そこには愛なんてあるはずもなかった ㅤカタッと物音が微かに聞こえ意識が浮上する。
ああ、今帰ってきたのか。時間は、とベッド脇に置いていたスマホで時間を確認する。眩しい。
……4時半、まあ、今日は帰ってこられただけマシなのかと欠伸を一つ。
「変に目が覚めちゃったな……」
しかしリビングに出向く事は出来ない。何故なら、彼と鉢合わせてしまう可能性があるからだ。もう、半年程は顔を合わせていないなと覚醒しきっていない頭で考える。別に避けているわけではないが、会ったところで会話なんて続かない。向こうだって面倒だと思うだけだろう。
結婚して約1年。
最初から愛なんてものは存在していない。
「お前には明日、結婚をしてもらう」
あの日、父にそう言われ、“ああ、ついにこの時が来たのか“と特に感情が揺さぶられる事無くただその現実を受け入れた。
所謂、政略結婚。
そんな一昔前のような出来事があるのか?と問われれば、ある、そうお答えするしかないが“承知しました“と簡潔に言葉を返した。こちらの意思なんてものは初めから存在せず、当日、話もそこそこに婚姻届にサインをしていた。
そしてその時、初めて見た夫となる男。
これまた随分若い、そう思ったがなんと私と同じ歳だと聞いた時には流石に驚いた。
声に感情が無い“初めまして“を交わして印を押す。笑いが内心漏れたって仕方が無い。
行き遅れた私の使い所に心底困っていた父は厄介払いが出来た事に終始満足気な顔をして去って行った。
それだけが妙に脳裏に焼き付いている。
婚姻後一息ついたところで、“君にはいくつか守ってもらいたい事がある“と約束事をさせられた。あの時、こちらを見る瞳は、私の事なんてまるで写していなかった。
彼が婚姻を承諾した理由、いや目的を語る事は無かったが、ごく一般的な結婚生活から逸脱する事は明白だった。
仮の夫、仮の嫁。契約のような関係だ。
ただ法的に繋がっただけの存在なのだから。
そこからは楽しいタノシイ結婚生活のハジマリ。
……なんて。楽しい事は何一つ無い。
まあ自由はあるんだから贅沢なんて言わない。寧ろ父に監視されなくなって幸せだ。
「風呂でも入ったかな……喉渇いた」
物音がしなくなったタイミングを見計ってギジリとスプリングを軋ませ、部屋を出た。
冷蔵庫から水を取り出しコップに注げはひんやりと手に伝わる冷たさが妙に心地良かった。はぁ、と溜息が何故か飛び出したがコップを傾け水を口に含む。
「……ああ、起こしてしまったか?」
結果大惨事である。
「お、おい、大丈夫か?」
「げっほ、ごほ! だ、だいじょ、ケホ、ぶ、です……っ」
水を飲み込む寸前に気配無く背後から声を掛けられた人間がどうなるかは想像付くだろうか。私の場合は飲み込めず噴射してしまった。
お笑いかよ、きたねぇ……。おっと、口が悪くなった。
シンク近くに掛けてあったタオルを慌てて掴み口元に当てながら彼の方へ身体を向ける。
「⁉︎」
「? おい、」
「だ、大丈夫です! ほ、んとうに……! けほっ」
流石の夫も突然声を掛けてしまったが故の惨事に罪悪感を抱いたのだろう。眉間にシワを寄せながら手を伸ばしてくるが、それを一歩後ろに下がりノータッチミー!と言わんばかりにこちらも手を伸ばし応戦する。
それよりも服‼︎ 服着て⁉︎ 風呂上り、いやシャワーをしただけなのだろう、首にタオルは掛かっているが上半身裸。
……水も滴るいい男。こういう時のためにあるような台詞だ。
「……そうか」
「は、はい」
「………なぁ、君はそんなに僕に触られるのが嫌か?」
「え?」
まさか、会話が続こうとは。
久しくなんて言葉では片付かないくらいに本当に久しい会話。彼は何て言った?
