xxx -side O- ばさ、と新聞を広げる。真新しいインクの匂いが鼻についた。
早朝。明るい日差しが、薄いレースのカーテン越しに差しこんできている。
背後でドアが開く音がした。この部屋の主が起きてきたのだろう。彼には、起床時間が一定でないという欠点があった。目覚めが悪くないのが、せめてもの救いか。
「おはよう、メフィスト」
「おはよう。……今日は早いんだな」
顔だけ振り向いて応える。青年は、自室にいるというのに長袖のシャツのボタンを一番上までしっかりと嵌めていた。皮肉を云われたと思ったのか、ややむっとした表情で返してくる。
「年寄りには負けますけどね」
男は肩を竦め、視線を新聞へと戻す。
山田は、こちらの手元に視線を止め、ソファの背に手をかけると覗きこんできた。
眉を寄せている気配がはっきりと判り、小さく笑みを漏らす。
「笑わないでくださいよ。まだ、全部覚えきってないんだから」
この新聞は、魔界にある自分の屋敷から転移してきているものだ。当然、日本語で書いてあるわけではない。それどころか、地球上のいかなる言語でもなかった。
この言語は、話す場合には相手に合わせて翻訳されるが、書き記されたものはそうはいかない。
『一万年に一人現れる天才児』としての自負でもあるのか、それとも単に活字が読めないのが気に食わないのか──多分後者ではないかとメフィストフェレスは思っていたが──、山田はこのところ、躍起になって魔界の言語を解読しようとしていた。
ソファが僅かに揺れた。背の部分に、山田が両肘を乗せたらしい。
「ここ。何ですか?」
山田が、大きな見出しを指差す。
「主語だ。『西方辺境伯』だな。で、動詞がこっちに戻ってる。『移動』だ。それから『終了』。これは完了形になるから、名詞と、今はないが形容詞が一番最後になる」
「……本当に無茶苦茶な文法なんだから……」
小声で文句を云いながら、先を読んでいく。実はメフィストフェレスはその紙面を殆ど読んでしまっていたのだが、黙って広げたままにしておいた。
また、ソファが小さく揺れる。身じろぎでもしたのだろう。別に気にもせずにぼんやりしていると。
頬に、何かが触れた。
柔らかく、少し湿った感のある、何か。
それはほんの一瞬触れた後、すぐに離れた。
「真吾、今……」
メフィストフェレスが振り向こうとするが、意外と力のある手でそれを阻まれた。
「何やってるんですか。ほら、この単語の意味、教えてくださいよ」
不審なほどの早口でそう促してくる。
「……これは、昨日説明しただろう?」
「忘れたんですよ。いけませんか?」
忘れた? この、青年が?
男がやや眉を寄せる。
だが、まあいいか、などと無責任に考えると、メフィストフェレスは再び説明を始めた。顔に、苦笑とも微笑ともつかない笑みを浮かべながら。