教室の隅で、ぼうっと外を眺めていた。
小学校からの知り合いは、みんな俺を気に入らないみたいだったし、原因も、なんとなくわかっていたから。それを、悪いとは思ってたけど、直そうとも思っていなかったから。嫌われても仕方ないと思ってたから。それから、多分、中学校に上がったところで、また同じようなことになるんだろうって思っていたから。
次々と、浮かんでは、消えていく。
全部全部、言い訳と言ってしまえば、それまでの思考だった。
クラス分けを見に行った時、ちょうど隣にいたやつに、話しかけられた。名前は、颯斗(はやと)。小学校は別のところだったから、なんで俺なんだろうとか、呑気なことを思ったような気がする。確か同じ学校の人が同じクラスじゃなかったらしくて、隣にいた自分にとりあえず話しかけた、くらいなんだと思う。
ごめん、やっぱり、何を話したかは、あんまり覚えてない、でも。ただまっすぐ、俺だけを映した、きれいな瞳を見た時。笑った時の、優しい目元を、差し出された自分よりも少し大きい手のひらを見た時に。
目の前で、星が舞うような。
ひどい目眩がしたことだけは、ちゃんと、覚えてる。
それから、颯斗とつるむようになった。向こうからしたら、1人にならないためとか、そういう目的だったのかもしれないけれど、別にそんなのどうでもよかった。
家の帰る方向が一緒だったとか、出席番号が近いとか、席替えで班が一緒になったとか、勧めたものをちゃんと見てくれたとか、授業中目が合った時くだらない変顔してきただとか、通学路で遠くからぶんぶん手振ってきたとか、友達って言ってくれたとか。小さいことも大きいことも、全部が、なにもかもが、堪らなく嬉しかった。
ゆっくりと、優しく過ぎていく日々が、心地よかった。
自分が他人から気に入られないことなんて、百も承知だった筈なのに。
違和感を感じ始めたのは、夏休みが明けて、学校に行った時。
それまで、同じ小学校の人とはあまり仲が良くなかった、のはいつも通りだから、気にしていなかったけれど。
別クラスの、颯斗と同じ学校だった友達とかとは、それなりに仲良くしてもらってる、と思っていたんだけど。廊下ですれ違って、おはよ、久し振り、って声をかけたら、やけによそよそしくて。
でも、夏休み明けだから、距離感わかんなくなったかな、とか、ほんとはあんまりよく思われてなかったのかな、とか、それくらいで。正直に言うと、大して気にしていなかった。颯斗とは夏休み中もよく遊んでいたし、夏休みが明けてからも、颯斗に変わった様子はなかったから。
いつもみたいに、バカみたいな話をして、笑って、日常を送っていさえすれば、元に戻るって、そう思ってた。戻らなくても、別に颯斗がいれば耐えられると思っていたのかもしれない。どこまでも傲慢で、慢心していたんだと思う。
秋口になると、周りから避けられているのを流石にちゃんと自覚した。まあ、これまでもその時も、家族家族で周りに説明もしなかったツケもあったし、颯斗の友達も、その頃には、明らかに俺と話したくなさそうな様子になっていたし。まあ仕方ないか、と思った。仲良くなれるかもなんて、期待したのが馬鹿だったなと。
変わらず颯斗は一緒にいてくれていた。きっと周りから避けられているのは颯斗にだってわかっていたと思うけど、ただ、変わらず一緒にいることを選んでくれた。どこまでも優しくて、ただ、嬉しくて。ずっと続いたらいいと思ってた。俺は。颯斗は、多分、この時から、そうじゃなかったんだと思う。
それから、文化祭とか、合唱コンクールとか、あとは、生徒会選挙とか。そう言うのが過ぎていって、それから、春休みを挟んで、2年生になった。
先生側が空気を察してなのか、ただの偶然かはわからないけど、2年生になっても颯斗と俺は同じクラスだった。颯斗の小学校からの友達も同じクラスだったから、一応挨拶はしに行ったけど、なんだか汚いものを見るような目で見られてしまったから、それ以来話しかけるのはやめた。引き離そうとしてくるだろうな、と思った。実際そうだったけど、颯斗はやっぱり俺とも話してくれて。クラスが同じになるとさらに板挟みが加速してて、颯斗は家が貧乏らしくて、弟妹もいて大変だって聞いていたし、余計に、気苦労をかけてごめん、と思った、けど。どうしても、離れてもいい、とは言えなくて。一緒に帰ったり、ペアで体操したり、そういう、1年の時と、見かけは変わらない、生温い生活が、1ヶ月くらい続いた。
