北海道満といっしょ「うーん、迷ったねぇ」
「マスター、これは遭難、と言いませぬか」
「キミがいるからそこまでではないでしょ」
立香がからりと笑って道満を見上げれば、ええ、はい。まぁ、なんとか致しますが。と胡散臭い笑みが返される。
事の起こりはこうである。日本の北海道にて微小特異点が発見され、マスターと適性のある英霊三名がレイシフトを行った。年代は百年ほど前という曖昧なものであった。現地に着いてすぐ通信は途絶え、とりあえず全員で近くを探索してみるも現地の民族抗争に遭遇し、逃走。途中、同行サーヴァントであったアナスタシアと曲亭馬琴が囮となり、マスターを争いから離脱させたのである。道満は式神を用いつつ本体はマスターに随伴。二人で人気のない方へ逃げるうち、山あいに迷い込み、今に至る。
「もう少しこのまま進みましょう。一刻ほど歩けば廃棄された山小屋があります故」
さらりと道満に言われて、立香は走りながらも周囲を調べていた彼の手腕に舌を巻く。
「さすが道満、頼りになるね」
「ええ、拙僧多才なれば!」
ふふん、と嬉しそうに胸を張る道満を見て立香も顔を緩める。大分褒められ慣れて来たのか、恥ずかしがったり固まるような素振りは少しずつではあるが減ってきた。
また、男が何か画策している可能性はあれど、立香としてはまず先に休みたいのが本音であった。前後左右に広がる手付かずの自然は歩くだけでも多大な労力と神経を使う。体力に自信がある立香といえど、状況が全く分からないまま追い立てられるように草の生い茂る道を行くのは疲れるのだ。
道満から言われるがまま歩き続けると、木々の間にひっそりと佇む小屋が現れた。入り口は鎖で閉ざされていたが、道満の手にかかれば縄のようなものである。立香は心の中で勝手に使うことを謝罪しながら、鎖を千切って屋内へと侵入する道満に続く。中は埃臭さはあるものの、清めれば十分一夜を明かせそうである。部屋の隅を見れば、バケツや鍋、包丁や鉈、箒など使えそうなものがひとまとめにして置かれていた。流石に布類は寝具として使う気にならないが、掃除用具としてなら利用できなくはなさそうだ。
「マスター、陣地を作り終えました。英霊お二方に式神を飛ばして宜しいですかな?」
「ありがとう道満。うん、お願い。それが終わったら、休憩しよっか」
立香は二脚あった椅子の埃を払い、片方に腰を落ち着ける。レーションをウェストポーチから取り出し封を開けかけたとき、道満から声がかかった。
「其方の携帯食はもそっと急を要する時に使うのがよろしいでしょう。幸い周りには自然が溢れておりますし、少々お時間を頂ければお食事がご用意出来るかと存じますが」
「……その心は?」
「拙僧が手ずから狩り、用意した食事が我が主の血肉になるかと思うと……いささか昂りますなァ」
目を半月にして笑う道満の顔はいかにも反英霊らしいものだ。しかし、立香はこの台詞は本心であろうとあたりをつける。
「分かった。じゃあ、私も何か手伝うよ」
「マスタァ、自分で言うのも何ですが、あまり拙僧を信用し過ぎぬ方が良いかと」
「んー、さっきのは虚偽?」
「いいえ」
「じゃあいいじゃない。で?私は何をしたら良い?」
「……本当は此処に居ていただいた方が安心なのですが。我が主は言っても聞かぬでしょうしねェ」
「分かってんじゃん。私にも何か手伝わせて欲しいな」
立香が事もなげにそう言うと、道満は少し苦い顔をした後指示を出し始める。
まず、自生する旬の野草を式神と共に取りに出て、それが終わったら小屋内を生活できるように清め整える。野獣や魔物が出る可能性があるから、可能な限り室内に居ること、式神の言うことを必ず聞くようにと念押しされる。立香が頭を縦に振れば、道満は第二再臨の姿になった後式神を二体作り出す。一体は道満の第一再臨姿、もう一体は戦闘時によく見る蛙の姿だった。