僕に触られるのが嫌? そんな事を言う人だったろうか、仕事疲れで思考が変になっているのか?と内心思うが良く考えれば、彼の事はほとんど何も知らないんだった。名前、年齢、警察官、確かな情報はそれくらいだ。まともに会話なんてした事が無く、どう対処すれば正解なのかを図りかねる。
それに、愛の……無い結婚だ。身体だって重ねた事は一度だって無い。この生活が続いて約1年……何故今、距離を縮めようとしてきたのか?
交流をして来なかった仮の夫の思考なんて、読めるはずも無かった。
「あの、風邪引きますよ。髪もちゃんと……乾かして下さい」
「……そうだな。ああ、そうだ、君が乾かしてくれないか?」
「は?????????」
首を軽く傾げて見つめられても困惑するだけだ。
◇
その顔は心底意味がわからないと言った顔とそして声だった。それは、そうだろう。
しかし、僕からすればその声色や表情全てが新鮮だった。やっと、隠されていた本当の彼女を見る事が出来るような気がして。ずっと表情や感情が動かない子、悪く言えば操り人形、そうだとばかり思っていたから。親に反抗する事もなく籍を入れ、約束事があると我ながら自分勝手に突き付けた条件に表情を一切動かす事なく「はい」と一言静かに発した彼女。その彼女が今、感情を表に出している。
「……あの、聞き間違い」
「ではないぞ」
被せるように言えば、静かに黙り込んでしまった。何か考え事をしているのだろう。突然今まで交流の無かった夫から、髪を乾かしてくれ、そう言われれば誰だってそんな反応にもなるか、と少し笑いが漏れる。
いつからだったか、君ともっと話をしてみたい、君の事をもっと知りたい、そう思ったのは。それは確実に、あいつらに君の話を聞かなければ湧かなかった感情かもしれない。なかなかに酷い男だな。だが、突然降って湧いて来たこのチャンスを逃すつもりは、もう無い。
「……嫌か?」
そう言って彼女の指にそっと触れ様子を伺う。触れられた事に少し身を固くしたようだが「嫌ではないですが……」と小さい音が返ってくる。それに少し満足して「じゃあ、ほら、行こう」とそのまま指を絡めてソファーへ向かう。
振り払われるかと思ったがどうやらそのまま大人しく着いてきてくれるようで内心息をついた。
「はい、これ」
棚からドライヤーを取り出し渡せば渋々といった感じでそろっと受け取る彼女。
「あの、本当に乾かすんですか……私が」
「うん」
「うん、って貴方ね……」
「女に二言はないだろう?」
「それを言うなら男に、はあ。もういいです」
「床に座って下さい」と言われ、言う通りに座れば彼女はソファーに腰掛ける。そしてカチッという音と共に風を感じた。
「びしょびしょじゃないですか……ちゃんと拭かないと風邪引きますよ全く」
「君が乾かしてくれるから問題ないさ」
わざと大きく吐いたような溜息がドライヤーの音に混じって背後から聞こえるが、それにすら嬉しく感じる。感情がある音に。
そろっと戸惑いがちに手が髪を掬い、指を通して乾かしてくれる彼女に頬が緩まない方がおかしいかもしれない。それ程に心に温かい何かが広がっていき自分でも驚いているくらいだ。下を向いていて彼女には気付かれないことが何よりも救いだったな。
「綺麗な色……」
「ッ、……何か言ったか?」
「! い、いえ」
咄嗟に飛び出した言葉なんだろう。
聞こえないフリをしたが、本音であろう言葉にさらに頬が緩む。ああ、顔が熱い。
いい大人が何に舞い上がってるのか。
それっきり会話はなかったが心地の良い空間だった。彼女も本気で嫌がっていたわけではなかったことに胸を撫で下ろす。
「終わりましたよ」
「ああ、ありがとう」
「はい、じゃあこれで失」
「……なあ、」
用は済んだと言わんばかりにすぐ立ち去ろうとする彼女の言葉をまたも遮り声を掛ける。
「……なんですか」
「敬語、外さないのか?」
「…………は?」
たっぷり十秒はあっただろう。
まだソファーにいる彼女を下から見上げるようにして目線を合わせる。戸惑った顔に揺れている瞳。相当動揺しているんだろうか。
