cementerio【悪夢 ミスラ】
---------------------
ずっと昔の話
登場人物
ミスラ
オーエン
チレッタ
血だらけの赤ん坊
---------------------
春風が頬を撫でていた。うっすらと目を開ければ抜けるような空の青と、そこに点々と散る白。ぼーっと見上げているうちにその正体が分かった。あれは花だ。南の国にしか咲かない白い花。だとするとここは南の国なのだろうか。それにしては南の精霊に拒まれることもなく、どこかふわふわとした心地のよい感覚に包まれていた。どうにも思考がまとまらなかった。草原に横たわったまま、風でふわりと舞い落ちてきた花のひとつを手のひらでそっと受け止める。どうしてこの花を知っているのだろう。名前も知らないのに、見覚えがあるのはどうして。
答えはあっさり見つかった。そうだ、この花を好む魔女がいたのだ。魔法の師でありながら妹のようでもある大魔女が好む花。それが、ミスラの手の上でみるみる朽ちていった。くしゃくしゃになった赤茶色の花びらが手のひらから零れてミスラの顔面に散ってゆく。何となく嫌な予感がした。上体を起こしてあたりを見渡すと、遠くの丘に誰かが立っているのが見えた。つばの大きな帽子をかぶり、ロングスカートをはためかせる女だ。彼女は両手に何かを抱えていた。目を凝らして、思わず息を呑む。それは血だらけの赤ん坊を抱えたチレッタだった。
どうしてチレッタが赤ん坊を。悠長に考え込む間もなく、彼女は突然苦しみはじめた。赤ん坊を抱えている両手を伝って全身が真っ赤に染まってゆく。駆けつけたいのに、足を動かしても泥の中にいるように少しも前に進まない。ついにチレッタは赤ん坊に覆い被さるようにしてゆっくりと倒れ伏した。途端に体が思い通りに動くようになる。
「チレッタ!」
駆けつけた先にチレッタの姿は無かった。肩で息をしながら彼女の魔力を探るも、無駄だった。精霊の気配すらしないこの場所は、ぞっとするほど穏やかで、何もなかった。血だまりの中で泣く赤ん坊の声だけが春風の中に響く。そして、赤ん坊の手に握られるそれを見た。
「マナ石……」
小さな手には収まりきらないほど大きくて上質なマナ石。誰のかなんて言うまでもない。背中に氷が張り付いたようにさあっと血の気が引いた。
死んだ? チレッタが?
そう思った途端、体から力が抜けた。がくん、と倒れ込むようにして地面に膝がつき、あ、あ、と意味の無い音が口からこぼれる。遠くで絶叫が聞こえた。自分の声に似ている気もしたが、あんな風に叫んだことがないから分からなかった。
ようやく絶叫が止んだ時、ミスラの傍らで泣いていたはずの赤ん坊がケタケタと不気味に笑い始めた。笑い声は耳鳴りのように平衡感覚をむしばみ、まともに立っていられなくなる。ずぶずぶと何かに沈んでゆく感覚に下を向くと、いつの間にか足元は血液の沼に変わっていた。笑い続ける赤ん坊はミスラのすねあたりをものすごい力で握り締め、赤紫色の唇をにたりと歪めた。
「最高の悲鳴と絶望をありがとう、ミスラ」
「あなたは……」
不意に嵐のように風が吹き荒れた。思わず目をつぶってしまう直前に見た赤ん坊の目は、血のように真っ赤だった。
*
「あなたの仕業だったんですね」
オーエンのベッドの上で目を覚ましたミスラの開口一番はそれだった。全裸にガウンだけを羽織ってそばの椅子に腰かけていたオーエンは、ふだんは気だるげな緑色の瞳が不快そうにゆがめられているのを見てほくそ笑んだ。あれだけ悲鳴をあげていたのだ、きっとさぞかしいい夢が見られたのだろう。上体を起こしたミスラが髪をくしゃりと掻き混ぜる腕はわずかに震えていた。思わずにたりと歪んだ口角を隠すように頬杖をつき、わざとらしく口を尖らせる。
「仕業だなんてひどいなあ。たくさん腰を振って疲れてるお前を労わってあげようと思ったのに」
「しらじらしい……夢の雫を使ったんでしょう。ああいう精神攻撃みたいなの、あなた好きそうですもんね」
「なあんだ。そこまで気付いてたの」
「当たり前でしょう。俺を誰だと思ってるんです」
バレたなら仕方ないと開き直ると、大きくため息を吐かれた。ミスラの言う通りだった。体を重ねた後、オーエンの隣で寝こけていたミスラの口に夢の雫を注いだのだ。誰かの悪夢と悲鳴が閉じ込められた、飲むと特別な夢が見られる紫色の液体を。ミスラに飲ませた夢の雫には、生まれ落ちた時に母親の命を奪った赤ん坊が最初に見た夢を閉じ込めてあった。それを見たミスラがその母親を夢の中で誰に結び付けたかなんて、ミスラを殺そうとしたことのある魔法使いなら誰だって分かるだろう。そこに手を出すのがどれだけ危険なことであるのかも。それでもオーエンはこの男の悲鳴と絶望が欲しかった。
「お前の悲鳴、すごく良かった。今までに聞いた誰のよりもぞくぞくした」
オーエンはミスラの悲鳴を間近で取り込んだ時の心地良さを思い出し、うっとりと呟く。例えるならそれは極上の美酒のようだった。悲鳴は体内で上質な魔力に変わり、脳髄が痺れるほどに甘い陶酔状態へとオーエンを引きずり込んだ。自身とミスラの魔力とが拮抗し腹のあたりでぐるぐると蠢いている気がして、オーエンはそっと右手を腹に添えた。
「はあ……悪趣味な人だな」
腹を押さえてふふふと夢見心地に笑うオーエンをミスラは呆れた目で見つめ、気だるそうに首の裏を掻いた。特異体質のせいか元々の性格か、オーエンの好む魔法や呪いは趣味の悪いものが多い。相手の最も嫌がる方法で確実に精神を蝕んでゆく。もしあの悪夢を見たのがミスラでなければ、オーエンに差し出すものは悲鳴だけでは済まなかったろう。チレッタが子どもを産んで死ぬ。そんなことあるはずがないと分かっていても、夢は覚めなければ現実と何ら変わりないのだ。
そんな悪趣味な魔法を使うくせに、当の本人はミスラを見てにこにこと笑っていた。どうにも殺意が削がれる。
「おいで、オーエン」
「なあに」
これからミスラに殺されるのかなと頭の片隅で思いながら、オーエンは大人しくベッドに乗り上げる。あの魔女を出しにした以上、何回かは殺されるだろうと覚悟していたし、ミスラの悲鳴にはそれだけの価値があった。それなのに、気だるげな男は意外にもオーエンを殺そうとしなかった。ガウンを剥ぎ取ったかと思えばオーエンの痩せた体を腕の中に閉じ込め、猫をかわいがるように銀髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜる。
「ねえ、なあにってば」
「随分と気持ちよさそうだと思って」
「ふふ、うん。きもちいいよ。頭がふわふわする」
「俺の魔力を一気に取り込んだりするからですよ」
「うん」
「俺のがちゃんと馴染むまでは魔法も使えませんよ」
「うん」
「聞いてます?」
「うん」
ミスラの魔力が体に回り始めたのか、まるで夢の中にいるみたいに思考がおぼつかなかった。何を言われているのかも半分くらいは分からず、うん、うん、と適当に相槌を打っているとまたため息を吐かれた。あははと笑っていると、口に指を二、三本突っ込まれる。苦しくて呻いていると、舌の上でじゅわりと甘さが蕩けた。
「こえ、ひゅがあ?」
「そうです。せめていつもくらいのイカレ具合に戻ってくださいね」
ミスラのシュガーをころころと転がしていると、蕩けきっていた体の芯が少しずつよみがえり、ばらばらだった思考が戻ってくる。幸せな夢から覚めた気分だった。手のひらを握ったり開いたりして具合を確かめると、まだ多少の痺れは残るもののミスラの魔力はかろうじて体に馴染んでいた。
「本当に困った人だな。俺の魔力がでかすぎて死ぬ可能性とか、考えなかったんですか? こんなにぐにゃぐにゃになって……」
「死んでもまた生き返る」
「まあそうですけど」
「でも、死なない気はしてたよ」
そう言ってミスラのつぎはぎだらけの胸板にぐりぐりと頭を擦りつける。ミスラの体温。ミスラの魔力。自分の体と相性がいいことはよく知っていた。
「お前のものを何回受け止めてきたと思ってるの」
「さあ……何回でしたっけ」
「ふふ、僕も知らない」
「……もしかしてまだ寝惚けてます?」
