正しい魔法の使い方先程からこの部屋には小池が鼻をすする音だけが響いている。
たまには部屋でゆっくり映画でも観ようと、アウトドアな俺たちが珍しくインドアになった夜。スーパーで買った惣菜やピザなんかをそんなに広くもないテーブルの上に広げて、俺は洋梨の缶チューハイ、小池はビールを呑んでいた。二時間半の短期集中型だ。俺も小池もどちらかというと喋る方だが一言、いや、二言くらい短い会話をしただけでそれ以外は映画に集中していた。
会話の内容も「音いっこ大きくする?」「ああ」とか「ビールでいいか?」「お、サンキュ」くらいのものだ。キッチンへ行く間もテレビから視線は外さなかったし、冷蔵庫から冷えたビールを取り出す時も耳はしっかりテレビの音に集中していた。リビングへ戻る靴下の足先がフローリングの上で滑りかけて、そうかスリッパを脱いだんだったなと気づいたりもした。玄関に置いてあるからつい履いてしまうんだが、ソファーに座りしばらくすると脱いでいる。しかも毎回だ。なんだか自分の家みたいで落ち着く、自分の家以上に気が抜ける。実家かと思う。居心地がよくて帰りたくなくなる、この部屋に来ると。毎回、泊まっていけよなんて言われるのを待ってしまう自分がいて、待っていたくせにいざ言われると一度は断ってみたり、渋ってみたりしてしまうんだが。
そんな慣れ親しんだ部屋で俺は小池にボックスティッシュを差し出している。狭いソファーに男二人でくっついてほぼ無言で二時間半映画を観てたなんて事実も、終わってみると面白く感じる。映画を観ている間は集中していたからそんなことを思う余裕もなかったが。
「ン」
なるべくそちらを見ないように。一応気は遣っている。小池は遠慮がちにティッシュを一枚抜きとると小さな声でありがとうと言った。遠慮しないでじゃんじゃん使えと俺が言うのも違うか。遠慮がちに鼻をかむ音が聞こえてくる。小池が姿勢を変えるたびに小さいソファーが軋む、揺れる。あいつが泣くたび、涙をこらえるたび、俺の心も軋む気がする。聞いたこともないひどく間抜けな音で、鳴る。
「落ち着いたか?」
「ウン」
まだ涙声、俺の方を見もしない。別に引いたりしないし、からかったりもしない。でも見られたくない気持ちも分かる。俺だって、自分のそういうところは見られたくない、見せたくない。いくら好きでも、他のどんな姿を見せられたとしても、せめてまだ格好がつけられるうちは格好つけていたい。
「よかったじゃないか、最後はハッピーエンドだったわけだし……彼女の記憶は戻ったしなくなった思い出の指輪も見つかった、生き別れた兄貴にも会えた、迷子の女の子だって母親の元に帰れただろ」
「うっ……そうなんだよ~……ほんといい映画だった……」
なんでそこでまた泣くんだよ。俺が右手に持ったままのボックスティッシュから今度は二、三枚抜きとると盛大に鼻をかんだ。そうだ、遠慮するな。ここはお前の部屋だしお前が観たがってた映画だしここには俺とお前しかいないし。口には出さない代わりに触れた肩先をそのままにしておく。そのままでいい、という意味で。熱い腕と腕が重なる、肌と肌が合わさる。本当によく馴染む、俺とお前は。触り心地が良くて、きめ細かくて、語らずとも触れあえばわかる気がする、触れあわずとも空気でわかる気がする。考えてること、思っていること。
「前から気になってた映画なんだろ?」
「そうなんだけどあんなに泣かせてくるとは思わなかった……まさか彼女に続けて彼氏まで記憶失っちまうなんてさ……」
言いながらまた泣きそうになって、小池は上を向いた。目頭を押さえている。
「音楽もよかったし……でっかいスクリーンで観たらやばかったかもなー」
そうだな、それには同感だ。きっとボックスティッシュとゴミ箱を持参しなきゃならなかったし、泣いてる小池を引きずって出ていかなきゃならないところだった。あ、でも公開されたのは五年前か。まだ出会ってないな。出会ってないけど、容易に想像できる、できてしまう。お前の隣にいる俺を。
「塩分いっぱい出ただろ、ポテトでも食え」
