触れたらわかること2『春日が例の家の前をうろついていたので中に入れておいた』
祐天飯店を出ようと準備をしていた趙の元に、ソンヒから短いショートメールが届いた。
「いや、犬ころじゃないんだから…」
思わず声に出すも、わかっていたとはいえあの家に春日を呼び出したことがバレて気恥ずかしい気もする。
ただでさえ、流氓の連中に冷やかされた後だ。
ソンヒに頼まれ、流氓の元部下とコミジュルの間の調整役のようなことをして、今日もガス抜きを兼ねて祐天飯店に集まっていた。
料理を振る舞いながら話を聞いていると、外に出ようとして戻ってきた1人が突然「外にせんべい屋の社長がいますよ」と言ってきたのだ。
意味ありげで物問いたげな空気が連中の間に流れて、さらに下っ端の若造が「なんすか、せんべい屋って」などと聞いているから、趙は居た堪れなくなって逃げるように外に出た。
そこには確かに春日がいて、趙を見た途端、寂しさと困惑の混ざったような顔をした。
後ろ手にドアを閉めて、好奇心に満ちた視線を断ち切るようにすると、春日は何を思ったのか、諦めたように笑って見え透いた嘘を吐いた。
その途端、腹の底に冷たく重い砂が溜まったような気がした。
通りがかっただけだという春日を引き止めることも出来ず見送った趙は、得体の知れない焦燥感に襲われた。
それは、春日と出会って、仲間になってから、好きだと自覚してからもずっと感じていたこと。
いなくなる。
好きだと言いながら体を明け渡さない趙に焦れ、呆れて気持ちが離れていくなどという色恋の話ではない。春日がある日突然この街から消えてしまいそうな不安が常にあるのだ。
浜北公園まで追いかけようかと逡巡しても、結局、動くことが出来なかった。
情けない自分に嫌気がさして、うっかりと肩を落としたまま店内に戻ったら、こちらを伺っていた元部下たちが自分の様子を見て口を噤んだ。その横で何も知らない下っ端が「どうしたんすか、せんべい屋に何されたんすか」と憤って横から小突かれていたから、本当にひどい顔をしていたのだろう。
その後、春日との関係をここぞとばかりに聞いてくるのをのらりくらりと躱してお開きにして、趙は片付けるからと言って1人残っていた。
残った食材を見て、春日との以前の会話を思い出す。
もし、まだ間に合うのなら。
そんなふうに思いながら、春日にショートメールを送る。
突然いなくなるなど、そんなことはないとわかっていても、お互い長く裏の世界に身を置いていた人間だから、いつどうなるかはわからない。
体を明け渡すことで繋ぎ止めておけるならと最低なことまで考えてしまい、ため息をつく。
メールに返信はない。
自分の中のぼんやりとした不安の原因を、趙はなんとなくわかっている。
春日が自分を求めるのは、体が欲しいだけではないことを趙はわかっていた。
春日が求めているものは、たぶん趙そのもので。
心も体も、なんて言葉にすると陳腐だけれど、それでも春日のあの熱量に応えるにはそれなりの覚悟がいるのだ。
それに、最近趙がサバイバーに戻らなかったことで春日は避けられていると感じている節があるが、そうではないこともきちんと話さなくてはならない。
趙はソンヒのメッセージをもう一度見て小さくため息をつき、荷物を抱えて祐天飯店を出た。
趙が例の家の前に着くと、春日がいるはずの部屋には明かりはなく、相変わらず建物から人の気配がまるでしなかった。
ソンヒは中に入れたと言っていたが、もしかして帰ってしまったのだろうかと考えながら鍵を開けると、真っ暗な玄関に座り込んだ春日がいた。
「うわびっくりしたあ!何してんの、入っててよかったのに」
暗がりで確認できたのはモジャモジャの頭だけ。
慌てて明かりをつけると、眩しそうに目を細めたいつも通りの春日がそこにいて、趙は今すぐにでも抱きしめたくなる。
ああこれが、愛しいってやつなのかな。
「いや、主のいない部屋に勝手にあがるのもよ…」