「だって、僕たち、夫婦だろう?」
「な、にを……だっ、てそれは」
「仮染めの?」
「っ、そうです」
「仮染めの夫婦だからって敬語である必要はないだろう?」
「……。さっきから、何なんですか。いきなり話しかけて来たり。今までお互いに干渉せず上手くやってきたじゃないですか。貴方が言うように仮染めの夫婦です。契約みたいなものでしょう。貴方が出してきたお約束事通りに私はやっているはずです」
だからこれ以上踏み込むつもりは無いし踏み込ませない、そう言っているようで。
それは拒絶とも取れる言葉だった。
「……眉間に皺が寄ってるぞ」
「誰がそうさせているんですか。とにかく、私はこのスタイルから外れるつもりはありません。何を気にしたのかはわかりませんがどうぞお気遣い無く。用がそれだけであれば私はもう自室に」
「なら僕にも考えがある」
「ッ‼︎ いい加減にして下さい‼︎」
ソファーからガタッと勢い良く立ち上がり僕を見下ろす。声を荒げる彼女は初めてだ。
「な、にがおかしいんですか……っ、馬鹿にしてるんですか⁈ こんな時に笑うなんて」
「嬉しいんだよ」
そう言えば更に濃くなる眉間の皺と、頭でも打ったのかという台詞。
「いーや」
「っ意味が分かりませんっ、何でこんな突然……っ」
「君が戸惑うのはわかるよ」
膝に手をかけ、すくっと立ち上がり彼女の正面に立てば少し警戒の色を示す。これ以上自分のテリトリー内に近付くなという猫のようだ。
「僕は遠慮するのをやめることにしたんだ」
「え、んりょ?」
「そう、君の事を沢山知ろうと思ってね」
ますます意味が分からないと言った顔だ。
だけどごめん。自分勝手だろうが何だろうが、もう僕は折れるつもりはないんだ。
◇
「そう、君の事を沢山知ろうと思ってね」
意味が、わからない。
沢山知ろうって何。今更何なんだ。人を困惑させて何が楽しいのか。
何かの遊びのつもりなのか? 少し暇でも出来たから遊んでやろうって気まぐれでも起きたのか? それならとんでもなく迷惑な話だ。人を傷付ける様な人ではないと思っていたのに、そうでもなかった?
「知る必要はないでしょう、知ったところでこの関係は変わらないじゃないですか」
「変わるかもしれないだろう?」
「変わりません」
「君も僕の事を知ればいい」
「知りたくありません」
「頑固だな案外」
私の台詞だわ。
「とにかく僕は君の事を一つでも多く知りたい」
プチン、自分の中で何かが切れる音がした。
「あのね‼︎ そうやって人を揶揄って楽しい⁉︎ 今更本当に何なの⁉︎ 何様のつもり⁉︎」
「降谷零だが」
「そ、ういう事を言ってんじゃないわよ‼︎」
「はは、ああ、そうだな」
「〜〜〜っ、」
完全に遊ばれてる。厄日か? この優秀であろう男に敵うわけもない。
自室から出たのが間違いだったんだ。
「ああ、言っておくが遅かれ早かれ君とはこうやって話すつもりではあったぞ」
こわ。何を察知したのよ。
「それにやっと、敬語が外れた」
「っ!」
ふわっと笑った彼に目を丸くする。
なんでそんな、柔らかく……笑うんだ。
「君が感情を表情や声に出してくれるのが嬉しいんだ」
「私に、だって……感情の1つや2つ、」
むしろ本来感情の起伏は激しい方だ。
表情だって、よく動く方よ、うん。
それを表に出さないだけで。
完璧に偽って生きてるだけ。
「うん、知ってる。君が本当はよく笑う子だってことも、実は口が悪いってことも、正義感が案外強いことだって。困った人が居たら手を差し伸べずにはいられないことも。この前も銀行強盗に立ち向かったんだろう? 格闘技までやってたなんて、驚いたよ」
絶句した。
何で知ってるんだ。どこかで見ていたのか?と冷や汗が背中に伝った気がした。
「……人違いでは」
「松田は君を間違えないと思うが」
そもそも一緒に巻き込まれたんだろうその日、と軽い口調で言われ、はっ?と開いた口が塞がらない。
「まつだ、って陣平……?」
「何だ、松田のことそう呼んでるのか? あまり頂けないな。僕のことも零と呼んでくれ」