あはは、と口を開けて笑うオーエンの首元をすん、とかぐと、かすかにミスラの魔力と精のにおいがした。
【瀕死 ミスラ】
---------------------
ずっと昔の話
登場人物
ミスラ
オーエン
半透明の死者たち
左半身の朽ちた貴婦人
---------------------
ぞっとするほど美しくて静かな銀世界の中に浮かぶ、たったひとつ異端の色を見つけた。
「……ミスラ?」
箒を停止させ、目を凝らす。雪山に埋もれるようにして赤い頭のてっぺんが覗いていた。ぱちんと指を鳴らして箒をしまい、パウダースノーで覆われた表層にふわりと降り立つ。閉じられた瞼を縁取るまつ毛がしっかり確認できるくらいの距離まで近付いても、ミスラは雪に埋もれたまま微動だにしなかった。どうやら失神しているらしい。
どうせ、オズだろう。ミスラをここまでこてんぱんにできる相手なんて、この世にはオズくらいしかいないのだ。癪なことに、オーエン相手でミスラが意識を失ったことは一度もない。チッと舌打ちをしながらミスラの前にしゃがみこみ、頭に積もった雪を払いのける。霜の降りた頬を指でとん、とつつけば、そこは氷のように冷えていた。心臓が無いせいで指先までうまく血が回らないオーエンでさえ、あまりの冷たさに指を引っ込めてしまいそうになる。
「……死んでるの?」
魔法が無ければ呼吸することすらままならない極寒の地。言葉と共に吐き出された白い吐息がミスラの顔にかかる。瞬間、ふるりとまつ毛が震えた。やはり死んではいなかったかと落胆する間もなく、凍りついた唇が僅かに動いたのを見て急いでその場から飛び退く。
「……っ!」
アルシム、とかすれた声が呪文を呟いたのが聞こえた。さっきまでオーエンが立っていた場所からややずれた場所に、氷の膜で包まれた乳白色の剣が三本刺さっていた。恐らく魔法生物の骨を研いで作られたものだろう。ミスラらしい魔法だ。少しでもかすればどんな呪いが襲い掛かってくるか分かったものじゃない。が、ミスラは狙いを外した。
「っが……はっ、ごほっ……ぐっ、ぁ……」
無理に魔法を使用した反動か、ミスラは苦しげに咳き込んでいた。雪上に真っ赤な血飛沫が転々と散る。ぼんやりと開いた瞳は虚ろに濁り、オーエンを映していなかった。
「はは……死にかけ」
攻撃を放ったのはオーエンの姿を認めたからでは無かったらしい。意識も半分以上飛んでいる中、気配を察知して本能的に動いたのだろう。それはほとんど手負いのけだものと同じだった。
さくさくと分厚い雪を踏みしめ、ミスラの元へ戻る。今のミスラになら殺される心配は無い。雪を汚す血液を踏みにじり、そのまま靴先でミスラの顎をぐいと持ち上げる。虚ろな瞳がこちらに向けられ、ようやくミスラはオーエンを見た。
「やあ、ミスラ」
「オーエン……だったん、ですか……」
「そうだよ。お前を殺しに来た」
「っアルシ、がっ……!」
ミスラが目を見開いた。再び呪文を唱えられる前に素早くミスラに馬乗りになり、その口を手のひらで塞ぐ。普段ならミスラがオーエンに力負けすることなどないのだろうが、今のミスラは死にかけだ。ぐっと全体重をかけて抑えつければ抵抗は次第に小さくなっていった。途中で変な音がしたから、もしかすると喉の骨が折れたのかもしれない。
「ふふ……苦しそうだね」
「っ……ふっ、う……ぐ……」
「あは、ごめんね。鼻も押さえてた」
どうにも反応が薄いと思った、とおどけて言いながら少しだけ力をゆるめてやれば、空気が喉を通るいびつな音がした。呼吸すらままならなくなった、死にかけの音だ。僕はいつもこんなふうに隙間風みたいな音を遠くに聞きながら死んでゆく。きっと今、ミスラも同じ音を聞いている。
「ねえ、ミスラ。お前、本当に死んじゃうよ」
「…………」
ミスラは白目を剝いて気絶していた。跨ったミスラの胸が呼吸に合わせて大きく上下するたび、真っ赤な血液がごぼごぼと泉のように溢れ出てミスラの胸元とオーエンの手を汚してゆく。多分、このままだと長くない。オーエンが殺すまでもなく出血過多と寒さで死ぬ。この地では血液は体の外に流れ出た瞬間から凍ってしまうのだ。追い打ちをかけるように空が白み始め、ミスラとオーエンをまるごと雪原に埋めるように雪まじりの冷たい風が吹きつけた。
「ねえ、ミスラ」
「…………」
「僕が助けてあげようか」
「…………」
かろうじて聴覚が生きていたのだろうか。ミスラは白目を剝いたまま声もなく小さく頷いた。
「そう。なら助けてあげる。その代わり、」
血がべっとりとついた手のひらで、ぬるぬると撫でつけるようにミスラの冷たい顔を両手で包み込む。弱りかけの血だらけでもこの男の顔はかくも美しい。血の気を失って白色に近くなったくちびるに親指でミスラの血を塗り、その上からくちびるを重ねる。死にかけの錆びた味がした。
「お前を殺さない代わりに、お前を僕の好きにさせて」
*
死の湖はミスラが倒れていた雪原から少し南に移動した場所にある。オーエンだってミスラほどではなくとも空間移動の魔法は使えるから、ミスラを抱えて移動するのは容易いことだった。死の湖が見えてきたところで地面に着地し、あたりを見渡す。ミスラの生まれ故郷はさきほどの雪原と比べればまだ暖かかった。とはいえ生物が生きていけるような環境では決してなく、前に来た時と同じようにしんと静まり返っていた。北の国はどこもこんなものだ。生者を拒むように静かで、美しくて、白い。
その静寂を裂くように小舟で湖を渡る。湖の真ん中にある島まで魔法で転移しても良かったのだが、何となく舟を使いたい気分だった。男の長身は手足を折り曲げてぎりぎり小舟に収まった。手ずからオールを漕ぎながら、小舟に横たわるミスラに声をかける。
「まだ生きてる?」
「………………なんとか」
「そう」
自身のマナエリアに帰ってきたせいか、ミスラは会話が出来るくらいまで回復していた。全身からしゅうしゅうと白い湯気のようなものが絶えず立ち昇っているのは、焼け焦げたり千切れたりした箇所が少しずつ修復されているからだ。時折、端正な顔が苦痛にゆがめられる。
「痛いです……」
「死にかけだからね」
「あなたに折られた首がいちばん痛みます」
「かわいそうにね」
そう言うと恨みがましく睨まれたので、にっこりと笑い返す。いつも人の骨を枯れ枝みたいにぽきぽきと折っているのだ。首の骨の一本や二本折られたところでなんてことないだろう。それにオーエンと違ってミスラはぎりぎりで死んでいないのだし。
ふと、ミスラがあくびをこぼした。ばらばらになった肋骨が痛むのか顔をしかめながらうとうとしている。
「少し眠ったら? 僕がベッドまで運んであげる」
「そうします……」
ミスラは素直に頷いた。体力も魔力も尽きているせいであまり頭が回っていなかったのだろう。しばらくして静かな寝息が聞こえてきた。満身創痍のくせに寝顔だけは穏やかなのがどうにもちぐはぐでおかしかった。何より、オーエンの目の前でこんなにも無防備な姿をさらけ出しているという状況に思わず笑いだしそうになる。
「おやすみ、ミスラ」
いい夢が見られるといいね、なんて思ってもいないことを口にするのは大の得意だった。きいきいと不快な音を立てて進む小舟の上で、オーエンは機嫌よく誰にも届かない古代の子守唄を口ずさんだ。
*
死者の国はいつ来ても不気味で陰気で趣味が悪い。あちこちにミスラの使い捨てた呪物や古代生物の骨が転がり、紫色の瘴気を漂わせている。それから幼少期のミスラによってこの場所に遺体を運ばれた死者たちはいつもこちらをじっとうかがってくる。多分彼らにはオーエンがこの世に生まれ落ちるよりも前からこの場所でミスラと共に生きて、いや、死んできたのだという亡霊なりの自負というものがあって、だからこそオーエンを値踏みするような視線を向けてくるのだろう。オーエンが本気を出せば一瞬で消え去ってしまう存在ではあるが、何せ数が多い。手っ取り早くあしらうためには口を使う方が楽だ。オーエンは彼らの親玉らしい斧を担いだ異形の鬼人を見据える。
「お前たちの王様を助けてあげるんだから、そんな目で見るなよな」
