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    にしはら

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    にしはら

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    【耀玲】いつまでもずぶ濡れになる玲ちゃんの話。ツイに上げてるものと一緒です。

    #耀玲
    yewLing
    #スタマイ
    stamae
    #ドラマト
    dramatist

    深水の残り香深水みずの残り香』



     ついてない、と感じる時はとことんついてないことばかりが雪崩れを打って押し寄せてくる。
     全身の沼に浸かり込んだような倦怠感があるのは、水気をたっぷり吸い込んだスーツのせいだろう。
     退庁時を襲ったのは突発的な土砂降りだった。夜更けにもかかわらず、一人きりで黒く濁った低天の下を力なく歩き進めていく。不用心なのは勿論承知だったが、課内は上長会議や代休取得も相まって人気もなかった。お気に入りの折り畳み傘は先日壊れたばかり。ロッカーの置き傘はビニール製故か誰かが持ち去ってしまった。
     絶対にずぶ濡れると分かってしまったら不思議と走る気にはならなくて、九段下駅へ真っ直ぐ進める筈の脚は反対方向のお堀沿いの道を選ぶ。広大な堀の中で気持ち良さそうに泳ぐ鯉も、この雨嵐の中では気配を見せない。状況としては、私も水の中を泳ぐ魚と一緒かも知れないなと雨に打たれる頭が取り留めのないことを考える。パンプスも膝下ストッキングもパンツスーツの腰周りも全部ぐしょぐしょで、浸水していないところなんかありはしない。必要最低限の荷物だけを入れたオフィスバッグだけは腕の中で死守しているが、恐らく徒労に終わるだろう。
     真向かいから通りすがった大きな傘を掲げる男性が、私の出で立ちに一瞬ぎょっとして顔をしかめた。季節柄風邪の引きにくい蒸し暑さがあるとはいえ、傘も差さずに鈍い足取りで歩く姿は確かに酔狂だろう。けれど、今だけはそんなことすらどうでも良かったのだ。どうでも良く、なりつつあった。

