むかえにきてよ(準島) 2009.12.29発行 別れてほしいの。
彼女がそう切りだしたのは、式を一か月後に控えた日曜日だった。
別れるのは構わなかった。だが、式までもう間がない。友人や両親へはともかく職場の上司へはどう伝えようかと思案していると、訊いてもいないのに彼女が理由を話しだしていた。長い言いわけの要点をいえば、以前付きあっていた彼と再会し、よりを戻したということらしい。
慎吾が悪いわけじゃないの、そう言ったことをつらつらと続けていたが、そんなことは重要ではない。結婚に乗り気だったのは彼女の方だし、式の一か月前にこんなことを言いだす無責任な人間に未練もなにもない。何を言っても復縁などないだろうし、たとえあってもごめんだった。
とりあえず今一番気になるのは招待した面々への連絡とフォローで、彼女の気持ちはどうでもよかった。たとえ何らかの非が自分にあろうと、慮る理由が見つからない。怒っていい場面だろうとも思うが、彼女に掛ける時間のすべてが無駄に思えて、感情を動かすのが億劫だった。
「披露宴は予定どおりにしないか」
島崎の提案に、彼女は目を見開いて固まった。
「籍は入れなくていい。取り敢えず披露宴だけはして、それで終わりにしないか」
かなり譲歩した提案のつもりだった。とりあえず披露宴を行えば、彼女や自分の親戚双方に面目は立つ。結婚の報告ならともかく、別れたことをすぐに知らせなくてはいけないということはないだろう。祝儀を回収して式の費用に宛て、新婚旅行をキャンセルすればそれほど大きな足も出ない。双方にとって合理的に思えた。
彼女は島崎をじっとみつめたまましばらく動かなかったが、唇を真っすぐに結んで頷いた。
それで結着した、はずだったのに。
その三日後には彼女の両親が、あのあとすぐに失踪した娘の代わりに二人揃って額を床に擦りつけていた。
本当に申し訳ないことでございます。繰りかえし頭を下げる二人に言ってやりたいこともあったが、もうなにもかもが面倒で、すぐにもことを納めたかった。
あらゆるキャンセル費用は彼女の両親が負担することになり、さらに「気持ち」と称された金の入った包みを渡された。結婚詐欺だなどと訴えられては困るということだろうか。断ったが、父親の血走った目と勢いに負けて、幾度かのやりとりの後に受けとる羽目になった。
実家に顛末を報告すると、落胆し、また激昂する両親の真横でたまたま実家に来ていた兄が大笑いを始めた。母がものすごい形相で兄の背中を何度もひっぱたいていたが、兄は構わず笑い続けていた。正直、裁判だなんだと騒がれるよりも、笑い話にしてくれた方が自分としても救われる。だが兄がそこまで考えているかどうかは、知らない。
数年前に結婚して二児の父である兄は、弟のグラスに幾度もビールを注ぎながら、結婚生活においての男の肩身の狭さを吐露した。結婚なんてせずに済んでよかったぜ、というのはおそらく、兄なりの不器用な慰めなのだろう。
足元が覚束なくなるほど酔わされたが、送って行くという父の申し出はタクシーを拾うからと断った。いい気なもので、さんざん島崎のことを酔わせたその兄は、すでに高鼾で眠っている。
玄関を出たところで母が追ってきた。いま渡すのもなんだけど、といいながら掌に渡されたなにかを、よく確かめもせずにジャケットのポケットへ突っこむ。
あんたが酔っぱらうと、昔はあの子が迎えにきてくれたのにね。そのセリフは聞かなかったことにして、母に手を振って別れを告げる。
大通りに出るとすぐにタクシーが見つかったが、酔いざましのために少し歩くことにした、ところまでは何となく覚えている。
どこをどう歩いたか記憶は途切れとぎれで、気づいたときにはどこだか判然としない、路上に座りこんでいた。
ひどく気分が悪かった。ここ数年のうちで、こんなに飲んだことはない。飲みすぎてしまったのは、それなりにダメージを受けているということだろうか。そう考えて、島崎は眉を寄せた。
