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    rsalreadydied

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    rsalreadydied

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    アイドルをやっていない十条要と風早巽が普通の「ともだち」になろうとするひと夏の話

    を書いていたら追憶が来たためこれ以上書く元気があんまりないやつ

    かわせみのワルツ「要、お父さん一泊したら東京帰るから。帰りはおばあちゃんに近くまで送ってもらって電車乗り継いで新幹線な。いい?」
    「わかってる。もう高校生だし」
    「まだ高校生、の間違いだ。過信するなよ」
     高速道路を乗り継いで、気がつけば見渡す限りの緑に囲まれていた。水田、向日葵、雑木林、ビニールハウス、畑、水田。忙しなく順繰りに、少しずつすがたをかえる景色の香りを知りたくて車の窓ガラスを開ける。夏の匂いだ。甘くて、香ばしくて、湿っていて、冷たい。ほんのちょっぴり開いた窓ガラスから勢いよく雪崩れ込む夏が、要の頬を強く撫でた。東京とは違って、この辺りはつめたい夏がやってくる場所だ。都会よりもよっぽど大きな空には、視界いっぱいの青が広がっている。
     要は高校二年生の夏をこの青にとかそうとしている。友人と炭酸飲料を飲んで語らう青春らしいことも、都会の建物の扉をへだてて北極から赤道直下を移動したような温度差に悩まされることこともない。避暑地とも呼ばれるここはクーラーなんかなくても涼しいし、緑が暑さを逃すシェルターを作ってくれる。柔らかな曲線に囲まれた視界は、アール・ヌーヴォーの巨匠たちが自然に魅せられたのも頷けるほどの壮観であった。
    「要が突然田舎行きたいって言うからびっくりしたよ。おまえの友達もいないし、なんならWi-Fiも飛んでないぞ。なんだ、つまんなくないか?」
    「いや、べつに。しばらく来れなさそうだし」
    「それもそうだな。来年は受験だし」
    「そう」
     あはは、と揶揄うように笑いながら運転する父の横顔も心なしか明るい。父のふるさとに向かう道はカーブを重ねながら山肌を登っていく。狭い二車線を白樺の群れが覆い、高い夏の太陽を遮って、木々の隙間から差し込んだ光がちらちらと現れては消える。気まぐれな光の夕立だ。父の頬もまた、点滅するようにその輪郭をかえていた。おさないころの父もまた、この夏の冷たさに、頬を晒したのだろうか。要は、己の十七年の人生が父親の人生の半分よりも小さいことを思い出して、少し悔しくなった。