ばつが悪そうに下っ端の性みたいなことを言うので、趙は荷物をとりあえず玄関に置いて冷えた頬に触れる。
「俺が呼んだんだから、いいに決まってるじゃん。まあ鍵掛かってるの忘れてたのは悪かったけど」
「そうだよ、鍵!」
頬に触れた趙の手をガシッと掴んで、春日が思い出したように叫ぶ。
一応集合住宅でもあるので、趙がしいっと人差し指と口元に立てると、慌てたように口を噤む。
「鍵がどうかした?」
「…防犯カメラで見てたソンヒが遠隔操作で開けてくれたけどよ、その…大丈夫なのか?そんな、勝手に鍵の開け閉めを誰でも出来ちまうなんて…」
「ああ、そんなの。誰でもってこともないけど、結構あるよ。スマホとかで開けられる鍵とか」
「そ、そうなのか?…へええ、世の中ハイテクなんだなあ…」
趙の手を握ったまま素直に感心する春日を促して、部屋の中に入る。
ベッドとサイドチェスト、ローテーブルと壁掛けのテレビと小さいソファ。
ウィークリーマンションのような広めのワンルームには備付けの家具しかなく、趙も私物をほとんど置いていないので驚くほどに殺風景だ。
「体冷えちゃってるね。あったかいもの淹れるよ。お茶とインスタントコーヒーしかないけど、どっちがいい?」
「どっちでも…」
珍しそうにキョロキョロする春日に苦笑して、趙は電気ポットでお湯を沸かす。
「さっきの鍵の件はね、ソンヒに何言われたのか知らないけど、中に人がいる時はリモート解除できるようになってるから。勝手に開いたりしないから大丈夫だよ」
「そうなのか…」
趙の言葉に、春日は明らかにホッとした顔をしたものの、まだ何か引っ掛かっているような様子を隠しきれていない。
思えば祐天飯店に顔を見せたときから何だか様子がおかしかったなと思って、趙はようやくあることに思い至る。
流氓の連中に、春日といる自分の顔を見られるのが気恥ずかしくて、硬い態度をとってしまったこと。
それを春日がどう受け止めたのか。
もしかして、たったあれだけのことで、自分の気持ちを疑われているのだろうか。
所在なく部屋の中に立ち尽くす春日に、趙はマグカップにいれたお茶を手渡してソファに促す。春日は礼を言って受け取り、大きな体を小さくして狭いソファの端に腰を下ろした。
趙が肩も腰も触れるくらいぎゅうぎゅうにくっついて隣に座り、下から顔を覗き込むようにすると、春日は視線を逸らして、わかりやすいくらいに目を泳がせた。
なんだその態度は。
自分はあんな、あからさまな欲情をぶつけてきたくせに。
「…言っておくけど、別に挿れたいとか言われたからって逃げてたわけじゃないからね。そりゃちょっと忙しくなったのは事実だけど。だいたいさあ、サバイバーのお風呂じゃ練習も出来ないし、ホテルで一人でやるのも嫌だし、適当な理由付けてコミジュルに部屋貸してもらっただけで、避けてたわけじゃないからね?」
なんだか無性に腹立たしくて、一気に捲し立てるように趙が告げると、春日はきょとんと目を丸くする。
「え?」
「ん?」
「いや、俺はソンヒが不穏な気配のある時に利用してるって言ってたからよ、余計なお世話なのはわかってるけど、大丈夫なのかって思ってた…んだけど…ん?練習?」
「あッ、そうだ春日くん、ご飯てもう食べた?」
戸惑う春日の言葉に、趙は自分が先走りすぎたことに気づき、慌てて話題を変える。
「あ?いや、まだ食ってねえけど…」
「よかった!ご飯ご馳走しようと思って呼んだんだよね〜。店から食材持ってきたからさあ、この前食べたいって言ってたオムライス作ってあげるよ。」
「マジか!やったぜ、趙のオムライス食ってみたかったんだよな…チャーハンうめえから、絶対オムライスもうまいだろうなって思ってたんだよ」
「まあ似たようなもんだけどね。じゃあ、ちゃちゃっと作っちゃうから、お茶でも飲んで待っててよ」
上手く誤魔化せたのかよくわからなくて、焦りと混乱で趙は慌てて立ち上がる。
逃げるようにキッチンへ向かおうとする趙の手を、春日は思いのほか強い力で握って引き止めた。