「では、マスターには此方の式神を付けます。必ず言うことを聞いてくだされ」
「はぁい」
『よろしくお願い致します。では、参りましょう』
道満の形をした式神は深々とお辞儀をしたあと、小屋内にあった籠を手に取り外へ出ていく。道満は何をするの?と立香が後ろを振り返って問えば、肉を調達して来ます、と返事があった。それを聞いた立香は自分が想定していたよりも豪勢なご飯になりそうだな、と思いながら、気をつけてね、と声を掛ける。その後は外で待つ式神に素直に着いて行った。
道満は索敵と共に周囲の食材の在り方も探していたらしく、式神の後ろをついて歩くだけで一時間もせずに何種類ものきのこが採れた。聞けば葉物は旬ではないらしい。立香は、今夜はきのこ鍋かしらと楽しみに思いながら式神の持つ籠の中を覗き込む。
『こんなもので良いでしょう。では、戻りましょう』
「ねえ、式神くん、喉乾いたんだけど、近くに川とか沢とかない?」
『ございますとも。では、水を調達してから戻りましょうか』
式神はりん、と鈴を鳴らしながらゆっくりと歩き始める。
「気になってたんだけど、その鈴はなあに?」
『獣除けでございます。と言っても、ただの鈴ではございませぬ。簡易結界、とでも申しましょうか。この式神でも多少は戦えますが、難に遭わないに越したことはございませんので』
聞いて、ははぁと納得する。確かにここまで山側に来れば、人と鉢合わせるより人ならざるものと遭遇する方が可能性としては高いだろう。それにしてもこの陰陽師、優秀である。
式神のナビゲーションに沿って半刻程歩くと目の前が開けて川が現れる。立香がそのまま進もうとすると、式神は少々待ちを、と静止の声を掛けてきた。
『あちらに本体が居りまする。今まさに狩りの途中にて、少しばかりお待ちくだされ。直ぐに終わります故』
「……あ、ほんとだ」
式神が指差す方向を見れば、第二再臨姿の道満が四つん這いになって川辺をじいと見つめていた。そのまま動かないかと思いきや、俊敏な動作で川へと飛び込み、腕を振りかぶる。飛沫と共に高く飛んだのは、1匹の大きな魚だった。今度は飛び上がって魚を口で捕まえながら川辺へと舞い戻る。その姿は、狩りをする熊を彷彿とさせた。
「マスタァ!鮭が獲れましたぞ!!」
道満はびちびちと勢い良く跳ねる魚改め鮭を手で掴み直し、それをこちらに向かって振りたくる。その顔は、何時もの策謀家の笑みを浮かべておらず、屈託のない笑顔に染まっていた。立香はその顔を見て自らの頬が高潮するのを感じる。
「すごいすごい!思ってたより野性味溢れる狩りだった!」
「ンッフフフフ、褒めてもこれ以上は獲れませぬ。場を荒らしましたので。さて、マスタァは水を汲みに来られたのでしたな?先に済ませてしまいましょう。魚を捌きますと、暫く川が汚れますし」
そう言いながら、道満は額から頭頂部にかけて髪を搔き上げた。水に濡れた髪の毛をオールバックにすると、彼の再臨段階の中では一番粗野な美貌が露わになる。常と違う道満の様子に立香は落ち着かない心地になりながら、思ったことを口に出す。
「なんか生き生きしてるね、道満」
「此処と播磨では環境が異なりますが、生前の道満法師の記録のせいでしょうなァ。日の本の自然を見ると、どうにも」
「そうなんだ。私てっきり陰陽術で狩りもさくっと済ませるのかと思ってた」
「山に術を用いた罠は仕掛けてございますよ。しかし呪で命を奪うと肉の質が落ちますので、……ああ、丁度兎が罠に掛かったようです」
道満が指刺す方向に目を向けると、そう遠くない場所に蛙の式神が来ていた。そのまま道満は蛙に鮭を渡すと、では、穫ってまいります、とだけ言って駆けていく。
『拙僧らは小屋へ戻りましょう。兎と鮭を捌き次第、本体も戻ります』
唖然とする立香を置き去りにして式神が歩き始める。野性が爆発している様子の道満に驚いて暫く動けずにいた立香だったが、式神が段々と遠くなるのを見て、置いていかれてはたまらないと急いで後を追った。
