ただしたがりのロンド*
「お高くとまりやがって、この姫気取りが……ッ」
捨て台詞と共に向けてしまったその背を、私はぽかんと見送った。この手の暴言にもはや慣れてしまっているというのもあるが、先ほどまでは大層にこやかに対応されていたので、その手のひら返しに呆れることすら出来なかったからだ。
同じマトリといえど、異例の入庁者を九段下の職員すべてが等しく認めている訳ではない。先の男性のような態度など珍しくなかった。ため息をひとつだけ吐くに留め、当初の目的だったオフィスの自販機コーナーへと足を進める。
「分かりやすくて、いっそ感心するなあ……」
それでも多少のストレスはついて回る。こちらも分かりやすい甘さが欲しくて、いつものカフェオレでなくココアのボタンに指を添わせたところで。
「――さっきの男、だあれ」
「うひぇッ」
ガコン、と取り出し口からの大きな音で、素っ頓狂な悲鳴は掻き消された。気配なく立たれた真後ろには、桜田門の魔王の肩書を持つ男。いつもの眠そうな表情で私を見下ろしている。相変わらずの心臓に悪い登場はやめてもらいたい。
「服部さん……毎度毎度驚かせないでくださいよ……」
「質問にはすぐ答える。だあれって訊いてるのに」
淡白に零れる声は存外低い。多忙で寝不足だからなのか、普段よりいくらか不機嫌そうだった。
「ええと、ウチの捜査一課の人です」
「ほーん? 何だかえらくお冠だったねえ」
どうやら先の会話が耳に留まったらしい。大きな声だったから廊下全体に丸聞こえだったのだろう。
「企画課で追ってるヤマの、とある一部分の情報共有をお願いされたんですよ。まだ確実なエビデンスが揃ってないのでお渡しは出来ないとお断りしたのですが、それでも構わないって拝み倒されまして……」
「最終的には逆上して、八つ当たりされたと」
「あはは、まあそんなところです」
服部さんも隣に並んで、自販機のラインナップを見やる。視線から察するに、おしるこかココアかで悩んでいるというところだろう。
「そんなもん、テキトーに見繕って流しとけばいいのに」
「何言ってるんですか。精査されてない情報は誤解の元ですし、捜査に支障をきたします。元より、上長の許可なく勝手に明け渡せませんよ」
私が眉を寄せて言い返せば、服部さんはちらりと横目だけを寄越し、口の端を緩く上向けていく。
「は、課長くんの躾が行き届いているようで何より」
薄い笑みの物語るところは、及第点、といったところだろうか。こうしていつも何がしかを、所々で試されている気がする。だからいつまでもこの人の前では気が抜けない心地になるのだ。
手を温める缶のプルタブを開け、ぐっと一気に中身を呷る。喉に通っていくのは、気疲れに染み入る濃厚な甘ったるさ。おかげでひとつに留める筈だったため息が、また少しだけ漏れてしまう。
「躾も何も、情報に慎重になるのは当たり前ですし……。さっきの方もそれは分かっていると思うのですが……」
しつこく食い下がられたところで、出せないものはやはり出せない。規範通りの行動なのだと、同じ畑の者からすれば承知済み。つまりあれは、私に対する嫌がらせというか、いちゃもんに近いものだろう。
服部さんはようやく自販機のボタンを押した。私と同じくココアに決めたようで、大きな体躯を屈めて取り出し口に手を伸ばす。
「ま、あの男がお冠なのはそれだけじゃないと思うけど」
「それだけ、とは」
「『奢るから食事に付き合って』って言っても、袖にしてたでしょ」
「それは、まあ、そんな賄賂をチラつかせたところで情報は吐けませんし……」
プルタブを捻る手を止め、服部さんは数回目を瞬かせた。やがて愉快そうに肩を揺らしていく。
「は、そりゃ怒る」
「え……、何故ですか」
「そうやってすっとぼけて、丸っきり分からないって顔してるから」
とぼけたつもりは微塵もないので、今度は私の方が目を何度も瞬かせた。
どうやら私は何かを誤ってしまったらしい。何がいけなかったのだろうか。服部さんに不正解を言い渡されると、背筋にひやりとした厭なものが下りてしまいがちだ。
「ええと、私は何か粗相を……?」
たちまち不安げに問いかける私の隣で、服部さんも自分のココアを飲み干していく。物足りないのか、「もう一本欲しいねえ」と自販機に視線を戻した。血糖値が少し心配になる。
「ま、でも真面目なマトリちゃんは悪くないよ。お仕事中に情緒を求めようとしたあちらが不謹慎ってだけだから」
「はあ……?」
仕事中に情緒、不謹慎。妙に回りくどい言葉は、服部さんなりのヒントだ。しかもこれはまだ分かりやすい部類の方で――だからすぐに結論を導き出していく。思い至ったが最後、顔から血の気が引いていく。
「……もしやあれは、賄賂……ではなく……」
恐る恐る声に出せば、服部さんは正解代わりの薄い笑みを浮かべていく。たまらず反射的に叫んでいた。
「わ、私、謝ってきます……!」