    「よく来たわね。おひさしぶり、要ちゃん」
    「うん、お久しぶりです」
     祖母は眦に柔らかな笑みをたたえて要を出迎えた。祖父はその背後から「ゆっくりしておいき」と声をかけるのみでこちらへは来なかったが、祖母からの熱烈な抱擁を受けていた要にはありがたかった。勝手知ったるというふうに父は祖父母宅に上がり込んでいく。
    「まったくあの子ったら。要ちゃんも手を洗ったらリビングにおいでなさいね。農場で色々揃えたから」
     祖父母宅は四方を雑木林に囲まれた、標高1000mほどに位置するログハウスである。交通の便はお世辞にもいいとは言えず、だからこそもたらされる静けさには己が森林と一体化した感覚──境界線が曖昧になって、とけあうような──を感じさせてくれる。要の住むところとは大違いだ。要の住むところは、いつだってひとりぼっちの個が喧嘩している。
     父が幼いころは、東京に単身赴任していた要の祖父をひとり都会に置いてこの家で祖母とふたり暮らしていたという。しかし進学のことも兼ねてなのか、父が高校生になる頃にはこのログハウスは十条家の別邸と化していたらしい。大学生の父が友人とのスキー旅行の拠点にしてみたり、はたまた東京の夏からの避難所にしてみたりとずいぶん有効活用したようである。祖父母の老後、改めてリフォームしなおして移り住むことになったといい、築年数の割には壁の檜の色合いも淡い。太陽光をおおいにとりこむつくりは、なるほど近年の流行りの建築様式のひとつなのかもしれないと要は思った。無論、要は建築に明るいわけではないのだけれど。でも、最近できた建物は必要以上にひらけていて、安心感のかけらもないものが多い、気がする。
    「おばあちゃん。手、洗えました」
    「あらそう、ほら、美味しそうでしょう。高校生にはちょっと子供っぽすぎるかしらね」
    「リンゴジュースですか」
    「そう、あそこの農場のは一味違うわよ」
     瓶に入ったリンゴジュースが窓からの光を取り込んでちらちらと光る。コップに注がれると、つやつやと金色に輝いた。柔らかな甘味が喉を優しく通り過ぎ、追いかけるように爽やかな香りが鼻に抜けた。やさしくなでるような風味はいかにも、他のものと一線を画していると言ってもよかった。
    「美味しいです」
    「でしょう!まだまだあるのよ。要ちゃんお昼ごはんは?」
    「まだです」
    「あら。じゃあ今ちょっと準備してくるから、家の探検でもしてらっしゃい。少し退屈かもしれないけれど」
    「いえ、そんな」
    「そこの扉がおじいちゃんの書斎ね。要ちゃんの好きな本、一冊くらいあるんでないかしら」
     あの人、読みもしない本ばかり買うのよ、と呆れたふうに笑った祖母は、一方で嬉しそうでもあった。キッチンに消える祖母の背中越しに、庭でハーブを摘む祖父の横顔が見える。ここは確かに、要にとって馴染みのない場所だ。



     あのあと散々祖父母と語り合った父は、要の父という看板をそっと傍に置いた息子の顔をしていた。瞳孔が爛々と輝き、つまらない形式ばった正解に詰め込まれている毎日を忘れたような明るい顔だった。正直、正解ばかりの本を借りて読むより、父のおもしろい顔のほうがよっぽど要の興味をそそった。要の知る父は、めったに父の仮面を外すことがないからである。
     父の顔を眺めている間読んでいたのは祖父の持つ小説だった。名前だけは見たことのある昔の作家の文庫本で、ペラペラの表紙は破れかけている。応急処置のように施されたセロハンテープはパリパリに劣化していて、もはや意味を成していなかった。父の顔と交互に見ていたものだからろくに読めたものでもなかったけれど。しかし、やたらに潔癖な主人公に、何か要自身を見透かされたような心地がして、心臓の裏側を撫でられるような心地悪さを感じた。なるほど要は、それを無視することにする。
     父は要を送るついでに祖父母に会いたいから、といって要の送り迎えを承諾したが、いまのところは父の方がよっぽどここを満喫している。なんだ、父さんは俺を送るよか、自分のちいさな夏休みをとりたかったんじゃないか──、要は開放的で、そのせいかすこし居心地の悪いこの家でひとりごちる。無論、そのひとりごとを聞くような人間はこの田舎にはいないのだけれど。昼間より冷え込んだここの夜は、東京なら10月ごろと言って差し支えない寒さだった。薄手のブランケットを頬にかかるまで引き上げて身体をまるめる。すこし暖まったはずなのに、要はおまけのようにくしゃみをした。



