雨のち晴れ、時々落雷注意 恋をすると、毎日が輝いて辛い。
そんな気持ちを味わうなんて拷問じゃないか。斜に構えていた自分はまだ大人だと思っていたが、幼くて何もわかっていなかった
生暖かい風に蒸された身体から、ほのかに塩素の匂いが湧きたつ。
備え付けのシャワーの数分間で全部洗い流すには短かったらしい。わずかに残ったプール臭さは湿った髪にもまとわりついている。重く湿った夏の世界をプール帰りのゲンと千空は二人連れ添って歩いていた。
半濡れのタオルと水着を詰め込んだ荷物は行きよりも帰りがわずかに重い。
「楽しかったね~」
「あぁ」
弾む会話を期待したのに素っ気ない言葉を返されて、予想が外れたゲンは首を傾げた。
プールに行こうとみんなで話し合っていた時も、今日は二人きりになったと連絡した時も、さっきまで一緒に遊んでいた時もずっと千空は嬉しそうだった。
それがどうして、さっきから口数少ない千空の顔は曇っている。声もトーンが低く、眉は寄せられ、口元も下がっている。元気がないのは明らかだ。
「疲れちゃった?」
「いや、疲れは……ねぇな」
ゲンの問いに千空がばつが悪そうな顔を浮かべる。やはり何かあるのは違いない。
「じゃあ、お腹空いた?」
「ん~、軽くは食べたくあるが……」
続けての質問にも反応は薄い。先ほどまで楽しそうだったのに何もないのに元気がないのはおかしい。トーンが低かったのは最初だけで、会話は出来る。ぎくしゃくはしているが、不機嫌な表情ではない。疲れもない、空腹でもない。
わずかな情報も見逃すまいと、下に視線を落としたゲンは千空の歩き方がぎこちないのを見つけた。先ほどのプールでウォータースライダーを気に入って散々二人で繰り返し、滑っていた。脚を痛めた可能性はある。
「あのさ、もう思い切って聞くけど……千空ちゃん、どっか調子悪い? 俺に遠慮なんかしないでいいからね。変に気を遣われるのジーマーで辛い」
いつもは科学部員と一緒に買い出しに行ったり、科学館やプラネタリウムや水族館に出かけるのに、今日に限っては二人きり。本当は他にも誘っていたのだが、用事などで四人に減り、そのうち二人も当日のドタキャンで結局千空とゲンの二人で出かけることになってしまった。
――俺は千空ちゃん好きだけど、千空ちゃんからしてみたらただの気の合う友達ってだけで、相談するような弱さは見せられない相手だろうな。
千空からしてみればゲンは学年も違うし、科学部員でもない。ただ、科学部に出入りしているだけの上級生だ。
頻繁に遊びに来ては部員も逃げ出す地獄の地味作業を手伝い、急に割り振られた無茶な雑用もこなし、何なら部員の悩み相談みたいなことまでする変な上級生。
千空からは増えたマンパワーの一人程度の扱いだったが、日進月歩、亀の歩みでゲンは科学部員や手伝っていた大樹、杠と確実に打ち解け、部員でないが部の一員になった。
今回、ゲンをプールに誘ったのも大樹で何となく千空と一緒にいるからという雑な理由だった。
聞かれた千空は俯きがちに下を向いて、がりがりと後頭部を乱暴に掻きむしった。
「あ˝~、やっぱりテメーには誤魔化せないか……」
「え? やっぱりケガ? ねん挫したの?」
「いや、そうじゃない。……ちょっと今日、張り切りすぎて家から水着着てきちまって」
「うん」
「その、着替えたときのパンツ……」
緊張を浮かべていたゲンが瞬きを繰り返し、そっと千空の七分丈のズボンを指さすとサンダルを履いた白い足の指がピクリと動いた。
「もしかして、今……ノーパン?」
千空の首が縦に振られる。ようやく合点のいったゲンの身体から力が抜ける。
千空がプールで履いていたのはゲンのサーフパンツと違って、丈の短いショートパンツだった。あれなら下に履いても歩いた時に違和感なく過ごせる。その快適さが仇となって替えの下着を忘れた。一連の千空の態度の原因がわかり、ゲンは胸をなでおろす。
「ってことで、コンビニ寄っていいか?」
じっとり絡む空気にべたつく肌、先ほど水で流した熱が身体に戻ってくる。ようやく理由を言えた千空が頬を赤らめて上目遣いでゲンにお伺いを立てる。
「そ、それ、言わなきゃ、俺にバレなかったんじゃないの?」
いつも歌を歌うように言う冗談でなく、裏返った声に千空は眉を顰める。
「あ˝ぁ? コンビニ寄りてぇっつたら理由聞くだろ、テメーは」
「そりゃあね。ほら、でも、アイスとかジュースとかいくらでも誤魔化しようがあるでしょ」
「何で、テメーに嘘つく必要があるんだ?」
「ほぇ?」
太陽の色を溶かした赤い瞳の少年に身振り手振りで嘘のつき方を教えていたゲンの変な声にクククと口角をあげて笑う。