いやもう情報が追いつかない。呼ばないし。
何故なんだと納得していない顔を向けられても困る。
「降谷さんは、」
「零」
距離の詰め方バグってきてんのかなまじでどうしたんですか怖いんですけど。
「ごほん。ふ る やさんは、陣平、くんとお知り合いなんですか」
「同期だからな」
ど う き
「つ、かぬ事をお聞きしますが、同期という事は……あの、研二くんと伊達くんも、えっと」
「同期だな」
オワッタ。
ちなみに君が何気なく助けた諸伏という男も僕の幼馴染で同期だ、なんて言葉は聞こえない。
素の私のことなんて筒抜けだったということなのか。結婚以来ほぼ彼と接触することがなかったとは言え私は親の言いなり上等大人しい社長令嬢という印象を保ってきた。それが意味を成していなかった……? 実はガサツな女だというのがバレて、なんて、いやいやそんなまさか。
……あれ。
「なら、私のことなんてもう知る必要ないじゃないですか……。あの人達から聞いているんですよね」
「僕は君の口から色々聞きたいんだよ」
めんどくさい。
「あの降谷さん、」
「だから零と」
「うるさい。話聞いて下さい」
「……わかった」
降谷さんは仕方ないなと渋々ソファーに腰を下ろした。わかったという態度では無い。
「降谷さんともあろう人が溜まってるんですか? 選り取り見取りでしょうに」
「溜まってる?」
「性欲」
溜まってる?と首を傾げたままピシッと固まった人間が見下ろした先に誕生した。しかし知らない。
「そういうものを吐き出したいのなら他の人でお願いします。お約束事には入っていなかったですし。彼女さんとかいるでしょう?」
「…………」
「降谷さん?」
「、僕は……君と結婚をしているだろう」
「? はい、そうですね」
「彼女が居ると思っていたのか?」
「え? はい居ますよ、ね、……え⁉︎ 居ないんですか⁉︎」
嘘でしょ、絶対嘘じゃん⁉︎
どう見ても落ち着いて話してる外側からは想像出来ないくらいの本性は超絶野獣‼︎ みたいなタイプでしょ私知ってるんだから! 女の子朝まで寝かせないでヒンヒン言わせちゃうんでしょ! やだこわいねぇ。
ま、全部想像だし私には関係無い話だけど。
「……何故そんなに驚くんだ。居るわけないだろう」
「何で⁉︎」
「何で、って、君も変わってるな。僕と君は夫婦だろう?」
額に手を当てて、何を当たり前の事を?と言ったさまで、はあっと重い息を吐き出す夫。
心外だ。溜息吐かれすぎ私。
「いやそれは外面だけの話で、仕方なくでしょう。降谷さんだってそのつもりじゃないですか」
そう問えば指の隙間からチラリと目線だけがこちらに向いた。何その目は。一言申したい、みたいな目線を向けられても困る。さっきからずっと困ってる。
でも、だって、事実でしょう。
「なぁ、少しでいい。座って話そう」
そう言われ言葉に詰まる。でも懇願するような瞳と「頼む」という声色を聞いてしまえば断ることなんて出来そうになかった。
「わ、かりました」
◇
覚悟はしていた。していたが、こうも眼中に無かったのか。本当に結婚=契約という認識でしか無かったのか。まあ政略結婚だ、それも致し方無いし僕もそのつもりだった。いつかはこの婚姻も解消することになる、以前の僕もそう思っていたので、咎めることは出来そうにない。
彼女の口から突然性欲という言葉が飛び出て驚いてしまったが、それよりもまずは彼女という存在が居ないことついてしっかり話す必要がありそうだ。
「まず、僕に彼女は居ない」
「だから何でですか」
「仮だったとしても夫婦になったんだ。そういう人を作るつもりは初めから無かったよ」
「えええ……そんなの信じられません。というかじゃあ処理とかどうしてたんですか、あ、そういうお店行ってたとかですか」
「っ、」
「あ! 黙るってことはそういうことですね、なるほど。なら安心しました」
「違う、断じて違う安心するな」
変な誤解のまま進みそうになり否定する。
何でそうなるんだ。
思っていた以上にそういった話に抵抗が無い子だということが分かったが、何故安心するんだ。何回も言うが一応夫婦だろう。