    「じゃ、父さんは東京に帰るからね」
    「うん」
    「このへんは不便だけどいいところだから。少し歩けば大きい公園だってあるし──、そうだ、夏の映画祭でも行くといい」
    「なにそれ」
    「公園の屋外ステージで映画の放映会をするんだよ。結構楽しいし、これは俺のおすすめ」
     ほら、今年もやるみたいだ、とこちらにホームページを見せてくる。ゆらゆらと足元を小さなキャンドルの行列が照らすさまはいかにもで、要もまた興味がそそられないでもなかった。上映のラインナップは少し古い洋画ばかりだったけれど、それもまた要には好ましい。べつに洋画に詳しいとか、洋画が好きとか、そういうわけではないんだけれど、しかし何度も見られる名作の持つ力、言い直すなれば引力の在処を知りたいと思うのも確かだった。自分の知識を増やすということは、自分の無知の範囲を浮き上がらせるという行為に他ならないのだ、と高校の国語の教師も言っていた。何かの引用なのか、はたまた彼の導き出したものなのかは知らないが、やけに納得させられたのだった。要は、いま踏みしめるこの土地の涼やかな風の中で、茹だるような暑さを誇る都内の夏を思い出す。蝉の声が教師の言葉を時折遮って、補うように教科書を辿るしかなくなる、あの灼熱地獄を、だ。
    「俺が大学生の頃からやってるんだ。正直上映してる内容だってそう変わらないような気がする。懐かしいな」
    「へえ」
    「はは、お気に召さなかったか?」
    「べつに」
     父の思い出話に目線を逸らした要を、すかさず父は揶揄った。要の父は、こういうお茶目なところがある。この人は要よりもいくらか外向的なタイプだから、きっとそういうのも一緒に行く相手がいたんだろう。拗ねた要の手元にある形ばかりの英単語帳が風に揺れてカサカサと髪の擦れる音を立てると、それに同調するように木の葉も鳴いた。
    「要!」
     車のトランクにショルダーバッグを載せながら父が声をあげる。そちらを見遣れば、車のドアを開けたまま立ち尽くした父の姿があった。
    「なに、何度も」
    「お前は俺とよく似てるよ」
    「はあ?」
     やけに真剣な顔をして、父は要に言った。おさない顔をした父は、どこか置き去りにされたこどものようだった。ここは、蝉が鳴かない夏が来る場所だ。森の甘い香りの中に眩い日の光が差し込んで、こだまするように鳥が鳴く。風が吹くと葉が揺れて、かき混ぜるように視界を光らせた。濃ゆい緑が日を浴びて透け、岩肌に甘い影を落とす。父はもしかしたら、この夏の前では大人ではいられないのかもしれなかった。
    「要、俺みたいになるな。そこにあるものを、とりこぼしちゃならないよ」
     ふと思い出したように十条家の息子の顔を取り外して、一瞬の隙に要の父になり果てた彼は付け足した。自分と同じ蜂蜜色の瞳がゆらゆらと陽の光に揺れてこちらを捉える。要は言葉の真意が取れないまま、その瞳をじっと見つめていた。それは、昨日の昼祖母が要に与えたリンゴジュースのようでもあった。
    「突然なに、変なの」
    「おセンチな季節だろう、夏は。お前が間違えないことを祈ってる。人生の先輩として、な」
    「意味がわかんないんだけど」
     父は昨日要を東京からここへと運んだ車に乗り込むと、小さく手を振った。世田谷ナンバーのセダンが小さくなっていくのを見ながら、要はそれに手を振り続けていた。そして父も何も見えなくなると、そこにあるのは馴染みのない夏の姿だけだった。



