「お慕いしております」
そう彼に自身の胸のうちを吐露してから、三月ほどが過ぎた。外は桜が咲き始め、美しくも儚い様相を見せている。
まるで組頭のようだと高坂は思った。美しく、どこか儚いあの方を、一番近くでお守りしたい。その想いが強すぎて、思わず告白をしてしまった事を反省はすれど後悔はない。
だが、あの方を困らせてしまったのではないかと思えば、それは心苦しかった。
「陣左」
呼ばれ振り返ると、立派に桜の花を咲かせている大木の枝に、彼がいた。いつものように脚を揃えて座っているその姿の可憐さに思わず目を細めた。
彼の元へ行くと、すとんと体重を感じさせない靭やかさで下りてくる。それすらも美しく、高坂の胸は踊った。ずっと見ていたいと思う。
「この間のことなんだけど」
「は、はい」
この間のこととは、やはり高坂の告白のことだろう。緊張の面持ちで姿勢を正すと、雑渡は右目を細めて高坂を見た。
「陣左は、本当に私でいいの」
言われた言葉の意味が判らず一瞬呆けてしまった。いいも悪いもない。雑渡だから慕っているのだ。
「あなただからお慕いしているのです」
真摯に訴えかける。まだ、彼には伝わっていないのかもしれない。どれだけ高坂が雑渡を想い、というか、雑渡以外を想ったことなど幼少の時から一度もない。
「わかった」
不意に頷くと、雑渡の右目が優しく微笑む。どきりとした。
「私もおまえが好きだよ」
さらさらと心地良い風が流れ、桜の花びらが舞う。その下で自分を優しく見て笑う彼のその美しさに、高坂は言葉もなくただ見惚れていた。
未だ心臓がどきどきしている。雑渡からOKをもらえたのだ、こんなものたった数刻経っただけで落ち着く筈もない。
「高坂さん、エイプリルフールですね」
「なんだそれ」
尊奈門に不意に声をかけられ、高坂は首を傾げた。
「今日は四月一日でしょう? なんか、嘘ついてもいい日らしいです」
「嘘をついてもいい日…」
「さっき組頭にすごく微妙な嘘つかれました…嘘なのか本当なのか判らないぎりぎりの嘘はやめてほしいですよね」
拗ねたようにふくれっ面をしている尊奈門を見ながら、高坂は気付いてしまった。
(もしかして、さっきのは)
好きと彼が言ってくれたのは、もしかしてその“エイプリルフール”にちなんでいたのではないだろうか。高坂を喜ばせるためについてくれた嘘。
尊奈門に微妙な嘘をついた、というのが決定的だ。でなければ、わざわざこの日に返事をする理由がない。
(ああ、そうか)
あまりにも自分に都合が良いとは思っていたから、合点がいった。嬉しいといえば嬉しい嘘だが、嘘だと判れば哀しいし切ない。一日だけの儚い夢のようなものだ。
そう考えると、雑渡はたった一日だけでも高坂のために嘘をついてくれたのかもしれない。
それならばと高坂は走り出した。今日だけは恋仲になったのだと信じていたい。だからそのように振る舞おうと思い、雑渡を探した。
「組頭!」
山本との打ち合わせが終わったようだったので高坂は声をかけ、彼を建物の裏手に誘導する。
「どうした」
「お願いがあります」
儚い夢ならば、覚める前に。
「キスを…させて下さい」
雑渡は一瞬驚いたように右目をぱちぱちと瞬かせ、それから目を細めた。
「いいよ」
口布を下にずらして、目を閉じる。これがいわゆる「キス待ち顔」というものかと高坂は胸が踊った。
一度深く呼吸して、それから意を決したように口布を下げ、彼の乾いた唇に自身の唇を重ねる。
触れるだけ。それだけでどうしてこんなにも胸が高鳴るのだろうか。顔が熱い。高坂が顔を離すと、雑渡は口角を上げ楽しげに笑った。
「それだけでいいの?」
「いえ、その…」
あまり高望みをすれば、今日が終わった時がつらくなるかもしれない。そう思う気持ちと、今日だけの夢ならばと思う気持ちがせめぎ合う。
彼の長い腕がするりと高坂の首に回る。誘うような艶めかしいその動きや視線に、心臓がどくどくと脈打った。
「陣左は、どうしたい?」
「わ、私は…」
想いが繋がれば身体もと思うのは至極当然の欲求だ。だが早急に過ぎるだろうとは思う。けれど今日を逃したら、もう二度とこんなチャンスは巡ってこないかもしれない。
