ダイナー「お疲れ」
「あ、アガレス殿…待っていてくれたでござるか」
程よい疲労感を感じながらドアノブを回すと、すっかりと人の掃けたロッカールーム、ベンチにひとり、制服に着替えを終えたアガレスの姿があった。
受け答えに緊張が出てしまった気がする、ガープは背にひっそりと汗をかく。
◇◇
ここ数日、アブノーマルクラスは社会勉強の一環だとかで喫茶店店員のような実習を課せられている。学業に差し障りのない範囲で毎日異なるメンバーがローテーションで既存店のホールに立ち、客に料理やドリンクを提供するのだ。どこに魔術の修行要素があるのかは全くわからない。けれどむやみに薮をつつくと課題を積まれてしまうので、異を唱える者は居なかった。むしろ授業時間に学園外の空気を味わえるとあって、皆ノリが良い。
13名の内ただ1人、アガレスを除いては。実習が始まって以降、その機嫌はすこぶる悪い。
「ありがとうでござるー」
退店していく客に笑顔を向けると、「また来るね」「美味しかった」「ありがとう」といった言葉が返って来る、己の振舞いが拒絶されず、好意的に受け取られその上感謝される事が、これ程喜ばしいとは。
ガープは見送りにドアを抑えていた手を離しながら、鍛錬とはまた違う、込み上げるような充足感を覚えていた。空いたテーブルに次の客を案内するべく食器類に手を伸ばすと不意に視線を感じる。店内奥、キッチンの方から。確認せずともアガレスであろう事は分かって、ならばと笑顔を向けるのだけれど、それは合う事も無く逸らされた。
ここの所、いつもそうだ。取り付く島もないというか、話しかけるな、というオーラを全面に出している。さすがのガープも少しは距離の取り方を心得て来たので、登校中はふたりして無言である事が多い。
その癖に。時折こうやってアガレスの視線を感じる。何か言いたい事があって、我慢しているような。その度にらしくない、とガープは思う。
自分のよく知る彼は、不平不満を溜めて鬱屈とする悪魔ではないから、自分に落ち度があるなら乱暴な言葉でも指摘をくれる筈だった。
「お疲れー、僕達めちゃくちゃ頑張ってるよね?!」
「リード殿、拙者、結構楽しいでござる!」
「僕もー、勉強より向いてるかんじ?」
休憩中、不意に後ろから声を掛けられ振り向くと、アガレスや自分と同じく今日実習に出ているリードの姿があった。支給された青と赤の制服に身を包み、トレードマークの尻尾でぴょこりと器用にホールをかけ回る彼は、女性客の心を鷲掴みにしている。
手にした紙コップの片方を有難く受け取って喉を潤す。
「ねぇ、アガレスとさー、ケンカしてんのか、って、聞いていい話?」
「む、やはりそう見えるでござるかぁ」
「ガープにだけ対応が超ドライっていうか」
バックヤードにある簡素なスツールをガープの横まで引き摺って、リードは腰を落ち着けた。どうやら話を聞いてくれる体制だ。目の回る忙しさの中与えられる貴重な休息時間を、友人は自分に充ててくれるらしい。そもそも、3人チームの中で2人の関係が悪く、その内1人は臍を曲げているなんて事、それ自体がやりづらいだろうに。それらを意に介さない優しさがガープの心に響く。
甘えてみても、よいのだろうか。
「その、身に覚えが、全っ然ないのでござるよ…」
「んんー、じゃ悪周期が近いとか?」
「…でも迎えに行くと起きてるでごさるし…」
「まじかー、毎朝起こしてる事はこの際何も言わないでおくわ、やっぱ何か怒らせる様な事してんじゃない?」
「……不甲斐ないでごさる」
自分にがっかりしてガープは項垂れた。全く自分は他人の機微に疎い。四六時中傍にいるアガレスの事だけは、以前より理解できるようになったつもりだったけれど。
「何かごめん…イラついてる原因は他かも知れないし?……でもだったら尚のことさ、それ聞いたり、相談乗ったり、てのはやっぱさぁ」
そこまで言ってリードは言葉を切った、眉を下げ向けられた笑顔には、まぁガンバレよ、と半ば諦めの様な激励が書いてある。
◇◇
使い終わりの皿が流し台にそのまま、というのが許せなかったガープは、他の皆よりも少しばかり居残って、今の今までスタッフに交じり片付けを手伝っていた。アガレスと顔を合わせたくない、という訳では決してない。けれども彼の不機嫌の原因がやはり自分にあるのでは、と第三者に指摘されて、いつものテンションを保てる程、もう無神経な強さもない。ただ少し時間が欲しかった。
それなのに。
やはり自分は待ち伏せをされていたらしい。
「い、今着替えるでござるから、少し待って」
「着替えんの?」「え?」
割当てられたロッカーの扉を開け、赤のストライプの入ったカフェエプロンの紐を解く手が止まる。待っていてくれたのは共に帰宅するからではないのだろうか。
鋭い視線がてっぺんから、足元までを確認する様に走る。先程、客と挨拶を交わした時に感じたものと同じ。いや、近い距離にあるからか、小窓から差す夕日がアガレスの瞳と同じ色をしているからか、それより色濃い。
喉の奥が絞られるような感覚に、居た堪れなくてこちらから視線を外すと、あ、と、吐息ともつかぬものだけが床に落ちた。
「こっち座れば」
動かなくなったガープに何を思ったか、自分の横をぽんと軽く叩いてアガレスが呼んだ。着替えの入ったロッカーを離れ、少し空けた隣に腰を落ち着ける。相手の抑え込んでいる何か、それを聞く事はとても勇気がいる事だった
「アガレス殿、拙者、何か、し…っ……」
