パーソナルスペース この世界の冬は険しい。石神村で生まれ、村で育った人間たちにしてみれば普通の冬なのだろうけれど、三千七百年ぶりに石化から復活した元現代人たちにとってはストーンワールドの冬の寒さは石化前に体感した寒さを上回っていた。
ボタン一つですぐに温風を出すような温かい暖房器具も保温性の優れた化学繊維の肌着もフリースもダウンもない。毛皮はあるがセーターはない。ないないだらけのストーンワールドでは科学とあるものを使った知恵で何事も乗り切って生きなければならない。
「今日もゴイスー冷えそうね」
外でたき火をしているのを見つけ、火にあたるついでに話の中に入っていく。
千空が作った暖炉もありはするが銅を多く使うので数に限りがあり、老人と子供を優先するとどうしても長く当たり続けるのは気が引ける。そういう若者が外で芋や魚を焼くついでにとたき火をしていた。
寒い冬はなかなか獲物が取れにくい。慣れない暮らしの生活につい、失った文明の便利さを思い出して石のままでいれば良かったのかもなどという声が出てきたりする。それが賢明かどうかはわからないが小さなところから大きなストレスに発展させないために隅々の人間の精神状態を把握して、ケアするのがゲンのたき火で暖まる以外の目的であった。
あっちこっちを忙しなく渡り歩き、誰に対してもいい顔をして相手の懐に潜り込んでいく。広く浅くに徹すれば何も難しいことはない。
「んじゃあね。また今度芋が焼けたら呼んでね~」
一通り情報を得て、相手の精神状態を整えるのが終わればそこで仕事は終了だ。ニコニコと屈託のない笑顔で愛嬌を振りまき、君たちとの時間は楽しくて意味のあるものだったとのメッセージを送る。そして口先だけの次回の約束。守られようが破られようが痛くも痒くもない。
――さて、次はようやく本命。
朝早くから朝食を摂る時間も惜しんでラボに籠りきりの科学大好き少年。適切な栄養を摂ることは自身の健康管理に繋がり合理的だと思うのだが、当の本人は理解しているのは理屈だけらしい。実際の行動が伴っておらず、食事を用意している側がやきもきさせられている。
あちらこちらで人の話を聞いて解決したり、ストレスを軽減したりする中で、朝食をさっさと済ませた千空にもう少し食べて欲しいとのことで食べ物の差し入れを持たされてしまった。冷めないうちに持って行ってやりたかったが、持って行ったところで食べないことも容易に想像がついたので、ラボに行くまでにわざと時間をかけた。
「千空ちゃん、調子はどう? これ千空ちゃん宛てに差し入れの間食ね」
クロムやカセキなどの技術者との話し合いが聞こえてこないのを確認して、ラボを覗き込む。机上の図面を見つめていた顔を上げた千空と真っ直ぐに視線が合う。
ゲンを目視すると瞬きを数回した後、千空はニヤリと意地の悪い顔浮かべて左手でこいこいと手招きをした。
不穏を感じながら恐る恐る近づけばあと一歩のところで首に左腕を回された。吐息のかかるくらいの距離に顔が近づけられて、首筋の肌が粟立つ。
「ちょうどいいところに来たなゲン。マジシャンとしての器用さを見込んでテメ―に仕事を頼みたい」
ゲンの肩を抱いたままの千空が机上に広げた図面を右手で指さす。興奮して書いたのかいくつか走り書きの文字が混じっているがどうやら部品の説明らしい。作業工程自体はそこまで複雑ではないが数が相当いるようだ。マンガン電池以来の地獄の地道作業のようだ。
「ドイヒ―。マジシャン関係なくない?」
口では言ってみるものの、無造作に肩を抱かれて顔を近づけられるのが嬉しい。ゲンは平静でいるが、好きな子が顔の近い距離にいるなんて普通の人間に感覚であれば心臓が早鐘を鳴らしているだろう。
――俺、心理学勉強してメンタリストになってて良かった。
一般的にパーソナルスペースは男性の方が広く、女性が円形であるのに対して男性は前後がさらに広い。複数の相手に見せる公共距離が一番遠く、恋人など肌の触れ合いを許せる相手に見せる密接距離が一番近い。それは個人差があるとはいえ千空も例外ではない。
出会う前から勝手に親しみを感じていたとは言え、最初の出会いが敵の追っ手という立場だっただけに千空に近付くのにゲンは普段以上にしっかりと十分な時間をかけた。いつでもすぐに懐に飛び込めるだけの話術とスキルはあるが、損得抜きでこの先、長い付き合いをしたいと考えるとじっくりと手順を踏んでからと自らに枷をつけたのだ。
その甲斐あってか今では手を繋ぎ、表情を読むことが出来る個体距離までは近づくことが出来た。
「頼りにしてるぜ、地味な鬼作業担当者様。お得意の口先で人を集めてやりやがれ。唆るだろ?」
「リーム―って言ってもやらせる千空ちゃんドイヒ―」