だが、本当に良いのだろうか。きっと彼は許容してくれるのだろう。その覚悟をもって嘘をついたのだ。だからこそ、高坂の欲のためだけの行為に巻き込んでしまう事に罪悪感を感じてしまう。
だが、高坂はずっと頭の中で何度も雑渡を抱いた。それが今日だけは実現する。
「陣左が望むなら、私はすべてを差し出せるよ」
あまりにも甘美なその言葉。それは慈悲なのだろう。高坂はその慈悲に縋る事で、これからの人生を生きていける気がした。
「…いいのですか?」
問えば、雑渡はくすりと笑いながら言った。
「いいよ。陣左が求めてくれるなら」
するりと指が頬を撫でる。高坂はその濃すぎるほどの色香にくらくらし、ただひたすらに頷いていた。
「では一刻後に私の部屋で」
最後に雑渡はちゅ、と高坂の唇にキスをして去って行った。思わずそこに呆然と佇んでしまう。まるで夢のようだ。
高坂はひたすらに考えた。本当に良いのだろうか。雑渡が良いと言っているのだから、良いのだろう。そう思いたいのに、彼の優しさに甘えて抱いてしまっても良いのだろうかと胸が苦しくなる。このまま騙されてしまいたい自分と、彼を想えばこそ嘘をつかせてまで関係をもつ事を苦しく思う自分。葛藤で息をすることも忘れ、呼吸を求めて口を開いた。
答えは出ぬまま、約束の時が近付いていた。
いつものように部屋で横座りをしながら、一人の男を待っている。
心臓が早鐘を打つ。緊張など一体いつぶりだろうか。これが忍務であれば冷静でいられただろう。だが今は違う。一人の好いた男に抱かれるという事が、こんなにも己を緊張させるとは思わなかった。
ふと見ると、情けなくも手が震えている。押し留めるようにぎゅっと力を入れて手を握り、そして開く。それを何度か繰り返した。
一刻の間に準備をした。穴を拡げ、ぬめり薬を塗り込んだ。そうして張形で蓋をして、このまま慣らした。今も入ったままだ。腹の奥の方が少しずつ温かくなり、切なくなっていくのを感じる。
「はぁ…っ」
思わず漏れた吐息は甘く、雑渡は彼に抱かれることを待ち望んでいる自分を恥じた。一回りも年下の部下に慕っていると言われ、三月もの間悩みに悩んだというのに、今はこうして浮かれている。いい歳をしてとは思うが、こういう事にきっと年齢は関係ないとそう思いたかった。
三月も悩んだ理由は勿論、年齢差であり、立場であり、彼が美丈夫であるからだ。高坂家に縁は切られているとは言え、彼ほどの逸材なら女に不自由する事もないだろう。村に戻れば高坂を慕う娘はたくさんいる。だからこそ彼の未来を奪う事になるのではと気が引けた。
けれど、あの真っ直ぐな瞳が、真っ直ぐな想いが、ただ己にだけ向けられているという事実は代えがたいほどの喜びを雑渡にもたらした。
こんな醜い姿を求めてくれる彼の好意に応えたかった。その覚悟を漸く決められた。
「組頭」
いつの間にか高坂は障子の向こうにいた。さすがの雑渡もいつもとは違い、気がそぞろになっている。
「どうぞ」
呼べばすぐには障子は開かなかった。少し迷っているような素振りがあり、それからゆっくりと開かれる。高坂はどこか困惑しているような顔をしていて、心から喜んでいるようには見えなかった。
ただ緊張しているだけならそれでいい。だが、やはり雑渡を抱くという行為には抵抗を感じてしまったのかもしれないと思うと少し怖くなる。
「陣左」
「はい」
「準備は済んでるから」
「準備…」
高坂はそれに思い至ったのか、ぱっと顔を赤くする。その顔を見てほっとした。赤くなってくれる程度には意識してくれているという事だ。
雑渡は震える指を誤魔化すように、着替えた寝巻の腰紐を解いた。たった一枚のその合わせ目を開けば、雑渡の身体は彼の前に露わになる。包帯姿ではあるが、彼に裸を見せた事はない。
逡巡して、けれど雑渡は覚悟を決めて合わせ目を開いた。抱かれると覚悟を決めたのだから、今更うじうじしても仕方がない。ただ、この身体を好いた男にこんなに近くで見せる事には抵抗があった。それでも、高坂がすべてを受け入れてくれるというのなら、雑渡もすべてを見せようと思えた。
寝巻を肩から落とそうとして、不意に高坂の手が伸びた。彼に脱がされるのかと期待して、だがその手が逆に合わせ目を閉じている事に気が付いた。