半透明の死者たちの群れがオーエンの言葉に揺らいだ。オーエンに背負われた意識のないミスラの周りをぐるぐると取り囲み、時折ギイィと歯車が回るような音が響く。動揺している。
「僕がやったんじゃない。オズだよ」
そう言うとオズ、オズ、オズと地を這うような声と耳をつんざくような声が混ざり合った不協和音が怒りの感情と共にあたりに広がった。ミスラを崇拝しているらしい彼らにとって、オズは憎悪するべき天敵なのだ。
「本当にむかつくよね、オズって」
今度はがちゃがちゃと骨がぶつかるような音が響く。きっとオーエンに共鳴して喜んでいるのだろう。これで彼らは少なくとも今日だけはオーエンの味方だ。簡単すぎて思わず笑ってしまった。この体たらくで死者の国の番人然とする愚かで無力な彼らを嘲笑するくらいは許してほしい。
「ここ、開けるよ」
ぐったりと脱力したミスラの長身を支えながら古びた木製の扉に手をかけると、一瞬痺れるような感覚が手袋越しに走り、すぐに霧散する。家を守る結界が解けたのだ。屋根のあたりを漂っていた左半身の朽ちた貴婦人は、オーエンを歓迎するように優雅にドレスの裾を持ち上げた。
「いつもご苦労なことだね」
彼女はいつも屋根の上にいる。生前にミスラに恋をして身を投げた娘なのだそうだ。体の左側だけが水に浸かって腐り落ちた状態でこの場所に運ばれたせいで、あんな風になってしまった憐れな娘。今はミスラのそばで幸せな余生、正確には死後を過ごしているつもりらしい。
「愛しのミスラ様のためならば」
彼女はいつもそれしか言わない。
「約束はしないけど、君のために僕がミスラを助けてあげる」
思ってもいないことを口にするのは大の得意だった。憐れな貴婦人はそれだけで感極まったようにぼろぼろと涙を流した。
「愛しのミスラ様のためならば」
「そうだね」
家の中に足を踏み入れようとして、ふと立ち止まる。後ろを振り返ると半透明の死者たちがぞろぞろとオーエンに続こうとしていた。各々が枯れ枝やら錆びた銅貨やらを手にしているのは、ミスラへの見舞いのつもりだろうか。この滑稽な行列をしばらく眺めていたい気もしたが、鬱陶しさと面倒さの方が勝った。
「中には入ってくるなよ。ミスラを助けるために特別な魔法を使うから、お前たちが近づいたら今度こそこの世から消えて無くなっちゃうかも」
適当に脅しの言葉を並べれば、亡霊たちはざわめきと共に次々に消えていった。凍った大地にばらばらと彼らの見舞い品が散らばる。屋根の上の貴婦人だけは迷うそぶりを見せていたが、「愛しのミスラ様のためならば」と言うと静かに頷き、同胞たちと同じようにそっと姿を消した。
*
ミスラの家は物が多い。散らかっているわけではないのだが、少し触っただけで呪われたり血を吸われたり約束させられそうになる呪物が無造作に置かれているので、移動するだけでも気を遣う。
奥の寝室まで何とか辿り着き、男の長身にふさわしい大きなベッドへ意識のない体を寝かせてやる。血の染み込んだシャツと白衣を脱がせると、あちこち焼け焦げた皮膚には半分凍った血液がこびりつき、修復しきれなかった生傷は熟れすぎた果実のようにじゅくじゅくと化膿していた。左腕の付け根には真新しい縫合痕が刻まれ、指でなぞるとぴくりと体が跳ねる。ちらりと顔を見れば、まだ意識は戻っていないようだった。
「《クアーレ・モリト》」
今のうちに「報酬」をもらっておかねばならない。この男の体は頭のてっぺんから爪先までの全ての部位が強力な呪物となる。体の一部を媒介に使うだけで大抵の魔法使いは殺せるのだ。もちろんミスラを呪うことだってできる。枕に散らばる赤髪の一本。口元を汚す血液の一滴。魔力のこもった爪のひとかけら。ミスラの体から切り離されてふわふわと宙に浮かぶそれらをトランクから取り出した試験管に閉じ込め、厳重に封印をかける。報酬としては十分すぎるくらいだった。
「じゃあ、そろそろ助けてあげる。上手くいくかは分からないけど」
小さく息を吐き、傷だらけの腹の上に指を滑らせる。指先に纏わせたミスラの血液でくるくると複雑な魔法陣を描いてゆく。強力な回復魔法と治癒魔法とをいくつかかけ合わせてみたが、ちゃんと発動するかどうかは分からない。媒介として使ったミスラの血液が強力すぎて術式が暴発する危険性もある。そもそも助けるとは言ったものの、オーエンは別に医術や薬学に精通しているわけではないのだ。どこぞの胡散臭い医者じゃあるまいし、これまで他人の傷を治す経験も必要も無かった。
「勢い余って殺しちゃったらごめんね」
右手の手袋を外し、心臓の真上に置く。そばには魔道具のトランクも浮かべてある。不規則に上下する胸板の下で、とくんとくんと心臓の音を感じた。だが、その拍動は随分と弱々しかった。あまり時間はないようだ。指先に魔力を込め、慎重に呪文を唱える。
「《クアーレ・モリト》」
どくん、と心臓が勢いよく跳ねた。オーエンの魔力が練り込まれた血液がミスラの体内を急激なスピードで流れてゆく。破裂した内臓や爛れた皮膚が時間を巻き戻すかのように修復され、体が熱を帯びる。早すぎる回復に体が追いつかなかったのか、ミスラは全身を痙攣させながらごぽりと血を吐いた。壊れた噴水みたいに何度かまとめて吐き出された血液が口の端から溢れてだらだらと首を伝う。痙攣は収まらず、元からか細かった呼吸音がついに聞こえなくなり、
「あ」
手のひらの下で、心臓が動きを止めた。
「《クアーレ・モリト》」
呪文を唱えながら左手で腹の魔法陣を書き換えてゆく。その間も心臓は沈黙したままで、苛立ちと焦燥に思わず舌打ちが飛び出す。
「《クーレ・メミニ》……《クアーレ・モリト》」
ミスラの裸体にぽたぽたと水滴が散る。それが自分の頬を伝う汗だと気付かないほどに、オーエンは死にかけの男の蘇生に集中していた。傷は治ってる。内臓も機能してる。あとは心臓だけだ。心臓が動きさえすれば──
とくん。かすかに拍動を感じた気がした。魔法陣を書き換える手を止め、ミスラの左胸に意識を研ぎ澄ませる。とくん。とくん。気のせいじゃない。心臓が動き出していた。鼻と口元に手をかざせば、止まっていた呼吸も再開している。
「上手くいった……?」
ミスラの心臓はオーエンの手の下で徐々に力強さを取り戻していった。紙のように真っ白だった顔にも赤みが差す。どうやら峠は越えられたようだ。
「はは……」
極度の緊張状態から抜け出した安堵、複雑な魔法を成功させることが出来たことへの高揚感、そしてそれらすべてをひっくるめた馬鹿馬鹿しさに、どっと疲れが襲ってきた。そばにあった背もたれの欠けた小さな椅子を魔法で枕元に引き寄せ、倒れ込むように座る。はあ、とため息を吐きながらミスラを見ると、死の淵をさまよったというのにミスラは穏やかに美しく眠り続けていた。枯渇した魔力が完全に回復するまでは目覚めないつもりだろうか。それもまた馬鹿らしくて、笑うしかなかった。
疲れた。椅子に座ったままミスラの寝顔を眺める。ミスラを殺さなかったのは正解だった。この綺麗な顔が目の前で冷たい石に変わってしまうのはあまりに惜しい。
「ミスラ」
少しだけ前かがみになって男の顔を真上から見下ろす。いつ見ても作り物のように美しい顔だ。西の国いちばんの美術館に飾られているどんなに美しい彫刻や絵画よりもこの男の顔は美しい。宝物に触れるようにそっと。まぶたの下を親指でなぞりながら頬を撫で、もう一方の手は再び心臓の上に置く。あたたかい。生きている。生者を拒むこの国で唯一、ミスラの心臓だけが動いている。
そのあたたかさと拍動を確かめながらくちびるを重ねた。さっきの報酬の続きだ。世界で二番目に強い男のくちびるを舐め、歯列をこじ開け、舌をぬるりと差し入れる。口内を好き勝手に侵し唾液を吸い出せば、作り出されたばかりのミスラの濃厚な魔力が体内をめぐった。かっと体があつくなる感覚に身を委ね、熱に浮かされたようになおもミスラとキスをする。時折漏れる鼻から抜ける声にすら脳内が痺れてゆく。ミスラが目を覚ましたら、なんて考える余裕はなかった。ただ、頭の片隅で殺されたって構わないとだけ思っていた。
「んっ……はあ、んぅ……」
