そばにいること。「だめ、春日くん…そんなに入れたら…」
「大丈夫だろ、も少しいけるって…」
「だめ、破れちゃう…」
「俺を信じろよ、趙…」
「あ、ダメ、ほら…あ…ッ!」
「あー!!」
春日の悲痛な叫び声に、趙は声を上げて笑った。
「だから言ったのに〜。お揚げ破れちゃったじゃーん!」
「もうちょっと入ると思ったんだよ…」
「欲張りすぎなんだよ、春日くんはさァ」
春日の手には、油揚げが無惨に破れ、中の酢飯がこぼれ落ちたいなり寿司の残骸があった。
趙は春日の手から破れた揚げを取り上げると、そのままひょいと口に入れて食べてしまう。
「はい、もう一回」
「うう…くそ…」
「今度は上手に入れてね」
「おう」
「おいなりさん作りながら、いかがわしい会話してんじゃねえよ」
春日と趙の隣で、同じようにいなり寿司を作っていたナンバから、呆れた声がかかる。
「アッハ、バレたぁ?」
意味がわからずキョトンとする春日の肩に寄りかかって、趙がにやにやと笑う。
「ちょっと一番!次お揚げ破いたら足立さんと一緒に枝豆係にするわよ!」
「はい!」
紗栄子から飛んできた叱咤に、春日がキレ良く返事を返し、ナンバと趙が声を上げて笑う。
ひょんなことから、サバイバーの二階のアジトで開催されているのは、いなり寿司パーティーだ。
久々に仲間全員が揃い、会話や酒を楽しみながらのんびりと油揚げに酢飯を詰めていた。
好きな具材を混ぜた数種類の酢飯を用意し、油揚げに詰めていく。
足立は早々に揚げを5枚も破いたので、紗栄子に命じられて、具材にする枝豆をせっせと剥いている。
春日とナンバとハン・ジュンギは揚げに酢飯を詰め、趙と紗栄子とえりが、炊き上がったご飯に下味をつけた具材を混ぜて、酢飯を作っていた。
ことの起こりは数日前。コンビニの弁当コーナーで春日がいなり寿司をじっと見つめていたことから始まった。
「買わないの?」
春日の素材集めに付き合った帰りに寄ったコンビニで、ビールを手にした趙が不思議そうに声を掛ける。
「ん?うーん…いや、これってよぉ、ウチで作れねえのかなって…」
春日の「ウチ」と言う言葉に、趙はどきりとする。
サバイバーの二階を常宿にしているのは自分と、春日とナンバの3人。そこでの暮らしを「ウチ」と言う春日に、この町での居場所を見つけてくれているようでくすぐったい喜びを覚える。
「おいなりさん?作れるよ」
「マジかよ!」
「お揚げはさすがに大変だけど、今は味付の煮たのが売ってるしね。ウチでご飯炊いて酢飯作れば、具材も色々入れられるし」
「具材?」
春日が目をキラキラとさせながら、掴みかかる勢いで趙に詰め寄る。
「え?そう…。入れない?生姜の刻んだのと炒りごまとか、枝豆とか。鶏そぼろ混ぜても美味しいし…」
趙が言い終わる頃には、春日の後ろに足立とナンバまで現れて、涎を垂らさんばかりの顔をしている。
「…今度、みんなでいなり寿司パーティーしようか?」
期待に満ちた6つの目に見つめられて、流されるように趙が言うと、揃って首を何度も頷かせた。
「アハハ、オッケー。じゃあ、紗栄子ちゃんとか予定確認しないとね」
いい年をしたオッサンたちの子供のような喜びぶりに、趙も楽しみになってくる。
そして、あっという間にスケジュールを調整して、パーティー開催となったのだ。
春日の仲間たちはそれぞれに苦労人で、友達や同僚などと集まって遊ぶという機会が少なかった人間ばかりだったから、こういった集まりをことのほか喜んだ。
今度はたこ焼きパーティーをしよう、餃子もいいなと、わいわいとそんな話をしながら、みんなで作ったいなり寿司を食べ、酒を飲む。
