この鳴りの名を、まだ知らない。「なんでぇ、紅ちゃんまだ出ないのかい」
松乃湯の常連客に声をかけられ、浴槽の縁に腰掛けて休んでいた紅丸は、顔だけをそちらへと向ける。真っ直ぐに流れる黒髪の先から、ポタ、とまた一滴が落ち、熱い肩を濡らした。
「ジジイはカラスの行水だな」
「熱い湯にカッと浸かって、サッと上がる! それが気持ちいいのよ」
腰に手を当てて豪快に笑い、濡れた手拭いを大きく振って肩にかけると、お先、と背を向けて去って行った。ふ、と小さく笑んで、そういえばやけに静かになったと浴場を見回す。
誰もいない。紅丸がぼんやりと風呂に浸かったり、上がって休んだりを繰り返している間に、顔見知り達は次々と上がっていっていたようだ。いつもなら、気づかないということはないのだが。
「……、」
は、と零れた小さな溜息さえ、壁や天井にまで届いて跳ね返ってきそうだ。濡れた髪を掻き上げ、湯船に落としていた足も引き上げる。さすがに体が熱い。
ペタ、ペタ、と気だるげな足音をさせて、洗い場の前で止まる。蛇口の横に置かれたままの桶は、紅丸のものだ。中には、使い慣れた石鹸が入っていた。特にこだわりがあるわけではないが、幼少の頃からずっと同じ石鹸を使っている。
初めにそれを勧めてきたのは、紺炉だった。
『俺ぁ昔っからこれなんだ。紅も使うか?』
「――……、」
懐かしい頃を思い出し、そっと髪に触れる。
ぼんやりしてしまっていたのは、そのせいだ。思い起こして、何の気なしに、二十歳も間近になった今と重ねて。
瞬間、ドキリ、と体が揺れた。
最後に紺炉に髪を洗ってもらったのは、いつだっただろうかと。ふと思って記憶を辿れば、鮮明に思い起こされたのは、紺炉の大きな手の感触だった。
当然の事ながら、昔は髪を洗われることなどなんとも思わなかった。少し成長すれば、いつまでも子供扱いするなと拒んだものだったが。
(……くそ、何なんだこりゃ)
胸の鳴りがいつもと違う。それが何ともむず痒いのに、どうすればおさまるのか分からない。何度熱い湯に浸かっても、すっきりとしなかった。
紺炉の大きな手が。思い起こしてからずっと、あの感触が。
(洗われてぇとでも思ってんのか、……いや、そんなわけがあるか。ちぃとだけ懐かしく、思っただけ、)
頭の中で独り言を呟いても、そうではない、と首を振る己がいる。ならば、一体何なんだ。こんなにも心臓が騒ぐのは、一体。
脳裏にまた浮かぶ、紺炉の姿。紅丸の方へと延びてくる腕、広げられた掌が、優しく頭の上へ降りてきて。
--触れられたい、と、
「――何だってんだ、」
大きく舌を打ち、全て振り落とすべくあえて声にした。桶を乱暴に掴んで足早に脱衣所へ向かう。
クラクラとする。のぼせたのだ。そうでなければおかしい。詰所へ帰って、冷えた水を飲んでさっさと横になってしまえば、こんなものは。
こんな、ものは。
パシン、と後手に磨り硝子の戸が閉められる。最後の客を見送った天井の雫が、ピシャリと静かに床を打った。