「ミスラ…ぁ…ミ、スラ……っ!」
ほとんど上半身は覆いかぶさるような体勢で一心不乱にミスラのくちびるを貪った。心臓が無いせいで常に低体温の体がミスラの体温に近づいてゆく。荒い呼吸をしながら何かに急かされるようにミスラのボトムスに手をかけた。ベルトを外すのさえ焦れったい。カチャカチャと金属音を立てつつようやくミスラの前を寛げた時、ギイ、と扉が開く音が聞こえた。
「っ……《クーレ・メミニ》」
はっとして後ろの扉を振り返る。自分とミスラの乱れた衣服を素早く直し、音の聞こえた方向を睨みつける。半分ほど開かれた扉の前には誰もいなかった。正確に言えば目では見えなかった。が。
「いるんだろ」
低く呟き、コツコツとわざと靴音を鳴らして扉の方へ近づいてゆく。近づくにつれて腐臭が鼻をついた。
「もう出てきたら。ばれてるよ」
扉を睨みつけながらそう言うと、室内の空気がかすかに震えた。瞬きをする一瞬の間に、鼻先がくっついてしまいそうなほどの距離でうっすらと微笑んだ女の顔が現れる。思った通り、左半身の朽ちた貴婦人だった。ため息が漏れる。
「中に入ってきたらだめだって言っただろ」
「愛しのミスラ様のためならば」
「僕に殺されるかもとか、考えなかったんだね」
「愛しのミスラ様のためならば」
「そう。で、何しに来たの」
「愛しのミスラ様のためならば」
噛み合っているようないないような会話をしている最中、彼女はなぜかずっと目を輝かせていた。美しい海色の右眼と腐りかけの左眼がぎょろぎょろと寝室を覗き、時折頬をぽっと染める。視線の先にはベッドがあった。
「ミスラの見舞いに来たんだ?」
「愛しのミスラ様のためならば」
「……違う?」
まともな言葉を持たない亡霊は、けだものともまた違った意思疎通をしてくるから言っていることが分かりにくい。途切れ途切れに伝わってくる彼女の言葉と感情を何とか繋ぎ合わせる。見る、ミスラ様、羞恥、期待、ミスラ様、見たい、興奮、見たい。
思わず「え」と真顔になった。
「……もしかしてミスラの裸が見たいの?」
「愛しのミスラ様のためならば」
貴婦人はそう言って優雅に会釈をした。涼しい顔をして意外と自分の欲に忠実なようだ。ミスラのために命まで投げ出せるのだから当然といえば当然かもしれないが。それにしても。無力な亡霊の娘に性的に見られるミスラなんて滅多に見られるものじゃない。いいところで邪魔をされた事はこの際置いておいてやってもいい。笑いを噛み殺しながら扉を開けてやった。
「いいよ、入ってきたら」
彼女は頷き、生臭い冷気と共にするりと寝室に入り込んだ。そしてベッドに寝かされたミスラを見下ろしてくるりと宙がえりをする。
「ふふ、好きな男の裸が見られて良かったねえ」
「愛しのミスラ様のためならば」
くるくると彼女が宙がえりをするたびに茶色の水しぶきが部屋中に飛び散る。水滴を避けつつ、ミスラの顔にも水避けの結界を張る。綺麗な顔が汚れるのは好ましくない。貴婦人はちらちらとオーエンの顔色をうかがっていた。
「なあに」
「愛しのミスラ様のためならば」
「ああ、眠ってるから今なら大丈夫なんじゃない」
どうやらミスラの裸に触ってみたかったらしい。許可を与えると彼女はぽぽぽっと頬を染め、つぎはぎだらけの美しい胸板をつんとつついた。実体のない青白い指先はミスラの体をすり抜けてしまっていたが、それでも彼女は感極まって滂沱の涙を流した。続いて彼女の指先がつついたのはミスラのくちびるだった。オーエンの結界のおかげで手首のあたりまで焼け爛れていたがお構い無しのようだ。ミスラのくちびるをちょんとつつき、次いでオーエンのくちびるにも同じことをする。何度か繰り返されるうちに彼女の伝えたいことに思い至る。キスをしろ、ということらしい。
「……へえ。お前、いい趣味してるね」
「ミスラ様のためならば」
「お前が見たいだけだろ」
「ミスラ様のためならば」
「嫌だよ。見世物になるつもりはない」
ミスラが好き勝手されているところは笑えるが、そこに巻き込まれるなんてまっぴらだ。冷たく言い捨てると、貴婦人は朽ちた左半身が更にぼろぼろと壊れてゆくのにもかまわず、おいおいと肩を震わせ泣き崩れた。
「うるさい。今すぐ出ていかないとお前を殺すよ」
「ミスラ様のためならばあああああああ」
「だからうるさいってば。《クーレ・……》」
いい加減殺してしまおう。そう思って呪文を唱えようとすると、背後からマントを引っ張られた。次いで聞こえる衣擦れの音。まさかと思って振り向けば、しばらくは目を覚まさないはずだった男が上体を起こしていた。左手はオーエンのマントの裾をぎゅう、と掴んでいる。視線がぶつかった。
「おはようございます、オーエン」
「……おはようミスラ。生きてたんだね」
「あなたのおかげで何とか」
チッ、と舌打ちが飛び出した。この短時間でミスラの魔力はほとんど元通りに回復していた。とんだ化け物だ。
「うるさくて起きちゃったじゃないですか。まだ寝ていたかったのに……」
「知らないよ。殺すならこいつにして」
そう言うとミスラの視線はオーエンの肩越しに貴婦人へと向いた。貴婦人はぴたりと泣き止み、血の気のない顔を目いっぱいに輝かせる。
「ああ、あなたですか」
「ミスラ様のためならば」
「はあ、どうも」
「こいつの言ってること、分かるの?」
「いや全然」
「なんだよ」
「でもまあ、いつも俺のため俺のためと言っているので悪いことでは無いのかなと」
ミスラは眠たそうに目をこすり、あくびをこぼした。呑気でいいねと皮肉ると、むっとしたように睨まれる。
「なら、あなたは分かるんですか?」
「まあね。早くキスしろって言ってる」
「はあ? 誰と誰が」
「僕とお前が」
「え、人がキスしているところを見たいんですか? あなたって変態だったんですね」
「ミスラ様のためならば」
「はあ、どうも」
「馬鹿馬鹿しい……」
てんで話が通じない。まともじゃないやつらの会話を聞くのは疲れるだけだ。自分のことは棚に上げつつ、オーエンはちぐはぐな会話を続ける二人に背を向けた。
「ちょっとオーエン、どこへ行くんです」
「どこでもいいだろ。お前のことは助けてやったんだから、もう用は無い」
「まだですよ」
「はあ? ……ねえ、いつまで掴んでるつもり」
いつの間にか立ち上がっていたミスラはオーエンのマントを掴んだままだった。体をひねってマントをひるがえしてみても、「おっと」とかなんとか言いながら手を離さずによたよたとオーエンの後をついてくる。
「ついてくるなよ。雛鳥の真似でもしてるわけ?」
「だから、まだ用事が済んでいないでしょう。俺にキスしてくださいよ」
「は?」
思わず足が止まった。当然、マントでつながったミスラも立ち止まる。つまらない冗談でも言ったつもりかと振り返れば、男は真顔だった。
「お前ってそんなにサービス精神旺盛だったっけ」
「そうした方がいい時はそうしますよ。この女、結構しつこいんですよね。さっさとキスしちゃった方が俺もあなたも楽だと思います」
「さっさと殺しちゃうって選択肢はないの? もう死んでるけどさ」
「上手く使えばそこそこ役に立つので」
「ふうん……」
オーエンの後ろをついてくるミスラの後ろをふよふよと漂っていた貴婦人は、そこそこ役立つと言われた瞬間に滂沱の涙と大量の水しぶきをまき散らした。ミスラは濡れた髪の毛を鬱陶しそうにかきあげ、マントを掴んでいた方の腕をオーエンの腰にまわした。
「そういうわけなので、早く俺にキスしてください」
「そんな風に言われるとしたくなくなるんだけど」
「めんどくさい人だな……じゃあ、さっきみたいに好き勝手に俺のくちびるを吸っていいですよって言えばいいですか?」
「っお前……!」
起きてたの。低く問うとミスラは得意げににやりと笑い、指先でとんとんと自分のくちびるをつついた。
「ここに、あなたの唾液が少しだけ残っていました。やっぱり俺が眠っている間にキスしたんですね」
「……お前の魔力がほしかっただけだよ」
「へえ? この人が部屋に入って来なかったらキスだけでは終わらなそうでしたけどね」
