学園地獄学園地獄
目を開く。そうすれば、階下で母さんが僕を呼んでいる声がした。実を言うと、僕はもうしばらく前から目が覚めてしまっていて、ただ今日という日がついに来てしまったことを直視しないために目を瞑っていたのだ。しかし、母さんが僕の名を呼び始めてしまったらそれももう効かない。僕が起きてこないとすれば、母さんは父さんか姉さんを僕の部屋に寄越すだろう。僕はどうしたって逃げられないのだ。仕方なく、僕はベッドから起き上がり部屋を出て階下に降りていった。
リビングに着けば、母さんはちょうど食卓に焼きたてのパンを配り終えたところである。そして、僕に気がつき振り返った。
「おはよう、シンクレア。……あぁ、可哀想に。その顔、昨日はあまり眠れなかったのね」
僕が正直に頷くと、母さんは僕のところにやってきて、優しく抱擁してくれる。僕も同じ強さで同じものを返した。
「新しい場所で過ごすというのは、なかなか不安が多いだろう。すまないな、シンクレア。私の都合で」
既に食卓についていた父さんはそう言ってから、僕に食卓につくように促した。僕はまだ買ったばかりで傷一つない椅子に座る。なんだかしっくりこない。少しすれば慣れるかもしれないが、そのとき僕の気を更に落ち込ませるにはそれで充分すぎた。
「シンクレア。ちょっとあなた、繊細過ぎるわ」
「……姉さんはいいよね。前から通ってる大学はここから通えるところにあるし、僕みたいに、世界がすっかり変わってしまったような気分を味あわなくて済むんだ」
そこまで言って僕は子供っぽく姉に八つ当たりしてしまっていることに気がつき、思わず俯いた。父さんは「相当堪えているな」と呟いてため息をつく。
「そこまで心配することは無いぞ。あまり覚えていないかもしれないが、お前はここで暮らしてた時期があるんだ」
覚えているとも。忘れるものか。僕は心の中だけで呟く。その頃のことは忘れてしまったことにしてあるのだ。思い出したくない記憶が多すぎるから。「きっと昔の知り合いに会えるはずだ」なんて言いながら父さんは笑うが、それは僕が今一番恐れていることなのだ。それが恐ろしくて、僕は引っ越しが決まってから今日までずっと俯かなきゃならなかった。
「今日はシンクレアが新しい学校で上手くやれるように、皆で祈ってから食事にしようか」
父さんがそう言えって胸の前で手を組めば、母さんと姉さんも同じようにする。僕は、親不孝なことだけれど、とても億劫だと感じていた。一応僕も祈る格好をしたが、当然そんなことで僕の憂鬱が晴れるはずも無かった。
***
登校した新入生はすぐに体育館に集められ、入学式が始まった。僕が通う計月学園(とっても変な名前!)は公立の中高一貫校である。高等部に通う生徒の大半は内進生であり、そのため周りを見ると既に仲の良いグループが数多く形成されじゃれあっている。そこに混ざるのは難しそうだと僕はこっそりため息をついた。
高等部の入学式は厳かに執り行われ、学園長の言葉の時間になる。そういえば、僕は学園長の顔を知らない。学園長なんてほとんど関わることは無いだろうし、そこまで重要ではないだろうけど……。そんなことを考えていると、急に体育館前方のステージ上に大きなスクリーンが降りてきた。僕が一体何事かと身構えているうちに、そこに何やら映像が映し出される。そこにいたのは、ベッドセットをつけたどこにでも居そうな中年男性であった。スクリーンの中の男性は、少ししてから何やら慌てるような素振りをすると、手元に視線を移す。そうしてしばらくすると先程までの中年男性は姿を消し、そこには代わりに何やら「シェパード」?を思わせる髪型の少女とも少年とも見えるキャラクターが映し出された。
「皆さん。おはようございます。計月学園長のシュナジュンです」
(あ……あれが学園長!?)
