アシンクロナス むっとした篭った湿度を纏った不快な布の当たる感触で目覚めた。ぼんやりと開いた瞼はやけに厚ぼったく感じて開きにくい。だんだんとはっきりしてくる意識と共に不快感を与える布の正体が肌触りのよいブランケットだったことに気づく。毛足の長い布地が露伴の吐く息を吸収でもしているのかやたらに熱を持っていて身体を覆うそれが煩わしく払い除けようとすると隣に誰かの気配を感じた。
「なっ、」
唐突に覚醒した脳みそが現状を理解しようとフル回転で動き出す。自分の家でないことは確かだ。昼間編集に原稿を持って帰ってもらったことまでは覚えている。調子のいい編集に半ば乗せられる様にして描いた読み切りはティーン向けのラブストーリーで現在連載しているピンクダークの少年はホラーサスペンスがメインなので傾向はまるで違うのだが前の担当に何を吹き込まれたのか「先生はラブストーリーとかは苦手ですよね?断っておきますか?」と舐めた口を聞かれたので作戦だとはわかっていたのだが新人の担当に岸辺露伴という漫画家のあり方を徹底的に教え込むべきだと思い直して仕事を受けた。もちろん手を抜くなんてこともせず完成原稿を受け取った担当は言葉も出ない様でいつになく大切に原稿をカバンに仕舞い込むとそのまま解散となった。そこまでは覚えている。
「ここは…くそ、なんで僕はこんなとこにいるんだ」
隣で規則正しく呼吸を繰り返す塊も、今自分がどこにいるのかも正しく理解はできたが経緯がわからない。自然と荒くなる呼吸は少しの酒気を帯びていてその生温かさが余計に露伴を駆り立てる。
「んん…?どうしたの?」
時計も見当たらない狭っ苦しい部屋は暗く、手探りで露伴を引き寄せた男は眠りを妨げられたのが不満なのかいつもより数段ダルそうな声で露伴を伺うとそのまま額を裸の背中に押し付ける様にして突っ伏してきて熱い。
「なんで僕はここにいるんだ?」
「…へ?」
眠る様子もない露伴にへばりついていた仗助は露伴の言葉に虚をつかれたのかそのままガバリと起き上がってなんも覚えてねぇの?と心配そうに露伴の肩を掴んだ。
「全く覚えてない…、」
「あんた急にウチに来たんですよ」
杜王町を拠点に活動をしている露伴であったが何かと東京での仕事も多いため世田谷に家を建てた。海外に取材に行く時などに結構便利で閑静な住宅街は気分転換に執筆する時にも都合が良かった。東京で暮らす恋人のためと言えばわかりやすい言葉を好む仗助は喜んだかもしれないが露伴の優先順位はいつでも変わらず漫画が第一で結局は仕事のためだった。上京してくるタイミングであちらも忙しくしていることも多くすれ違いが続きそのうち連絡することもなく行き来するようになっていた。
今日だって取材のついでに原稿を提出してそのまま帰るはずだったのに気づけば何故か恋人の家のベッドで眠っていた。初夏の訪れを感じる寝室は二人でくっついているとわずかに汗ばみ寝ている間に暑くなってシャツを脱いだのか露伴はほとんど衣服を身につけていなかったし酒の匂いすら感じる。いくら酔っ払ったとしても流石に家を間違えるなんてことをするわけがない。
「あんた結構おっちょこちょいですよね、前もこんなことあったの覚えてる?」
薄暗い寝室でも仗助が笑っているのがわかる。何が面白いのか思い出し笑いをしてどこか遠くを見る懐かしむ様な視線に疎外感を感じて少し嫌だった。ありし日の少年の様にはにかむ仗助は露伴の表情の変化を目ざとく察知したのか笑い皺をより深くして露伴の髪を撫でた。
「嵐の夜、康一の家でさ、賭けしたでしょ?あの時もあんた記憶がないって騒いでてさ」
俺に突っかかってきたの覚えてない?とつい先週のことの様に十年以上前のことを嬉しそうに話す。露伴の恋人はもうすっかり中年に近づきつつあってあの頃に感じた歳の差などとうに埋まっていたはずなのにどうしたことか口端をあげイタズラっぽく笑う何度も見た表情があの頃のまだ世間も碌に知らない高校生だった時の面影を連れてきて思わず目を瞬かせてしまう。
「俺だけが知ってる岸辺露伴のいいところ…」
「…まだそんなこと覚えてたのか」
なんてことはない一日だった。康一の家での出来事は紐解いていけば単純そのものではあったがあの時はどうにもこの男が気に食わなくて負かしてやりたいという一心でくだらない賭けを提案した。ヒントを与え過ぎてしまったのか結局は仗助から小遣いを巻き上げることは出来なかったがあの夜から二人の関係は変わっていった。くだらないと一蹴することはできたが露伴もこのことはよく覚えていた。
「あの時俺は先生のこといいなって思ったよ」
眠る体勢に導く様にゆっくりと身体を横たえられてそのまま先ほど剥いだブランケットをまたかけられて少し熱いが文句を言うほどでもなく大人しくしていると仗助はどうやら露伴が何故ここに来たのか最初からわかっていたのか子供でも寝かしつける様に優しく等間隔で腹を叩いて子守唄でも歌う様に仗助曰く露伴のいいところを次々列挙して口を挟むタイミングを封じられてしまう。