     緩慢に動く脚は、お堀の奥にある公園を目指した。ぬかるむ地面に足を取られそうになりながらも進み続け、入り組んだ道奥でようやく止まる。そこには休憩所のような造りの展望台があった。数人程度が座れる木製のベンチと屋根が誂えられており、雨よけには丁度良かった。
     濡れ鼠のままベンチに腰掛ければ、素肌にべっとり貼り付く生温さをより実感していく。それに伴った、スーツの濡れた生地の放つ独特の異臭も。
     隣に置いた鞄も私と同じくずぶ濡れなのが今になって気になり始め、チャックを開けて中身を検めていく。
    「ああ……やっぱりぐしゃぐしゃだ……」
     スケジュール手帳と携帯電話だけは大きめのタオルで包んであったから辛うじて問題ないが、財布は大いに水分を含んでしまっていた。中身のお札がどんな状態なのか考えるだに恐ろしい。ペンケースも大分酷い有様だ。水性ペンだったのが災いし、布地に真っ赤なカラーインクが染み付いてしまっている。
    「……何やってるんだろ」
     気を付けていれば防げた筈の災難を自ら呼び込む愚かさが、たまらなく鼻先をツンとさせる。
     膝を抱え込むようにして背筋を曲げて、顔を伏せた。布地に触れて、水気と服の異臭がより強く鼻腔を充満したけれど、耳裏から首筋に流れる雫の痒みも煩わしいけれど、全てどうにでもなればいいものだった。
    「このまま水棲動物にでもなってしまいたい……」
    「なあに、ヤドカリにでもなるの」
     そして、ついてなさのトドメと来たものだ。誰にも会いたくなかったのに、寄りにもよって『絶対に』の前置きがつく三ツ星の御仁。その眠たげな低い声が激しい雨音に紛れて鼓膜を揺らした。幻聴だったと聞き流してしまいたい。
    「お隣、いい?」
     曲がりなりにも上役の申し出を無視する訳にはいかない。渋々顔を上げて、「どうぞ」とかすかな声で応じれば、大きな体躯が屋根の中へ入ってくる。
     傘は差していなかったがモッズコートのフードを被っており、中から乾いた深紅の髪を覗かせていた。前髪だけは湿り気を帯びていたが、私に比べればまだまだ全然濡れ切っていない。
    「はあ、急な雨は厭になるねえ」
     季節外れのコートは雨合羽代わりだったのか、熱そうにしてすぐに脱いでしまう。しかめ面で隣に座った服部さんを、私は訝しげに見上げた。
    「……あの、どうして、こんなところへ?」
     とても通りすがりとは思えない、そんな林道の深い場所だ。喫煙を願い出た服部さんは一服をした後にのんびり話し出す。
    「『全身ずぶ濡れの若い女性が、今にも自殺しそうな表情で公園の中に入っていった』って通報があってねえ」
    「エッ……」
    「まあ通報は嘘だけど。通りがかりの人がそうぼやいてちゃ、お巡りさんとしては見過ごすわけにはいかなくてねえ」
     そんな風に見られていた自覚は少なからずあったので、肩を縮めながら頭を下げた。
    「……ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」
    「別に。これは『お仕事』だから、マトリちゃんが謝ることじゃないけど」
     濃密な湿度の広がりに燻らす苦い香りが、いつになく鼻についた。だからだろうか、今の服部さんに緊張するのも警戒するのも億劫だった。台詞に忍ばされた皮肉までいつものように受け止める気にはならなくて、尖った声が出る。
    「別に自殺なんてしませんので。雨脚が弱まるまで少し休んでいるだけです。なので、私のことはお気になさらず」
    「そう。なら俺も雨宿りしていこうかねえ」
    「え……」
    「おんや、この土砂降りの中で無慈悲にほっぽり出そうって? 見かけによらず非道だねえ」
     水飛沫の跳ねる屋根伝いに、滝のような雨水が流れ落ちてくる。それを背景に服部さんは一服を続けていく。
    「せめて小降りになるまではいさせてもらわないと」
     私がこの場から離れても構わないのだが、脚はくたびれたのか梃子でも動かなかった。
    「別に構いませんけど、……今の私、分かりやすいくらいちっとも面白くないですよ。服部さんに失礼な態度を取ると思うので、あまりお勧めしませんが」
    「そうだねえ、分かりやすい落ち込み方にもほどがあるでしょうよ」
     そう言って携帯灰皿に吸殻を入れ、すぐさま二本目を取り出す。そんなに美味しいものなのだろうかと胡乱気に見やれば、「雨の日はまろやかになるんだよねえ」と独り言のように返ってくる。
     肺に取り込む瞬間に、尖端の火種が強い灯火を発してじんわり焼け焦げていく。私の正反対の方向におぼろげな幕を流し、世間話のような気軽さで放られた。
    「そちらさんのお仕事で何かあったの」
    「守秘義務のある案件に、お答えはいたしかねます」
    「『荒畑組』の件、ポシャったんだってねえ」
    「……やっぱりご存知じゃないですか」
     如何にもな渋面で睨み返しても、服部さんはいつもの何もかも見通す瞳を流して飄々と笑っている。
    「数ヶ月も追ってたヤマだったんでしょ。課長くんからそれとなく相談を持ちかけられてたし、俺も一枚ほど噛んでたもんで」
    「……なら、私はその貴重な一枚を無駄にしてしまった疫病神ですね」