耳元で囁きながら、男の手がするりとむき出しの下腹部に添えられた。まるで見せつけるように、先程オーエンの手が這った場所を正確になぞりながら、ミスラの手はカチャカチャとベルトをいじった。
「……っ」
やっぱり起きてただろ、なんて言う余裕は残っていなかった。女の舐めるような視線もどうでもよかった。ただ、これでもかと煽ってくる目の前の美しいけだもののくちびるを今すぐに奪わねばならないと思った。ミスラの後頭部に片手をまわし、ぐっと引き寄せる。もう一方の手は頬に添え、噛み付くようにくちびるを重ねた。
「ふっ、んぅ……」
鼻から抜ける声とともにぴちゃぴちゃと唾液の絡む音が響く。重ねるだけのキスで足りるはずもなく、二人の舌はミスラのあたたかな口内でとっくに絡み合っていた。時折くちびるや歯列を舐め、角度を変えて何度も互いを貪り尽くす。舌を絡めているだけでどうしてこんなにも興奮を覚えてしまうのだろう。なまぬるくてあたたかい舌をもっともっとと追い求めてしまうのが本能なのだとすれば、オーエンもまたミスラに負けないくらいただのけだものでしかなかった。
「ん、んっ……ミ、スラ……」
「はっ、あ、オーエン……っ」
目の前の男を逃すまいと後頭部に添えた手に力を込めれば、腰にまわった腕にいっそう強く抱き寄せられる。けだもの同士のキスなんて傍から見れば捕食行為とそう大差ない。ようやくくちびるを離した時、オーエンの口端は切れて血を流していたし、ミスラの頬にも爪で引っ掻いた傷がついていた。
「あはは、女に振られたみたいな傷してる」
「あなたも人のこと言えませんけどね」
くすくす笑いながら呪文を唱え、間抜けな傷跡を消してやると、ミスラも小さく笑ってオーエンのくちびるを指でおさえた。そして、ふと思い出したかのように天井を見上げる。つられて天井に視線をやれば、そこにはびくびくと全身を痙攣させながら鼻血らしき液体をハンカチーフで必死に抑える貴婦人の姿があった。興奮のあまり体が少しおかしくなってしまったのだろう。それでも彼女は晴れ晴れとした笑みを浮かべてミスラとオーエンを見下ろしていた。
「これで満足ですか?」
「ミスラ様のためならば!」
「大満足だってさ」
「はあ、そうですか」
「あと、何かお礼に見せてくれるみたい」
「へえ。あなたって律儀な変態なんですね」
「ミスラ様のためならば!」
左半身の朽ちた貴婦人はくるりと宙がえりをし、寝室の窓を突き破った。死の湖の上空で二人に向かって優雅に会釈したかと思えば勢いよく湖に落下する。着水と同時にどん、と太鼓を叩くような音が鳴り、湖全体に虹色の光線が走った。水面にさざなみが立ち、水しぶきが西日を反射してあたりに積もった雪山を七色に照らす様は、まるでオーロラのように幻想的な光景だった。
「……今の、あいつがやったの?」
たかが亡霊の仕業とは思えないほど美しい魔法だった。思わず目を奪われてしまったのが悔しい。ミスラは頷いて言った。
「ああ見えて、この島でいちばん強い亡霊は彼女なんですよ」
「ふうん……愛の力ってやつ?」
「愛?」
「だってあの娘、お前に恋をしたせいで身を投げたんでしょう」
「はあ、そうなんですね」
「お前が昔、僕にそう教えたんだよ」
確か、はじめてこの島に連れてこられた日だったはずだ。左半身の朽ちた貴婦人は今日と同じくミスラの家の屋根からオーエンを見下ろし、歓迎するように会釈をしたのだ。そして、あれは誰かと尋ねたオーエンに、ミスラが彼女の身の上話を聞かせた。そう昔のことでは無いのにミスラはもう忘れてしまったようだ。
つくづく哀れな娘だ。命を投げ出してミスラに追いすがってもなお、ミスラの記憶に彼女の恋慕は刻まれない。このけだものの脳はお世辞にも優秀とは言えないから、たった一度死ぬくらいでは足りないのだ。
とはいえ。元通りに静まり返った湖を少しだけ楽しそうに眺めるミスラの横顔を見てオーエンは思う。どんな形であれミスラに覚えられているのならば、彼女も少しは報われるだろうか。たとえそれがこの島でいちばん強くて律義な変態として、だとしても。
「まあ、僕ならそんなのごめんだけど」
「何か言いましたか?」
「なんでもない。ところであの娘の名前は?」
「名前? さあ、なんだったかな……」
「あはは。ほんと、最高の男だね、お前って」
「はあ、どうも」
【風邪 オーエン】
---------------------
登場人物
ミスラ
オーエン
シノ
ヒースクリフ
ネロ
フィガロ
ルチル
ミチル
---------------------
今日も眠れぬまま朝を迎えた。
「はあ……つらい」
ここ最近、賢者様が不在の日に自力で眠れることはほとんどなくなっていた。大いなる厄災は本当に厄介な傷を残してくれた。重くため息を吐き、アイマスクをはずす。賢者様の代わりとしてベッド横で焚いていた不眠に効くという新作アロマは、やっぱり役立たずだった。
半ば意地で閉じていた瞼を開き、すっかり見慣れてしまった魔法舎の天井を憂鬱な気分で見上げる。朝を告げる鳥の声は聞こえなかった。遮光カーテンのすき間から漏れる陽の光も今朝はずいぶんと弱々しい。これではいつまで経っても気分がすっきりしない。少しでも憂鬱さを吹き飛ばせる何かを探してベッドから起き上がり、ぺたぺたと裸足で窓に向かう。窓を開けた途端、湿った空気が部屋と肺を満たした。濡れた草と土のにおいが鼻につき、眠れないミスラを慰めるように生ぬるい風が体を撫でる。今日は雨だった。
まあ、太陽がぎらつく晴れの日よりは良い。あれは寝不足の体に刺さりすぎるので、それはそれで鬱陶しいのだ。凝り固まったからだをほぐすために伸びをする。
「……?」
ふと、中庭のあたりに白い人影が見えた気がした。しかしもう一度目を凝らしてみてもそこには何も無い。
「おかしいな」
さっきのは見間違いだったのだろうか。首をひねりつつ、まあいいかと結論付ける。ミスラが頭を悩ませるべきことは、不眠と、オズ以外には、この世にそれほど存在しないのだ。寝間着を着替えがてら、くあ、とあくびをこぼし、腹の虫を豪快に鳴らす。部屋を出る時には怪しい人影のことなどミスラの頭にはこれっぽっちも残っていなかった。
*
空腹を満たすためいつもより薄暗い食堂に辿り着くと、テーブルの一角に人だかりができていた。若い魔法使いたちが椅子に座る誰かを囲むようにして立っている。皆が一様に顔を曇らせ、楽しく朝食を食べているようには見えなかった。
ミスラの知らないところで何かが起こったのかもしれない。だとしてもミスラには多分、関係のないことだ。仮に関係があったとしても、面倒なことには極力首を突っ込みたくない。人だかりの中にいたルチルとミチルが今日も変わらず生きていることが確認出来さえすれば、もうそこに用はなかった。あくびを吐き出し、ざわめきから少し離れた位置にある空席を目指す。今朝は何を食べようか。とりあえず肉は外せない。ついでに良さげな消し炭なんかもあればもっといいのだが。
その時、人垣の間で白いコートが揺れているのが視界の隅にちらりと見えた。その場にいるには意外すぎる人影に、そして見間違いかと疑ってしまいそうなとある光景に、ミスラは思わず足を止めた。
「オーエン?」
「……!」
ミスラの声に、輪の中で両足を抱え込むようにして椅子に座っていた男──オーエンがはっと顔を上げた。周りの魔法使いたちもミスラの方を振り向いたが、ミスラの目にはオーエン一人しか映らなかった。
オーエンはひどい格好をしていた。普段きっちりと着こなしているコートとスーツはびしょ濡れで、ところどころ血や泥が跳ねたのか赤茶色の染みが滲んでいる。ネクタイはどこかで落としてきたのか見当たらないし、かろうじて頭に乗っかっている帽子は今にもずり落ちそうだ。いや、これだけなら別にわざわざ足を止める必要などなかった。ミスラに返り討ちにされたオーエンはたいていこんな風にぼろぼろになっているし、もっとひどい時だっていくらでもある。ミスラを釘付けにしたのはそんなものではなく、オーエンの左右で色違いの目だった。ここ数年でようやく見慣れたその目が、ミスラを映しながら、潤みきってぽろぽろと涙を流していたのだ。こんなの、オーエンの涙なんて、見慣れているはずがない。気付いた時には近くにいたヒースクリフに声をかけていた。