式神と共に箒で塵や埃を掃き出して、バケツに溜めた水と、屋内にあった布で壁、床を拭き清める。式神が式神を使うという妙な光景が続いたが、そのお陰で二人では時間がかかりそうだった掃除もすぐに終わった。見違えるように快適になった室内を見て、立香は満足げに伸びをする。部屋の奥に放置されていた木箱を並べれば、ベッドとしても使えそうかな、と考えていると道満と蛙が帰還した。
「おかえり、道満」
「はい、只今戻りました。では夕餉の支度を致します。今暫くのご辛抱をば」
立香がうん、と返事をすると道満の姿をした式神は符に戻り、蛙の式神は調理用具と掃除で使ったバケツを持って外へ出ていった。道満も鮭の開きを部屋の隅に干した後外へ出ようとしたので、その後に続く。
「火は目立ちます故、調理が終わり次第中で頂きましょう」
道満はそう言いながら手早く火を起こす準備を始めた。松毬に小枝を乗せたものに呪を唱え火を付け焚火を起こし、火が大きくなった所で大きな枝を足す。次に処理が終わり肉の塊になった兎を爪で器用に細かく切っていく。そうしているうちに蛙が戻ってきて、鍋を焚火の中へ置いた。どうやら川で調理器具を洗ってきてくれたようだと気付いた立香が、ありがとうと言って蛙の頭を撫でていると、後ろからつまらなさそうな声が掛かる。
「マスタァ、鍋に油を入れ、兎肉に塩をまぶしてくだされ」
「はーい」
そう言われて立香は荷物の中から調味料を取り出す。ゴルドルフ所長に最低限これは持っていけと詰め込まれたものだ。こんなにすぐ活躍することになるとは、と思いながら鍋に油を入れ、道満の手の中にある兎肉に塩を振りかける。道満は二、三度肉を手で揉んだ後、それを鍋に落とした。
立香が枝を整えた菜箸で焦げ付かないように肉を回すうちに、芳ばしい香りが立ち始める。道満はそれを見てぶつ切りにしたきのこ類を入れ、後入れの食材がしんなりした所で鍋に水を注いだ。そのまま暫く煮た後、もう良しと判断したのだろう、鍋の手に枝を掛けて持ち上げ屋内へ入ろうとする。
「火はどうしたらいいの?」
「式神に始末させますのでお気になさらず。お待たせいたしました!ささ、中で夕餉と致しましょう」
道満に手招きされ、立香も室内へと戻る。料理に集中していて気が付かなかったが、大分暗くなっていたようだ。陽が落ちかけている今、屋内は翳り、昼間より大分冷えていた。道満が木箱の上に鍋を置く。湯気の立つそれは芳しい匂いを放ち、息を吸った立香は思わず唾を飲み込んだ。折り畳みのマグを用意すると、道満が鍋を傾けてマグの中に料理を注いでくれる。カルデアから持ち込んだ食事用の箸で中身を頂くと、素朴ながらも素材の味が活きている味が口内に広がり、心と身体が温まっていく。
「ほぅ……」
「如何ですかな。粗野な料理ですので、お口に合いますやら」
「すごくおいしいよ。ありがとう、道満」
にこやかにそう告げれば、道満の目が満足げに細められる。
「道満も一緒に食べよ、って言いたいけど、今回マシュが居ないから最低限の荷物しか持ってこれてないんだ、ごめん。あ、でも。ちょっと待ってね」
立香はマグの中身を急いで食べ切ると、空になったマグと箸を道満に差し出す。男が理解できない様子で首を傾げたので、マグ一杯ずつ代わりばんこに食べよう、と伝えれば、男はゆるゆると首を横に振った。
「お気になさらず。拙僧は主が食べ切れなかった分を頂きますので」
「代わりばんこでも一緒に食べた方が美味しいじゃない。はい」
「ンン……では、我が主のために奔走した下僕めに、僭越ながら褒美を頂いても?」
「え、何その流れ。聞くだけ聞くけど、無理なものは無理だよ」
「そう難しいものではありませぬ!拙僧、マスタァにあーん、をして頂きたく」