あっという間に夕刻になり、えりが祖母に、ハン・ジュンギがソンヒに自ら作った分を土産として持ち帰り、他の仲間たちも満腹になってそのへんに転がり出して、趙はそっと食器や箸を片付け始めた。
流し台で洗い物を始めると、壁に寄りかかって寝ていた春日が目を覚まし、趙の元へとやって来た。
「ごめんね、起こしちゃった?」
「謝んなよ。こっちこそ、悪いな、片付けまでやらせちまって…」
「いいよそんなの。楽しかったし」
「手伝う」
ワイシャツの袖を捲る姿にどきりとして、見慣れているはずなのになんでかなと思いながら、趙はゴミをまとめるのをお願いした。
「分別わかる?」
「おう」
まだ少し寝ぼけているのか、春日の返事は短く、どこかぼんやりとしていて、ああそうか、隙だらけなんだと趙は思った。
「春日くん」
あらかたの洗い物を終え、区切りのいいところで名前を呼ぶと、趙の横に座ってゴミを分別していた春日が振り返る。
趙は、流し台の上に置いていた、いくつかのいなり寿司にラップをかけた皿を春日に差し出した。
「これ、さっき春日くんが作った分。お仏壇にもっていきなよ」
「え……」
「せっかく春日くんが作ったんだから、お供えしたら喜んでくれるんじゃない?」
趙がかがみ込んで視線を合わせると、春日の大きな目がグラリと揺れた。
あ、やばい、泣かせちゃう?
内心そう思って慌てつつも平静を保って見つめていると、春日は顔を伏せ、趙の手を握った。
「ありがとうな…」
春日のあまりに消沈したように見える態度に、まだ触れてはいけないことだったかと趙は後悔する。
「…余計なこと、しちゃった?」
異人町の勢力図どころか、この国の根幹を揺るがすような事件の中で、春日は大切な人を相次いで亡くした。ようやくひと区切りがついて、春日がこの町に恩義を返すという暮らしをはじめ、それなりに時間が経ったように思っていたが、春日が負った心の傷は、そう簡単に癒えるものではなかったかもしれない。
「いや、逆だよ…。ありがとうな、趙」
ゆるゆると首を横に振りながら、それでも顔を上げない春日の手を、趙は促すように握り返した。
「…なんか…みんな、気ィ使ってくれてんのわかってたんだけどよ…。おやっさんと若のこと、触れないようにしてくれてただろ…?」
「うん…」
「ありがたかったけど…、なんか、誰にも触れてもらえないと、忘れられちまったのかな、とか…なんか、そんな…上手く言えねえけど…」
そこで言葉を切り、ふっと笑って春日が顔を上げた。
泣いてはいなかったが、今までに見たこともないような熱っぽい目をしていた。仲間として、一度も見たことのなかったその表情に、趙は射すくめられたように身動きができなくなる。
「前も、こんなことあったな…」
趙の手をぎゅっと強く握って、春日は言葉を紡ぐ。
「いつも、欲しい言葉くれるの…お前なんだよな…」
「春日くん…」
気の利いた返しも、のらりくらりと躱すことも出来ず、掠れた声で名前を呼ぶのが精一杯で。
腹の底がずくりと熱くなって、動悸も早くなる。
どうしよう。どうすれば。
横浜流氓の総帥をしていた頃だって、こんなに動揺したことはないというくらい動揺してしまった趙に、春日は更に追い打ちをかける。
「…趙も一緒に行ってくれるか?お供えすんの」
「…いいの?」
「おう!」
いつもの調子を取り戻して、ニッカと笑った春日が、握った手をそのままに立ち上がる。
つられて立ち上がった趙が、心の動揺そのままにふらつくと、春日がそっと腰を支えた。
こんな状態で、手も握られたまま。
春日にとって特別な場所に一緒に行って、果たして自分が平静を保てるかと思いながら、趙は握られた手を引かれるまま、サバイバーの二階を後にした。
残された仲間たちが、固唾を飲んで見守っていたのを知らぬまま。