「やはり、私には…」
小さく呟かれた声。苦しげな顔をして、高坂は肩から落とした寝巻を雑渡の身体にもう一度着せかけた。
「申し訳ありません」
謝罪の言葉。雑渡はそれですべてを察した。
“高坂が己を抱く気はない”のだと。理由は判らない。怖気づいたのかもしれない。それも致し方ない事だ。だが、そう判っているのに心の臓は冷水を浴びせかけられたように冷えた。震えに気付かれないように、居住まいを正す。
「大丈夫。私は陣左のしたいようにしてくれればそれでいい」
三月待たせた。その間に考えが変わってもおかしくはない。必死に頷いてくれたのも、高坂なりの気遣いだったのかもしれない。三月放っておかれた告白への返答など、彼はもう期待していなかったのかもしれない。
高坂はずっと困惑しているように見えた。まだ彼の中でも迷いがあるのかもしれない。雑渡が悩んだように、彼にも許容出来るもの、出来ないものがあるだろう。
「お気持ちはとても嬉しいです。ですがやはり、このような事は…」
「うん」
腹の奥の疼きが、今はただの不快になる。ただ苦しくて息が詰まる。
彼が望まないのであれば、雑渡はそれに従うだけだ。今日、想いを確認しあったばかりなのだから焦る事はない。そう思うのに、雑渡の心には焦燥が訪れる。このまま高坂の目が覚めてしまうのではないかという焦り。
「日が変わるまで、共に過ごしてもよろしいでしょうか」
それはとても残酷だったが、きっと彼なりの優しさなのだろう。雑渡は頷くしかなかった。彼のしたいようにしてほしいし、共に過ごせる事は素直に嬉しい。
結局腹の中のものを取り出す事など出来ず、雑渡はそのまま高坂と一夜を過ごした。と言ってもとても健全で、手を握ったり、時折キスもした。けれど、それだけだ。まるで子ども同士の戯れのような。
きっと高坂が求めているのは、こういうものだったのだろう。彼が雑渡を神聖視するほど憧れているのは判っている。だからこそ、性的な接触は彼にとっては一番ではない。
すぐに抱かれる事を考えてしまった自分の浅ましさを恥じながら、けれど雑渡は一切彼にその素振りを見せなかった。
「ありがとうございました。私はその優しさに救われました」
去り際、高坂が深く頭を下げそう言った。まるでこれで終わりのようなと思ったが、彼なりの感謝の気持ちなのだろう。
「陣左は、楽しかった?」
問うと、彼は一瞬寂しそうに笑い、「とても」ともう一度頭を下げて部屋から出て行った。
彼の気配が消えるまで、雑渡は座って彼の影を追った。名残惜しい。もっと触れて欲しかった。求めてほしかった。そう考えてしまう自分の浅ましさが嫌になる。
次がある。そう自分を励ましながらも不安は消えない。準備を済ませていると告げたのに、抱いてもらえないこの虚しさや惨めさは、この醜い身体への劣等感となって雑渡の心を暗くした。
己が美しい娘なら高坂はもっと求めてくれただろうか。せめて火傷前の容姿であれば、彼はすぐに抱いてくれただろうか。
詮無いことを考えてしまう己の情けなさが嫌になる。さっさと気持ちを切り替えてしまおうと腹の中におさめていた張形を取り出して、濡れたそれを眺めていると情けなさにぽたりと涙が落ちた。
「勇気、出したのになぁ…」
けれどきっと、想いを告げた彼が三月放って置かれた時だって、同じ気持ちだっただろう。だから責める事など決して出来ないし、そんなつもりはない。
ただ、応えてもらえない事の切なさを身を以て実感出来た。そう思えば、彼にした己の酷い仕打ちが返ってきただけの事だ。
次は、もう少しだけ雰囲気作りを考えようか。高坂が手を出したくなるように、もっと色々しておけば良かった。例えばこの部屋にそういう気分になる香を焚くだとか。
次に活かす事は大事だ。反省し、二度とそうならないように努めること。それは仕事でもプライベートでも同じだろう。だから雑渡は常にくるくると動き続けるその頭で、高坂との仲を深める事を考えた。
けれどその日から高坂が雑渡を誘ってくれる事も、こちらからの誘いを受ける事もなかった。
ああ、彼の目が覚めた。
せめて一度だけでも抱いてもらえていたらと、そう思う己の浅ましさは変わらなかった。
2025/04/09