そばにいること4凍りついた空気にいたたまれなくなり、趙は花束を抱えてサバイバーを出た。
二階に行っても紗栄子が追いかけてくるかもしれなかったし、何より春日が帰ってくるだろう。
出来るなら、今はまだ顔を合わせたくない。
むせかえるような百合の香りのする花束を抱えて、あてもなく歩く。
一体この花束をどこに飾ればいいのだろう。
住むところのなくなった趙はサバイバーの二階を春日とナンバと定宿にしていて、たまにコミジュルや祐天飯店に顔を出すが、どちらも花を飾るのに相応しい場所とはいえない。
他にどこか行くあてを考えてみるが、まったく思い浮かばず、途方に暮れる。
横浜流氓の総帥を辞してからの自分の暮らしは、春日中心に回っていたんだなあと改めて痛感する。
様々な場所を思い返してみても、全てが春日に結びつく。
彼のいない人生が、想像できないとでもいうように。
「いやいやいや…」
声に出して否定して、目に付いた川沿いのベンチに腰を下ろす。
途端思い出される、花束を渡してきた時の春日の顔。
怒ったような難しい顔をして花束を差し出し、趙が呆気に取られていると、ぎこちなく笑った。
しっかりとした眉がふにゃりと下がって、困ったような顔をして。
『いやほら、色々世話になってるからよ』
たぶん、そんなことを歯切れ悪く言っていたと思う。
胸元に押しつけられた花束を反射的に受け取ると、春日は出かけてくると言い残して出ていった。
その耳が、わずかに赤くなっていたことも思い出す。
かわいかったな。
あの時の春日の顔をようやく思い出して、趙は小さく笑う。
ちゃんとありがとうと言えばよかったのにと、今更ながらに後悔する。
春日は、どんな気持ちでこの花を自分にくれたのだろう。
中国マフィアの総帥の息子なんてものに生まれついて、次期総帥として育てられて。
異人三の真実を知ってからの自分に、果たして感情なんてあったかどうか。
そのくせ他人の心の機微には馬鹿みたいに聡くて、様々な策略に利用して生きてきた。
総帥として生きていくのに、自分の感情は必要なかった。
本気で誰かを好きになったことなどなかった。
だから好きだという感情がよくわからないのだ。
たぶん、自分は心の一部が死んでしまっているのだろう。
春日がこの花束と一緒に渡してくれたものが、愛情だったらいいなとほんの少し思う。
そうしたら、自分は少し変わっていけるかな、とも。
「兄ちゃん、金貸してくれねえかなぁ」
突然掛けられた剣呑な声に振り返ると、複数のチンピラが趙を取り囲むようにニヤニヤしながら近づいてくる。
春日が一緒じゃなくても絡まれるんだなこの町は…と思うとおかしくて、趙はニヤリと笑って立ち上がった。
趙に花束を渡したあと、逃げるようにサバイバーを出て、春日は行く宛もなく街中を歩き回った。
びっくりしてたな。
それもそうか。
この前、浜子の店の二階で趙にキスをしてしまった。
自分がなぜそんなことをしたのか、あの日からずっと考えてしまっている。
浜子達と花札をした後、2人でサバイバーの二階に戻る道中、趙は何事もなかったようにいつも通りだった。
今度は餃子パーティーをしよう、具は何がいいかなと、にこにこと機嫌よく笑っていた。
なかったことにされたのか、それともあれは、趙にとってなんでもないことだったのか。
自分の気持ちと、趙の気持ちを確かめたくて、時折そうしていたように、花束を贈ろうと思った。
せっかくなら自分で作ろうと、マスターにコツを教えてもらいながら作った花束は、今まで誰に贈ったものよりも大きく豪華なものになっていた。その大きさが、自分の趙への想いを表しているようだった。
趙のことが好きだ。
それはもう、間違いようない事実だろう。
この町に来て、かけがえのない仲間を何人も得た。
一連の騒動の中、「暴走」とか「言い出したらきかない」と言われる行動に自分が突っ走る時、カタギの仲間たちは基本的に心配し、反対する。
けれど趙は、常に寄り添ってくれていた。ニヤニヤと面白がっている風を装いながら、その決断を否定しなかった。