「その人、どうしたんですか」
「ミスラ……! えっと、これはその……」
「俺たちも知らない。食堂に来た時にはもうびしょびしょでめちゃくちゃに泣いてた」
びくりと肩を跳ねさせたヒースクリフの代わりにそう答えたのはシノだった。びしょびしょでめちゃくちゃに。反復すると、ヒースクリフが咎める口調で慌てたように叫ぶ。
「ちょ、ちょっとシノ……!」
「何だ。本当のことだろ」
「でもっ」
結局、東の若いの二人はミスラそっちのけで言い争いを始めてしまった。知らないのならいいです、と言おうとして、ミスラはまたもオーエンの涙に釘付けになってしまう。そして、ばっちり目が合ってしまった。
「…………」
「…………」
そんな風に途方に暮れた目でこっちを見ないでほしい。見てはいけないものを思いがけず見てしまったような居心地の悪さに耐えきれず、半ば強引に南の兄弟たちに視線を移す。視線に気付いた兄の方は、申し訳なさそうな顔で首を振った。
「私たちもさっき来たばかりでオーエンさんに何があったのかは知らないんです。もしかしたら怪我をしているのかもと思って、簡単な手当くらいならできますよって言ってみたんですけど……」
そうじゃないんですもんね、とルチルに優しく尋ねられると、オーエンは力無く頷いた。しくしくと悲しそうに泣く様子を見かねたのか、ルチルが頭を撫でようとすると今度は怯えたように体を縮こまらせる。幼子のようにぽろぽろと涙をこぼし始める姿に、ミスラは眉根を寄せた。
「…………」
怪我ごときでこの人が泣くはずがないなんてことは聞くまでもなく分かっていた。それならばなぜ。まるで別人のように肩を震わせるオーエンに、ミスラは少なからず動揺していた。
誰かこの人の涙を説明できる人はいないのだろうか。ミスラは食堂をぐるりと見回し、我関せずとばかりに後ろを通った男の首根っこを駄目元で引っ掴む。ぐえ、と呻く声が聞こえたのは無視した。
「ネロ。あなたはずっとここにいたんでしょう。何か知っているんじゃないですか」
「えっ俺?」
ネロはげほげほと咳き込みながら、持っていた食器をそばのテーブルに置く。呆れたような困ったような表情を浮かべられた時点で、返ってくる答えは分かりきっていた。
「わりぃけど、俺も大したことは知らねえんだ。泣きながら食堂に来たと思ったらずっとああなんだよ。何聞いてもほら、ああやって違う違うって首振るだけでさ……」
「はあ、そうですか。役立たずだな」
「え、それ俺だけ言われんの? いや、お子ちゃまたちにも言えって言ってるわけじゃないんだけどさ……」
「なんですか?」
「なんでもないです……」
ネロも知らないとなると、オーエンがどうしてこうなったのかはもう本人に聞くしかないようだ。はじめからそうすれば良かったのだ、というのには今初めて気付いた。オーエン、と名を呼ぶとうつむいていた顔がはっと上げられる。
「おじさん……」
「おじさんじゃなくて、ミスラです。あなた、どうして泣いているんですか」
水滴に縁取られた銀色のまつ毛がぱちぱちと瞬く。オーエンは形のいい眉をきゅっと寄せ、おずおずと口を開いた。
「わかんない……さむい……でも、あつい、からかも……?」
「はあ、なんですかそれ」
聞いてもオーエンは首を傾げるばかり。首を傾げたいのはこっちだ。うるうると瞳を揺らされたって、ミスラには何も分からない。
いっそオーエンを殺してしまえば全部解決するのではないかと思い始めた時だった。ふと、オーエンの揺れていた目がゆっくりと閉じられた。かくんと頭が下に向き、泣き声が止む。その直後、手負いのけだものが静かに覚醒している時のような寒気が背筋に走った。こんな冷たくて獰猛な殺気を出せる者など、この食堂にはミスラの他には一人しかいない。
「オーエン」
「………………なに」
地を這うような声だった。さっきまで泣いていた男が再び顔を上げ、目玉だけを動かして周囲をぎょろぎょろと見回している。このオーエンはミスラの知る、いつものオーエンだと直感した。
「やっと泣き止みましたね」
「は? 泣き止んだって、誰が……っ」
ミスラの言葉を訝しげに繰り返したオーエンは自分の頬に手をやり、濡れて色の濃くなった手袋を呆然と見つめた。まるで自分が泣いていたことに今気付いたかのような仕草だった。
オーエンは次にヒースクリフとシノに目を留めた。二人のことを食い入るように見つめる姿に、ミスラは首を傾げる。そんなに見つめたってその二人は何も。
「…………」
「…………」
何も知らないはずなのに、彼らはオーエンの視線を受け止め、言葉もなく小さく頷いたのだった。今のは一体なんだったのだろう。オーエンは二人の反応にみるみる不機嫌になった。だが一瞬、その冷たい横顔に安堵したような表情が浮かんだのをミスラは見逃さなかった。見間違いなどではない。言葉こそ交わされていないものの、三人の間でミスラには分からない何かが確認され、その何かがオーエンを安堵させた。それがどうにもミスラの心をざわつかせる。オーエンは、不機嫌な顔に似つかわしく重いため息を吐いた。
「最悪……僕はまた……」
「また、なんですか?」
「お前には関係ない」
「俺に関係があるかどうかは俺自身が決めます。ヒースクリフとシノとは関係があるんですか?」
「さあね。お前には教えてやらない」
「はあ……? むかつくな」
もしもオーエンについて、東の若い魔法使いたちが知っているのにミスラが知らないことがあるとしたら、そんなのはおかしいではないか。ミスラの方がずっと強いし、オーエンとの付き合いだってずっとずっと長いのに。
そもそも、オーエンがこんな人前で泣いていたことだって気に入らなかった。今までミスラの前では一度も泣き顔なんて見せなかったくせに、どうして他の魔法使いたちには簡単に見せるのだ。どうして──
ここまで考えて、あれ? と思った。どうして、オーエンの涙でミスラが苛立たねばならないのだろう。何か掴みかけた思考は、中途半端なままオーエンに遮られてしまった。
「お前までむかついてるなよ。今いちばんむかついてるのはこの僕なんだから」
「どうして?」
「分からない? こんな風に見世物みたいに周りを囲まれたら、誰だって嫌な気分になると思うけど」
周囲をじろりと睨む目つきは笑っているように見えて心底冷たかった。にこにこしながら怒れるなんて器用な人だなあ、とミスラは感心してしまう。この人はいつだってこういう顔をしていればいいのにと思う。泣くなんて以ての外だ。俺以外の前では、と付け足しそうになり、またもあれ? と思った。
「服もぐちゃぐちゃだし、ほんと最悪。これ、お前がやったの?」
「さあ……あなたが知らないなら俺だって知りませんよ」
「あっそう」
汚れた服を忌々しげに見下ろしながらオーエンが呪文を唱えた。椅子から立ち上がると同時にびしょ濡れのコートがふわりと持ち上がり、瞬く間に綺麗になってゆく。数秒後にはスーツをかっちり着こなしたオーエンが不機嫌そうに佇んでいた。やっぱりいつも通りのオーエンだ。
「どこへ行くんです」
「教えない。じゃあね」
さっさと食堂を出ていこうと一歩踏み出したその体が、ぐらりと大きく傾く。
「は……」
空気が漏れたみたいな声だった。何が起こったのか分からないという風にオーエンの目が大きく見開かれ、さっきまで座っていた椅子に倒れ込んでゆくのがミスラの目にはやけにゆっくり流れて見えた。
「オーエンさん!」
「おい、大丈夫か」
「チッ……」
心配の声に交じって苛立たしげな舌打ちが聞こえた。普段生気のない頬は赤く火照り、額には脂汗が浮かんでいる。あまり大丈夫そうではなかった。
「もしかして調子が悪いんですか?」
「うるさいな……」
倒れ込んだ拍子に床に落ちた軍帽を細い指先が拾い損ねる。代わりに拾ってやるとひったくるように奪い取られ、ぽつりと一言。
「なんか、あつい……」
「え、そうですか?」
「でも、さむい……気も、する……」
「はあ、またそれですか」
「またって?」
