深海に降る雪 防衛機密・軍事機密それが潜水艦だ。多くの情報が出回ることは国の安全に危険を及ぼすこと。そのため同じ海自で階級が上の人間であっても、相手が水上の乗組員であれば絶対に秘密を口にすることは出来ない。
陸と違って目視で情報を得ることの出来ない海中、ソナーマンである僕はあらゆる情報を聞き取る。潜水艦の主な目的は二つ。一つ、敵の主力艦を見つけ、気付かれぬように討ち取ること。二つ、自分たちを狙ってくる敵の潜水艦を見つけて討ち取ることだ。どちらも自分たちが見つかる前に相手を見つけて行う速さ勝負、その一点に尽きる。
石化前は海自のトップクラスの聴力の良さで潜水艦のソナーマンとして働いていた西園寺羽京は獅子王司によって再び世界に目覚めさせられた。再び目を開けてみる世界は姿かたちを変えていて、帝国の王として、リーダーとして中枢にいた司は自身の目指す理想のために人であることの石像を破壊していった。あれは人ではないのだ、ずっとそう自分に嘘をつき続けて心を痛めていた羽京は科学王国の勝利という形でようやく苦しみから解放された。
聴力の良い、口の堅い男、西園寺羽京と言う男の評判はそんなところだろう。そして面倒見がよく優しい。誰に聞いても高評価しか出てこない男に難点をつけるのは科学帝国においてただ一人しかいない。
「はっきり言えば、俺の中でやりづらい相手の三本の指に入ると言えば入るかな~」
カクテルグラスを片手にゲンが皮肉と畏怖を込めた言葉を口にした。飲みに誘ったのは羽京からだった。
日々ゲンは世話しなく乗組員の間を動いて世間話や調子を訊ね歩きながら全員の疲れや不安を掌握し、それぞれの心に処方箋を与え続けていた。大きなところでは千空や龍水を巻き込み、モチベーションをあげるために叱咤激励をさせたり、ゲームなどのイベントを行うなど工夫を凝らした。ゲンのマジックショーもその一環として行われた。メンタルマジック、クローズアップマジック、カードマジック、その全てが人々を魅了し、驚かせ、心をリフレッシュさせた。
ただ、ゲン一人だけは違った。ゲンだけは自分自身でメンタルをコントロールする。彼は自分の疲れを人に言わない。せいぜい軽い口調で言う程度だ。
ゲンは自分の疲労に気付かないのか知らないが、羽京の耳には彼の動きの鈍さや声の張りのなさが届いていた。自分の疲れを見抜かれた、そのばつの悪さからだろう、ゲンは羽京を警戒しながらヘラヘラと笑っていた。
「ゲンが驚くほど上手に嘘をつくってことを僕がよく知ってるからじゃないのかな」
バーでカクテルを頼み、二人で気帆船の帆先に移動した。甲板では先日のリーダー二人の対決で盛り上がって以来、カジノが大盛況だ。フランソワのバーもにぎわっていてとてもゆっくり親密に話せる雰囲気はない。
羽京はビールにジンジャーエールを加えたシャンデー・ガフを頼み、ゲンはディーゼルを選んだ。コーラをビールで割ったカクテルにフランソワが「ゲン様はよほどコーラがお好きなんですね」と笑い、それにゲンは「のどを洗い流すような清涼感が嘘を洗い流してくれそう」、と答えた。
同じビールベースのロンググラスカクテルを合わせて、音を鳴らす。周囲の音でゲンには聞こえない硬い高音が小さく響いた。
「まぁ、嘘はつくけど羽京ちゃんは騙しにくいんですけどぉ。もうちょっと俺に言いくるめられてよね~」
「う~ん、それはお断りかなぁ。ゲンが本気を出したら国が傾いちゃうからね。止める相手も必要でしょ?」
「ドイヒー、俺は傾国の美女じゃないよ~。裏切りは俺の専売特許だけど、俺は科学王国を気に入ってるからまだ浮気はしないかな~。いつかいい勝ち馬がいたらそっちに移るかもしれないけどね~。羽京ちゃんがあんまり虐めるんだったら俺はもう部屋に帰ちゃうよ~」
頬を膨らませてゲンは口を尖らせた。もういい年齢だというのにゲンは年相応に見えない。自在に年齢を錯誤させるように表情を自在に変える。冗談もおふざけも全部自由に取り込んで相手をペースに持って行ってしまう。
「まだ帰っちゃダメだよ、ゲン。少なくともこのお酒を飲み終わるまでは君の時間は僕のものだよ」
カクテルを見せつけながら言えばゲンが頬を抑えて首を左右に振る。
「え~、何その口説きセリフ~。ジーマーで惚れちゃいそう」
ペラペラと身振り手振りで語るゲンの嘘を羽京は瞬時に見抜く。ゲンは気付いていないのだろうけれど、嘘をついている時、一番活舌がいい。滑らかな淀みない舌の動きで話すスピードが本音の時よりも少しだけ早い。それを羽京の耳は情報として拾い上げていく。
相手の耳に聞こえの良い言葉を並べ立てているけれど、ゲンの気持ちはそこにはない。
「そうやって結構遊んでるんじゃないの~」
