xxx -side A- 生きていくには、一つのものがあればいい。
どんなに傷ついても、苦しくても辛くても、それがあるだけで挫けずに済むもの。どれほどの失意と絶望を味わっても、それに縋れば生きていけるというもの。
何でもいいのかもしれない。それが人によって各々違うということは、実際何でもいいのだろう。
彼の場合は、既に否応なく決定してしまっていた。
何があっても、生きていけるもの。
憎悪。
手にした剣が、甲高い音を立てて空を斬る。男はそれをぎりぎりでかわした。
長剣。大剣のように、叩きつければいい、という武器ではない。どちらにせよ、当たらなければ意味はないが。
慎重に間合いを計る。剣を振りながら扱える魔術は、自ずと限定される。この男相手にどれだけ通用するものか。
そんなことを考えているうちに、男が一歩踏みこんできた。素早く後退するが、相手の方が早い。慌てて、呪文を唱えかける。
が、それすらも許さず、男はまず剣を持つ右手を払いのけた。手首に激痛が走り、思わず剣を取り落とす。それは石造りの床に落ちる前に、空気に溶けるように消えた。
一つ舌打ちをして、更に後退を試みるが、二歩も下がらないうちに背中が壁にぶつかった。一瞬視線が背後に向いたのを、男は見逃そうとしなかった。
手荒に左手を捩じり上げられ、そのまま手の甲を壁に押しつけられる。悲鳴を上げそうになるのを、何とか飲みこんだ。男は自分よりも背が高い。吊り上げられた肩が、抜けそうなほどに、痛む。
今の自分には、関節はいつにも増して急所となっている。彼がそれを知っているかどうかは判らないが。おそらく、彼の意図は自分の左手の甲から出現する〈風の紋章の剣〉を封じることだろう。
魔術が使える以上、別に今の状況は危機ではない。冷静に、そう判断する。
だが、それでも。
至近距離で彼の顔を見ると、感情の抑えが効かなくなる。
知らず、呟いていたのは呪文ではなかった。
全く意味のない単語。
「……メフィスト」
彼の名前。
「真吾」
相手も、同様に意味のない言葉を呟いた。
打つべき手はいくらでもある。
右手は拘束されていない。両足も。彼の身体に一撃を入れて、この支配を脱することは可能なはずだ。
または、左手一本を犠牲にするか。〈風の紋章の剣〉はおそらく扱えなくなるだろうが、それだけが攻撃手段だというわけでもない。
若しくは、このまま決定的な魔術を放つか。致命傷に近い状態に追いこむことはできるだろう。自分も同等以上の被害を受けるにしても。
メフィストフェレスの左手が動いた。無造作に山田の顎を掴み、上を向かせる。
「……大きくなったものだ」
「何を今更そんなことを云っているんですか?」
苛立ちを隠せず、返す。再び出会ってから自分が封印されるまで、少なくとも数度、彼らは顔を合わせている。再会したときには、既に自分は成人していた。驚くようなことではないだろうに。
だが、メフィストフェレスは更に続けた。
「お前を置き去りにしてから、ずっと。儂が思い出すのは、いつもまだ子供のお前だった」
「呆けているんですね」
辛辣に云い切って、きつい視線で睨め上げる。
が、メフィストフェレスはその言葉に何の反応も見せなかった。
「生き延びてくれるとは思わなかった」
「……貴方は……ッ!」
云いたい言葉が多すぎて、胸が詰まる。
その間に、メフィストフェレスが先に行動を起こした。
軽く塞がれる、唇。
山田が目を見開く。どうしても動揺を隠せない。
きつく縛められた左手。柔らかく触れる唇。何の感情も宿していなかった瞳。
……一体、何を基準に判断すればいい?
感情が、揺らぐ。
縋るものは、ただ一つでいい。ただ一つでいいのに!
ぎゃりっ!
奥歯が疼くような音とともに、メフィストフェレスの身体が弾かれた。数歩、後ろへよろめく。
壁に押しつけられていた左手の甲から、強引に〈風の紋章の剣〉を発現させたのだ。それが実体化して外へ押し出される勢いは、メフィストフェレスの力を上回っていた。
山田が、息を荒げて立っている。左手を庇うように右手を添えているのは、相反する力の間に入ったことでかなりの反動を受けたためだろう。眼が、僅かに潤んでさえいる。
「……真吾」
短く、男が呼んだ。
青年の唇が、薄く開く。
もしかすると、それは笑みだったのかもしれない。
「……僕は」
縋るものは、ただ一つでいい。
判断するに足るものは、純然たる事実しかない。
「僕は、ずっと」
あの時、この男が自分を見捨てていったという、事実。
「貴方を、殺してみたかったんですよ」