     青磁色の髪の毛を夏風に揺らして、前髪の御簾から覗く菖蒲がこちらを射抜いた。心臓を突き上げたような鼓動のゆらぎを感じて、思わずその人から目を逸らす。東京の知り合いの誰よりも綺麗な人だった──左目の下にならぶ黒子が印象的で、それがまた頬に星を浮かべているようだった。
     今朝、となりの家にちょうど同世代の男の子が住んでいるから会いに行くといい、と言ったのは祖母だった。要が起きるともうすでに朝ごはんはできていて、ちょうど今から食べるのだと言わんばかりにテーブルの上に並べられていた。ベーコンとチーズ、サラダにパン。さながらアルプスの少女にでもなったかのような気持ちになったが、起き抜けから腹の音が鳴った自分にはうってつけの状態だった。朝食の準備のために顔を洗えど喉を潤せど、水道から出るご自慢の天然水はあまく要に触るだけで、要を驚かせたりもした。そうするうちに朝食を口にすると、またそれはそれは美味しかった。牛乳も心なしか甘く感じるほどだったし、ベーコンはいつもの5倍の分厚さはありそうだった。寡黙な祖父とちゃきちゃきした祖母の静かな会話の問答の隙間に、地方局の朝のニュースが呼応していて少し肩身が狭かったけれど。
     そう、それで、そのとき朝食の卓で言われたのだ。隣の家の風早さんのところに要と同世代の男の子がいるから、きっとお友達になれるわよ、と。
    「はじめまして。あなたが十条さんちのお孫さんの──、」
    「要です」
    「失礼、要さん。俺は風早巽といいます。きっと一歳差ですから、親しくしていただければ」
    「はあ」
     絵に描いたような善人の笑顔だ、と感じる。嫌味のない透き通った声色は心臓にやわく触れ、ぐずぐずと棘をとかすような甘さもある。この甘美な優しさに溺れていたいような、それでいてこれの中毒にはなりたくないとあらがうような、そんな心地である。
    「風早さんはここにお住まいなのですか」
    「巽、でいいですよ」
    「巽?」
    「そう。風早さんだと、少し距離を感じて」
     照れ臭そうに微笑む巽の手には、ペンキの剥がれたブリキのじょうろがある。きらきらと水の粒が植木の葉の上に落ちると、姿を消すように土に吸い込まれていった。
    「今はここに住んでいますよ。というのも、住むようになったのは昨年からですので、地元というわけではないのですが」
    「へえ。元々はどちらにお住まいで?」
    「都内でした。要さんもそうでしょう」
    「ええ」
     おっとりとしたテンポの語り口ではあるが、しかしやわな印象を与えることはない。
     この少年──風早巽──は、どうやら昨年の夏ごろに彼の母親とここへ越してきたのだという。主な目的は脚を壊した彼の療養で、今は高校も休学しているとのことだった。さながらまるまる人生の夏休みだ、と小さく笑う巽はひどく可愛らしかったのだけれど、その笑みは特別子供らしい無邪気なものでもなく、他所行きの母がするそれによく似ていた。この療養生活を彼がいつまで続けるのか、知り合ったばかりの要には分かったことではなかったけれど、この人をこのままここに置いておくとこの緑のうちにとけてしまいそうだとも思った。しかし一方でなにか、この人は都会のコンクリートジャングルに戻してしまうのはもったいないような、ここだけに閉じ込めておきたいような。
     巽は、要が出会ってきたどんな人間よりもきれいに見えた。ガラス細工のような繊細なつくりをした体躯は、この森に振る日光を乱反射して要の目をくらませてしまう。
    「巽は要、と呼び捨てしてくれないのですね」
    「……ああ、さんを付けていた方が、なんとなく心やすいのです。気になりますかな」
    「いいえ。好きなように呼んでください」
     巽は穏やかな笑顔を浮かべて、目尻を柔らかく下げる。その笑いかたは少し困ったようでも、嬉しそうでもあった。手元のじょうろが空になったのか、何度かその先を振り回してから己の手の中にそれをおさめなおした。
    「要さんは、どうしてこの夏こちらに?」
    「帰省のようなものです。来年は進路のことで来れやしないでしょうから」
    「ああ、なるほど」
     そうして何度か納得したように頷いて、巽は少し手招きをしてから歩き出した。要はその背に木陰がゆらゆらとおちるのに魅入られるように追いかける。ほんの十数メートル柔らかい土の地面を踏み締めて巽の住まう家のすぐまで来ると、巽はそこにあった木製のベンチを指した。
    「もう少しだけ、お話しませんか」
     そう言って巽はそれに腰掛けて、自分の隣をとんとん、と叩いた。そこに要が座ると、満足したのか何やら話し始める。この辺の美しい自然とか、農場直売の野菜とか、そんな、この場所の観光マップみたいなことをぽつり、ぽつりと。要はその落ち着いた語り口に酔いしれるように、もしくは流されるように、面白いのかなんなのかわからないそんな話を聞きながら、時折聞かれた通りに自分の話もした。高校のこと、進路のこと。そう込み入ったことを話すわけでもなかったけれど、ただゆったりと吹く高山の風に促されるままに言葉を吐いていた。
     その日は結局、日が暮れ始めてあたりが橙に染まるまで話し込んでいたらしい。気まぐれなはずの山の天気がその日ばかりは味方して、気持ちよく晴れたまま穏やかにふたりを包み込むだけだった。そのせいか要は、それほどに時間が経っていたことを巽の頬におちる赤い影を見るまで気がつけなかった。また明日。そう言って別れたお互いに、確かにまた、明日も話すことになるのだろうと実感して、要は、はじめて文字を習ったときはもしや自分は、こんなことを思ったのかもしれないと思った。



