の腹の上にそっと手を置いた。
「………えっ誰の子?」
「おい、アンタしかいないだろ」
殴るぞ、と言って恵は五条の頬を全力で抓った。どうだ、夢じゃないだろう?と言いたげな瞳をした恵は、影の中から写真と手帳を取り出す。
いわゆる、エコー写真と母子手帳だ。
「え…なに…待って、情報が完結しないんだけど…」
「ちょっと、しっかりしてくださいよ」
「赤ちゃん…いるの…?ここに…?」
「はい、いますよ。この写真の子が」
悟さんの子ですよ、と言って写真を持って恵が笑うから、どうしようもなく幸せな気持ちが湧き上がって思わず恵をグッと力強く抱きしめた。
自分の腕の中に命が2つある。恵と、そのお腹のなかにいるまだまだ小さな命が。
恵が、愛しい恵が、妊娠している。そこまで理解して、ようやく先ほどまでの恵の行動が全部理解できた。疲れやすくなって眠ってしまうことも、喧嘩ばかりしていた恵のイライラも、酸味があるものが食べたくなるのはよく聞くし、普段食べないものを食べたくなるのも知っている。エネルギーも赤ちゃんにまわさなきゃならないから量を食べてしまうことがあること。そうか、だから恵は酸味とエネルギーを求めていたのと、普段食べないプリンを食べていたのかと合点がいった。
甘いもの食べるのなんて、絶対に自分に似ている部分がもう既に現れているのかと思うと、嬉しくてうれしくてたまらなくなった。
「めぐ、めぐみ、ほんとにもう…」
「なんで急に別れるとか、そういう話になってたんですか?」
「あんな書き方でメッセージ来たら別れ話かなって思うじゃん…」
だって絶対に僕捨てられる方だもん…と至近距離にある恵の顔を見ながら伝えれば、恵は何図体でかいくせに捨てられた子犬みたいな顔してるんですか、と笑った。
「…僕の子、産んでくれるの?」
「勿論です」
任せろ、とばかりに恵が笑うから、鼻先を擦り合わせて二人で笑いあって、それから何度かキスをした。あたたかくて、幸せなキスだった。
そして、はっとした。五条らは重要なことをしていない事に。
「ねぇ待って恵、僕ら大事な事してない」
「なんですか」
少し体を離して、恵の頬に両手を添えて、まっすぐに美しい翠色の目を見つめた。
「恵。僕と、結婚してください」
「…っ!」
ぶわり、と恵の目に涙が浮かんで、ぽろぽろと白い頬に透明な筋を作るのを、指先で何度も何度も拭ってやる。その涙の一粒さえ愛おしくてたまらない、僕の恵。
「恵が当たり前にいてくれるから、もう夫婦みたいに思ってたけど…まだ結婚してないんだよ、僕たち」
笑っちゃうよね、10何年も一緒にいるから勝手に夫婦だと思ってたよ、と言えば、恵は涙をぽろぽろとこぼしながら微笑む。
「…返事、聞かせてくれる?」
小さくしゃくりあげる恵のおでこに、自分のを合わせる。
答えはわかりきっているのに、どうしても恵の口から聞きたかった。
「…この子と、一緒に、幸せにしてください」
「全力で守るよ」
忘れた?僕最強だよ?
そう言ったら恵が笑ってくれて、僕らは世界一幸せなキスをした。