Talking To The Moon. ハッピーバースデートゥーユー♪
誕生日を祝う陽気な歌である。皆に祝福されながら歌うであろう誰でも知る歌を、五条はひとりで歌っていた。小さな声は誰にも届くことなく、冷え冷えとした夜空に紛れてあっという間に消えていく。
二十歳の誕生日を迎えた途端今日からアナタは大人ですと言われても、昨日までといったいなにが違うというのだろう。昨日と地続きの、ただの一日に過ぎないはずなのに。
かろうじて関係があるとすれば、アルコールが自由に飲めるということくらいか。
法律などあってないような世界に生きているが、それでも自由に飲んでいいんだよと言われると興味が出る。果物が描かれた甘そうな缶チューハイのプルタブを親指で持ち上げ、五条はひとくち飲んでみた。甘さよりもアルコールの苦さのほうが舌をぴりぴりと刺激し、五条はうげ、と言うようにべろりと舌を出した。
正直美味しいとは思えないし、飲みたいとも思えない。人工甘味料がこれでもかと入ったジュースのほうがよっぽど美味しいし舌に馴染むと五条は思う。これを美味しいと思うのが大人ならば、自分は一生子どものままでいい。
嗚呼、でも、きっと夏油は好きそうだ。わからないけれど、たぶん、きっと。
そんなことを思いながら、五条はもう一度舌に音を乗せた。ハッピーバースデートゥーユー。
五条が歌うたびに、白い息が吐き出されてはすぐに形を無くしていく。真っ暗な闇が広がる空間に、ぽっかりと月だけが浮かんでいた。
夏油が離反して二年以上が過ぎた。その間顔を見ていなければ声も聞いていない。まるでこの世から消えてしまったように、その残穢ひとつ感じることがなかった。
それでも、夏油の存在は五条に鮮烈に刻まれたままで、消えることはなかった。きっと、一生消えないのだろうなと思う。共に過ごした期間など三年に満たない期間だというのに、月日を重ねれば重ねるほど、自分のなかの夏油という存在が大きくなっていく気さえしていた。
あのとき、夏油がなにを考え、どういう過程を経てあんなことをしたのか、五条はいまだに知らないしわからない。きっと、本当の意味で理解できる日は来ないのだと思う。
ふたりで肩を並べて歩いていると思った道は、いつのまにか五条ひとりで走っていて、ふたりの道はもう二度と交わることも重なることもない。
それはもう理解したし、受け入れた。
今度夏油と会うときは敵同士だ。それももう諦めている。すっかり「僕」呼びにも慣れた。
でも、本人を目の前にして躊躇しない自信は、まだない。
まだそんなことを言っているのかと、夏油はきっと笑うだろう。君ももう大人だろうと言って、対峙することに一瞬も躊躇わないのだろう。それが彼の選んだ道であり、五条の選んだ道でもあった。
夏油はいまなにをしているだろうか。きっと、夏油のいうところの家族に囲まれて誕生日を祝われているのだろう。
でもどうか、一瞬でいいから同じ月を見上げていたらいい。そんな瞬間があることを祈りながら言おう。
ハッピーバースデー傑。いつか絶対に殺してやるから、それまではどうか元気で。
「夏油様、その、お誕生日おめでとうございます」
幼子ふたりにおずおずと言われて初めて夏油は今日の日付を確認し、自分の誕生日であることを認識した。
夏油は少なくとも、自分の誕生日に悪い印象は持っていなかった。毎年夕食には豪華なメニューが食卓に並び、ケーキも用意され、プレゼントを渡され、生まれてきたことを祝福される。そういう、どこにでもある誕生日が子どもながらに特別な日だと思えたし、皆におめでとうと言われるのも嬉しかった。
高専に入ってからは五条と家入に祝われて、馬鹿なこともしたし夜通し騒いで怒られたりもした。それが、楽しくて仕方なかった。
でも、それは昔の話だ。
いまの夏油に、そんなものはまるで必要が無い。年齢を重ねることも、日付の概念もすべて捨ててきたからだ。現に去年なんかは特別なにもせずに、ただの日として過ぎていったはずだ。どうして彼女たちが夏油の誕生日を知っているのだろうと思ったが、この子たちの誕生日を祝ったときに聞かれたことが、微かに記憶に残っていた。
なにも言わない夏油を不安に思ったのか、表情が曇っていく双子に夏油は慌てて表情を緩ませた。
「ありがとう。美々子も菜々子も、よく覚えていたね」
「夏油様の誕生日、祝いたくて」
「ケーキ……買った……」
そうして差し出されたのは、コンビニで買ったであろう小さなひとりぶんのケーキだった。誕生日に特別な思い入れなどない。けれど、小さな子たちが自分のために買ってきてくれた気持ちが嬉しくて、思わずふたりを抱き締める。
「ありがとう。最高の誕生日だ」
嬉しそうに微笑む子たちに一緒に食べようと誘ったけれど、プレゼントだからひとりで食べてとお願いされてしまい、夏油はその優しい申し出をありがたく受け取った。もう遅いからと彼女たちを寝かしつけ、ひとりになった夏油はもらったケーキをいただくことにした。
スポンジとクリームと苺のオーソドックスなショートケーキは、フォークを突き刺すと柔らかく沈んだ。口のなかに入れると、変に固いクリームの甘さが舌にこびりついた。スポンジはぼそぼそとして舌触りが悪く、苺はほとんど味がしない。安っぽい味だが、それ故に夏油は思い出してしまった。
コンビニに寄るたびに新着のスイーツがないか目敏くチェックし、安っぽい人工甘味料をなによりも好み、育ちのわりには舌が馬鹿だった、あの男。
彼はいまなにをしているだろう。夏油の誕生日などはすっかり忘れているだろうから、きっとどこにでもあるただの一日として生きているのだろう。
それでいい。もう自分たちの生きる道は別だ。新宿で別れた以来顔を合わせていないが、次五条を顔を合わせるときは敵同士。それだけが、確定している未来だった。
けれど、せめて今日だけは少し五条のことを思い出してもいいだろうか。袂を別ったかつての親友を思いながら、夏油は無言でケーキを口のなかに納めていく。完食しても、舌に甘さがこびりついて、しばらく消えそうになかった。
吸い込まれそうなほどの闇にぽかりと浮かんだ月だけが、夏油の小さな罪を見ている気がした。