     こんこん、と窓を叩く音がする。夏休みの宿題に出された数IIBの分厚くて青い参考書から目を離すと、窓の外で籠を抱えた巽が小さく手を振っていた。
     初めて会った日から、早くも三日が経過している。その間ふたりは、お互いの退屈をごまかすように毎日会っては会話をした。こんな何もない高山地帯で高校生ふたり(しかも、特にアウトドア派というわけでもない)ができることなど限られていて──この涼しい雑木林の木陰の中で、可愛らしくおしゃべりをするのがせいぜいだったが。しかしまあ、巽の落ち着いて柔らかい語り口は要にとっても好ましいものであったのだ。その穏やかな声色は要の心をも包み込んでしまって、忙しい向こうでの生活で刻み込まれた時間感覚すら忘れさせてくれる。
     依然巽はこちらに向かって声をかけているらしい。ガラス越しで彼の声は全く聞こえないのだけれど、それを気にせずに何かを懸命に話しているのがいじらしい。なんですか、巽。ガラガラ、と網戸とガラス窓を開けてしまうと、巽は満面の笑みをたたえて首を傾げる。
    「要さん?」
    「巽。この窓は二重になっていますから、先ほどまで何を言っていたのか聞こえませんでしたよ」
    「おや、そうだったんですな」
     どうりで、と呟いてから、巽はそう指摘されたのを恥ずかしむように眉を八の字にして笑う。そんな巽の頭頂部を穏やかな山風が撫でつけて、彼の淡い浅葱色の髪がふわりと揺れた。
    「川に行きませんか」
    「川?」
     綺麗なんですよ、と付け加えて、巽は手元の籠を持ち上げた。中には鮮やかな色のトマトやら何やらが詰められている。巽の明るい髪色と対照的に、目に少々刺さるほど原色に近いそれらに要は目を細めた。
    「……野菜?」
    「お友達と食べたら、と預けられたんですが……どうせなら、気持ちのいい水辺で食べたいと思って。いかがですか」
    「……脚は、いいんですか」
    「要さんは優しい人ですね。軽い運動を先生に勧められたので」
     大丈夫ですよ、と言ってもう一度巽は手に持った籠を持ち上げてこちらに見せた。その中に光るはみずみずしい夏野菜ばかりであり、その鮮やかさに少々目が眩みそうであった。巽の北仕立てのいいシャツが、柔らかな朝陽に透けて眩しい。あいも変わらずこの人は、うざったいほど清らかな人だった。あんまりに美しいので、要の何もかもを全て見透かしてさえいそうな気がして、少し心地悪い気さえした。巽はそういう人だ。きっと要の全てをわかっていて、しかしひとつもわかってはいないだろう、とたかを括っておきたかった。
     白樺林をちょうど二つに分けるように通ったアスファルトの上をふたりでのらりくらりと歩いて──三十分ほどだろうか──巽の言う清流にたどり着いた。大小さまざまの石が積み上がっていて、流れる眩しい水を切り裂いている。川縁に青々としげる緑の影が水面の上で揺れては弾け、要の網膜に鮮烈に焼き付いた。眩しい。葉の隙間から光の筋が何本か降りて、風が吹くごとに靡いていく。ゆらゆらとそれが動くたびに、噂話でもするかのように木々が囁いて、甘やかに要の耳を癒した。
    「ここには、巽はよく来るんですか」
    「よく、というほどではないかもしれませんが、ちょっとした運動がてら、時々」
    「へえ」
    「でも、友達と来たのははじめてです」
    「ともだち」
     いつもは家族と来るんです、と言いながら、慣れた手つきで巽は足元の草を掻き分けて、しかしゆっくりとその足をすすめていく。彼の履いた、少し余った浅い色のジーンズに草の雨露が染みて色を変えていく。ポツポツと点描のように、裾が青々と染まっていくのを、要はぼんやりと眺めている。友達、という、耳慣れた、しかし触り慣れない言葉を反芻しながら。
    「さ、食べましょう要さん、そこの足場にでも」
    「……あ、ああ……ありがとうございます」
     要は巽の座った大きな岩の隣にそっと腰掛けた。耳元にざあざあと水飛沫のなく音がしたのを、時折鳥の鳴き声が遮る。
    「……どうぞ」
    「あ、りがとうございます」
     巽がこちらに差し出したのは、よく熟れたトマトだった。それはつやつやと日差しをぼんやり反射して、目が覚めるような赤の上に明るい光の輪を浮かべている。巽はそれにかぷりとかぶりついて、こぼれそうな果汁を左手で受け止めると、肩をすくめ、眉を下げた。
    「……お嫌い、でしたか。トマト」
    「っ、ああいや」
     巽の食べっぷりばかり見てなかなか食べようとしなかったのが問題だったらしい。例えば要が、いま巽に見惚れていたのだとかなんとか歯の浮くような台詞を言ったとしたら、巽はどう反応するだろうとふと思った。困ったように笑うか、面白い冗談ですねと言うか、それとも。
     要は小さくかぶりを振った。それは巽を揶揄いたくないという柔らかな思いやりの皮を被った、要の自己防衛だった。

