御三方居酒屋の享楽は夜の帳を跳ねのけて輝いていた。
客は各々がグラスをぶつけ、傾け合い、やれ人生論やら猥雑話の合間に酒を注ぐ。
知見、悟り、啓蒙、チンチン電車とワカメ酒。カオスは酒の息と共に換気扇へと吸い込まれていき、あらゆる会話を取り込んだ換気扇は、その猥雑の濃さに羽の色が黒ずんでいる。
そんな折、焼きおに斬り、まさむね、万尾獅子の三人は、週末を居酒屋で過ごそうと集った。
元祖軍と本家軍の争いで焼きおに斬りと万尾獅子が相対し、万尾獅子がまさむねを連れ、そして今日が顔見知りになって初めての集いだった。
通された胡座席の障子を閉め、座布団をフカフカしながら、金曜はやっぱりうるさいわねと焼きおに斬りが言った。
「週末だから仕方ねぇけどね、いやあ、にしてもうるせえ。嫌いではないけどね」
胡座席部屋を仕切る仕切り板の向こうでは、仕事帰りの輩共がワカメの話を繰り返していた。
風呂に飛び込みで入ったらもうソコが湾みたいになっててさぁ……
ならそこを、刈り取ってしまえばいいんでないの……
柔らかいならまだしも、針金みてぇなんだもの、萎えちゃってサァ……
アタリじゃないの、贅沢言うなよ……
莫迦丸出しの低俗な会話を大声で、しかも障子も閉めずに喋るものだから、隣のうるさいのと外の騒々しさとが二重で三人にのしかかる。
まさむねは席について早々に料理の一覧表を開いた。動作が風のように速い。
「とにかく、つまみ選ぶの。ああとね、卵焼きが食いてェのさ」
「あら、まさむねさんは卵焼き。万尾獅子、お前は何よ」
「俺はね、冷たいの。漬物と白和え、あと刺身」
「はいはい。じゃあ俺はね、焼きおにぎり6ツと支那ソバ大盛、あともつ鍋と煮っころがしと銀シャリ富士盛り」
つまみをあらかた決めたところで、焼きおに斬りは「酒は何にすンの」と二人に尋ねた。焼きおに斬りの「さも当然」といった風の口ぶりに二人は驚き、互いに顔を見合わせてエッ、とした顔で
「とりあえず、ビールじゃないの」
と言った。
焼きおに斬りは持っていた一覧表を差し込む手を止めた。
「俺はいつも日本酒かウイスキーだよ、しゅわしゅわしたのを飲んだことなくてね」
焼きおに斬りは顔色を変えずに言った。
まさむねと万尾獅子は過去に何度か膝を合わせたことがあった。
同じ元祖軍の兵士として親睦会に参加した時は足取りを揃えてビールを飲んでいて、二人もそれが普通だと信じて疑わなかった。
本家の飲み会がどんなものなのか知らない二人に、「とりあえずビール」が通用しない大飯食らいのオニギリ頭は変な風に見えた。
注文を終えてすぐにお通しが運ばれた。煮凝りと菜の花のお浸しだった。
「あら、春らしい。悪くないじゃない」
猫舌の万尾獅子は酒が来る前にお通しを平らげた。
お通しに追随して酒が運ばれ、三者一斉に酒ををぶつけ合った。厚いジョッキの重々しい低音と小さいおちょこの危うい高音。開幕の銅鑼が居酒屋の喧騒に響き、溶けていく。
一斉にグラスを傾け、一斉にテーブルに置いて一呼吸したところで、まさむねが焼きおに斬りにジョッキを突き出した。
「飲んだことないんだろ。飲んでみ」
言われて焼きおに斬りは突き出された黄金色を受け取り、黄金色の瞳でじっと見つめると、茶道の抹茶よろしくそろそろ飲んだ。
そして、ぶええ、と叫んでまさむねにジョッキを突き返した。
「なんでぇコレ、痛え!えれれれ、」
「それがしゅわしゅわでござるわ。本当に飲んだことないのね」
「はあ、これが!」
「そう、これが」
黙って聞いていた万尾獅子は耐えられず、早々にジョッキを空けて笑った。
「あんたらは楽しいね。つまみ要らなかったな」
焼きおに斬りとまさむねが声を揃えてうるせえ、と叫んだところで、注文した料理が運ばれてきた。三人では有り余ると思われたテーブルは瞬く間に賑やかになった。
宴の終わり、たっぷり飲み食いして片や爆睡、片や千鳥足を万尾獅子が引っ張って歩いた。
戦績は上々だった。
焼きおに斬りは料理を全て平らげたのち、やっぱり炭酸が飲めないので、代わりにスピリタスをショットでトン、クッとして三杯目で気絶。
まさむねは大ジョッキを十、吟醸三瓶、赤ワインに白ワインに梅酒を幾億杯飲んでやっとふらふらした。
喧騒が遠く、夜の帳にまさむねの嘆きがこだまする。
「おい獅子、そのおにぎり捨て置け。卵焼き泥棒だ」
「まあまあ、いいじゃないの。あんたは俺の刺身食べたでしょ。鮪と雲丹だけ、キレイに食べたでしょ」
「たべたぞ」
「お刺身泥棒だ」
「魚に目が無くてな。許せ」
「今は目があるんだな?ちゃんと歩きな……」
漫画喫茶におにぎりとまさむねを寝かしつけた静かの中、万尾獅子はひとり、舌に残る酒を水で洗った。
口から滴る水が少しくすぐったかった。
一人で笑った。
おわり