「露伴…俺は大丈夫ですから、絶対アンタを置いて死んだりしない」
アンタはわかりづらいけど優しいと話していた言葉が不意に途切れて露伴が口を開く前に続いた言葉にわずかに記憶が蘇ってくる。
無事に取材も終えて原稿も提出し終わって気分よくセラーで冷やしていたワインを開けた。つまみも適当に用意して杯を重ねて手持ち無沙汰になり映画を見始めた。およそまともな恋愛などほとんど経験することもなく仗助とも決して円満な関係をずっと続けられていたわけでもない。大衆向けに整えられた恋愛観というものを探るために資料として集めた恋愛映画達はまだいくつか残っていて見始めると本当にあの心理描写はあれで良かったのかと不安になってきた。自分の作品に自信がないわけではない、しかし面白いかどうかのジャッジは自分ではなく読者が決めることだ。ネームだって一度担当に目を通してもらって自分でも最善を尽くし納得した上で完成まで至った。何も恐れることはないはずなのに不安が拭えない、気を紛らわせるためにいつしか一本ワインを開けてしまうと次は恋人へとその対象が移っていた。
杜王町を守ると言った男は高校卒業と同時に祖父の意思を継ぎ警官になった。殺人鬼が去った今、それほど物騒な事件は起きないもののスタンド使いを多く有する町にはそれなりにトラブルも舞い込む。大変なこともあっただろうが露伴の家にもパトロールだと顔を見せにきた仗助はうまくやっていた。町の警官としてその勤めを立派に果たしていたが、男の血筋が平々凡々とした生活を許さなかった。
承太郎も歳を重ねてスタンド能力の衰えもあり早い話世代交代が求められていた。ジョースターの血を引くものとして仗助は突如財団からのスカウトを受け、自分の腕に収まる範囲の小さな町だけでない世界を担えと迫られ仗助は悩んだ挙句最後には首を縦に振った。ただ条件としてどうにか日本にとどまることはできた様で、現在はそれなりのポストについているはずではあるが日夜スタンド使いによる事件の解決に奔走している。
決して強制された訳ではないがいい加減悩んでいた仗助の背中を押したのは露伴だ。日本支部のある目黒に居を移した仗助とは会う機会もガクッと減った。守秘義務で仕事の話を出来ないようで会う時はいつも疲れた顔をしていた。露伴は人を癒すようなことをできる訳ではない。イラつかせることだってあるのは理解している。お互い外せない用事で約束を何度も反故にしたこともあったし何ヶ月も連絡を取らないこともざらだ。正直今仗助が生きているか死んでいるかもわからない。長年お互いをパートナーとして位置付けているものの結婚しているわけでもないからもし何かあっても露伴に知らせが来る頃には葬式さえ終わっている可能性だってある。映画は恋人との死別で終わった。どこかでハッピーエンドになるのではないかと期待していたのに最後まで大どんでん返しもなく静かに流れるエンドロールにいてもたってもいられなくなり気づけば家を飛び出していた。
「ひどい顔してたよ…何かあったかと思った」
優しい声にどうして自分がここにやってきたのか思い出した。仗助は深夜に突然やってきた露伴に驚いていたが嬉しそうに迎え入れてくれた。会えるかどうかもわからないのに露伴が必要だと感じるときにいつだって仗助は隣にいてくれた。優しく腕に抱き込まれてその暖かさに胸が締め付けられた。あぁ…生きていてくれている。静かに脈打つ鼓動をもっと聞いていたくて耳を心臓に押し当ているうちにどうやら眠りに落ちていたらしい。
「心配してくれてたんでしょ?」
「…君は、僕より僕のことを理解しているみたいに話すんだな」
大きな事件に取り組んでいるということは知っていた。直接的な表現こそしなかったが命の保証がある仕事ではないことはわかっていた。露伴にとっての漫画の様に仗助もまた仕事にプライドを持っている。行かないでくれだなんて言えない。もし逆の立場なら仗助に話すこともなかっただろう。
「そりゃあもちろん」
腹に回る腕はたくましく露伴を引き寄せ、男らしく張った筋肉を辿る様になぞるとまた傷が増えていることに気づく。
「誘ってるの?」
いやらしく触ったつもりなど毛頭なかったが親父臭く揶揄した仗助はすっかりやる気になったのかお伺いを立ててくる。もう少しひっついているだけでも良かったのだがまぁ悪くない。
「…そうかもな」
もぞもぞと体勢を整えて向き合ってやると暗闇の中でも輝く朝焼けの様な瞳とかちあう。露伴がこの世で最も愛した色だ。露伴の言葉を合図のように飢えた犬の様に飛びかかってきた男は死の匂いすら感じさせない。優しく生命力に満ちた男に揺すぶられて露伴の不安は束の間霧散していった。