冷めたそれを二、三個まとめてつまむと口に詰め込んでやる。俺もチキンナゲットをケチャップにどぶんと沈めてから口に放り込んだ。冷めてるけど、うまい。甘くて塩気があって酸っぱくて。そのまま立て続けに缶チューハイをあおる。口の中がしばらくぶりの色んな味に喜ぶ。ぬるくなっているし微炭酸もすっかり消えているが、固まったまんまの体がほぐれていく。二時間半集中してたからな、足を伸ばし少しだけ脱力する。これはジュースみたいなもんだからいいが、小池の呑んでるビールはぬるい上に発泡しないんじゃうまくはないだろう。中盤からポテトをつまむ指も缶ビールに伸びる指も一向に動かなくなっていた、ソファーの上から。何度その手に手を重ねようと思ったかわからない。お前の右手にこの左手を、何度重ねようと思ったか。俺が唯一画面から目を逸らしたのは、お前の真剣な眼差しを盗み見た時だけだ。それ以外は集中してた。キッチンに行く時だって、しっかり映画を観ていたのに。悔しい、悔しいけれど、お前がそうさせた。いつもうるさいくせに無口なお前が、ちっとも動かない指先が、画面に釘付けの瞳が、俺を釘付けにした。だんだんと潤んでいく目の中のスクリーンに、俺は映っていないのに。
「ピザも冷めちまったな、あっためなおすか」
無理やり声のテンションを上げて、涙目を擦って、膝を叩いてソファーから立とうとする。分かりやすい。好きだよ、そういうところ。と、思うと同時にそう言えない自分に対してもそういうところだぞと思う。
「いい、俺がやる……座っていろ」
さっさと立ち上がると呑み終えたチューハイの缶とピザのトレイを持ってキッチンに向かう。確かにこの家の主は小池だが、俺にとっては勝手知ったる部屋だ。どこに何があるかわかるし、小池が一回も押したことのないスイッチだって押したことがある。お前の知らないこの部屋のいいところを、俺は知っている。ハの字に脱ぎ去られたスリッパ、テーブルの上の斜めのリモコン、散らばる個包装のチーズ、開けられていないキャラメル味のポップコーン、ビールの缶と小池の丸い後頭部。ここからしか見えない、俺にしか見られない光景だ。
空になったチューハイの缶をシンクに置くと戸棚からいつもの耐熱皿を取り出し、そこにすっかり冷めたピザを乗せていく。温め直す時はコップに水を入れて一緒に温めるとふっくら美味しくなるって、お前が教えてくれたんだったな。普段ピザなんか一人の部屋で食べないから、お前とこの部屋にいる時にしかこの魔法は使えない。一分弱の、今度こそ本当に短期集中型だ。二時間半に比べたら、なんて短い時間。その束の間に小池が言った。魔法みたいな言葉だった。
「狭山さん、泊まってくだろ?」
待ってくれ、今なのか。ピザを温めてる今なのか。小池の視線を背中に感じながら、俺はレンジのカウントダウンをただじっと見つめていた。
「そうだな、ちょっと酔った……あのチューハイ、結構度数が高くてな……」
今夜くらい俺も魔法を使いたい。魔法という、便利な言葉を。
「あー、9パーのやつか、大丈夫? 布団いく?」
「いい、まだ」
「そっか、ならもう一個くらい短いの観るかー」
レンジのカウントダウンが終わる。このピザはすっかり魔法にかかって、ふっくらと美味しそうな弾力を取り戻している。今だけ、今のうちだけ。
シンクの中に缶を、レンジの中にピザを残したまま、小池に魔法をかけたまま、俺はソファーへと舞い戻った。
「えーと、これは? 鮭の産卵のドキュメンタリー」
「絶対また泣くだろ」
なあ、小池。
実は俺が呑んでいたチューハイは、アルコール度数3パーセントだ。
だけどお前は俺の魔法に、まだかかっているな?
俺が何を言いたいか、何を思って考えているかわかるか?
たまには遠慮なんかせず思いっきりしたいようにしろってことだ。
なぜならここはお前の部屋で、俺はお前の恋人で、ソファーが俺たちの城なんだから。
「アツくなってきたな」
ソファーに体をあずける。ズボンの後ろポケットに入れたままだったレザーのコインケースを今更テーブルの上に置く。邪魔になるかも、しれないからな。
「そうかー? 酔ってるからだろ?」
笑って小池が体勢を変えれば、ぎしりと大きくソファーが軋んだ。そう、俺は酔っている、だからいい。
せっかく温め直したあのピザが、これからもう一度冷めてしまうのかもしれなくても。
【完】