「下手な嘘でテメーを誤魔化すよりは、正直に言った方がいいって思っただけだ。何も言わなくてもテメーは俺に何かあるって気付いたしな。わざわざ隠しとくメリットがねぇ」
「あ、あはは、メンゴ~。俺、ゴイスー信用されちゃってるね」
「あ˝ぁ?」
言葉が詰まりながらもヘラヘラと笑って流すゲンに今度は思いっきり嫌な顔を浮かべ、千空は口をとがらせた。何が面白くなかったのか、さらに小指で耳を弄りながら空いてる肘で横腹を突く。それにおどけて非難をあげる相手を置いてさっさと歩き始める。
「ち、ちょっと待ってよ!」
「雨が降りそうなんだ、急ぐぞ」
さっきまでもじもじとゆっくり歩いていたのが嘘みたいに千空の歩が早い。出だし遅れて駆け足気味についていくゲンに構わず、千空は足の動きを弱めない。
目的地にたどり着くと、千空は一言もしゃべらず、さっさと店内に入ろうとした。慌ててその腕を掴むと振り払う代わりに何だと言わんばかりの顔をされた。
急いだせいで顔も身体も熱い。汗と息に水分を持っていかれている。腕を掴んでる手は汗ばんでいて、向けられた怪訝そうな顔も色づいている。
「……履いてない千空ちゃんをコンビニで買い物させられないから俺一人で行ってくる」
「じゃあ、俺はどこでパンツ履くんだよ。コンビニのトイレ借りるわ」
ゲンの手をあっけなく振り払い、千空はさっさと中に入っていく。
「先に会計行くわ」
「あ、うん」
追いかけて合流した時には目当てを握りしめて、踵を返していた。単品、商品を握りしめていく背中を黙って見送る。まもなくして帰ってくると、さっさとトイレに行ってしまった。白いレジ袋の中、商品も薄く見えている。
手にした買い物かごにエナドリとコーラを入れ、次に何を買おうか迷っているところで手を空にした千空がトイレから戻ってきた。
「アイス買うんだけど、当たりくじ付きのやつとカップ、どっちにする」
「ん~、カップの方が多少溶けても食べやすくねぇ? つーか、そろそろ外やべぇぞ」
バニラを二つかごの中に入れて店の外へ視線を流す。ついさっきまで快晴だったのに端の方から黒い雲が迫ってきて太陽を覆い隠していた。
「今日の天気予報、見た?」
「積乱雲の発生は予測出来るが、成長が早ぇし局地的なもんだから天気予報見てどうこうは出来ねぇ」
「傘いる?」
「下手に傘さして雷落ちてくんのはごめんだ。どうせ濡れんだろ? 降り始める前に走るぞ。こっからだとテメーの家の方が近ぇな。ついたらシャワー借りるわ」
レジに並んで、再び外に目をやれば一層外が暗くなっていた。バーコードを通されながらチラチラと二人で外の様子を伺う。落ち着きのなさに気付いたのか店員が早口で会計を告げ、お札を入れて出てきた硬貨とレシートを財布にねじ込んだ。
店を出たところでそういえばと浮かんできた疑問を口にする。
「替えのパンツ買ってるの?」
「あ˝ぁ? テメーの家だろ? 別に履かなくてもいいだろ?」
刹那、空から真っ二つに世界を分ける光が落ち、轟音が地面を揺らした。響き渡る音にびびって躊躇していたゲンを置いて「走るぞ」と、千空が弾かれたように飛び出していく。
「せ、せ、せ、千空ちゃん!」
「んー?」
降りだした雨の中を濡れるのも構わず二人駆けていく。手に下げた袋の中では意図せず乱暴に炭酸が振られ続けている。
走りながらもどんどん雨足が強くなっていく。焼けたアスファルトの濡れた匂いと靄の中、雨音と視界の悪さが半径数メートルだけの二人だけの狭い世界を作った。
誰もいない、聞こえない。ゲンが冷静も平静も忘れて腹の底から出すような大声をあげた。
「絶対、絶対、学校のプールでパンツ忘れないでよね! 絶対だよ! なんなら俺が予備のパンツ常備してあげるから絶対に学校でノーパンは止めて!」
必死に懇願するゲンに振り向いた千空の顔が緩む。強いくせ毛が雨でしなっていつもの見る顔と違う少年の顔で笑う。
「じゃあ、パンツ忘れたらテメーを頼ることにするわ」
「絶対だよ! 俺以外には絶対言っちゃだめだからね!」
大声で必死に叫ぶゲンの前に千空が黙って手を伸ばしてくる。握りしめて「絶対だよ」と念押ししたら答えの代わりに強く握りしめ返された。
俺の気持ちを知っているのか知らないのか、君と過ごす明日はきっと今日よりも新しくて楽しい。時間が俺たちを前へ前へと運んで行って、今もどんどん過去になっていく。
恋に出会ってしまった気持ちは暴れ馬のようで、止まることも戻ることも出来ずに鮮やかで強烈すぎる刺激に振り回されていく。君に恋して苦しくて、でも楽しくて。少しずつでいいから、どうか昨日より今日の俺が君の特別に近づけますように。
<END>
支部にて2021年7月17日に初出