     大手の麻薬密売ルートを一気に叩ける大捕り物となる予定だった。小さな情報を搔き集めてつぶさに吟味し、慎重に事を進めていた。大掛かりな取引の日程も特定し、所謂幹部クラスの確保も成算があるとされた、その寸前のことだった。
     私の使っていたエス伝いにこちらの動向が知れ渡ってしまい、取引は急遽中止。幹部も情報網を掻い潜って海外へあっさり逃亡してしまった。
     グレーゾーンで橋渡し役となってくれるエスがこちらの旨味だけを拾う訳がない。あちらのばら撒く旨味が強く、尚一層恐ろしかっただけのこと。私だけが悪い訳ではない、その可能性を拾い切れなかった課全員の責任だと皆は言ってくれている。けれど引き金となったのは確かだ。
     長い時間をかけて取り組んだ案件が泡と消え、課内もさすがに消沈している。代休消化を一番後に回してもらい、その間の業務フォローに務めることを私は申し出た。罪滅ぼしなどといった都合の良い振る舞いなんかではなく、ただただ自己満足にそうしたいだけで、皆も恐らく理解してくれている。その甘さを許してくれることにも申し訳なく思いながら淡々と業務をこなし、数日が過ぎて――気が付いたら夜更けの雨嵐に身を委ねていた次第だった。
    「仕事をしている時は余計なことを考えずに済みますから、まだ大丈夫だと思ってたんです。でも、こうして猛烈な雨に打たれながら一人でぼんやりしていると、どうしても思ってしまうんです。もっと上手くやれたんじゃないかって」
     あの時こうしていれば。このタイミングでもっと情報を精査出来ていれば。私がもっとエスとの信頼関係を築けていれば。私がもっとずっとしっかりしていれば。
     たらればで形作られる後悔の波が繰り返し打ち寄せては、昏く淀んだ思考の道筋へと引き摺られていく。
     反省なら誰でも出来る。今後のことを考えろ。今出来ることを考えろ。そうやって前を向きたいのに心は頑なに拒んでいて、真っ暗な底に錨を下ろしてぽつんと立ち尽くしている。
     だから海に突き落とされたと言えば信じてもらえそうなほど、何もかもぐしゃぐしゃの格好で膝を抱えてうずくまっている。
     生温い水気を含む重たい袖で、ずぶ濡れの自分を抱え込んだ。
    「みっともないし、厭なんですけど、……こんなことぐらいでしか、自分の気持ちに折り合いをつけてみようとしか思えなくて」
     隣で眠そうに聞いていた服部さんは、二本目を吸い終えて三本目に突入する。
    「後悔に浸る気持ちって、存外心地良いよねえ」
    「そんなこと……っ」
     不本意な眼差しで睨む。服部さんは涼しい表情のまま、美味しそうに取り込んだ紫煙をゆっくり吐き出しながら続けた。
    「自己嫌悪にまみれた自分は可哀想でしょうよ。だから、可哀想だね、辛かったね、よしよしって慰めたくなる」
     目を逸らし、羞恥で染まる頬を膝に埋めることで隠した。泣き言を乾いた正論で叩き落とされ頭が沸騰するが、より深く心を抉る。けれどそれは願っていた痛みでもあった。冷静になるための辛辣さならば、今の私には都合が良い。
     息をたっぷりと押し出してから、濡れた声で辿々しく返す。
    「弱音を吐きました。聞くに堪えない言葉ばかりお聞かせしてしまい、申し訳ありません」
    「別に堪えないとは言ってないけど」
    「え……」
     思わず目を瞬かせ、顔を上げていた。携帯灰皿に吸殻を収めた指が、四本目ではなく私の頬に伸ばされて貼り付く横髪を取り除いていく。そしるようにふっと息を吐く唇が、より近くにあることを紫煙の香りで感じ取っていく。
    「そんなに詰られたかった? でも、そんなご大層なものなんかあげない」
     嗜虐的な微笑と共にあるアクアグレーは、宵闇のような深い色を湛えている。それが眇めるように細くなり、私を強く射抜いた。頤を持ち上げられ、眼差しが触れそうにかち合う。
    「一時の弱さに塗れて、後悔と懺悔の狭間に溺れることくらい誰にだってある」
     綺麗に澄み渡っているのに、何処までも底の深い昏い湖。沈んでしまえば二度と息が出来ない――そんな眼で射すくめられてしまったら、身動きが何一つ取れない。そして、こんなのは知らない。彼は、こんなひたむきな仄暗い眼差しで私を見下ろす人だっただろうか。
     体温の低い大きな手が私の後ろ首へと回って促され、目の前の肩先に寄りかからせてきた。頬と胸に当たる体温が柔くて温い。そこはかとない甘さと苦さの綯い交ぜになった香りが、雨の匂いと折り重なっていく。私のスーツの生臭さとも入り混じって、それが無性にくらくらする。
     豪雨の軒下に吹き付ける激しい音。かろうじて聞こえる密やかなさざなみの声。
    「今だけは何にも聞こえない。誰も知りようがない」
     ちっとも寒々しくない、南方の深い深い海の中にいるような心地。そこで感じる確かな熱は私の瞼裏だけ。あとは、もう全てがふやけて生温い。
    「明日には晴れる。すっかり乾いて欠片も残らない――そうでしょ、玲」
     だから存分に流し切ってしまえばいい。そう言われている気がした。途端、眦より溢れる激情が服部さんの肩先を濡らす。
     幼い慟哭は濁音に覆い被さりながら、淀んだ闇夜の雨嵐に吸い込まれていった。