「ついさっき自分で言ってたじゃないですか、寒くて暑いって。もう忘れたんですか?」
「…………ああ」
覚えてるよ、ともごもご言う様子は本当に覚えているのかどうか怪しかった。オーエンはよろよろと椅子に座り直し、はあ、と苦しそうな吐息を零す。
「何か呪いでももらってきたんですかね」
それくらいしか思いつかず首をひねると、オーエンも同じように首をひねる。
「分からない……呪い、とかじゃない気がするけど……」
「ならどうして、」
「あの、オーエンさん、もしかして風邪を引いているんじゃないですか?」
そう言ったのはミチルだった。
ああ、風邪。風邪? 思いつきもしなかった。あのオーエンが風邪ごときで泣くだろうか。
「……はあ?」
信じられないのはオーエンも同じだったようで、二色の瞳がミチルをじろりと睨みつけた。ミチルは一瞬怯んだものの、ぐっと歯を食いしばり言葉を続ける。
「オーエンさん、びしょ濡れでここに座っていましたよね。もしかしてこの雨の中ずっと外にいたんじゃないですか? だから、体が冷えてしまったのかも……」
シノが同意するように頷いた。
「熱が出てるのかもな。それなら熱くて寒いっていうのも分かる」
「なるほど」
言われてみれば、苦しげなオーエンの様子は風邪の症状に似ている気がしなくもなかった。断定できないのは、風邪を引いたのなんてもう随分と昔の話だからだ。雨に打たれただけで風邪を引いてしまうくらいやわな体では、極寒の北の国ではとても生きていけない。それはオーエンも同じはずなのだが。
「あの、私、フィガロ先生を呼んできます!」
「……は?」
ミチルを睨んでいた目がルチルの言葉に凍りついたのが見えた。ネロが隣で息を呑み、顔をひきつらせてルチルとオーエンの間に割って入る。
「待て待てルチル。そんなことしなくたってオーエンは平気だよ。むしろ俺たちがやたらに首突っ込む方が良くないって」
「でも、風邪は引き始めが肝心なんです。オーエンさんかなり苦しそうですし、フィガロ先生ならよく効くお薬を出してくれるはずですよ!」
「っおい……あー、行っちまった」
ネロの制止の声も虚しく、ルチルは食堂を出ていってしまった。その後ろ姿をぼんやり見ていると、オーエンの苛立った声が鋭く響いた。
「ねえ」
オーエンは足を組み、テーブルに頬杖をついて冷たい目でミチルを見ていた。風邪だろうが何だろうが、視線だけで人を殺せそうな迫力に、ミチルが怯えたように後ずさる。とっさにミチルを背後に避難させようとしたらしいネロも、オーエンの一瞥で動かなくなってしまった。ミスラはため息を吐き、仕方なく二人のそばに移動する。万が一にもオーエンがミチルを傷つけるようなことがあればまずいからだ。オーエンはミスラのこともちらりと見やったが、すぐにミチルへと視線を戻した。
「さっきからお前たち兄弟は何のつもり? 南の魔法使い風情が僕に情けをかけようとするなよ」
「なっ……僕も兄様もオーエンさんのことを心配しているだけじゃないですか! それなのに、そんな言い方……」
「だからそれが余計なお世話だって言ってるんだよ。君たちに心配されたって僕には何の利益もない。力を持たないやつの慰めなんて、ただの偽善に過ぎないんだよ」
「っ偽善なんかじゃ、」
「うるさい。《クアーレ・……》ッ!」
オーエンの魔法は不発だった。呪文を唱えきる前にオーエンの顔が苦痛にゆがむ。魔力が乱れているところを無理に魔法を使おうとしたせいだ。ミチルが傷つけられる心配は無いだろうとミスラが警戒を解いた直後、廊下からたったったっと軽快な足音が聞こえてきた。
「オーエンさん! フィガロ先生を呼んできましたよ!」
「…………チッ」
ルチルに手を引かれ連れてこられた南の医者の胡散臭い笑顔を見て、心底不愉快だと言わんばかりにオーエンの舌打ちが響いた。ミスラもフィガロは気に食わないので舌打ちが飛び出す気持ちはよく分かる。気に食わない男はオーエンに向かってひらひらと手を振り、オーエンの額に刻まれたしわはいっそう深くなった。
「やあオーエン。うわ、随分と具合が悪そうだね」
「……僕に近づくな」
「近づかないよ。でも、呼ばれたからにはお仕事しないとじゃない? 風邪の引き始めによく効くお薬があるんだけど、」
「いらない」
「ええ? そう?」
「お前の施しは受けない」
「オーエンさん……苦しい時くらい意地を張らなくたって、」
「いらないって言ってるんだよ。そんな目で僕を見るな」
南の魔法使いの分際で、と息も絶え絶えに吐き捨てたオーエンに、ルチルとミチルは顔を強ばらせ、フィガロは愉快そうにあははと笑った。近付かないという言葉通り、フィガロは遠巻きにオーエンを見ているだけでそれ以上のことをするつもりはないらしい。オーエンを見下ろすフィガロの目にはまるで温度が無くて、これでどうしてあの南出身の医者とかいう馬鹿げた設定がバレないのかが心底不思議だった。
それにしても、とミスラはオーエンに視線を戻す。オーエンがひどく苦しそうにしているのは風邪が原因だったようだ。信じ難いが、フィガロがそう言ったのだから。オーエンの華奢な肩は呼吸に合わせて大きく上下し、熱に潤んだ二色の瞳は地面を虚ろに見つめていた。だが、どれだけ苦しかろうと、この人がフィガロに助けを求めることはないんだろうな、と思う。そんなことはこの人のプライドが許さない。
それならばミスラはどうだろうか。オーエンの隣に立つことを許され、オーエンとお茶しに行くことを許されるミスラなら。
「この人のことは俺に任せてください」
全員の目がミスラに向いた。驚いたような目。困惑したような目。面白がるような目。その中で唯一、凪いだ目をしていた人の元へひざまずき、目線を合わせる。オーエンは何も言わなかった。ただ苦しげな呼吸をしながらミスラを見上げている。その前で、両手を広げた。
「おいで」
「…………」
「オーエン」
何か言いたげに開いた唇が熱い吐息を漏らす。オーエン、ともう一度名前を呼べば、男は諦めたような笑いを一つこぼし、体からふっと力が抜けた。倒れ込んできたオーエンを難なく受け止めつつ、ミスラは思う。
あなたは、俺ならいいんですね。
何ともいえない高揚感のようなものが胸の内から湧き上がった。すがりつくようにミスラに押し付けられる熱い体をさすってやれば、オーエンはぐったりとミスラの肩に頭を乗せる。はあ、と熱い呼吸が耳にかかった。いつもは冷たいこの人がこうも体を火照らせているのは珍しかった。
「よくこれで動いていられましたね」
「はは、舐めるなよ……」
「あなたの部屋でいいですか」
「うん……」
「分かりました。帽子、自分で持っていられますか」
オーエンは今度は無言でこくりと頷く。熱のせいか小刻みに震える背中と膝裏に手を回す。抵抗はされなかった。触るなとも魔法を使えとも言われなかった。
ぐっと腕に力を入れてオーエンを抱き上げる。脱力したオーエンの全体重がミスラの腕にかかる。なんてことはない。筋肉のない体は軽いのだ。食堂の出口へ向かおうとした時、ルチルがぽつりと呟いた。
「オーエンさん、かわいそうに……」
「……っ、」
俯いたまま抱かれているオーエンの顔はミスラからは見えない。だが、腹の上に置かれた軍帽を掴む指にきゅっと力が入ったのが見えた。それなのに口からは相変わらず苦し気な吐息が漏れるばかりで、この人の得意な嫌味は一言も発されない。
「……かわいそう、ですか」
ひどく不快な気分だった。この人が大人しく憐れみの対象に堕ちるなんて、馬鹿馬鹿しいことこの上ない。
何故、何も言わないのだ。あなたは北の魔法使いオーエンでしょう。たとえ熱に浮かされていようと、それだけは絶対に変わらない、あなたの矜恃でしょう。
ミスラは遠巻きにこちらの様子をうかがう若い魔法使いたちを静かに見つめた。そして先程のオーエンの言葉をなぞる。
「そういう目でこの人を見るのはやめてもらえませんか」
腕の中でオーエンがわずかに息を呑んだ。構わず言葉を続ける。
「この人の矜恃を奪わないでください。あなたたちには自分や誰かが弱った時には慰めや助け合いが必要なのかもしれませんが、北の国ではそんなものはいらないんです」