     ◇

    「要さん!」
    「巽。行きましょう」
     サックスブルーの半袖シャツに身を包んだ巽がこちらに小さく手を振った。巽と要の集合場所はいつも十条家と風早家の間の小さな庭のような場所だったが、しかし巽がこうしてじょうろも持たずにいるのはなんだか新鮮なような気がして、要は何度か大袈裟に瞬きをした。今日は巽とあの小さな映画祭に行く。それは、このふたりの逢瀬──そう言うと、いささか大袈裟であるが──のなかでもいちばん高校生らしいと言えるような気がした。

     約束を取り付けたのはちょうど二日前かそこらのことだ。あの日も相変わらず植木に水をやっていて、それから慣れた手つきで巽は額につたうかすかな量の汗を肩口で拭った。飽きもせず対話のない生き物と対峙する巽のすがたはもうこの数日で見慣れたものとなりつつあり、要は特段それに何か感想を抱くことすらなくなってしまっていた。その巽の背をたなびく白いシャツをぼんやりと眺めながら、要はぽつり、と、何か思い出したように言ったのだ。
    「映画祭があるんです」
    「ああ、運動公園のですよね」
    「父が言っていました。あさっての夜なんですが」
    「そうなんですか」
     要はひとつ決心でもするように、肩で以って鼻から息を吸った。小さく目を閉じて、己の心臓のざわつきをおさめようとしながら。
    「巽。お暇でしたら、ご一緒しませんか」
    「はは、それは、要さんと家族以外に話し相手などいない俺への当てつけですかな」
    「っ、そんなわけないでしょう。わかったような口、聞かないでください。そんなちゃちなジョークは趣味じゃないので」
    「ふふ、すみません。ありがとうございます」
     そう言って巽は快諾した。至極楽しそうに、穏やかに、からからと笑いを立てながら、巽は要のことを見ていた。これは、要と巽の、はじめての予定だったのである。