にこにこと笑顔を浮かべて言われた台詞に、立香は「はい?」と間抜けな反応を返す。あーんとは、あれか。手ずから食べさせるやつか。何故いきなりそんな事を言い出した?たしかに血をくれだの髪をくれだの、そういったものよりは容易いけれども。
「え、いやあの、え?」
「拙僧の口にそこな料理を放り込んでくだされば良いのです。簡単でしょうや」
「いやいやいや、ホラ!アナスタシアや馬琴さんが今にもここに辿り着くかもしれないし!流石に見られたら恥ずかしいよ!?」
ねっ?と道満に曖昧な笑みを向けるが、道満は負けじと満面の笑みを返してくる。言葉の上で恥ずかしい、と伝えたのは道満が恥ずかしい思いをする、と忠告したつもりだったのだが、その実、立香本人が恥ずかしくて逃げようとしているのを見透かされているらしい。
「なァんにも心配することはございませぬ。そのお二人でしたら、此処には来ませぬので」
「……え、」
満面の笑みを浮かべたままの男から放たれた言葉を受け、立香は硬直する。先程まで穏やかだった雰囲気が、一気に厳しいものに変化した。まさかまた特異点の元凶だったり、裏切ったり、ましてや同行した英霊に危害を加えたりしたのだろうか。
「アァ、おやめ下され、そのような視線を向けられては……拙僧昂ぶってしまいまする。ご心配召されるな!あの二人には誓って何もしておりませぬ。マスタァがご無事であること、隠れ家を見つけたため今宵は身を隠して過ごすこと。しっかり伝えておりますれば!おふたりには隠密行動の上、此度の特異点の情報収集をお願いしております。あとは、マスタァが安全に過ごせる拠点となりそうな場所を探して頂いておりまして、見つかり次第其方に移動いたします。此処も悪くはございませんが、この場所はいささか人里から離れすぎておりますでしょう?まァ隠れ家としては最適ですので、オーダー完遂までは第二の拠点として使いましょうや。どのみち、今晩は、儂と、二人きりで過ごして頂くほかございませぬ。夜の森は危険だと、我が主はこれ迄の旅で骨身に染みておられますでしょう?」
洪水の様な勢いで喋り終えた男は、目を半月にして口を歪ませる。その顔は、アルターエゴ蘆屋道満というよりは、異星の神の使徒リンボに近い笑みだった。野外は危険だと彼は言うが、立香には眼前に危険な獣が鎮座している様に思えてならず、思わず溜息を吐く。
「分かった。キミを信じるよ。でもこれからは、事前にちゃんと相談してほしい」
「畏まりました、マイマスタァ。……ささ!その椀を此方へ。おかわりを注ぎますぞ」
道化が表情も纏う気配も一変させ、にこやかに鍋を示す。先程の剣呑な雰囲気は霧散し、毒気を抜かれた立香はもう一度溜息を吐いてはいはいと返事をしながらマグに中身を注いでもらう。マグが料理で満たされると、道満が目を瞑り、あ、と大口を開けた。
「え、あ、う。……ほんとに、やるの?」
「勿論でございますとも!今宵は二人きり。恥ずかしがることなぞ何にもございませぬ。それとも我が主は、御身の為奔走した下僕から求められたほんの小さなお願いを聞き入れてくださらないような、狭量なお方であったので?」
「あーもう、分かったよぉ!やればいいんでしょ、やれば!」
自棄になって了承した立香を見て、道満がくつくつと笑いをこぼす。一緒に食べようなどと言わなければ良かったのだ。そう思いながらも、自分一人で食べるのは良心が咎めたのだから、仕方なし。
結局男の希望通りになってしまうことに面白くないものを感じながら、立香は腹を決めた。
「は、はい。あーん」
「アー、ン」
立香が箸で食材を摘み道満の口元に持っていくと、大きな口が開かれる。男の顔立ちは整っていて人形のようにも見えるが、口腔内の歯は白く尖っており、人というよりは獣を思わせる。対して舌は鮮烈に赤く、ぬめっており、淫靡な色をしていた。
その舌の上に料理を乗せれば、薄い唇が閉じられ箸を吸う。逃げるようにそれを抜けば、吸い付いていた口からちゅ、と音が鳴った。
——えっちだ、えっちすぎる!!