南の兄弟はミスラの言葉に固まっていた。ヒースクリフは目を伏せ、シノは肩を竦めている。一人、彼らの後ろで椅子に座るフィガロだけはやっぱりにやにやと不愉快な笑みを浮かべているのがミスラの神経を逆撫でした。しかし癪なことに、ミスラの言わんとすることをいちばん理解しているのはこの男に違いなかった。仮にも同じ国出身の、古い付き合いの男だ。
「だからそういうことは、オーエンにはしなくて結構です。分かってください」
ルチルとミチルは顔を見合わせ、頭を下げる。ごめんなさい、と二つの声が重なった。
「はい。オーエンも、これでいいですよね」
返事は返ってこなかった。
「オーエン?」
ゆさゆさと揺らすと、俯いたままの銀鼠の頭が力なく横に倒れる。顔を覗き込むと、オーエンはミスラの背に体重を預けてすっかり気を失ってしまっていた。横からフィガロの手が伸び、オーエンのほっそりとした首にあてられる。
「大丈夫。力尽きて眠っているだけだよ。だけど、防御の魔法が解けているのはちょっとまずいな」
「は?」
言われて見れば、オーエンの体には幾重にもかけられているはずの様々な防御魔法が一切かかっていなかった。どうして、と呟くと、南の医者は肩をすくめた。
「さあ、理由までは分からない。でも、ただの風邪でオーエンがここまで弱ったのはそのせいだ。いつも魔法で色々防いでるせいでろくな免疫もついていないだろうからね。滅多に風邪を引かない代わりに一度風邪になったらなすすべがなくなるのは、お前も同じだよ」
「はあ……」
「まあ、しばらく休んで魔力が回復すれば元に戻るだろうから。それまではミスラ、お前がそばにいてやって」
「分かりました」
フィガロは満足そうに頷き、よろしくね、と手を振った。
*
食堂を出て魔法舎の五階にあるオーエンの部屋の前へ移動すると、普段は厳重に張られているはずの結界が外れていた。防御魔法が解けた拍子にこちらも維持できなくなったのかもしれない。罠が仕掛けられているわけでも魔法陣が描かれているわけでもない、ただの扉を開ける。当然、入室を拒絶されることはなかった。
相変わらずきちんと整理された、物の少ない部屋だった。しわひとつない空のベッドにオーエンを降ろすと、ん、と小さく声が漏れる。息苦しいのだろうかと思い、コートとジャケットを魔法で脱がせ、ネクタイもゆるめてやれば少しだけ表情が和らいだ。
「結界も張っておいてやりますか」
オーエンの防御魔法が解けている今、部屋に変な呪いでも入り込んでこれ以上風邪が悪化したらまずいかもしれない。正直ミスラの知ったことではないのだが、せっかくここまで世話を焼いてやったのだからそう簡単に死なれては困る。しばらくして背後で身じろぐ気配がした。
「ああ、起きたんですね」
振り返ると、オーエンはちょうどベッドから起き上がるのに失敗して崩れ落ちたところだった。舌打ちと共に苦しげな呼吸が吐き出される。
「おはようございます」
「っ……」
返事の代わりかミスラを睨みつける目は熱で潤んでいた。もう一度起き上がる気力は残っていなかったらしく、オーエンは大人しくベッドに沈む。細くて薄い体だった。フィガロはああ言っていたが、オーエンは元々が貧弱な体つきをしているから風邪が悪化したのだと思う。これがミスラなら、たとえ防御の魔法がかかっていなかったとしてもここまで弱るとは思えなかった。
「僕の部屋で何してるの」
「あなたの代わりに結界を張り直していました。俺に感謝してくださいね」
「はは、押しつけがましいね……」
口の端だけで弱々しく笑いながら、瞼が閉じてゆく。その隣に腰かけ、珍しく汗をかく額に手を当てた。
「まだ熱いですね」
「うん……最悪な気分……」
「まあ、そうでしょうね」
オーエンは目を閉じたまま眉間にしわを寄せていた。長い付き合いの中でとうに見慣れた、苦痛を我慢している時の顔だ。
「口、開けてください」
「……ん……」
素直に開いた口の中にシュガーを二、三粒ねじ込む。あたたかい口内はシュガーをミスラの指ごと受け止め、唾液がぬるぬるとミスラの指をよごした。
「くすぐったいんですけど」
「ほうひへるんらよ」
うっすら開かれた瞳はミスラをからかうように歪められていた。本当にこの人は。
「いいから早く飲みこんでください」
「っん、ぐ……お、まえ……」
喉奥にぐ、と押しやると苦しげな呻き声が漏れ、喉仏が上下に動いた。飲み込んだのを確認して指を抜く。濡れた唇はぽかんと開けられたままだが、シュガーのおかげで多少は顔に生気が戻った気がする。
「どうですか?」
「……まあ、少しはマシかも」
「なんですか、かもって」
「だって分からないんだよ。最悪な気分だけど、死ぬ前よりは苦しくない……なのに体が上手く動かないし、あついし、さむいし」
「そういうものらしいですよ、風邪って」
「ふうん……」
分かっているのかいないのか微妙な顔でオーエンは相槌を打つ。オーエンもミスラと同様、風邪を引いたことなんてほとんどないのだろう。
「どうして魔法を解いたんです」
「なに?」
「フィガロが言っていました。あなたの防御魔法が解けていると。この部屋の結界も外れていましたし、何のつもりですか?」
「…………さあね」
オーエンの顔が一気に苦虫を噛み潰したような顔になる。一瞬驚いた顔をしたのはもしかすると。
「それも、覚えていないんですか」
「………………」
二色の瞳がうろうろとさまよう。ああ覚えていないんだなと思った。
「最近のあなた、ちょっとおかしくないですか? 小さな子どもみたいになったり、記憶が無かったり。そういえば、そういうのって魔法舎で暮らすようになってから、」
「思い出した。僕、お前に殺されたまま置いていかれたんだ」
ミスラの言葉を遮るように、苛立たしげにそう言われた。しかし身に覚えがない。首を傾げていると舌打ちをされる。
「昨日の話だよ。お前に箒から叩き落とされて魔法舎の近くのどこかに落下して、そこからの記憶が無い」
「死んだんですか?」
「多分ね。その拍子に間違えて魔法を解いたのかも。風邪を引いたのも、死んでる間に雨で体が冷えたからじゃない?」
「へえ、大変でしたね」
「お前のせいだって言ってるんだよ」
「はあ……」
ミスラを睨みつつも、どこか他人事のように話すオーエン。怒りの矛先が向けられているのはミスラではなく、もっと別の何かであるような気がした。ミスラが目の前にいるのにオーエンはミスラを見ていない。北の国で暮らしていた頃はこんなことはありえなかった。
「で、お前はいつまでここにいるつもり?」
「ああ……あなたの魔力が回復するまで?」
それまではそばにいろとフィガロに言われたので、と言うとオーエンは変な顔をする。
「なあにミスラ。さっきからフィガロフィガロって、いつからあの男の言うことに従うようになったのさ」
「別に従っているつもりは無いのですが」
「じゃあ出てけよ。誰かにそばにいてもらう必要なんてない」
「いやです」
「は?」
「俺がここにいたいのでここにいます。あなたやフィガロの意思は関係ありません。いやなら力づくで追い出してみますか」
「むかつくなあ……」
オーエンは今までも一度だってミスラを殺せなかったのだ。今のオーエンがミスラにかなうはずがない。
「もういい。僕は寝る」
「どうぞ。早く治るといいですね」
「…………」
オーエンはまた変な顔でミスラを見つめた。しかし何も言わずに寝返りを打ち、ミスラに背を向ける。枕に散らばった銀糸を掬う手は振り払われなかった。
「オーエン」
「……なに」
「あなたは、北の魔法使いのオーエンですよね」
「…………」
オーエンがもう一度寝返りを打って元の体勢に戻った。何を言っているのだと馬鹿にするわけでも、戸惑っているわけでもなく、ただ静かにミスラを見上げている。見つめ返せば唇が動く。
「お前は、北の魔法使いのミスラだろ」
「ええ」
頷くと、昔とは色の違う瞳が、昔と変わらぬ形に細められた。
「なら僕も、僕でしかないよ」
「そうですか」
それならいいです。そう言うとオーエンはふっと小さく笑みをこぼし、今度こそミスラに背を向けた。
おしまい