      *

     打ちひしがれた先に辿り着いた深遠は、儚いユートピアの如く消え失せる。
     桜田門で迎えた合同会議の場。服部さんは私の上げた報告に鋭く切り込み、不十分だとバッサリ打ち払った。
    「次そんななまっちょろい情報持ってきたら即刻叩き出すから」
    「……申し訳ありません。次回の報告会の時までに一新して纏めておきます」
     頭を下げれば、アクアグレーは関心もなく逸らされてしまい、すげなく手元のレジュメを一枚捲った。
    「はいよ。しゃっきり働くこと。――次、重要参考人の洗い出し、どうなってる?」
     捜査官の報告が次々と続く中、隣の席の荒木田さんがこっそり耳打ちしてきた。
    「……お前も大変だな。マトリだからって、求めるレベルがハンパなくねーか?」
    「いえ、大丈夫です。私のやるべき仕事ですから」
     私は自然と微笑みを浮かべていた。今、出来ることをやる。諦めずにやり通してみせる。胸に灯る心持ちは、紛う方なきいつも通りの私だった。だから大丈夫だった。

     報告会が終わり、真昼の炎天下を避けるべく日陰を選びながら庁舎への道のりを進む。灼熱のアスファルトには眩暈を覚えるような陽炎が立ち昇っていて、早く新しい晴雨兼用傘を買わなければとため息を落とす。厭う熱波からおもむろに視線を逸らし、遠く茫洋と澄み渡る紺碧を見上げた。
     数日前の土砂降りの雨模様が嘘のように、雲一つないからっとした晴天が広がっていた。淡い水色は夏の本格的な到来を告げている。清々しくあれと、気持ちの切り替えを後押ししてくれる気がしていた。梅雨は明けてしまい、雨は当分降りしきらないのだから。
    「それにしても暑いなあ……」
     茹だるような酷暑の中、何処からともなく鳴り渡る蝉時雨は確かな現実の筈なのに、何処か虚構めいて耳の届くのはどうしてなのだろう。詮無いことを考えながら第三合同庁舎へ辿り着こうとする足が、その寸前で不意に止まった。身に堪える蒸し暑さから逃れるべく、冷房の強く効いた庁舎内へさっさと戻ればいいのに。
     淀んだ水面の張るお堀の向こうの林から、目を逸らせないでいる。

