髪紐の記憶第一章:迷い込み
薄暗い山道を抜けた先に、悠太は苔むした石段を見つけた。
都会の喧騒に疲れ果て、休暇を取って山奥へ車を走らせたはずが、いつの間にか道を見失っていた。
石段を登ると、傾いた鳥居の向こうに小さな神社が現れる。
縁側に座る少女がいた。
薄紫がかった白髪が肩を越えて流れ、青い目がぼんやりとこちらを見つめる。
小柄な体に白い着物と深い青の袴、桜の柄が裾に散り、羽織には菊や牡丹が咲き乱れている。
「…迷ったの?」
甘く眠気を誘う声が響く。
悠太が「え、うん…ちょっと」と答えると、
少女はお茶の入った湯呑みを手に持つ。
「…まぁ、いいけど。お茶でも飲む?」
「ここ、君の家なの?」と聞くと、彼女は首をかしげ、
「…んー、神社だけど?私、レノ」とボソボソ呟く。
神秘的な第一印象に反して、幼い話し方に悠太は戸惑いながらも、縁側に腰を下ろした。
第二章:髪紐と家事の失敗
翌朝、悠太は帰ろうとしたが、山道を下りても鳥居の前に戻ってしまう。
レノは縁側でシマエナガと戯れ、
「…また戻ってきたね。道、分かんないの?」と笑う。
「分かるよ!でも…おかしいんだ」と悠太が言うと、
レノは「…ふぅん。まぁ、いいか。お腹すいたから何か作って」とボソボソ呟く。
「え、君が作らないの?」と聞くと、レノは立ち上がり、神社の台所へ向かった。
だが、鍋に水を入れようとしてこぼし、火を点けようとして失敗し、「…熱いし、面倒」とすぐ諦める。
悠太は呆れつつ、「仕方ないな、俺がやるよ」と鍋を取り上げ、簡単な味噌汁を作った。
レノは縁側で待っていて、悠太が椀を差し出すと、
「…おいしい。ありがと」
と眠そうに笑う。
その日、レノが髪を結んでいた薄紫の髪紐をほどき、
「…お守り。これ持っててね。なくしたら困るから」と渡してきた。
悠太が受け取ると、なぜか心が落ち着いた。
第三章:脱出と再訪
数日後、レノが狐やシマエナガに囲まれ、動物たちの体温で暖まり眠りに落ちた夜、悠太は森を駆け抜け、都会へ戻った。
だが、ポケットの髪紐を握るたび、レノの声が頭に響く。
「…お茶淹れて」
「…何か作って」
「ずっとここに居ても良いんだよ?」
と自分に言い聞かせるが、仕事のストレスに耐えきれず、ある夜、車を走らせていた。
気づけば鳥居の前に立つ。
レノは縁側で、「…戻ってきた。遅かったね」とボソボソ言う。
「なんで戻っちゃうんだろう…」と悠太が呟くと、
レノは
「…んー、分かんない。私にはいいけど」と笑う。
疲れ果てた悠太は縁側に座り、弱音を吐いた。
「仕事が辛くてさ…上司に怒鳴られて、誰も助けてくれなくて。もう嫌になって、車に乗ったらここにいたんだ」
レノはシマエナガを膝に乗せ、
「…ふぅん。大変だったね。でも、ここなら静かだよ」とボソボソ返す。
悠太は彼女の無垢な声に、少しだけ救われた気がした。
第四章:尽くす日々
レノは家事がまるでできない。
ある朝、
「…お茶欲しい」と言うので淹れてやると、
「…ありがと。楽だね」と満足そう。
別の日、「…髪、梳いて」と呟かれ、
悠太は彼女の薄紫の髪を梳き、ハーフアップに結ぶ。
「気持ちいい?」と聞くと、
「…うん。もっとやって」とボソボソ返され、悠太は笑いながら続ける。
夜、縁側でレノがおちょこで日本酒を飲む姿を見て、悠太は驚く。
「君、そんな幼い顔でお酒飲むんだ?」
「…ん?おいしいから飲むよ」とレノが平然と返すと、悠太は苦笑する。
だが、ある時、レノが月を見上げ、
「…昔は人がたくさん来てた」と遠い目で呟いた瞬間、彼女の声に年上の深みが混じる。
悠太はドキッとし、幼い見た目とのギャップに息を呑んだ。
「…一緒に飲む?」とレノが誘い、
悠太は「君ってほんと自由だね」と言う。
「…自由?んー、そうかも。悠太は優しいね」と彼女が返すと、彼はますます惹かれてしまう。都会の記憶は薄れ、レノのそばが全てに。
第五章:キスと永遠
ある夜、月明かりの下でレノがおちょこで日本酒を飲んでいた。
顔が少し赤らみ、暑そうに羽織を緩めて縁側に凭れる姿は、いつもより無防備で幼さが際立つ。
悠太は彼女を見つめ、心の中で葛藤が渦巻く。
こんな小さな子みたいに見えるのに…いや、ダメだ。理性を持て。
だけど、この無垢な姿が…頭から離れない
「…暑いね」
とレノがボソボソ呟き、薄紫の髪をかき上げると、悠太の心臓が跳ねる。
彼女の青い瞳がぼんやりとこちらを見た瞬間、理性が揺らぎそうになり、彼は慌てて台所へ向かった。
「酔いすぎないようにさ」と冷たい水の入った杯を持ってくる。
レノは首をかしげ、
「…ん?水?まぁ、いいか」と受け取り、一口飲む。
「…冷たくて気持ちいい。ありがと。いつも助かるよ」と眠そうな声で笑う。
悠太は髪紐を握り、「レノのためなら何でもするよ」と呟く。
彼女が「…何でも?ふぅん、そっか」と返すと、縁側に座る二人の距離が近づく。
「…ねえ、悠太」とレノがボソボソ言う。
「何?」と返すと、彼女は小さく笑い、
「…ここにいて楽しい?」と聞く。
悠太は一瞬言葉に詰まり、
「楽しいよ。新卒で入った会社が合わなかったから辞めて、俺は今、レノとここにいるんだ」と答える。
レノの青い目が月光に映え、「…そっか。私も、悠太がいて嬉しいよ」と呟く。
その言葉に、悠太の胸が熱くなり、彼女への想いが抑えきれなくなる。
彼女がいなきゃ、もう何もいらない。レノさえいれば、それでいい
彼女が「…じゃあ、こっちおいで」と手を伸ばし、悠太が近づくと、レノが冷たい手を彼の首に当てる。人より低い体温に、悠太は一瞬息を呑む。
薄々勘づいていたが、彼女が人ではないことを改めて実感し、背筋がゾクッとする。でも、その冷たささえ愛おしく感じる。
レノが首を引き寄せ、唇を重ねる。
冷たい水のような清涼感と日本酒の甘い余韻が混じるキスに、悠太の頭から都会の雑踏や過去が消えていく。記憶が溶けるように消え、彼女のそばだけが現実になった。
レノは「…明日も私のお世話してくれる?」と呟き、
悠太は「うん」と頷く。
彼女に尽くすことだけが、彼の全てに。
縁側でシマエナガと戯れるレノを見ながら、悠太は穏やかに笑う。
過去はなくなり、彼女だけが永遠に残った。