自分の顔に熱が集まるのを感じて、立香は思わず道満から目を逸らす。しかし道満は口の中のものを咀嚼し終えると、すぐに女の前でその淫らな口を開けて次を要求した。
「ア」
「えっまだやんのこれ!?」
「……儂に頂けるのは一口だけとは、いやはや、」
「分かったよやりますやるってば!でももうちょっと控えて欲しいな!」
「ンン?何をです?」
無自覚か、無自覚なのかこの陰陽師。立香は道満の顔にからかいが含まれていないかまじまじと見るが、毒気もなくきょとんとする様子の彼を見て、深く長い溜息を吐いた。
「……ガンバリマス。ハイ、アーン」
「ンンンン?あ、あーん」
動揺は全身に及び、見るからに不審な挙動になったため、道満が疑問符を浮かべたのが見えたが無視を決め込みその口に食材を放り込む。そのまま立香は、心頭滅却すれば火もまた涼し、と思いながらマグに入っていた食材を全て男の口に収めた。
「ご馳走様ァ♪」
「ご満足頂けたようで……なにより」
燃え尽きて灰になった。立香の素直な感想だった。ご飯をあげているだけなのに唯ならぬ雰囲気になるとはどういうことなのだ。自分の性癖が歪まされていくのを感じながら、マグに残った汁ものに口を付けようとすると道満から静止の声が掛かる。
「拙僧、汁も飲みとうございます」
「ああ、はい。……って、まさか」
どうぞ、とマグを差し出した手ごと握られて口元に持っていかれ、立香の口から小さな悲鳴が上がった。目の前で手を抑えられたまま、白い喉が動き、赤い舌がマグの縁を舐め上げるのを見せられる。
男はその美しいかんばせに歪んだ笑みを浮かべながら、再び、ご馳走様、と言葉を紡いだ。ぜったい、わざとだ。今度こそ確信した立香がきつく手を引けば、あっさりと解放される。女より低い男の体温が纏わりついていた場所が外気に触れて少し寒かった。
「もうあげない!」
「ええ、ええ、もう十分でございますとも!主の施しを頂きまして恐悦至極にございます。ささ、お礼に今度は拙僧があーんしてさしあげます」
「結構です!」
威嚇するように叫ぶと、道満が笑いを堪えきれず吹き出した。腹を抱えて笑うさまを見て、立香もなんだか拍子抜けして笑いをこぼしてしまう。
そうして何分か思い切り笑い合ったのちに食事を再開し、食べ終えたあと寝る準備を始めた。その頃には陽も完全に落ち、木々の間から差し込む月明かりを窓越しに受けるだけになった屋内はかなり暗くなり、そして寒くなった。
昔の日本だからなるべく肌を見せないデザインがいいかと思い、初期の支給服を着てきたのだが、選択を間違えたな、と立香は二の腕をさすりながら思う。先刻は温かい食事を食べていたためそこまで気にならなかったが、初秋の北海道の冷え込みを軽く見ていた。耐えられなくはないが、極地用礼装よりは幾分か寒さに弱いこの服だと火が欲しく感じるのも本音だった。小屋内に暖炉もあるにはあったが、夜中煙が上がって目立つのは良くないと道満に言われては諦めるほかない。小屋のかびた毛布を使うか、そんなことを考えていると道満から声が掛かる。
「マスタァ、これを」
目を向ければ、羅刹王スタイルになった道満が服を脱ぎ、それを此方に差し出していた。ふわりと白檀の香りが鼻を掠める。
「その礼装では冷えましょう、これらを寝具としてお使いくだされ」
そう言った道満は、先程ベッドになるかしらと立香が並べた木箱の上に服を置く。たしかに有難い申し出ではあったが、このままだと道満が半裸で寝る羽目になってしまう。
「道満は寒くはないんだろうけど、さすがに申し訳ないよ。……一緒に、使うなら、いいけど」
立香が顔を赤らめながらそう言えば、道満はきょとりとした表情を浮かべた。その様子を見て、もしかして私から共寝を提案するのをあえて待っているのかも、なんて思った己を恥じながら二の句を継ぐ。
「服、借りるだけより絶対一緒に寝た方があったかいでしょ。……いやなら、いいけど」
「いえ、いえいえいえ、そのようなことは。しかし、この木箱、拙僧が乗れば間違いなく潰れますな」
そう言われてはっとする。たしかにこの木箱達では、道満の体重を受け止められないだろう。そもそも長さも足りない。さてどうしたものかと唸っていると、男から声が掛かった。
「主に抵抗がなければ、床ででしたら共寝させていただきますが」