「…ありがとな、趙。それでよ、オムライス食ったあと…お前のこと、抱いていいか?」
やっぱり全然誤魔化されてくれていなかった。
見た目以上に頭の回転の早い男だ。趙がうっかり漏らした言葉の意味を正しく理解していた。
しかも『セックスする』でも『ヤる』でもなく、『抱いていいか』と来た。
びっくりするぐらい真っ直ぐに、人の目を見て。
さっきまで、狼狽えていたくせに。
春日に手を掴まれて振り返った、ほんの数秒の間にいろんな考えが頭の中を駆け巡る。
それより、なんて答えるのが正解なんだ。
嫌じゃない。もちろん、だから必死の思いで「勉強」も「練習」もした。
いい年をした大人で、中華マフィアのボスだった男で、それなりに経験も積んで。
いつもこうやって人を振り回すこの男を、逆に翻弄するような言葉はなんだ。
そんなことをぐるぐると考えているうちに、春日の真っ直ぐな目が不安に曇りだす。
その様を見ただけで、趙のよくわからないプライドは粉々に砕けて、結局、首も顔も真っ赤にして、声も出せずに頷くことしか出来なかった。
そんな自分が情けなくて唇を噛み締めると、春日が眉を下げて安堵のため息を漏らす。よく見れば、趙の手を掴んだ指先は白くなって、ほんの少しだけ震えていた。
春日のその様を見て、ようやく趙も笑うことが出来た。
手首を掴んでいた手を握り返して、小指をギュッと握ってやると、春日の体がびくんと跳ねた。
それに気を良くして、趙がキッチンに向かうと、春日がその後ろをついてくる。
「なあ、また作るの見てていいか?」
「いいけど、春日くんも物好きだよねえ。何が面白いの?」
「うーん、面白いっていうより、趙が料理してるの見るのが好きなんだよな」
玄関に置き去りにしていた食材を詰めた袋を取りに行くのにも付いてきて、春日はサラリと趙の胸が疼くような言葉を口にする。
「そう?そう言われると悪い気はしないねえ。あ、卵はふわふわと薄焼き、どっちがいい?」
「薄焼き!」
「オッケー、昔ながらのやつね」
本当に家庭料理に憧れがあるのだと、改めて思う。
「じゃあ、ごはんも鶏肉よりウインナー入れた方がいいかな?」
冷蔵庫の残り物で作るようなケチャップライスの方がいいのかと問えば、春日は目を輝かせて何度も頷いた。
サバイバーよりも狭い、単身者用のキッチンに立って、玉ねぎとニンジン、ピーマンをみじん切りにする。
「春日くんピーマン平気?」
「ん?別に、好きってほどでもねえけど食えるぜ」
「こないだナンバが避けてたからさあ」
「アイツ意外に好き嫌い多いんだよな」
包丁を扱う趙に、さすがに抱きつきはしなかったが、春日は横に並んで手元をじっと見ていた。
「すげえなあ、あっという間に細かくなっちまった」
「みじん切り好きなんだよね」
「切り方に好きとかあんのか…」
「まあね。あ、ウインナー取って」
「おう…つうか、中華でウインナーなんか使うのか?」
「いやさすがに使わないよ…。これは来る途中で買ってきたの。春日くん、ウインナー好きそうだったからさあ」
「マジか。愛されてんなオレ」
「ほんとだよねえ〜」
あははと笑って誤魔化したけれど、これまでの自分の春日に対する行為や態度を改めて思い出すと、甘やかすというより、随分尽くしてきたような気もして今更ながらに気恥ずかしくなる。
「米はどうすんだ?」
「ああ、ここ炊飯器ないから、店から冷やご飯持ってきた。炊き立て使うより意外と美味しくできるんだよ」
「へええ…」
カレーのように煮込むわけではないから、このまま炒めて卵を焼けば完成する。
ずっと隣で見ているつもりなのかなと考えて、春日がなぜかソワソワしていることに気づく。
「…ちょっと。やらないからね?」
趙がわざとらしく声を低くして告げると、春日は目に見えて動揺した。
「なんだよ。なにをだよ」
「ケチャップでなんか書かせようと思ってたでしょ」
「バレてたか〜」
眉を下げて笑う姿を、横から肘で軽く突く。