     運動公園はちょうど歩いて三十分かそこらのところにあった。祖父母には車で送ってあげようか、と言われたけれど、それは遠慮することにした。あの人たち、今日は何かに招かれたとかなんとかで一晩帰らないらしいから──祖父母の仲の邪魔をしてはいけない、と思って。あと少しは、巽とのこの小さな散歩みたいなものに惹かれていたのかもしれないが。
     別荘地とはいえ高山地帯であるから、普段は人の姿は疎らである。人間なんかよりよっぽど白樺の方が多いようなところのはずのくせに、運動公園周りには最近見ない程度には人がいて要は少し驚いた。要の住む東京ではこんなの雑踏にもならないような人数かもしれないが、しかしそれはこの場所では異質に違いなかった。
    「巽。脚は?」
    「ありがとうございます。大丈夫ですよ」
    「よかった」
     巽は緩く脚を摩ってから、小さく微笑んだ。
    「どの辺に座りますか。といっても、結構埋まりつつありますが」
    「そうしたら、あの辺はいかがですか」


    映画祭

    「まだもうすこしお話ししていたいというのは、わがままになりますか」
    「……さあ。ただ、うちの祖父母は今夜出かけたまま帰ってきません」
    「……ふふ、お誘いとして受け止めましょうかね」
    「さあ」

    「今日の映画を見るのは二回目でした」
    「おや、要さんは退屈でしたか」
    「……ああいやただ……何度見てもあの映画があまり好きではなくて」
    「ではなくて?」
    「美しいのはわかっているのです」

    「しかし、所詮は公務にうんざりした王女の脱走物語。つとめを完璧に果たせないものは、もともとそんな器ではなかったというだけでしょう。公務という決められたことすらできないのなら、それは不良品と同じです」
    「……ええ」
    「そう見えて、ならない。少なくとも俺には。そしてその弱みを握ったカメラマンもまた、同じことです。だから、少しばかり腹が立ちます。仕事なら、お互いやり通すべきなのですから」
    「要さんは真面目なんですな」
    「いや、そういうことではないのですが」
     巽は浅く息を吸うと、しかしそれより深くため息をついて、何か言い出す前の準備のようなことをした。その息が微かに震えている。
    「やろうとした、仕事を果たそうと思った、それこそが始点であり帰着です」
    「ああ」
    「だれしも、己のすべきことから逃げたくなる日がある……そうでしょう」
    「ええ」
    「鳥なんか、自由に飛んで生きるものですが、あまりに退屈な籠の中で死んでいくくらいなら、一度外に出してやって息の仕方を覚えればいいと思って」
     巽は緩く微笑んだ。それはひどく緩慢な仕草で、それでいて甘い。月光くらいしか頼りのないこの視界においても、この人の美しさは翳ることがない。
    「だから、あれでよかったのです。ひととき、甘い自由の夢を見た……それが叶わぬ夢だろうと、しかし二人は同じ夢を同じ手の中に取ったのだと、俺は信じたい」
    「……なるほど」
     違う……、その甘味を知った鳥は、二度と籠の中には帰れない。戻ってしまったのなら、その夢に溺れて、窮屈さに窒息し、静かに息絶えていくのみなのだ。きっと鳥は、本来の性分である飛ぶという動作すら忘れて朽ちていく。自由をしらなければ籠の中の幸せもきっと見出せただろうに。一度散り散りになったものを戻すのは容易いことではないのだから。
    「……巽は、飛べなくなった鳥は、どうなるというんです」
    「さあ。知りません」
     巽は安らかに目を閉じる。枕に散らばった翡翠色の毛が、まるで巽を覆う何か蔦のように要は錯覚した。
    「俺は映画のその先は知りませんし、俺もまた、きっと今そういう甘い夢の中にいるんだと思いますから」
     巽が至極ゆっくりと閉じていた瞼をゆっくりと開けると、その明るい紫の瞳にぼんやりと月光が差した。瞳孔の奥がそれに誘われるようにきゅう、と縮まって、しかしそれを彼の睫毛が隠してしまった。要はふたりぶんならんだ布団の間から畳がのぞいているらしいことを、つまさきが布団からはみ出して畳の冷たさに触れて気がつく。寒い。要はその脚を自分の胴体に引きつけるように抱いた。