「――『待て』」
背を向けて踏み出そうとした足は、圧のある低い声で瞬時に止まった。間を置かず、背中の気配が大きな影となって降りてくる。
「謝る価値、ある?」
耳裏に降りる艶声は、魔法の呪文なのだろうか。身体中に絡まって縛られていくように、身動きが取れなくなる。
「君を不必要に詰った相手にさえ、お人好しは向けるもの?」
吐息の触れる距離に服部さんがいる。そんな非常事態に頭が真っ白になってしまいそうになる。鼓動も嵐みたいに騒ぎ立てて、このまま破裂でもしてしまうのではないか。それでも拳をぎゅっと握って、正気を奮い立たせる。
振り返って、今一度きちんと服部さんを見据えた。
「……でも、気付いてしまいましたし。このままだと据わりが悪いと思ってしまうと言いますか。服部さんだって、私に気付かせたかったのでは……?」
無駄なことをしない人だと知っている。しかも分かりやすいヒントまで手向けるくらいなのだ。私のリアクションを求めるならば、そこまで見通している筈だというのに。
けれど服部さんは、さも不機嫌そうに目をそばめた。
「だからって世話人になったつもりはないんだけど」
「じゃあ何で……」
「そんくらい自分で考える。そうやって何でもなぜなぜって気軽に問いかければ、準備された答えがあっさり出てくるとでも?」
その冷め切った言葉で、途端突き放されたような心細さが生まれる。けれどこの人には負けじと食らいついていくしかないのだ。闇雲にだが、思考を巡らせる。人の情動に気付かせたくて、けれど私の行動を咎めるのは何故なのか。矛盾にも捉えられる服部さんの言葉と意図が、良く分からない。
「ええと、善良でない人、もとい悪い人にはついていくな、的な……?」
「お巡りさんだものねえ、市民に啓蒙活動くらいはするよねえ」
――だめだ、きっとこれは不正解だ。
「ええと、あの、その……」
色恋沙汰に不得手なのも相まって、言葉も頭も上手く回らない。どうして気付かせようとしたのだろう。私は、一体どうするべきなのだろう。服部さんの正解は、何処に生まれてくれるのだろう。――どうして私は、服部さんの正しさを求めようとしているのだろう?
弱り切った私を見かねてか、服部さんはやがて柔い苦笑を落とした。
「……そんな迷い犬みたいな顔して。でも、ま、その表情は悪くない」
ちゃんと言わないと分かんないかねえ、と独りごちて、自販機のボタンを押した。取り出し口に現れた二本目のココアを私に差し出す。
「俺の奢り」
「はあ、ありがとうございます……?」
受け取ろうとした手は、そのまま大きな手に包まれた。
「その代わり、マトリちゃんは今晩俺に付き合うこと」
「へ?」
「勿論、仕事は抜きで、――不謹慎な気持ちで」
真正面から覗かせるのは、妖しく光るアクアグレー。普段の眠たげなものとも、仕事時の怜悧なものとも全く違う。冴え渡る中に潜む色香はあまりに艶っぽく、どうしてだかこの背筋を貫くものは絶対零度の冷ややかさではない。ひどく危うくて、けれど抗えない痙攣に呑まれてしまいそうで――。
「ジャージャー苑の壺漬け特上塩カルビは、とってもビールに合うだろうねえ。想像するだけで昼間っから飲みたくなる」
「……え、……あ、不謹慎って、そういう……?」
やっとそれだけを振り絞ると、服部さんはとても愉しそうに目を細めた。
「むしろ何だと思ったの」
「いえ、天地がひっくり返っても為すことのない勘違いなので、お気になさらず」
これ以上からかわれてなるものか。手の中のココアを奪うように持ち上げ、慌てて服部さんから距離を取る。それでも彼は気を悪くすることなく、相変わらず飄々としたものだ。
「勘違いじゃないかもしれないのに」
「そうやって仕向ける先に罠が張ってあることも重々承知しております」
「お利口さんだねえ、よーく分かってること。――でも不正解だからお仕置き」
「何故ですか」
「ほれ、またなぜなぜワンコだ」
指摘されて、思わず口を噤む。私がなぜどうしてとつい問いかけてしまうのは、服部さんの口車に乗せられているからではないだろうか。そう気安く投げかける勇気は持ち合わせていなかったから、せめて睨み上げてみる。服部さんはくつくつと喉奥で小さく笑っていた。
「そう心配せずとも、今晩じっくり教えたげる。精々首を洗って待ってることだ」
「……ご相伴にあずかるだけなんですよね、私」
「それはマトリちゃん次第だねえ」
極悪の微笑みはひどく愉しそうで、それを真正面から受け止める私は身震いを止められない。果ては地獄の説教コースか、極楽の特上カルビコースなのか。その分岐に立ち向かっていくしかないのは何故なのか。どちらを選べば正解なのか、どうしていいのかすら分からないというのに。
けれど迷いながらも選んだ先で、今宵の私たちはきっと何かが変わってしまう。その予感だけは、問いたださずとも正しい気がしていた。