向かい合った彼女を見れば本当に僕達は夫婦なのか? 虚像だったのか?と疑いたくなる程にケロッとしている。
「じゃあどうやって抜いて、はっ、もしかしてE」
「今すぐ突っ込んでやろうか」
距離を取るな。そっちから仕掛けてきたんだぞ全く。
深めの溜息が漏れ、君は、と話を進める。
「彼氏が、いるのか」
「いるわけないじゃないですか」
「それは何故?」
「何故って、降谷さんが好きだから?」
「え?」
「ん?」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
待ってくれ、聞き間違いじゃないのか。仕返しに揶揄って来ているのか。今聞き間違いじゃ無ければ、
「好き……? 君が、僕を……っ?」
「? そうですよ」
「い、いや、待ってくれ、君、僕の事が嫌いなんじゃなかったのか?」
先程の拒絶のような態度と矛盾しすぎている。
「嫌いですよ?」
混乱を極めた。
流石の僕でも意図が掴めない。
僕が声を発しようとすれば、彼女の口が開く。
「上司の言いつけで結婚をするような人は嫌いです。それが、例え、父を逮捕する為だったとしても」
「! なんのこ、」
「隠さなくていいですよ。初めから知っているので」
「……、君は」
「そろそろ逮捕出来そうですか?」
「……ああ」
ここで嘘をついても得策では無いだろうと判断し頷けば、目線がかち合い微笑まれる。
「よかった! ああそうだ、別件でしょうし、これもご存知かもしれませんが、母を殺したのも父ですよ」
「……そうか」
ええ、と僕から目線を外して発する声は驚く程穏やかなのにちらりと見える瞳の奥は憎悪が見え隠れし、僕でさえ肝が冷える。
「強盗に見せかけるなんてやすっちー計画ですよね。それでも、父は逮捕されなかった。きっと、証拠はあちらこちらにあったはずなのに。悪い人間ってとことん悪いんですね。関係者纏めてみんなぶち込んじゃって下さい」
母だけは本当に良い人でしたから、と語る目は悲しみを隠しきれていなかった。そこで改めてこんなにも感情が出る子だったのだと気付く。
「降谷さん、それが済めば婚姻も解消されますよね」
「解消、したいのか」
「はい」
「君は、僕の事が好きなんだろう」
「ええ、でも嫌いでもありますから」
そう言って、話は終わりだというようにソファーから立ち上がる彼女の手を何故か掴めなかった。
きっと、彼女はこの婚姻を何が何でも解消させるつもりなんだろう。
逮捕者の娘。そのレッテルが僕に影響するとでも思っているんだろうか。そんなものどうとでもなる。
「……もう」
もう、そんなことでは手放してあげられないところまで来てしまっているのに。時間にして1時間程度、たったそれだけしか会話をしていないのに彼女のことを離したくない、そう思ってしまった。これが本能なのか何なのか、彼女に惹かれてしまう自分がいた。
「非科学的な物は信じない質なんだがな……」
この婚姻はただの政略結婚ではないという隠された理由を知っていた。あいつらから「隠したいことがあるなら色々油断するなよ、彼女は……賢いぞ」と言われてはいたが、なるほどなと感心する。
母を殺した父を裁いて欲しい、その気持ちが強くあったのだろう。目的の為なら彼女は誰よりも自分を犠牲にして生きていくタイプなのかもしれない。この結婚がいい例だ。今回は逮捕をしたい僕と利害が一致した、というのも一つか。
しかしどうも彼女は他人の気持ちを優先する癖、お人好しというかなんというか、と色々あいつらから聞いた情報や今までの出来事で分析する。
なら、その他人の気持ち……僕の気持ちも優先して貰おうか。
僕の事が好きなんだろう。丁度いいじゃないか。
何が何でも僕は婚姻を解消しない。手放すつもりもない。それに折れてもらおう。押していくと決めた僕はしつこいぞ。
心に棲み付く邪な気持ちが囁く。
無駄にした1年をどうやって塗り替えていこうか。
「僕の愛は重たいぞ、覚悟しててくれ」
そう口にした声が存外楽しげで、そう遠くはないであろう関係の変化に胸躍らせた。