アガレス向き直り、意を決して発した言葉の全部はけれども音にならなかった。アガレスの口に全て、食べられた。触れたかどうかも疑わしい一瞬のキスをして、唇が離れる。
「めちゃくちゃ似合う、それ」
「へ?」
「その恰好だよ、いや、服じゃないんだよな、いや、服もだけど……よく動くな、お前、そんなことは、知ってんだけど……」
見れば今まで感情の乗っていなかったアガレスの顔がみるみるうちに赤く染まっていく。珍しく言葉が回っていないのを、もどかしい、といように眉間に皺が刻まれる。
客の要望に応えて動く今回の実習において生徒に求められたもの――細やかな気遣いと、客の求めそのものに対する嗅覚。所作においては、経験のあるらしいジャズやアロケルのほうが余程に洞察に優れ、洗練されているだろう、けれど。
もてなすのが嬉しい、楽しい、笑顔で分かる。キャストのそれは客にも伝わるものだ、そうやって、気持ちひとつでサービスに従事するガープはアガレスを釘付けにした。良くも悪くも。
収穫祭で感じたものに似た、誇らしい想いが沸き立ったのも嘘じゃない。けれどその一方で、名も知らぬ女性悪魔とガープが言葉を交わす度に、どうしようもなく、叫びたくなる様な。
それは俺のものだ。
「…怒ってないでござるか」
「…お前がキャーキャー言われてんの、見てて気分いいわけないだろ、そーいう意味では怒ってる」
「きゃあきゃあ…?」
ガープが首をかしげるのを見て、アガレスの心中は燻ったままだ。女子から向けられる黄色い声はアガレスやリードを対象とし、自分がそういう土俵に上がる事は一切ないと、心底思い込んでいる。
そもそも自分が想う事に手いっぱいの奴が、向けられる好意の色を、その種類まできちんと把握するなんて、まだ無理なのだ。そう、今は。だからこそ先は分からない。ガープの両腕を掴む手に力が入る。借り物の服にシワが寄るのもどうだってよかった。
「お前は俺がきゃあきゃあ言われてんの見て、何とも思わないかもしれないけど」
うん、ガープが逡巡もせず首を縦に振る。今日に限らずどんな場面でも、アガレスがその容姿である以上切り離せないもので。諦めですらない。けれどそのある種理解あるスタンスが、どうにもアガレスは気に食わない。自分ばかり振り回されている気分になるからだ、でもそんな安いプライドは、捨てるべきだ、今は。
遮るように語気を強め、絞る様に「俺は、」と続けた。
「お前をそういう目でみる奴が、ひとりでも居たら、嫌なんだよ、そんだけ」
ガープにはどうしようもない事に、勝手に腹を立て、本人にキツく当たった。こちらを気遣う様子に取り合わず、その表情から笑顔が削がれていくのを見て意味の無い満足を覚えたりもした。行いを改めて白状すると酷いものだ。
アガレスがそう言い切ると、ガープの肩の緊張がへなりと解けていく。
「じゃあ怒ってない……で、ござるか…っ…」
「悪かった……むしろお前が怒れよ」
よかった――、心の底から安堵した声には嗚咽が混じっていて、アガレスの心は罪悪感でいっぱいになる。泣くなとは言えない、ガープの頭を包み込む事しか出来なかった。
「何かないでござろうか……?」
「は?」
「アガレス殿、不安になったのでござろう?ならば絶対大丈夫!という――証明?みたいなものを差し上げたいでござる」
不意に泣き止んだかと思えば突然何を言い出すのか。切り替えの早さに思考が止まる。今回の事はガープに非はないので当然とも言えるが。
アガレスの胸元から上げたその顔には、いい事を思いついた、という喜色が満面に出て、ふわりとこちらの心まで軽くしてしまう。いつか言ってやりたい。そういう明朗な所に救われている、いつも。
「俺が貰うのおかしくないか? まあいいや、何でもいいの?」
「高価なものとかは無理でござるよ!? 拙者にできる範囲の事で……」
だったら今ここで抱かせろ、その制服のままで。正直すぎる感情を何とか押し込めてアガレスは頭を捻った。ガープと違い、アガレスはモノに想いを託す事はあまりしたくない質だ、後が面倒なので。けれどうきうきと期待した目を向けるガープに応えたい。何かないだろうか。
「そうだな…じゃあさ」
◇◇
「え、何ソレどーゆう事?え、そーいうコト!?」
数日後、リード、アガレス、ガープの3人で店舗に立つ日が再び巡ってきた。制服に着替えを終え、顔を合わせたリードは開口一番意味のない指示語ばかりのセリフを言う羽目に陥っている。
今回のダイナー実習、制服には各自の名札を付ける事になっている。見ればアガレスと書かれたオレンジのそれをガープが、ガープと書かれたもう一方をアガレスが付けていた。
「えぇぇ…今日1日、そう呼べばいいの?」
リードはクラスメイト男子2名に向けて苦い言葉をひり出した。アガレスは満足そうに、ガープは両手を遊ばせながら頬を染めている、けれども、2人揃って頷いて見せた。
先日までアガレスが纏っていた冷たい空気は微塵も感じられない。その集客力は成績に関わるのでコチラとしては助かるけれど、軽い気持ちで友人の背中を押した結果がコレか。何このプレイ。いや、もしかして既にずっと、こんな関係だったのだろうかこの2人は。
違和感があり過ぎる状況なのに何故かこの2人に対してつっ込む気になれなかった。リードは就業前からどっと疲れて立ち尽くす。
ガープはその名を「アガレス」と呼ばれる度に反応して、給仕どころでは無いかもしれない。リードの今日一日は大変に忙しくなりそうだった。