「……うん、そうだね。道満の一張羅、汚れちゃいそうだけど」
「なァに、霊衣を整えればすぐ自浄しますとも」
それもそうかと思い、じゃあお言葉に甘えて、と言いながら床に広げられた黒衣の上に座る。横に道満が来たので共に寝そべると、上からもう一枚の黒衣がかけられた。寄り添えば、控えめな暖かさに包まれてほうと息を吐く。視界には鍛え上げられた筋肉が広がるが、意識しないように心がけて男に声をかけた。
「ありがとう、道満。あったかいよ」
言いながら立香は己の身体が弛緩していくのを感じていた。特異点に来てから休みなく動き、疲れ切って冷えていた肉体が暖まり満たされる。満腹感も手伝って、少しずつ瞼が重くなってきていた。
「……りつか」
無意識に暖を求めて道満の胸に擦り寄っていた立香が、名前を呼ばれ目を開く。今日初めて名を、呼ばれた。それは、いつの間にか二人の間で暗黙の了解となっている合図だった。
「やだ。今日は、レイシフト先では、やだ。どうまん、このまま、寝よう」
道満の目を見ないように彼の胸に顔を埋めて手を伸ばし、筋肉の塊を感じる脇に差し入れる。このまま張り付いてやり過ごせれば、と思っていたがそれは甘い考えだった。先程よりも男の肉体は温度を上げている。常は立香よりも低い体温であるのに、今は男の方が高くなっていた。極め付けに、立香の太腿に硬いものが擦り付けられる。
「立香。……貴方の道満に、お情けを頂きたく」
——ああ、彼の本当の食事は、今から始まるのだ。
立香は頭ではなく、本能でそう理解した。男は自ら用意した料理で腹を満たさせ、自分好みの肉に仕立て上げたのだ。昔読んだ童話を思い出す。物語の中の彼らは逃げおおせたけれど、きっと私はこの獣から逃げられない。
道満に何度も名を呼ばれる。男の目を見てはならないと思うのに、顎に黒ずんだ手が添えられ、身体は視線を交わらせてしまう。暗い炎を宿した射干玉色の瞳に射止められ、身が竦んだ。私は今きっと、昼に狩られたあの魚が最期に見た景色と同じものを見ているのだろう。
彼の情欲に濡れた瞳を見た途端、重くなった腰に絶望して目を閉じる。獣はそれを了と受け取り、女へ噛み付くような口付けを落とした。
◆◆◆朝だよ!◆◆◆
「どーまんのばか、あほ。さいてー」
立香は怒っていた。道満が昨夜自身を前後不覚になるまで抱いた事にではない。最終的には自分から求めたのだから、そのことに関しては同罪と自覚していた。
しかし、朝になって式神が用意してくれた湯で身体を清めようとした際、事もあろうに、するりと寄ってきて組み敷こうとしたのだ。男が仕掛けた結界は既に解けているはずだし、そも、今回のレイシフトは特異点解決の為に行っている訳だから、旅行中に睦み合う気分で手を出されては困るのである。
「フフ、これは手厳しい」
「昨日今回だけって、言ったでしょ。それを朝から早々に破ろうとするなんて、論外です。今日は二人と合流して遅れた分取り戻すんだから。霊脈も探して、支援物資も送ってもらわないといけないし。誰かさんがタイツ破いたから予備がないので早急にね!」
「ンンンン、致し方なし。では鮭粥は要らぬと仰る」
「何でそうなるのよ!食べるよ!」
「ンハハハハ」
怒っている立香に対して道満はいたくご機嫌だ。昨日干した鮭とカルデアから持ち込んだ米を手に、外に出ていく姿をむむむと睨みつけながら付いていく。男は鼻歌でも歌い出しそうな態度のまま、昨日と同じ動作で鍋に火をつけ、米と鮭を用いて手早く粥を作る。
そうして出来上がった料理を昨日と同じように屋内に持ち込み、清めたマグに注いでもらった。
「頂きます」
「どうぞ、ご笑味あれ」
まだ熱い米にふぅと息を吹きかけて、一口ずつ口に含む。鮭が持つほんのりとした塩味のみの素朴な味だったが、昨日酷使した喉には丁度良い塩梅だった。
「はふ、おいしいよ。ありがとう」
「とんでもございませぬ。……では」
マグに入っていた粥を粗方食べ終わって道満に礼を述べれば、男は当然のような顔をして口を開けていた。
「……!やるわけないじゃん!どーまんのばーかばーか!えっち!すけべ!」
立香が真っ赤になって怒りながらマグを道満に渡すと、不満気ながら悪戯が成功したような笑いを浮かべた道満がそれを受け取り、マグの底に僅かに残った粥を食べた。