颯斗も、その友達たちも、多分、痺れを切らしていたんだと思う。
確か、雲が空を覆っていて、湿気が多い日の朝だった。一緒に登校して、鞄を用意して、最近暑くて嫌だよな、なんて、前後の席で颯斗と話していた時に、件の颯斗の友達が登校してきて、颯斗に話しかけてきて、まるで、お前はここから消えろとでも言わんばかりで。俺がいるときも直接来るなんてなかなかないから、ひどい居心地で、息苦しくて。きっと、颯斗もそうだったんだと思うけど、その時の俺は、そこまで気を回せるほど、大人じゃなかったから。
声を荒げた颯斗に、心底驚いた。
なんで皆してこんなことすんの、お前らも、仲良かったのになんで、って。
自分の隣で、立ち上がってくれたことが、涙が出るくらい、頼もしくて、嬉しくて。
そんなことに浮かれられていたのは、一瞬で。
だれが言ったのか。
"ホモのくせに"、と。
"颯斗、そういう目で見られてるんだよ、目を覚ませよ"、と。
弟が社会のゴミの障害者の癖にだとか、お前も障害者だとか、卑怯者の子供は卑怯者だとか、そう言う、飛んでくる声には、いくらでも、怒った。颯斗も言い返してくれていたし、でも。
俺が言葉に詰まったのが先だったか、颯斗の方が、先だったか。
颯斗が言い返さなくなったから、俺も、何も言えなくなって。言葉が返ってこなくなったからか、だんだん、教室も、静かになっていって。
そうなの?って。颯斗が静かに問いかけたのだけが、空間に響いて。
まるで、断頭台に立たされたような。
刺すような周りの目が、自分を見る颯斗の目が、怖くて。目を逸らすことすら、許されないような気がして。
違う、って。
そんなことない、って。友達として、颯斗のことが好きだけど、そんなふうに思ったこと、ないよ、って。
絞り出すように、言った。
颯斗は、それからもしばらく、呼吸を忘れたみたいに俺を見ていたけど。
そうだよな、って。
颯斗も、絞り出すように言って。
それからは、多分、嘘だとか、騙すなんてひどいだとか、ぽつぽつ、ひそひそ言われてた気がするけど。先生が来たら、皆やめるだろうし、授業は始まったと思うし。日中何があったかは、あまり覚えてない。帰り道で、信じるから、ってまっすぐ自分を見る颯斗に、なんて返したかすら、あまり。
だって、わからなかったんだ。
普通に、女の子を好きになって、結婚して、って、生きていくと思っていた。
今だって、きっとそうだって、思ってる。
颯斗のことは友達だと思ってたし、それ以外の感情なんてないと思ってたんだ。
でも、なら。
どうしてあの時、直ぐに否定できなかったんだろう?
次の日も、その次の日も、颯斗はいつも通りだった。行きも一緒だったし、体育でもペアだったし、いつもみたいな、くだらない話をして、いつもの場所で別れる。いつもと同じで、優しくて、ただ。
変わったのは俺の方だって、自分が1番、よくわかっていたんだ。
例えば。
授業中、眠い瞳を擦っていたら、頭にデコピンなんかしてきて、笑われた時。
例えば。
窓の外を眺める、無気力な横顔を見てしまった時。
例えば。
休みの日、遊びに行くのに、いつもと違う格好で、イヤホンなんかつけて、自分の到着を待っているのを見た時。
例えば。
シュートを決めたのは颯斗で、俺は何もしていないのに、ハイタッチ、って。息の上がった、紅潮した頬で笑いかけられた時。
きっとクラス分けで、隣にいた自分に、まっすぐな目で話しかけてくれた、あの時だって、そうだった。
颯斗と過ごす時の全部に、心臓がどうしようもなく波打つ、でも。
今はそのたびに、涙が零れそうになるんだ。
きっと、図星だったから。
だから言い返せなかった。
嫌われたくなかったから、離れて欲しくなかったから、失望して欲しくなかったから。
わからないから、そうじゃないかもって、自分に言い訳したかった。
そのままの自分を、まっすぐ映してくれた、透き通るようなその瞳が、ずっとずっと、好きだったのに。今は、まともに見られない。向き合えないのに、それなのに、どうして。どうして、その瞳に映るのが自分じゃないんだろう、なんて。
少しでいいから近付きたいとか、触れて欲しいだとか。
俺たち、どうしたら、友達になれた?