     鬱蒼と茂る樹々の陰に覆われていても、纏わり付く熱気は凄まじかった。干からびた林道を縫うように進み、気付けばこじんまりとした展望台の前で私は立ち尽くしていた。隙間から差し込む灼熱の陽光を避け、屋根の中に入る。乾いた感触の木製ベンチに腰を下ろせば、一気に全身から汗が染み出してきた。ブラウスがインナーを巻き込んで素肌に貼り付いていく。あの時と似通う、けれどまるっきり異なる湿り気は単純に煩わしかった。
     携帯していたミネラルウォーターを一口飲んで喉を潤し、ふうと零れる息に紛れて独り言ちる。
    「――きっと、慰めみたいなものだよね」
     自殺するようなとまで言い表すぐらいには、思い詰めた形相をしていたのかもしれない。だから憐れに思って、つい手を伸ばさずにはいられなかった。そんなところだろう。
     もしかしたら、服部さんも私のような悔やみ切れない経験をかつて味わってきたのかもしれない。そう思い至るが、すぐさまかぶりを振った。
    「いやいや、私と同レベルにするのは失礼にもほどがあるか……」
     苦笑して、木製ベンチの乾いた感触を手でそろりとなぞった。
     あの時の名残はやはり欠片も残っていない。豪雨が全てを攫って取り除いてしまった。おかげで私は背筋を伸ばして、日々の役割を全うしようと立ち向かえている。お詫びは抹茶ラテ一本で済まされていて、服部さんとの間でこれ以上話題に上ることもないだろう。
     なのに、またここに来てしまったのはどうしてなのだろう。後悔を拭い去るための儀式は終えた筈だったのに。
     深緑の空気を味わうためにゆっくり深呼吸をして、不意に取り込んだのは――苦い香り。
     ぞわりと背筋が震撼した。おっかなびっくり立ち上がって、辺りを困惑に見渡す。足元を見下ろせば、煙草の名残りと思しき僅かな灰塵。指で触れて、確信する。あの時の残り滓ではない。吸い終えてそれほど時が経っていないものだ。良く知る銘柄の馴染んだ匂いが、呼吸を穏やかでなくさせる。切迫の早鐘を打っていく。
    「何で……」
     欠片も残さない筈だったのに。乾き切るからこそ流し切る筈だったのに。
    「どうしてなんですか……」
     晴れ過ぎた虚空への投げかけは当然返ってこない。けれど性懲りもなく繰り返す。
     何故、あなたはまたここへ来たのだろう。どうして私は、ここに来てしまったのだろう。
     選ぶべきでない道を辿ってしまった後悔の波が、たちまち胸内に押し寄せてくる。生温いばかりの重い雨の匂いまでが鼻を掠めていく気がして、皮膚に食い込むほど身体を掻き抱いた。

     ひっきりなしの蝉時雨。誰もいない盛夏の蒼天の下、聞こえない筈の豪雨の遠音、私の切なる鼓動。
     漂い続ける苦いだけの湿り気が、残酷なまでに甘い。



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     全身の沼に浸かり込んだような倦怠感があるのは、水気をたっぷり吸い込んだスーツのせいだろう。
     退庁時を襲ったのは突発的な土砂降りだった。夜更けにもかかわらず、一人きりで黒く濁った低天の下を力なく歩き進めていく。不用心なのは勿論承知だったが、課内は上長会議や代休取得も相まって人気もなかった。お気に入りの折り畳み傘は先日壊れたばかり。ロッカーの置き傘はビニール製故か誰かが持ち去ってしまった。
     絶対にずぶ濡れると分かってしまったら不思議と走る気にはならなくて、九段下駅へ真っ直ぐ進める筈の脚は反対方向のお堀沿いの道を選ぶ。広大な堀の中で気持ち良さそうに泳ぐ鯉も、この雨嵐の中では気配を見せない。状況としては、私も水の中を泳ぐ魚と一緒かも知れないなと雨に打たれる頭が取り留めのないことを考える。パンプスも膝下ストッキングもパンツスーツの腰周りも全部ぐしょぐしょで、浸水していないところなんかありはしない。必要最低限の荷物だけを入れたオフィスバッグだけは腕の中で死守しているが、恐らく徒労に終わるだろう。
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