それはたぶん、ずっと裏社会に身を置いて、自分の言動や行動ひとつで人の人生も命も左右できた立場にあったことが大きいのだろう。
だからこそ、蒼天堀や神室町に乗り込んで行く時、あの男が共にあることが心強かったのだ。
その後の結末で、色んなものを失った自分が地に足をつけて生きていけるよう、日常というものを手に入れられるよう仲間達が心を砕いてくれたから、今の自分が生きている。
趙が朝飯作ってくれたの、あれは嬉しかったな。
炊飯器を買って、ご飯と味噌汁だけの簡単な朝食。趙ならきっと、もっと色々手の込んだものを作れるだろうに、そのシンプルな朝飯が逆に心に沁みて。
やっぱり、趙が好きだ。
そう思うと、おやっさんと若を失ってずっと冷えていた心がじんわりとあたたかくなる。
けれど、それが仲間に対する愛情の域を超えているかどうか、やはりわからなくて、堂々巡りを繰り返している。
いつまでもぐずぐずと悩んでいるのも性に合わない。
春日はため息をついて、サバイバーに戻ることにした。
春日がサバイバーに戻ると、そこに趙の姿はなく、紗栄子とナンバがまだ早い時間だというのに、カウンターで飲んでいた。
「お、問題児のお帰りだ」
「なんだよ問題児って。俺はガキじゃねえよ」
苦笑いをするナンバにムキになって言い返すと、隣にいた紗栄子が小さくため息をつく。
「わかってないわねえ。ほんと無自覚なんだから。趙、困ってたじゃない」
「なに…」
『困っていた』という紗栄子の言葉に、ほわほわと浮かれていた気持ちがすっと冷える。
「あんなプロポーズするときに渡すみたいな花束もらったら、そりゃ困惑するでしょ」
趙に渡した花束のことを紗栄子に知られていたとわかり、春日は気恥ずかしくなる。
「いいだろ別に。色々世話になってんだし。いなり寿司のお礼だよ。…それより、困ってたって、趙は、その…なんか、迷惑そうだったのか…?」
よほど情けない顔をしたのだろう、紗栄子はギョッとして大慌ててで否定をする。
「違うわよ!びっくりしてたってこと!」
「お前ら、人の気持ちはわかるくせに、自分らの気持ちが全然わかんねえんだもんな。変なとこ本当に似てるんだよ」
カウンターに頬杖をついたナンバが、呆れたようにため息混じりにそんなことを言う。
春日が戸惑って何も言えずにいると、紗栄子が憐れむような笑顔を向ける。
やめろその顔、いやな予感しかしねえ。
「ねえ一番。もし、私とナンバが結婚するって言ったらどう思う?」
身構えていたら思ってもない言葉が投げかけられて、春日はキョトンとする。
「え?結婚すんのか?」
「もしもって言ってるでしょ?」
「そりゃ嬉しいに決まってんだろ!」
まるで本当のことのように嬉しくなって、春日は目を輝かせる。
「大事な仲間が家族になるってことだろ?そんなめでたいことはねえよ」
その言葉を聞いて、紗栄子はにっこりと笑う。
「じゃあ、私と趙が結婚するって言ったら?」
「え…?いや、さっちゃん、趙とそんなに仲良くもねえだろ…。それに、趙は…ほら、アイツはマフィアのボスだったわけだし…」
趙の名前が出た途端、顔をこわばらせてブツブツと言い出す春日に、紗栄子とナンバがニヤニヤと笑う。
「ほら〜」
「あ?なんだよ」
「まだわかんないの?ナンちゃんはよくて、趙はダメだって言ってんのよ?」
「あ…」
指摘されてようやく気づき、春日は首筋、頬、耳とじわじわと赤くなる。
仲間として、好きで、大切であれば。
紗栄子が誰と結婚しようと、素直に祝うことができるだろう。
それがハン・ジュンギであっても、足立であっても驚きはするが、祝福すると思う。
気づいてしまった。
というか、仲間たちには、とっくに気づかれてしまっていた。
「さーて、じゃあナンちゃん、ご飯食べに行こっか」
「いいね~。おう一番、俺今日帰って来ないからな」
二人はすっかり満足したという顔をして、意気揚々とサバイバーを出て行く。
一緒に行くとも言わせてもらえず、一人取り残された春日は、マスターの哀れみの視線を感じながら背中を丸めてカウンター席に座って、大きくため息をついた。