「ゲンの僕に対するイメージってそんな感じなの? それともゲンは何かやましいことがあるから突っかかるのかな?」
笑って意地の悪い質問を羽京が返せば、ゲンが慌てたように降参と両肩を上げて息を吐いた。呼吸音は乱れず正常。動揺など微塵もない。上手な嘘のつき方は詐欺師にも勝るだろう。堂々としているから普通に接している人間では全くわからない。羽京以外には。
「羽京ちゃんには俺がどんなに取り繕っても全部お見通しなんだね。そういうとこジーマーで好き」
「非言語コミュニケーションならゲンの得意分野じゃない。君のように嗅覚以外の五感を巧みに使う人間は今の世界にはいないよ」
「んもぉ、さらっとゴイスーなこと言わないでよ。さっきから上げて下げて俺に合わせた応酬話法仕掛けてるでしょ。そういうところを言ってんの~。でも、俺もさぁ、メンタリストだから心理合戦は負けないよ~。ジーマーで人として非の打ちどころのない羽京ちゃんに難点をつけるなら、その甘いマスクの優男の癖に辛口な言葉も使うところかなぁ」
「ははっ、君こそ辛辣な言葉を使ってるよ、ゲン」
僕の耳は音だけで海の中を把握する。目よりも有能、それは何も海中で限った特技ではない。陸上は海中よりも情報量が豊富で雑音が多い。耳に飛び込む音の中で聞きたい音を選んで様子を探る。誰にも言わない僕の本当の特技だ。
ゲンはそれを薄っすらと気が付いているのだろう。彼もまた口や表情で他者を翻弄し、舌先で転がす男だ。同族の匂いに興味を持って探るように、伺うように、踏み込む立ち位置を状況に応じて変えながらゲンは羽京に近づいてきた。そして羽京自身もそれに気が付きながら自分の立ち位置を変えて、見えない線を交えて彼と交流を続けた。
「俺は口が商売道具だからね~、羽京ちゃんの前以外では上手にやるから大丈夫~。それに羽京ちゃんには俺の本性見えてるでしょ? だから、下手に猫かぶらなくていいじゃない」
「いや、君は僕より上手だよ、ゲン。わざと投げやりな言葉で僕を上げる必要はないよ。そして僕は君の才能も努力も認めてる」
「褒め上手すぎるでしょ、これジーマーで俺口説かれてんのって勘違いしちゃうくらいにゴイスー」
良いと認めたところを素直に口に出して褒めてやれば、謙遜を並べて逃げていく。
「それ、僕じゃなくて千空に言ってあげなよ」
切り替えしてから僕はグラスを口にした。冷えていたはずのカクテルは潮風にあたっているうちに温くなり始めていた。
ゲンは視線を横に流して、二、三瞬きを繰り返した。アルコールのせいだろうか仕草も緩慢で言葉にキレがない。
千空のそばにいるときのゲンの声色は耳触りが良く発音が綺麗だ。引っかかるような不快感もない綺麗な音質。ゲンは確かに千空に思慕を抱いている。
石の世界で生きる人たちのために千空の科学の知識は必要だと言いながら、一番千空を必要としているのはゲンに見えた。だから、千空のために羽京を取り込んで彼の力となるように利用したいのはわかっていた。
「え~、千空ちゃんは俺にとってただの居場所だよ~、ほら千空ちゃんは交渉が苦手だから参謀が必要じゃない? そこをうまく利用して立場を得たってわけ~、他にいいところがあれば俺は裏切っちゃうかもね~」
「自称蝙蝠男って自虐する君が他人を仲間だと感じ始めたってことは良い傾向だと思うんだけどね」
裏切るつもりはないくせに。いざとなったら仲間が自分を切ってもいいように、千空が傷つかないように時間をかけて仲間の心に嘘を染み込ませた根回し。羽京はグラスに口をつけて、空を見上げた。曇天の空の向こう、星は出ているのに光は降り注がない。真っ黒に広がった海が船の上のかすかな光を反射させていた。
ゲンはきっと気が付いていない。羽京の耳が思っている以上の情報を拾い上げることを。
「君は少し酔って素直になった方がいいと思うよ。さっきから嘘の連続で逆に心配になっちゃう。声に疲れがあるよ」
「バイヤー、俺メンタリストなのにぃ。俺がアルコールで簡単に弱さ見せちゃうと思う?」
「僕は普段隠されているゲンの素顔を見てみたいかな」
「ジーマーで趣味悪すぎぃ」
ゲンはため息を深く吐いてグラスの飲み物を身体の中に流し込む。グラスが空になればゲンは千空のもとへ帰っていくのだろう。きっちりと着込んだ服の下、上下するのどの隆起から羽京は目を離せなかった。
これは外に出ることなく、僕の胸中で消えるのを待つだけの恋。潜水艦の中、見た海の中に降る雪。音もなく、誰かに知られることも癒すこともなくそこに必要とされる深海生物の躯のように消えてゆく僕の気持ちが君の未来の糧に繋がることを信じて。
<END>
支部にて2021年6月27日に初出