「バレてたか〜じゃないよ。絶対やらないよ」
「いいじゃねえかよ」
そう言ってる間にケチャップライスは完成して、趙はフライパンを軽く拭いてから卵を焼き始める。
火が入り始めた卵の上にケチャップライスを戻して、手首を使ってくるんでいく。
きれいに玉子焼きに包み込まれていく様を、春日は目を輝かせて見つめていた。
「春日くん、お皿取って」
「お、おう」
ハッとした春日が両手で皿を差し出すのに笑って、趙は器用に皿の上にオムライスを乗せた。
「やったね、大成功〜」
玉子焼きも焦げてなければ破れてもおらず、ケチャップライスもはみ出ていない。
我ながらよく出来たと、趙が得意げに春日に皿を差し出すと、春日は恭しくまた両手で受け取り、感嘆のため息をついた。
「いやマジですげーな…」
「ええ〜?そんなに?でも褒めても書かないからね」
「いや、いい…充分だぜ」
本当に嬉しそうに、出来上がったオムライスを見ながら春日が呟く。
家庭の味を知らずに育って、18年間の刑務所暮らし。その後は食べることもままならなかったホームレスになって、今の春日がある。
春日は、それなりの収入を得られらようになった今でも、高級なものを食べるより、家庭的な料理やみんなでする食事というものを喜ぶ。
「…もう、今日だけだからねぇ…」
ため息混じりで呟きながら、趙はケチャップを手に取り、出来上がったオムライスの上に、ものすごく不恰好なハートを書いた。
「ちょう〜」
「うるさい」
眉を下げてデレデレと情けない顔になった春日に、顔が熱くなる。
こんなことをしてバカじゃないのかと思うのに、喜ぶ顔が見たいと思ってしまうあたり、自分ももうどうしようもない。
鼻歌でも歌いそうな勢いで機嫌が良くなった春日がテーブルにオムライスを置き、趙は店から持ってきた副菜を並べた。
ここで食事をするときは基本1人きりで、殺風景で味気のないものだったが、2人分並ぶとそれだけで美味しそうに見える。
「趙はオムライス食わねえのか?」
床に座って趙を見上げながら聞いてくる、春日の上目遣いがかわいくて、思わず髪をくしゃりと撫でる。
「俺は店で食べてきたからね。でもまあちょっとだけ一緒につまもうかな」
冷蔵庫にあったビールを手渡すと、春日は笑みを浮かべて「ありがとうな」と言う。
さりげない小さなことにもきちんとお礼を口にする春日が好きだ。
「さあ食べようか」
「おう、いただきます!」
外食でも、サバイバーで食べる簡単な食事でも、必ず元気よく「いただきます」と「ごちそうさま」を言うところも大好きだ。
他のおかずには目もくれずにオムライスを一口食べて、春日は相好を崩して「うめえ」と呟く。
趙はそんな春日の嬉しそうな顔を肴にビールを飲む。
「この前のカレーもそうだけどよ、やっぱ店で出てくるものとは全然違う美味さがあんだな…」
「そうだねえ。手作りって美味しいよね」
「おう、ありがとうな趙。また作ってくれよ」
「もちろんだよ」
その言葉の後は春日が食べることに集中して、副菜まであっという間にぺろりと平らげてしまった。
ごちそうさま、といつも通りに手を合わせた春日に「おそまつさま」と返して、食器を片づけようとすると、その手をそっと掴まれた。
「片づけは俺がしておくから、シャワー浴びて来いよ」
まるで気負いなく告げられて、趙は一瞬なんでと思ったが、すぐに先程の約束を思い出す。
そうだった。
いや、オムライスを食べる姿にほっこりしてて、すっかり忘れていた。
いや、忘れてたわけではなく、意識しないようにしていただけだ。
「あ、そ、そっか…うん…」
しどろもどろの返事しか出来ない趙を笑うこともなく、春日は耳を赤くして、さっと食器を手に立ち上がる。
たったこれだけのことでお互いこんなに照れてしまってこの先の行為が思わず心配になるけれど、もうなるようにしかならないと腹を括って、趙はクローゼットからバスタオルを取り出し、バスルームに向かった。