一体何が唆ると思ったのか。悪そうな顔なのに嬉々としている千空の顔が見られるのは役得かもしれないなんて我ながらなかなか参ってしまっている。頼られると仕方なく引き受けてしまうのが千空の甘えを助長させたのかもしれない。
石化から復活して、司ちゃんを起こした結果命を奪われて大樹ちゃんと杠ちゃんとも離れ離れになってしまった。そんな境遇を知ればゲンでなくても憐れんで千空の世話をする人間はいただろう。加えてここ石神村では人懐っこさはないが科学に嘘をつかない姿勢が仲間に好感を凭れているようだ。
――初めて会った時なんて猫じゃらしでラーメン作ってたんだもんね。
あとから聞けば製鉄のための人手不足のエサだったようだが、千空が根っからの悪人ならコハクもクロムも手を貸してはいないだろう。後からやってきたゲンより先に千空の人間性を見抜いて仲間になっていた二人には今も時間差で負けて悔しいような、嫉妬のような醜い感情が少なからずある。
渡された図面を持って指定された場所に行く。材料は揃っているとのことだったが、乱雑に置かれた布袋と木材の山を見て軽く眩暈を覚えた。
――器用さよりも根気の方が必要な作業じゃない。だから俺に任せたんだろうな、人を集めてやれってことよね、これ。
千空に言われたとおりになっているのが癪だが作業を一人で全部済ませることの方が無理難題だ。外に出てあたりを見回し、人間が輪になって談笑しているところに近づいていく。休憩がてらの世間話に取り入っては作業仲間を増やしていく。他の人間であればこうも上手いこと行かないだろう。
持ち前の特技をフル利用してゲンはその日一日で到底終わらないような鬼のような作業量をなんとかかんとかやってのけた。
夕方からちらちらと降りだした雪は夜までは続かず、冷えた空気のせいで空が綺麗な夜になった。冬の夜空は空気が冷えている分、天体が綺麗に見える。誕生日プレゼントを渡した科学少年にそう教えられた。
プレゼントした時はなかなかと塩対応だったのに実際は相当嬉しかったらしい。素直じゃないのにも程がある。それが千空の性格だとわかっているから受容範囲ではあるが。
クロムの倉庫の上に増設された天文台の屋根が開いてるのを確認して、ゲンはゆっくりと梯子を上っていく。
「やっぱりまだ起きてた」
なるべく静かに戸を開けて閉める。鍵の設けていない扉は誰でも簡単に中に入ることが出来る。もっとも長である千空が望みさえすればすぐにでも鍵はかけられるのだろうけれど。
「ああ、寒いからか頭が冴え渡って眠れねぇんだ」
「ただ寒いってことをそういう風に捉えられるのはゴイスーなんだけど、風邪をひかれるのも嫌なんだよね」
開け放たれた天文台のドーム天井を閉めてやる。屋根の重さとかじかんだ手のせいで時間はかかったがなんとかゲンの力だけで閉めることが出来た。薄暗くなった室内の隅で尚も作業を続けようとして千空が灯りを探して動いているのが見えた。
「ダメだよ、千空ちゃん。寝なきゃ。ほら、いいもの持ってきたよ」
懐から丸められた布を出して千空の冷えた頬に当ててやる。昼間に拾った手ごろな石を熱湯で温め、布に包んだだけの原始的なカイロだ。火傷防止と保温もかねて厚めに巻いた布越しにじんわりとした暖かさをゲンの手にも伝わってくる。
「あー、体暖まると眠気が来ちまう。冬が来て本格的に雪が降ったら作業が中断しちまうからな。なるべく今のうちに……」
お互いの表情が良く見える距離まで顔を近づけてから彼のおでこを軽く指で後ろへと突く。千空が面白くないという風にゲンを睨んだが構わない。尚も夜更かしを続けようとする千空にゲンはわかりやすく大きなため息を吐いた。
「早起きは三文の得でしょ? リーダーが夜更かしして明日の貴重な時間ずっとぼんやりして過ごすとみんなの士気にも関わるの。風邪なんてもっての外。体調崩して寝込むなんて一番の時間の無駄でしょ?」
「確かに、それは一理あるな」
「ってことだから、ほら早く寝なよ」
「よし、そうと決まったら今日はさっさと寝て明日は早くから起きて準備するぞ」
「はいはい、んじゃ、明日ね」
やれやれようやく寝てくれる。ホッとして立ち上がろうとするとゲンの服の裾を千空が引っ張った。
「どこ行くんだ?」
「え? いや、あの千空ちゃんが寝るから俺もそろそろ寝に……」
「ここで一緒に寝た方がお互いに暖かくて、明日の朝も起こしあえて合理的だろ? それとも鼾や寝相に問題があるのか? それとも……俺の隣で寝るのは嫌か?」
千空がそっぽを向いて淀みながら言葉を繋げた。薄暗さで気が付かなかったが良く見れば頬も耳も真っ赤に染めている。傍に寝るということは……声も顔も身体の密着出来る至近距離。
――嬉しいけど、熟睡なんてリーム―。
願ってもいない申し出に自身の欲を抑えて断るという選択肢も出来ず、ゲンは次の日が寝不足になることを覚悟して千空の隣に潜り込んだ。
≪END≫
支部にて2021年5月16日に初出