スクリーンに映し出されたvrキャラクターが学園長だと名乗るものだから、僕は度肝を抜かれてしまう。そこで周りの様子を窺ってみるが、僕以外にこの光景に驚いた様子の人は居ない。どうやらこの学園では当たり前の光景であるようだ。
僕の困惑をよそに、学園長の言葉は粛々と進んでいく。
「__皆さんはこれから生きていく上で、様々な困難に直面することでしょう。しかし、恐怖を乗り越えなければ未来は見えません。悶え苦しみ、泣き喚き、絶望し、打ちのめされつつも屈することなく、自分の生きる道を諦めず探し続けてください。……これを持って学園長の言葉とさせていただきます」
なんだか個性的な学園長の個性的な言葉は、そこで終いになった。続いて、計月学園の校歌斉唱の時間だ。僕の周りは皆もう慣れたものだろうから、浮かないようにこの日のために僕は必死に歌詞を覚えてきたのだ。ピアノの伴奏が始まり、周りの人たちが歌い出すタイミングを必死に窺いながら僕は口を開く。
『明るい心に金枝が光る 回る都市の 計月学園
ねじれる我が生きる道 開く地獄の門
一切の望みを捨てよ 若人よ
哭き叫べ 若人よ
血を流せ 若人よ
針を回せ 若人よ
星を探せ 若人よ』
そこまで難しい歌では無いのはありがたいが、一体どんな意図でこんな歌詞になったのか甚だ疑問である。調べたところ作詞したのはこの学園の関係者らしいが、作曲者はかなり有名なアーティストらしい。確かにどこかクセになるメロディーでお洒落だが、酷い無駄遣いだと思う。
校歌斉唱が終わってやっと入学式が終了した。僕らは担任であるヴェルギリウス先生に先導され、教室に向かう。僕の名前が貼られた席に着けば、何故か隣の席は存在するのに座る人は居ないみたいだ。転入生でも来る予定なのかと考えたが、ヴェルギリウス先生からはなんの説明もありそうにない。
僕は教室に視線を這わせ、なんとなく様子を窺う。そして、視線はその中の一人に吸い寄せられ動かせなくなった。短く切り揃えられ整えられた黒髪、年齢に似合わぬ大人びた雰囲気を放つ後頭部。僕はそこに必死に視線を注ぐ。そしてついに何かに引かれるようにその頭が動き、その視線が僕を捉えた。僕は彼の頭の中に、ほんのちょびっとでも僕の記憶が残っていることを必死に祈る。その願いが叶ったのか、生徒が自由に立ち歩ける時間になると彼は席から立ち上がり、僕の方に向かってきた。
「エーミール・シンクレア?」
その口が僕の名を紡ぐ。それだけで僕の顔は上気し心臓は不自然に跳ね返事は上擦った。
「こっちに帰ってきてたんだね」
「う、うん!そうなんだ。久しぶり、マックス・デミアン……」
「よせよ。君だってわかったんだ。これから僕は君のことを昔みたいに“シンクレア”って呼ぶつもりなんだからね」
その言葉だけで僕の体内には忙しなさが駆け巡り、不用意に立ち座りを繰り返したくなるような気に襲われる。僕も彼に倣い、「デミアン」と呼ぶ。そうすれば彼は母のような父のような先生のような、年齢にそぐわぬ雰囲気を纏う笑みを浮かべる。それでだけで僕の気は翼を持つ鳥のように舞い上がった。
「こ、これから君も委員会とか部活の見学に行くよねっ?他の友達と一緒でもいいから、一緒に見学に行かない?」
「悪いけどそれは出来ないな」
デミアンのその言葉で、飛び上がった気分はすっかり頭打ちになり地面に叩きつけられる。顔周りにさっきとは違う不快な熱が集まってくるのを感じる。
「ご、ごめん。もう他の友達との予定があるよね?それに混ざろうなんて図々しいか。ごめん……」
「違うんだ。実は僕、帰宅部になるつもりでね。見学はどこも行くつもりが無いんだ」