ぶん、とジーンズのポケットでスマホが震えた。実家が心配して連絡を寄越したのだろうと、ディスプレイを見もせずに通話ボタンを押す。酒に焼けた喉からは掠れた声しか出なかったが、辛うじて、はい、という言葉を絞りだす。
『慎吾』
失踪中の彼女の声だった。うんざりして通話を切りかけると、その気配に気づいたのか、彼女は切らないで、と哀願した。
『本当にごめんなさい。やっぱり披露宴はできないと思ったの。あなたにも、……彼にも悪くて』
よりを戻した彼への義理立てだかなんだかわからんが、勝手なことを。思うが、口を開いたら吐いてしまいそうでなにひとつ言葉にならない。
『お互い別の人を忘れられないままで、夫婦のまねごとはできないと思ったの』
言っている意味がわからない。「お互い」 この女は自分の行いを正当化しようとでもしているのか。
『……慎吾、忘れられない人がいるんでしょう』
―― ふざけるな。
一瞬で腑が煮えくり返った。
路上に思いきり叩きつけたスマホが、無残に割れて、細かな破片を散らしながら転がった。身勝手にもほどがある。忘れられない人 なんだそれは。いたらどうだと言うんだ。それを今、お前が言うのか。そんな相手がいたとして、じゃあお前はそれを知っていてオレと結婚しようとしていたんだろう。ならそんなものがいたとして納得ずくのはずじゃないのか。違うか。
力の限りに叩きつけたスマホは、あちこちが割れて中の基盤が見えた。島崎の気持ちを映したように、液晶は夜の色をしている。二度と鳴ることはないだろう。
まだ治まらない怒りの隙間に、ちらちらと誰かの面影が浮かんだ。それを振りはらうようにかぶりを振り、背にしていた塀を伝って立ちあがる。服の埃を払い、がらくたになったスマホをジャケットのポケットへ突っこむと、ガサ、と音を立てて何かが引っかかった。そう言えば母から何か渡されたっけ、と考えながらポケットの中を探ると、白い葉書が出てきた。母の言葉を思いだし、なるほど、と思う。披露宴の招待状の、返信葉書だった。自分側の招待客の返信はすべて、実家へ送るようにしていたのだ。ほとんどは自宅へ持ちかえっていたが、取りこぼしがあったのだろう。
夜道で街灯を反射した葉書は、掌の上でぼんやりと発光しているようだ。明日から招待客へ中止の連絡を入れなくてはならない。そう思うとますます気分が悪くなった。早く自宅へ帰らなければと歩を進めながら、街灯の下で何気なく葉書を裏返し、その差出人の名前に島崎は息を止めた。
高瀬準太。
忘れられない人がいるんでしょう。
彼女の声が反響するように、頭に響いた。あの子が迎えにきてくれたのに。母の声も。思わず目を閉じると、振りはらった面影が鮮明に瞼の裏へ焼きついた。
「……なんでお前はいつも、こういうタイミングで……」
まるで島崎の未来をすべて知り、頃あいを計っているかのように、準太はその存在を示してくる。
目を開けてもう一度葉書を見るとそこには、癖のある準太の字で「お幸せに」と書かれていた。見覚えのない住所で、二人で暮らしたあの場所からは転居したことがわかる。この葉書一枚に、言葉にしない準太のメッセージがいくつも読みとれた。真っ黒に凝った気持ちがほんの少し、柔らいでいく。
この葉書は訣別の表明なのかもしれない。それでもよかった。準太は自分を覚えている。それだけでよかった。
もしかしたら準太は、今でも待っているのだろうか。人目に怖じけて、準太の迷いなさに退いた、なにひとつ与えずに去った自分を。何年経っても変わらずに、自分を欲しがってくれるのだろうか。
そんな想像はとても甘美な誘惑に満ちている。
葉書をポケットへもう一度しまいこむと、島崎は先の見えない暗い道を見つめ、呟いた。
「……むかえにきてくれよ、」
いい年して飲みすぎですよ。そんなふうに窘めて、あの頃のように。
呟きは、ただ深い闇へと吸いこまれていく。
答えはどこからも返らない。そんな当たりまえのことを確認すると、島崎は縺れる足を引きずりながら、真夜中の道を歩きだした。