もう、頼むから、そんな目で見ないで。
颯斗のこと、ずっと、好きだったんだ。
友達としてじゃなくて、恋愛対象として。
颯斗のこと、好きなんだ。
堪え性がないから、夏休みの少し前に、そう話した。颯斗は、そっか。って、ぎこちなく笑って、少しの間のあと、風といっしょに、教室を出ていった。
颯斗と学校で話したのは、それが最後だったと思う。
春夜から、好きだって言われた時。
やっぱりな、って思った。
友達として、春夜のことが好きだった。話が合うところとか、家族が大好きで、兄ちゃんとして仲間なところとかも。
でも、あの日。
春夜が、自分のことを好きで、そういう目で見ているんだって言われた時。
気持ち悪いと、思った。
今、目の前で、肩を震わせて、泣きながら話している春夜を見ても、そう思う。
薄情だと思う。でも、だって。
友達だと思ってたのに。
震えた声で言っていた、違う、を、友達として、ちゃんと信じようとしてたのに。
そういうの、全部飲み込んで。
友達として、ちゃんと、笑って、そっか、って、言って。
もう、それで精一杯だった。
教室を出たあと、後ろから聞こえる、泣き声を聞いても、どうしても、受け入れられなかった。
そういう自分がいることが、1番嫌だった。
春夜がゲイでも、別にどうでもよかったんだ。
でも、なんで俺なの。
俺は友達でいたかった。バカみたいな話して、ご飯食べに行ったり、ふざけたり、趣味の話とか、家の話とかで盛り上がったり、とか。そういう時間が楽しかった。
なのに、俺が春夜と純粋に会話して、楽しいと思って笑ってた時、春夜は一体、俺に何を思ってた?
春夜が悪いわけじゃないのなんかわかってる。今考えたら、"春夜がゲイじゃないって信じる"なんて、1種の人格否定だったんだと思う。
でもなら、どうしたらよかったの。
俺たち、友達じゃなかったの。
春夜のこと、気持ち悪いだなんて、思いたくなかったのに。
それから数日で、子供が障害者と異常者なんて親が可哀想だ、とか、誰が聞いてたのか、颯斗に振られたからって次は弟に乗り換えなんて、障害者でも可哀想だ、とか。そういう噂が流れ始めて。俺と一緒に帰らなくなってから、春夜は早く帰って小学校に弟の様子をよく見に行ってるとかって聞いたから、多分噂の原因はそれだと思う。人のことを言えた口では無いけど、春夜が家族優先で、弟大好きなのなんて、今に始まったことじゃないのに、って思ったけど、何も言えなかった。気に病んでないといいなとは思ったけど、やっぱり駄目だったみたいで夏休みまでカウントダウンのあたりで、春夜は学校に来なくなった。あんまり寂しくなくて、そうなんだ、くらいで。自分の薄情さがちょっと嫌だった。
でも、春夜が来なくなった途端皆が俺を被害者扱いし始めて、気持ち悪いとか、異常者だとか、普通の声で話すようになったことの方が何倍もムカついて、周りとあんまり話さなくなってから、夏休みに入った。次のターゲットは俺になるんだろうけど、別にそんなの気にならなかった。
そのまま入った中2の夏休みは、完全に浪費としか言いようがない。課題は最初のうちに終わらせたし、部活の助っ人くらいしかやることはなかったし、家で弟妹とだらだらしてたら、後半に差し掛かってて。友達いないとやることないんだなって実感して、ちょっと笑ってた。そしたら、スマホが鳴った。
春夜から、転校するから会えないか、って話で。なんとなく、それも、やっぱりな、って思った。
久し振り、って笑った春夜は、前とあんまり変わらなかった。告白してきた時にはもう、けっこうやつれてたし。
久し振り、って、多分、あんまり上手く作れてない笑顔で言ったら、うん、って嬉しそうに笑ってて。やっぱり、受け入れ難くて、嫌だった。
転校するんだ、とか、チャットで話したのと同じ内容の話を繰り返してみたりしたけど、あんまり会話は続かなくて。切れた会話を自販機で水を買って誤魔化して、あっついなぁとか思いながら、太陽を眺めて、それから。
ちゃんと話さなきゃな、と思ったら、春夜の方から話し始めた。
「……ずっと後悔してた」「裏切ってごめん」
「……いいよ。俺も、押し付けてごめん」
「……いいよ?」
なんだかその返事が面白くて、2人で小さく笑って。やっぱり、楽しいなあと思って。
春夜も、今は、同じ気持ちなんじゃないかなあとか、都合のいいことを考えて、2人で、もう1回歩き出して。それから、会話はなかったけど。
いつもの通学路の分かれ道で、立ち止まった時。
まっすぐ、俺の目を見て。
春夜が口を開いた。
「……俺、颯斗と、普通の友達になりたかった」
……ああ。
そう。
そっか。
「……俺も、春夜と友達でいたかった」
そっか、と、呟くように春夜が言ったのを、蝉が掻き消すように鳴き喚いていた。
息が苦しかったから、ゆっくり息を吐いて、吸った。それから、ちゃんと、声に出した。
「元気で」
思っていたよりも声が大きくて、春夜は少しびっくりしたように目を見開いていた。けど、ゆっくり、少し笑って。
「うん」「颯斗もね」
そう言った。
そこで、別れて、歩きながら。
なんでか、ただ、ただ、涙が出て。
春夜も、多分、きっと、そうで。
蝉が変わらず鳴き喚いているのが、なんだか恨めしかった。