キスの日深夜に近い時間になって、春日と趙がサバイバーに顔を出すと、マスターは店じまいの最中だった。珍しく春日の仲間も誰もいない日で、マスターはこれ幸いとばかりに春日に鍵を預けて帰ってしまった。
勝手に飲んでいいという言葉に甘えてカウンターで酒を飲んで、当然の如く帰るのが億劫になり、そのまま2階のアジトで朝を迎えた。
サラリーマンが通勤する街のざわめきで目を覚ました趙が、店からミネラルウォーターをもらって部屋へ戻ると、春日も目を覚まして布団の上に胡座をかいて座っていた。
下着一枚の格好で背中を丸めて、見るともなしに窓の外のほの白い景色に目を向けて、ぼんやりとしている。
と思うと、おもむろに首筋をボリボリと掻いて、大きなあくびを一つ。
年齢を感じさせない鍛え上げられた体。でも割れた腹筋の、そこだけ年相応に柔らかい感触や、張りが落ちてざらついた首筋の感触も知っている。
趙は春日の、寝ぼけて気の抜けた姿が好きだ。
「起きたの?」
「ん〜…」
戸口から声を掛ければ、こちらを向くこともなく曖昧な返事が返ってくる。
おおかた趙が隣にいなくて体を起こしたのだろうが、これは完全に寝ぼけている。
「まだ寝る?」
「んん〜…」
「どっちなの」
寝起きにぐずる子供のような反応に、趙は苦笑する。
趙とこういう関係になって、春日やよく眠れるようになったと言っていた。
安心を与えられたのならこの上なく嬉しいことだし、何より、他の誰にも見せたことのないような可愛い寝ぼけ姿を見られることが嬉しい。
「まだ早いから、もう少し寝なよ」
昨晩の疲れもあるだろうと、ゆらゆらと上半身を揺らし出した春日の肩に手を置いて、横になるように促す。
体重を預け、されるがまま身を任せる春日が可愛くて、近づいた唇を重ねようとすると、突然仰反るように避けられた。
「…ちょっと、なに」
不満も露わに趙が低い声を出すと、すっかり覚醒したらしい春日が、狼狽えた顔をした。
「え?いや、なんだよ」
「なんだよって、なんでよけるの」
「いやいや…」
言葉を濁し、目も合わせようとしない春日が、不自然に距離を取ろうとする。
最初は不満げに口を尖らせていた趙の目に徐々に不安の色が浮かんで、春日の肩に触れていた手が離れた。
その表情にようやく気づいた春日が、大慌てで趙の肩を掴んだ。
「違う違う!お前が嫌なんじゃねえよ!」
「じゃあなんなの」
苦虫を噛み潰したような表情でしばし逡巡している春日に、焦れたように趙がその腕から逃れようともがくと、ようやく観念したように口を開いた。
「…この前、足立さんとよぉ…加齢臭の話になって…」
「は?」
思っていもいない単語が出てきて、趙は思わず裏返った声を出す。
「臭かったら悪りぃな、と思っちまったんだよ」
呆れて言葉が出ないとはこのことかと身をもって体験した趙は、バツが悪そうに目を逸らす春日を凝視する。
前の晩にしこたま飲んで煙草も吸って、2階のこの部屋になだれ込んで汗だくになるようなこともして。シャワーも浴びず、歯も磨かずに寝たのは二人ともだし、そんなのはお互い様だ。
「いや、俺のほうがお前よりオッサンだしよ」
それなのに、そんな卑下するような言い訳まで口にして。
「…オッサンが、そんな乙女みたいなこと言うの?」
「うう…悪かったよ…」
身の置き場所がない、という風に小さく体を丸める春日の両頬に手を添えて、趙はその目をしっかりと見つめた。
「そんなの気にするわけないでしょ。春日くんに、臭いなんて思わないよ」
「うん…まあ…」
きっと趙ならそう言ってくれると、春日もわかっていたはずだ。
それでもそんな態度をとってしまったことが情けなくて、大きな体をますます小さくする。
「うちにいた虎だって、メッチャ口の中臭かったけど、それも可愛かったんだよ」
「虎と一緒にすんなよ!」
少し調子の戻った春日に、趙はにやりと笑って耳元に唇を近づける。
「そう?昨日の春日くんは虎みたいだったけど?」
昨晩の行為の激しさを揶揄するように低く囁くと、春日はボッと音が聞こえそうな勢いで赤面した。
本当に、不思議な男だなあ。
普段は呆れるほどに誰に対しても優しいのに、こと自分とのセックスとなると容赦がないし、ことが終われたこちらが戸惑うほど照れるし、更にはこんな自信のない姿まで曝け出すし。
「…ほんとに、春日くんを臭いとか思ったことないし、もし加齢臭とかしたって、それも春日くんの匂いでしょ。嫌いになるとか、あるわけないでしょ。好きだよ、僕は」
「趙…」
普段、あまり直接的な感情を表す単語を口にしない自覚はある。だからこそ、ここはきちんと伝えておかないと、と趙は羞恥も妙な意地も乗り越えて言葉を紡ぐ。
「ハゲようが、腹が出てこようが、僕は君のこと好きでいられるよ。それよりも、避けられる方がよっぽどしんどいよ」
「うん…だよな…悪ぃ…」
趙の口から『僕』が出るのは、心を許して素を晒している時と、機嫌がいい時。
本人が気付いているのかはわからないが、春日と話すとににだけ出てくる普段よりも少し幼い口調が、堪らない気持ちにさせる。
「まあ、腹は出ねえように頑張る」
「あはは、僕も頑張るよ」
どちらともなく息を吐くように笑って、額を寄せる。
流れとしてはこのままキスをしてもいいのだけど、趙はふと悪戯を思いつく。
「いた…」
腰を押さえて小さく呟くと、春日が血相を変えて趙の顔を覗き込む。
「だ、大丈夫か?昨日無理させて…!」
狼狽える春日の懐に潜り込み、首をしっかり押さえ込んでチュッと派手な音のするキスをする。
「なんちゃって」
最初のキスを避けられた仕返しが成功して、趙がにやにやと笑う。触れたばかりの唇を指で突くと、春日はまた顔を真っ赤にした。
「テメエ…!」
「大丈夫、いい匂いだよ。でもお風呂入ろっか」
「やっぱ臭えんじゃねえかよ!」
「そりゃ昨日あれだけ運動したんだもん、俺だって同じ匂いだよ。さあお風呂入ろう春日くん。洗ってあげるよ」
ごくりと喉を鳴らした春日に趙は声を上げて笑って、ひょいとその手を引いて、古くて狭い風呂場に向かった。