     つぎの朝要が起きると、巽の姿はもうなかった。几帳面に畳まれた布団と、「ありがとうございました」という簡潔なメモだけが残されているのが目に入る。要はそれをくしゃくしゃに丸めて、そうしてもう一度広げた。巽が書いたはずの整った字は波打つように歪められてしまって、要は一度、舌打ちをした。



     要は帰路についていた。父の言いつけどおり祖父母に駅まで送ってもらってから、小さなリュック一つで電車に飛び乗った。そのほかの荷物はもう、実家に段ボールで送ってしまったので、きっと要自身より早く東京に着いているはずだろうと思う。
     あの夜──映画祭の──から、巽には会っていない。自分たちの会話はいつも、要が外に出るか、要が窓辺で勉強している間に彼がガラス戸をノックするかせねば始まらないものだった。ならば、要がそもそもそちらに行かなければその始まりにも気がつけない程度のものなのである。要は、結局自分がかわいいのだと自嘲した。その部屋に寄り付かなくなってから巽が要を訪れたのかどうかは、もう知ったことではなかった。
     田舎の短い単線電車から二度乗り継いで、やっと新幹線に乗り換えた。新幹線の窓をぼうっと眺めるうち、この夏休みで見慣れた深い緑はだんだんと時間をかけてモノクロに飲まれていって、自分が見慣れたコンクリートジャングルに成り果てていく。夏が帰ってくる。要のよく知る、暑くて湿った、茹だるような夏が。
     家に着いた。もう周囲は真っ暗になってしまっているのに、太陽の残滓は尽きることがない。肌を舐めるような不愉快な暑さに眉を顰めながら、玄関のドアを開ける。
    「要、おかえり」
    「ただいま」
     要の帰りを待ち構えるように出迎えた父の表情を読むことはできなかった。無機質なリビングに不自然な音の小休止が落ちる。ぽたり、と閉まり切らない蛇口から水滴がしたたる音がする。
    「夏が終わったような気がする」
    「……ほう。楽しかった?」
    「楽しかったよ。多少は帰りたくないと思うくらいには」
    「そうか。いいところだもんな」
     父は依然、こちらから目を逸らすことなく要のことをじっと見つめている。要は、その視線にさえ責められているような心地がした。ああ、寒い。エアコンの冷風が要の二の腕をなでつける。ピシャリと覚ますように要を唆す、残酷な温度である。
    「でも、帰ってきた……俺が、終わらせた」
    「……だからお前は、俺に似てるって言ったろ」
     父は、慰めるように要を抱きしめた。自分よりも太い指が要の後頭部を優しく撫でる重みに押し出されるように、要の喉奥から深いため息が出る。要はその顔に、何の表情も浮かべられなかった。
     ここの夏は、冷房をつけていないと暑くてたまったものではない。きっともう、あんな夏には巡り会えないのだと要は悟った。あの冷たい夏を見捨てたのは、自分なのだから。だから、あれは忘れなければならない。もう、戻れない、ひとときの泡沫などは。
     網膜を覆う熱い液体をねじ伏せるように瞼を閉じた。脳裏によぎるは、白樺に浮かぶ目が覚めるような菖蒲のひとみだった。
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